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17_80 中世の社会・文化と東アジア / 鎌倉時代

守護・地頭とは?役割の違いをわかりやすく解説【1分でわかる日本史】

著者名: かわちゃん
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守護(しゅご)・地頭(じとう)とは、1185年に源頼朝が置いた鎌倉幕府の地方の役職で、守護は国ごとに置かれて軍事と警察を担い、地頭は荘園・公領ごとに置かれて年貢の徴収と土地の管理にあたりました。セットで覚える二つですが、仕事の中身はまるで違います。この記事では、守護と地頭の役割の違い、設置の経緯、そして鎌倉幕府の成立年との関係を、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる守護・地頭」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つのポイントを考察していきます。

・二つの役職はどこで線引きされていたのか

・なぜ朝廷は設置を認めたのか

・1185年は本当に「幕府の成立」なのか


1分でわかる守護・地頭


守護・地頭とは、一言でいえば、鎌倉幕府が全国に張りめぐらせた「国を見張る役」と「土地を預かる役」です。

守護は国ごと、軍事と警察

守護は令制国ごとに一人が原則で、有力な御家人が任じられました。職務は大犯三カ条と呼ばれる三つで、大番役の催促、謀反人の逮捕、殺害人の逮捕です。国の中を見回る、軍事・警察の担当だと考えるとわかりやすいでしょう。

地頭は荘園・公領ごと、年貢と土地

一方の地頭は、荘園や公領ごとに置かれました。担当は現地そのもので、年貢を集めて領主に納め、土地を管理し、その場の治安も預かります。守護が国という広い面を見るのに対し、地頭は一つひとつの土地に立つ役でした。

設置は1185年、名目は義経の追討

源頼朝は1185年、弟・義経を追討するという名目で後白河法皇(ごしらかわほうおう)から設置の許しを得ました。これを文治の勅許といいます。全国から年貢を集め、武士を動かす仕組みが、こうして武家政権の手に入ったのです。


守護と地頭がそろったことで、鎌倉幕府は全国に手を届かせる骨格を得ました。この1185年をもって幕府の成立とみる見方が、いまでは主流になっています。

おまけトリビア

守護の三つの仕事が武家の法典に書き込まれたのは、設置から半世紀近くたった1232年の御成敗式目でのこと。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、守護と地頭をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

■守護・地頭が置かれた背景


平安時代の終わり、地方の土地は荘園と公領に分かれ、荘園領主や国司の系統で管理されていました。そこへ源平の争乱が重なります。1185年、平氏が滅びたあとに残った課題は、勝った側がどうやって全国の土地と武士をつかむか。武力で勝つことと、日々の年貢や治安を押さえることは、まったく別の仕事です。

源頼朝が求めたのは、その二つ目でした。国という単位で武士を動かす役と、土地という単位で年貢を握る役。守護と地頭という二本立ては、この課題への答えとして生まれています。

■二つの役職の違い


項目守護地頭
置かれた単位国(令制国)ごとに一人が原則荘園・公領ごと
主な職務大番役の催促・謀反人の逮捕・殺害人の逮捕年貢の徴収と納入・土地の管理・治安維持
性格軍事と警察現地の経営と徴税


守護の職務は「大犯三カ条」の名でまとめられます。大番役の催促とは、京都や鎌倉の警備を御家人に勤めさせること。残る二つは重罪人の逮捕で、いずれも軍事・警察の系統です。逆にいえば、それ以外の国内の行政や国衙領の支配には、手を出さないのが建前でした。

地頭の側は、まったく性格が違います。年貢を集めて納める、土地を管理する、現地の治安を守る。日々の暮らしに直接ふれる仕事です。この違いを一言でいうなら、守護は国を見る役、地頭は土地に立つ役。試験でも一緒にされやすいのは、どちらも「幕府が置いた地方の役」という点だけが同じだからでしょう。

■史実と学説


設置の経緯そのものには、慎重に扱うべき点があります。1185年、頼朝は源義経の追討を名目として、国ごとの守護と荘園・公領ごとの地頭を置く許しを後白河法皇から得ました。ただし「名目」という言い方が示すとおり、義経の捜索だけが目的だったとみる説明はほとんどありません。

当初の権限がどこまでだったかも、資料によって幅があります。1185年に認められたのは国ごとの地頭(国地頭)で、翌年にはいったん停止され、恒久的な制度として固まったのは1191年だとする説明もあります。そもそも設置時の呼び名が「守護」だったのか「総追捕使」だったのか、期限つきだったのか、といった点でも見解が分かれています。

1185年に置かれたものの呼称・権限・存続期間については諸説あり、決め手を欠きます。守護という職名で全国的に整うまでには段階があった、という説明も見られます。


そして最大の論点が、成立年です。かつては源頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年を鎌倉幕府の成立とする説明が一般的でしたが、いまは守護・地頭が置かれた1185年を成立年とみる見方が主流です。実質的な支配のしくみが整った時点を重くみる考え方によります。1180年から1192年にかけて段階的に成立したと説明する教科書もあり、一点に決めない立場もあります。

■トリビアの真相


大犯三カ条が武家の法典に書き込まれたのは、設置から半世紀近くのちのことです。1232年に定められた武家の法典、御成敗式目。この法の中で、守護の職務は大犯三カ条を中心に定められ、国司の行政や国衙領の支配に手を出すことは禁じられました。

試験に出るポイント

「守護=国ごと・軍事警察(大犯三カ条)/地頭=荘園公領ごと・年貢徴収と土地管理」の対比がそのまま設問になります。設置は1185年で、名目は源義経の追討(文治の勅許)。1192年の征夷大将軍就任と年を取り違えないこと。

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日本史用語集 山川出版

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