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ヘンリ8世とは わかりやすい世界史用語2584 |
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著作名:
ピアソラ
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ヘンリ8世とは
ヘンリ8世は、イングランドのテューダー朝における二代目の国王であり、その治世はイングランドの歴史、特に宗教と政治のあり方を根底から覆す、劇的な変革をもたらしました。6度の結婚と、ローマ=カトリック教会からの離脱という二つの大きな出来事は、彼の個人的な欲望と、国家の運命が分かちがたく結びついた、波乱に満ちた生涯を象徴しています。
予期せぬ王位継承者
ヘンリは1491年6月28日、テューダー朝の創始者であるヘンリ7世とその王妃エリザベス=オブ=ヨークの次男として、グリニッジのプラセンティア宮殿で生まれました。彼の父ヘンリ7世は、長年にわたる薔薇戦争を終結させ、ランカスター家とヨーク家の血を引くエリザベスと結婚することで、脆弱だった王権の正統性を確立しようと努めていました。
若きヘンリは、国王になる運命ではありませんでした。王位継承者は、彼の兄であるアーサー=テューダーでした。そのため、ヘンリは兄とは異なる教育を受けました。アーサーが未来の国王として統治術や外交を学ぶ一方で、ヘンリには高位聖職者となる道が期待され、神学、音楽、言語、人文主義といった、当時としては最高水準の学問的教養が授けられました。彼はラテン語、フランス語、スペイン語を流暢に操り、音楽の才能にも恵まれ、自ら作曲や演奏を行うほどでした。また、スポーツにも万能で、特に馬上槍試合、テニス、狩猟を得意としました。若き日のヘンリは、身長188センチを超えるたくましい体躯と、赤みがかった金髪を持つ、まさにルネサンス期の理想的な君主像を体現する、魅力的で知的な王子でした。
しかし、1502年、この運命は突如として暗転します。王位継承者であった兄アーサーが、結婚からわずか数ヶ月後に、スペインから嫁いできたキャサリン=オブ=アラゴンと共に赴任していたウェールズで急死したのです。この悲劇により、10歳のヘンリは、予期せずしてイングランド王位の第一継承者、プリンス=オブ=ウェールズとなりました。
この兄の死は、ヘンリ個人の運命だけでなく、イングランドの外交政策にも大きな影響を及ぼしました。ヘンリ7世は、新興国であったイングランドの国際的地位を安定させるため、当時ヨーロッパ最強国の一つであったスペインとの同盟を重視していました。アーサーとキャサリンの結婚は、その同盟の要でした。アーサーの死によって、この重要な外交的結びつきが失われることを恐れたヘンリ7世は、新たな策を講じます。それは、未亡人となったキャサリンを、次男であるヘンリと婚約させるというものでした。
しかし、この婚約には大きな障害がありました。旧約聖書のレビ記には、「兄弟の妻をめとってはならない」という規定があり、教会法上、このような結婚は近親相姦と見なされ、固く禁じられていたのです。この障害を取り除くため、ヘンリ7世はローマ教皇ユリウス2世に働きかけ、特別なぜ免(赦し)を求めました。キャサリン自身が、アーサーとの結婚は肉体関係のない、いわゆる「名ばかりの結婚」であったと証言したこともあり、教皇は特例としてこの結婚を許可する教皇勅書を発布しました。こうして、若きヘンリは、兄の未亡人であり、5歳年上のキャサリン=オブ=アラゴンと婚約することになったのです。
黄金時代の幕開けと最初の結婚
1509年4月、父ヘンリ7世が崩御し、17歳のヘンリがヘンリ8世としてイングランド国王に即位しました。彼の即位は、国民から熱狂的に歓迎されました。国民は、財政再建のために倹約を徹底し、時に強引な手段で富を蓄積したヘンリ7世の陰鬱な治世の終わりを喜び、若く、活気に満ち、寛大な新しい王の時代に大きな期待を寄せたのです。
即位直後の1509年6月、ヘンリ8世は長年の婚約者であったキャサリン=オブ=アラゴンと結婚しました。これは、父の遺志を継いでスペインとの同盟を維持するという政治的な判断であると同時に、若き国王自身の敬虔な信仰心と、貞淑で知的なキャサリンへの愛情に基づくものでもありました。二人の戴冠式は盛大に行われ、宮廷は祝祭と華やかなトーナメントに沸き立ちました。ヘンリ8世の治世は、まさに黄金時代の幕開けを予感させるものでした。
治世の初期、ヘンリ8世は、統治の実務の多くを、有能で精力的な聖職者であり政治家であったトマス=ウルジーに委ねていました。ウルジーは、貧しい肉屋の息子から、大法官(ロード=チャンセラー)および教皇特使(レガトゥス=ア=ラテレ)にまで上り詰めた人物で、ヘンリの絶大な信頼を得て、国内政治と外交の両面で事実上の最高権力者として君臨しました。
ヘンリ自身は、中世の騎士道物語に描かれるような、栄光ある戦士王となることを夢見ていました。彼は、父ヘンリ7世の平和主義的な外交政策を転換し、イングランドの伝統的な敵国であったフランスとの戦争に乗り出します。1513年、ヘンリは自ら軍を率いてフランスに遠征し、「拍車の戦い」として知られる小規模な戦闘で勝利を収めました。同じ年、イングランドに残っていた王妃キャサリンは、北から侵攻してきたスコットランド軍をフロドゥンの戦いで撃破し、スコットランド王ジェームズ4世を討ち取るという大勝利を収めました。これらの軍事的成功は、若き国王の名声を大いに高めました。
しかし、ヘンリの治世における最大の関心事は、当初からテューダー朝の存続、すなわち、正統な男子継承者を確保することでした。キャサリンは何度も妊娠しましたが、その多くは流産か死産に終わり、あるいは生まれてもすぐに亡くなってしまいました。1516年、ようやく健康な女児、後のメアリー1世が誕生しますが、その後も男子が生まれることはありませんでした。年月が経つにつれ、キャサリンは出産可能な年齢を過ぎ、ヘンリの焦りと絶望は深まっていきました。彼は、男子継承者がいないことが、神の罰のしるしではないかと恐れ始めます。特に、かつて結婚の障害となったレビ記の「兄弟の妻をめとれば、子孫が絶える」という呪いの言葉が、彼の心を重く捉えるようになったのです。
国王の大問題とローマとの決別
1520年代半ば、ヘンリ8世の人生とイングランドの歴史を永遠に変えることになる女性が、宮廷に登場します。その名はアン=ブーリン。彼女は、王妃キャサリンの侍女であり、フランス宮廷で教育を受けた、魅力的で知的な女性でした。彼女は、従来の宮廷の女性たちとは異なり、王の誘惑にすぐには応じず、単なる愛人になることを拒否しました。彼女が望んだのは、王妃の座でした。アンのこのしたたかな態度は、ヘンリの情熱をますます燃え上がらせ、彼女を正妻として迎え、彼女との間に正統な男子継承者をもうけたいという強迫観念にも似た願望を抱かせるに至りました。
こうして、「国王の大問題(The King's Great Matter)」として知られる、キャサリンとの婚姻の無効化問題が始まりました。1527年、ヘンリは、キャサリンとの結婚が、そもそもレビ記の教えに反するものであり、教皇ユリウス2世が出した特免自体が無効であったと主張し始めました。彼は、この「罪深い」結婚こそが、神が自分に男子を与えない理由であると確信するようになります。
ヘンリは、大法官ウルジーに、現在の教皇クレメンス7世から婚姻の無効承認を取り付けるよう命じました。しかし、これはウルジーにとって、ほとんど不可能な任務でした。当時の教皇クレメンス7世は、神聖ローマ皇帝カール5世の政治的影響下にあり、そのカール5世は、ヘンリが離縁しようとしているキャサリンの甥にあたる人物だったのです。カール5世が、自らの一族の名誉を汚すような叔母の離縁を認めるはずがなく、教皇は皇帝の意向を無視することができませんでした。
教皇は、イングランドに教皇特使を派遣して審問を開くなど、様々な引き延ばし策を講じましたが、明確な裁定を下すことを避け続けました。何年経っても進展しない状況に業を煮やしたヘンリは、すべての責任をウルジーに押し付け、1529年、彼を大法官の職から解任し、反逆罪で告発しました。ウルジーは、ロンドンへ護送される途中で病死し、その栄華は終わりを告げました。
ウルジーの失脚後、ヘンリの側近として台頭したのが、トマス=クロムウェルとトマス=クランマーでした。クロムウェルは、ウルジーに仕えていた法律家で、極めて有能な行政手腕を持つ人物でした。クランマーは、ケンブリッジ大学の神学者で、プロテスタント思想に共感を寄せていました。彼らは、ヘンリに対して、ローマ教皇の権威に頼るのではなく、イングランド国内の問題はイングランド国内で解決すべきであるという、より急進的な解決策を進言します。それは、イングランド国王こそが、イングランドにおける教会の首長であると宣言し、教皇の権威から完全に独立するという、前代未聞の革命的なアイデアでした。
この策を受け入れたヘンリは、クロムウェルの巧みな議会操縦のもと、次々と反聖職者的な立法を行っていきます。1533年1月、ヘンリは、妊娠していたアン=ブーリンと秘密裏に結婚しました。同年5月、ヘンリによってカンタベリー大司教に任命されたクランマーは、イングランドの教会法廷において、ヘンリとキャサリンの結婚は当初から無効であったと宣言し、ヘンリとアンの結婚が正統なものであると裁定しました。これにより、キャサリンは王妃の地位を剥奪され、皇太后として幽閉されることになり、その娘メアリーも庶子とされました。
この一連の動きに対し、教皇クレメンス7世は、ヘンリを破門すると脅しましたが、もはやヘンリを止めることはできませんでした。1534年、イングランド議会は「国王至上法(首長令)」を可決します。これは、イングランド国王が「イングランド国教会(アングリカン=チャーチ)の地上における唯一最高の首長」であることを宣言するものでした。これにより、イングランドの教会は、何世紀にもわたって続いてきたローマ教皇の権威から完全に離脱し、国王の統制下に置かれることになったのです。これは、ヘンリ自身の離婚問題という極めて個人的な動機から始まりましたが、結果としてイングランドの宗教、政治、社会の構造を根本から変える「イングランド宗教改革」の幕開けとなりました。
宗教改革と修道院の解散
国王至上法の制定は、イングランド全土に衝撃を与えました。多くの人々は、長年精神的な支柱であったローマ=カトリック教会からの離脱に戸惑い、不安を覚えました。国王の新しい地位を認めることを拒否した者は、反逆者と見なされ、容赦なく処罰されました。その最も著名な犠牲者が、ヘンリのかつての友人であり、ヨーロッパ中に名を知られた人文主義者であったトマス=モアでした。彼は、大法官の職を辞して国王の離婚に反対し、最後まで国王を教会の首長として認める誓いを立てることを拒否したため、1535年、ロンドン塔で斬首されました。
宗教改革をさらに推し進めるため、ヘンリの片腕であるトマス=クロムウェルは、次なる標的として、イングランド国内に広大な土地と莫大な富を所有していた修道院に目をつけました。クロムウェルは、1536年から1540年にかけて、「修道院の解散」として知られる政策を断行します。公式な理由としては、修道院が腐敗し、怠惰な修道士たちの巣窟となっているというものでしたが、その真の目的は、修道院の莫大な財産を没収し、王室の財政を潤すことにありました。
この政策により、イングランド全土にあった800以上の修道院が閉鎖され、その土地と財宝はすべて王領に編入されました。これにより、王室の財政は一時的に劇的に改善し、ヘンリは議会に頼ることなく、戦争や壮麗な宮殿の建設に資金を投じることが可能になりました。没収された土地の多くは、ジェントリ(郷紳)や貴族階級に安価で払い下げられ、彼らを王の宗教改革の支持者として取り込むことにも成功しました。
しかし、この急進的な改革は、特にカトリック信仰が根強いイングランド北部で、激しい反発を引き起こしました。1536年、北部諸州で「恩寵の巡礼」として知られる大規模な民衆反乱が勃発します。数万人の反乱軍は、修道院の復活と、「悪しき助言者」であるクロムウェルの追放を要求しました。ヘンリは、一旦は反乱軍の要求を聞き入れると約束して彼らを解散させましたが、その後、約束を反故にして指導者たちを捕らえ、約200名を処刑しました。この反乱の鎮圧により、ヘンリの権威に逆らう者はイングランド国内から一掃されました。
ヘンリ8世自身は、神学的には保守的なカトリック教徒であり続けました。彼が否定したのはあくまで教皇の権威であり、カトリックの教義そのものではありませんでした。彼は、大陸で広まっていたマルティン=ルターの教えを異端として退け、1539年には「6箇条法」を制定し、聖体拝領における全質変化説や聖職者の独身制といった、カトリックの伝統的な教義を再確認しました。イングランド国教会は、カトリックの教義と儀式を維持しながら、その首長だけがローマ教皇からイングランド国王に代わったという、極めて特殊な形態をとることになったのです。
王妃たちの悲劇
ヘンリ8世の治世は、6人の王妃との相次ぐ結婚と、その多くが悲劇的な結末を迎えたことで、特に有名です。彼の結婚遍歴は、男子継承者への執着と、気まぐれで冷酷な性格を如実に物語っています。
アン=ブーリンの栄光と没落
ヘンリがローマと決別してまで手に入れたアン=ブーリンは、1533年9月、待望の子どもを出産しました。しかし、生まれたのは男子ではなく、女児、後のエリザベス1世でした。ヘンリの失望は計り知れず、その後アンが流産を繰り返すに及んで、彼女への愛情は急速に冷めていきました。ヘンリは、アンとの結婚もまた、神に祝福されていないのではないかと疑い始めます。
一方、アンは王妃として権勢を振るいましたが、その勝ち気で傲慢な性格は、宮廷内で多くの敵を作りました。特に、彼女を王妃の座に押し上げたトマス=クロムウェルとの間にも、宗教政策や外交方針をめぐって対立が生じました。クロムウェルは、自らの地位を脅かすアンを排除することを決意します。
1536年、アン=ブーリンは、近親相姦、姦通、そして国王に対する反逆といった、捏造された罪状で突然逮捕されました。彼女は、5人の男性(その中には実の兄弟であるジョージ=ブーリンも含まれていた)と姦通し、国王の死を企てたと告発されたのです。圧倒的に不利な裁判の結果、彼女は有罪とされ、死刑を宣告されました。1536年5月19日、アンはロンドン塔の敷地内で、ヘンリの「慈悲」により、通常の斧ではなく、フランスから特別に取り寄せられた剣によって斬首されました。彼女が王妃として戴冠してから、わずか3年後のことでした。
ジェーン=シーモアと待望の王子
アン=ブーリンが処刑されたわずか11日後、ヘンリ8世は3人目の妻、ジェーン=シーモアと結婚しました。ジェーンは、アンの侍女であり、アンとは対照的に、物静かで従順な性格の女性でした。そして1537年10月、彼女はついに、ヘンリが30年近く待ち望んでいた健康な男子、後のエドワード6世を出産します。
ヘンリの喜びは絶頂に達しましたが、それは長くは続きませんでした。ジェーンは、出産後の合併症(産褥熱)により、エドワードが生まれてからわずか2週間後に亡くなってしまいました。ヘンリはジェーンの死を深く悲しみ、彼女こそが自分の唯一の「真の妻」であったと語りました。彼は、自分の死後はジェーンの隣に埋葬するよう遺言し、その遺言は後に実行されることになります。
外交のための結婚と即座の破綻
男子継承者を得たものの、ヘンリは再び独り身となりました。トマス=クロムウェルは、ヨーロッパにおけるイングランドの立場を強化するため、ドイツのプロテスタント諸侯との同盟を画策し、その一環として、クレーフェ公の妹であるアンナ(アン=オブ=クレーヴズ)との結婚をヘンリに進言しました。クロムウェルは、宮廷画家ハンス=ホルバインに彼女の肖像画を描かせ、その美しさをヘンリに伝えました。
しかし、1540年にアンナがイングランドに到着し、ヘンリが初めて彼女と対面したとき、彼はひどく失望しました。肖像画とは似ても似つかない彼女の容姿に嫌悪感を抱き、「フランドルの雌馬」と罵ったと伝えられています。結婚は政治的な理由から行われましたが、ヘンリは初夜から彼女に触れることを拒否しました。わずか6ヶ月後、ヘンリはこの結婚の無効を宣言します。幸いなことに、アンナはこの決定に賢明に従い、離婚に同意しました。その見返りとして、彼女は「国王の妹」という名誉ある称号と、広大な領地を与えられ、イングランドで安楽な余生を送りました。
しかし、この外交結婚の失敗は、それを画策したトマス=クロムウェルの命運を尽きさせました。クロムウェルは、ノーフォーク公トマス=ハワードをはじめとする宮廷内の保守派(カトリック派)の陰謀により、異端と反逆の罪を着せられます。ヘンリは、長年忠実に仕えてきたこの有能な大臣をあっさりと見捨て、1540年7月28日、クロムウェルはロンドン塔で処刑されました。
若き王妃の不貞と処刑
クロムウェルが処刑されたその日のうちに、49歳になっていたヘンリ8世は、5人目の妻と結婚しました。相手は、クロムウェル失脚の立役者であったノーフォーク公の姪、キャサリン=ハワードでした。彼女はまだ10代後半の若さで、快活で魅力的な少女でした。老齢に差し掛かり、健康が悪化していたヘンリは、この若き妻を溺愛し、「棘のない薔薇」と呼びました。
しかし、この結婚もまた、悲劇に終わります。王妃となったキャサリンは、結婚前から関係のあった男性や、ヘンリの側近であったトマス=カルペパーと密会を重ねていました。この不貞行為が、カンタベリー大司教クランマーらによって暴露されると、ヘンリの愛情は激しい怒りへと変わりました。姦通罪と反逆罪で有罪とされたキャサリン=ハワードは、1542年2月、アン=ブーリンと同じく、ロンドン塔で斬首されました。
最後の妻=穏やかな終焉
2人の妻を処刑したヘンリは、1543年、6人目にして最後の妻となるキャサリン=パーを迎えました。彼女は二度の結婚歴がある成熟した未亡人であり、知的で敬虔なプロテスタント信徒でした。彼女は、不安定で病気がちな老王の良き伴侶、そして看護人としての役割を巧みに果たしました。
また、彼女は、ヘンリの3人の子どもたち、すなわち、メアリー、エリザベス、エドワードの関係を修復するために尽力し、彼らに愛情を注ぎました。彼女のとりなしにより、庶子とされていたメアリーとエリザベスは、1543年の王位継承法によって、エドワードに次ぐ王位継承権を回復しました。これは、その後のイングランドの歴史にとって、極めて重要な意味を持つことになります。キャサリン=パーは、宮廷内の宗教的対立から異端の嫌疑をかけられ、逮捕されそうになる危機もありましたが、持ち前の知性と機転でヘンリを説得し、難を逃れました。彼女は、ヘンリの6人の妻の中で、唯一、彼の死後も生き延びた王妃となりました。
晩年と死
ヘンリ8世の晩年は、心身の衰えとの戦いでした。若い頃のたくましい肉体は、過食と運動不足により、極度に肥満化していました。馬上槍試合での落馬事故で負った脚の古傷は、治ることのない潰瘍となり、彼を絶え間ない痛みに苦しめました。彼の体重は180キログラムを超え、移動するには機械の助けが必要なほどでした。身体的な苦痛は、彼の精神にも影響を及ぼし、猜疑心が強く、怒りっぽい暴君としての側面をますます強めていきました。
しかし、その治世の最後まで、彼はイングランドの絶対的な支配者であり続けました。晩年には、再びフランスやスコットランドとの無益な戦争に乗り出し、修道院解散で得た富の多くを浪費しました。
1547年1月28日、ヘンリ8世はホワイトホール宮殿で、55年の生涯を閉じました。彼の遺体は、彼の遺言通り、ウィンザー城のセント=ジョージ礼拝堂に、3人目の妻ジェーン=シーモアの隣に埋葬されました。
ヘンリ8世の38年近くに及ぶ治世は、イングランドの歴史における一大転換期でした。彼の個人的な欲望、特に男子継承者への執着が引き金となり、イングランドはローマ=カトリック教会から離脱し、国王を首長とする独自の国民教会を設立するという、ヨーロッパでも類を見ない宗教改革を断行しました。この変革は、修道院の解散を通じてイングランドの社会経済構造を大きく変え、王権の絶対的な優位性を確立しました。
彼は、6人の妻をめとっては離縁し、あるいは処刑するという、冷酷で非情な君主でした。トマス=モアやトマス=クロムウェルといった、かつての腹心さえも容赦なく処刑する暴君でもありました。しかし同時に、彼は魅力と知性を兼ね備えたルネサンス君主であり、芸術や学問の偉大なパトロンでもありました。また、海軍力の重要性を認識し、「イングランド海軍の父」とも呼ばれる強力な艦隊を創設した、先見の明のある統治者でもありました。
ヘンリ8世が残した遺産は、極めて複雑で多面的です。彼が意図したかどうかにかかわらず、彼が始めた宗教改革は、その後のイングランドの国民的アイデンティティの形成に決定的な影響を与えました。そして、彼が認知した3人の子ども、エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世が次々と王位を継承し、それぞれが父の遺産と格闘する中で、イングランドはさらなる宗教的・政治的混乱の時代へと突入していくことになるのです。ヘンリ8世は、その巨大な個性と行動によって、イングランドの運命を永遠に変えた国王として、歴史にその名を刻んでいます。
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