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「魔女狩り」とは わかりやすい世界史用語2601 |
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著作名:
ピアソラ
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魔女狩りとは
16世紀以降のヨーロッパにおける魔女狩りは、近世ヨーロッパの社会、宗教、政治、そして人々の心性に深く根差した、複雑で悲劇的な現象です。これは単なる迷信や集団ヒステリーの産物ではなく、当時の社会が直面していた様々な変化と不安が絡み合った結果として生じました。約3世紀にわたり、ヨーロッパ全土で数万人が魔女の烙印を押され、その多くが命を落としました。この大規模な迫害は、特定の時代と地域に集中して発生し、その背景には神学的な議論、法制度の変化、社会経済的な変動、そして根深いジェンダー観が存在していました。
魔女狩りの思想的背景
近世ヨーロッパの魔女狩りを理解するためには、その根底にあった思想的変化を把握することが不可欠です。中世ヨーロッパにおいても、魔法や呪術(ラテン語でmaleficium、すなわち「悪行」)を行う人々への信仰は存在しましたが、それは主に地域社会における個人的な災厄の原因と見なされる程度でした。教会自身も、当初は魔女が夜間に飛行したり、悪魔と集会を開いたりするという考えを異端的な妄想と見なしていました。910年頃に記録された「司教法令集」は、そのような話を信じること自体が異教的であると断じています。
しかし、14世紀頃から、この見方は大きく変化し始めます。神学者や法学者の間で、魔術は単なる悪行ではなく、悪魔との契約に基づく組織的な異端行為であるという新しい概念が形成されていきました。 この「悪魔学的魔女観」は、魔女をキリスト教世界全体を内部から破壊しようとする、悪魔に仕える巨大な陰謀団の一員と見なすものでした。 魔女はイエス=キリストを否認し、悪魔を崇拝し、サバトと呼ばれる夜の集会で人肉食などの恐ろしい儀式を行うと信じられるようになったのです。
この思想的転換には、いくつかの要因が寄与しました。一つは、中世後期に活発化した異端審問の経験です。カタリ派やヴァルド派といった異端とされたキリスト教グループに対して、悪魔崇拝や反社会的な儀式を行っているという非難がなされており、その告発の論理が魔女とされた人々に転用されたのです。
さらに、15世紀後半には、この新しい魔女観を体系化し、流布させる上で決定的な役割を果たす二つの出来事が起こります。第一に、1484年に教皇インノケンティウス8世が発布した教皇勅書「スンミス=デシデランテス=アフェクティブス」です。 この勅書は、ドイツの一部地域で魔女の存在を疑う聖職者がいることを憂慮し、魔女狩りを正式に承認し、異端審問官に魔女を訴追する全権を委任するものでした。これにより、魔女狩りが教皇庁のお墨付きを得たことになります。
第二に、1487年に二人のドミニコ会士、ハインリヒ=クラーマーとヤーコプ=シュプレンガーによって出版された『魔女に与える鉄槌』です。 この本は、魔女の存在を疑う議論に体系的に反論し、魔女を見つけ出し、尋問し、有罪判決を下すための詳細な手引きを提供するものでした。 『魔女に与える鉄槌』は、当時発明されたばかりの印刷技術によってヨーロッパ中に広まり、聖書に次ぐベストセラーになったと言われています。 この本は、魔女が主に女性であると主張し、女性の肉体的・精神的な弱さや欲求の強さが、悪魔の誘惑に屈しやすい原因であると説きました。 このようにして、『魔女に与える鉄槌』は、魔女狩りの理論的支柱となると同時に、その misogyny(女性嫌悪)的な性格を決定づけたのです。
魔女狩りの最盛期:1560年–1660年
魔女狩りの裁判自体は15世紀から散発的に行われていましたが、その数が爆発的に増加し、「大魔女狩り」や「魔女狂乱」と呼ばれるほどの激しさを見せたのは、1560年頃から1660年頃までの約1世紀間でした。 この期間に、ヨーロッパ全体で約10万人が魔女として告発され、そのうち4万人から5万人が処刑されたと推定されています。
この時期に魔女狩りが激化した背景には、複雑な要因が絡み合っています。
宗教改革と対抗宗教改革
16世紀に始まった宗教改革は、ヨーロッパのキリスト教世界をカトリックとプロテスタントに二分し、深刻な宗教的対立と戦争の時代をもたらしました。 この対立は、双方の陣営において、自らの信仰の純粋性を証明し、敵対する宗派を悪魔の手先として非難する傾向を強めました。カトリック教徒もプロテスタント教徒も、互いを異端者と見なすだけでなく、社会に蔓延る悪の根源として魔女の存在を強調し、その摘発に熱心になったのです。 魔女狩りの激しさは、カトリック地域とプロテスタント地域で一様ではありませんでしたが、どちらの宗派も魔女狩りを推進したことに変わりはありません。 例えば、カトリックのスペインやイタリアでは異端審問所が他の犯罪に集中したため魔女裁判は比較的少なかったのに対し、プロテスタントのスコットランドでは非常に多くの裁判が行われました。
社会経済的危機と気候変動
この時代は、「小氷期」として知られる気候寒冷化の時期と重なっており、ヨーロッパ各地で凶作、飢饉、そして疫病が頻発しました。 人々は、こうした度重なる災厄の原因を理解できず、その説明を超自然的な力に求めました。 隣人の家畜が死んだり、作物が枯れたり、子供が病気になったりといった不幸な出来事が起こると、それは誰か「魔女」の仕業であると疑われるのです。 このように、魔女は社会的な不安や不満のはけ口、すなわちスケープゴートとされました。 また、囲い込み運動などによる経済構造の変化は、多くの人々、特に女性を貧困に追い込み、彼女たちを社会的に弱い立場に置きました。こうした貧しく、身寄りのない高齢の女性は、魔女として告発されやすい格好の標的となったのです。
法制度の変化
魔女狩りの激化には、ヨーロッパの法制度の変化も大きく貢献しました。中世の「弾劾主義」訴訟では、告発者が自らの責任で訴えを起こし、もし相手が無罪になれば逆に罰せられるリスクがありました。しかし、近世になると、大陸ヨーロッパの多くの地域で「糾問主義」訴訟が採用されました。 この制度では、裁判官が自ら捜査、起訴、判決を行うため、告発のリスクが低減し、裁判が開始されやすくなりました。
さらに、糾問主義訴訟では、有罪を確定させるために二人の証言、または被告人の自白が必要とされました。 魔女の悪行は密室で行われるとされたため、目撃者を見つけることは困難でした。その結果、自白を得るための拷問が合法的な手段として広く用いられるようになったのです。 拷問は、無実の人々を自白に追い込むだけでなく、サバトに参加した他の「共犯者」の名前を挙げさせることにもつながりました。 拷問によって引き出された供述が、さらなる告発を呼び、一件の告発が瞬く間に地域全体を巻き込む大規模なパニックへと発展する連鎖反応を引き起こしたのです。
魔女狩りの地域的差異
ヨーロッパの魔女狩りは、地域によってその規模、性格、犠牲者の特徴において大きな差異が見られました。
神聖ローマ帝国:魔女狩りの中心地
魔女狩りが最も激しく、犠牲者の数が最も多かったのは、現在のドイツ、スイス、フランス東部などを含む神聖ローマ帝国でした。 ヨーロッパ全体の処刑者のうち、約半数がこの地域で発生したと推定されています。 特に、トリーア(1581年–1593年)、フルダ(1603年–1606年)、ヴュルツブルク(1626年–1631年)、バンベルク(1626年–1631年)といったカトリックの司教領で行われた大規模な裁判は、数百人から千人以上もの人々を処刑するという凄惨なものでした。
神聖ローマ帝国で魔女狩りが特に激化した理由としては、政治的な分裂が挙げられます。帝国は数百もの小さな領邦国家に分かれており、中央集権的な権力が弱かったため、各地の領主や都市が独自の判断で裁判を進めることができました。 1532年に制定された帝国刑法「カロリナ」は、魔術による加害行為を死罪と定めており、これが各地での訴追を法的に後押ししました。 また、三十年戦争(1618年–1648年)による社会の荒廃と混乱も、人々の不安を煽り、魔女狩りを助長したと考えられています。
イングランドとスコットランド
イングランドの魔女狩りは、大陸ヨーロッパとは異なる特徴を持っていました。イングランドでは、コモン・ローの伝統から陪審員制度が機能しており、大陸で一般的だった糾問主義や拷問の使用が稀でした。 そのため、告発の数は多かったものの、有罪判決や処刑に至るケースは比較的少なかったです。 イングランドでの魔女のイメージは、大陸のような悪魔崇拝者というよりは、隣人に呪いをかける悪意ある人物という伝統的なものでした。 処刑方法も、大陸で一般的な火刑ではなく、絞首刑が用いられました。 しかし、イングランド内戦期(1640年代)には、マシュー=ホプキンスと名乗る「魔女発見長官」が登場し、イースト・アングリア地方で大規模な魔女狩りを行うなど、一時的に迫害が激化しました。
一方、隣国のスコットランドでは、イングランドよりもはるかに深刻な魔女狩りが行われました。 スコットランドはカルヴァン派の強い影響下にあり、法制度も大陸に近かったため、拷問が広く用いられました。 国王ジェームズ6世(後のイングランド王ジェームズ1世)は、自ら魔女狩りに強い関心を示し、1597年には『悪魔学』という本を執筆して、魔女の脅威を説きました。 スコットランドでは、人口比で見るとヨーロッパで最も多くの犠牲者が出た地域の一つとされています。
その他の地域
フランスでは、魔女狩りの激しさは地域によって大きく異なりました。中央集権化が進んでいたパリ高等法院の管轄下では裁判が抑制される傾向にあったのに対し、地方の裁判所では大規模な迫害が発生することもありました。
スペインやイタリアのローマなど、カトリックの異端審問所が強い力を持っていた地域では、魔女狩りは比較的低調でした。 これらの地域の異端審問所は、魔女のサバトといった悪魔学的な告発に対して懐疑的であり、主に公然たる異端者の摘発に関心を向けていたためです。
北欧では、魔女狩りのピークはやや遅れて17世紀後半に訪れました。スウェーデンのトーソーケル(1674年)やオーストリアのザルツブルク(1675年–1690年)などで大規模な裁判が行われています。
犠牲者の姿:なぜ女性だったのか
魔女狩りの犠牲者の圧倒的多数は女性でした。ヨーロッパ全体で見ると、告発された人々の約75%から80%が女性であったと推定されています。 この現象は、当時の社会に深く根付いていた女性観と密接に関連しています。
ミソジニーと悪魔学
『魔女に与える鉄槌』に代表される悪魔学の文献は、女性を肉体的にも精神的にも男性より劣っており、理性に欠け、欲に溺れやすい存在として描きました。 そのため、女性は悪魔の甘言や誘惑に最も陥りやすいと考えられたのです。 魔女と悪魔の契約は、しばしば女性に対する恐怖と結びつけられました。
社会経済的地位
告発された女性の多くは、40歳以上の高齢で、貧しく、未亡人や未婚者など、社会的に孤立しがちな人々でした。 彼女たちは、男性の保護下にないため、共同体の中で弱い立場に置かれていました。 助産師やヒーラー(民間療法家)といった、伝統的に女性が担ってきた役割も、彼女たちを危険にさらしました。 彼女たちの持つ知識や技術は、出産時の新生児の死亡や病気の治癒の失敗など、不幸な出来事が起こった際に、悪意ある魔術の結果として疑われる原因となったのです。 また、男性中心の医療ギルドが形成される中で、女性のヒーラーを排除しようとする動きがあったことも指摘されています。
告発のメカニズム
魔女の告発は、多くの場合、エリート層からではなく、一般民衆の間、特に隣人同士の対立から生じました。 物乞いを断られた腹いせや、土地や財産をめぐる争い、個人的な恨みなどが、魔女告発の引き金となることは珍しくありませんでした。 告発された女性は、しばしば口やかましく、喧嘩早いといった評判を持つ人物であり、共同体の和を乱す存在と見なされていました。
ただし、全ての地域で女性が犠牲者の大半を占めていたわけではありません。アイスランドやエストニア、ロシアなどでは、告発者の半数以上が男性でした。 これは、魔女狩りのジェンダー的側面が、地域の文化や社会構造によって異なっていたことを示しています。
魔女狩りの衰退
17世紀半ばを過ぎると、かつてヨーロッパを席巻した魔女狩りの嵐は、次第に勢いを失っていきます。その衰退は、単一の理由によるものではなく、知的、法的、社会的な変化が複合的に作用した結果でした。
懐疑主義の台頭と啓蒙思想
魔女狩りの最盛期でさえ、その正当性を疑う声が全くなかったわけではありません。レジナルド=スコットやフリードリヒ=シュペーといった思想家たちは、拷問による自白の信頼性の低さや、告発の不当性を指摘し、裁判のあり方を批判しました。 17世紀後半になると、科学革命の進展とともに、合理主義的な世界観が知識人層に広まっていきます。 自然現象を悪魔や魔女の仕業ではなく、自然法則によって説明しようとする考え方が力を得ていきました。啓蒙思想家たちは、魔女信仰を過去の迷信として批判し、理性の光を称揚しました。
法制度の改革
魔女狩りの衰退における最も直接的な要因の一つは、法制度の改革でした。 各地の裁判所は、魔女裁判における証拠の基準を厳格化し始めました。 拷問の使用が制限または禁止され、悪魔との契約やサバトへの参加といった、物的な証拠がない告発は認められにくくなりました。 例えば、1692年のセイラム魔女裁判では、「幻影の証拠」(被害者が被告人の霊体に攻撃されたと主張する証言)の採用が停止されたことが、パニックの収束に繋がりました。 裁判官たちは、大規模な魔女狩りが社会にもたらす混乱と不正義を目の当たりにし、告発に対してより慎重な姿勢をとるようになったのです。 ローマの異端審問所当局でさえ、1635年には、自らが行った裁判のほとんどが法的に正しく行われていなかったことを認めています。
中央集権化の進展
国家の中央集権化も、魔女狩りの終焉に寄与しました。フランスでは、ルイ14世が1682年に魔女裁判を事実上禁止する勅令を出し、地方の裁判所の暴走を抑えました。 強力な中央政府は、地方のパニックが国家全体の安定を損なうことを恐れ、裁判手続きを統一し、管理下に置こうとしたのです。
こうして、18世紀を通じて、ヨーロッパ各国で魔女を裁く法律は次々と廃止されていきました。イングランドでは1736年、オーストリアでは1768年に魔女狩りが法的に終わりを告げました。 ヨーロッパにおける最後の公式な魔女の処刑は、1782年にスイスで行われたアンナ=ゲルディの事例とされています。
16世紀から始まったヨーロッパの魔女狩りは、宗教的熱狂、社会的混乱、そして制度化された暴力が結びついた時に、いかに悲劇的な結果を招くかを示す歴史的な教訓です。それは、特定の「他者」を社会悪の根源として描き出し、迫害することで共同体の結束を図ろうとする、危険な力学の現れでした。魔女として告発され、命を奪われた数万の人々のほとんどは、無実の犠牲者でした。 この暗い歴史の記憶は、理性、寛容、そして人権の重要性を後世に伝え続けています。
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