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プロテスタントとは わかりやすい世界史用語2569
著作名: ピアソラ
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プロテスタントとは

16世紀初頭のヨーロッパを席巻し、キリスト教世界のあり方を永久に変えてしまうことになるプロテスタント宗教改革は、決してマルティン=ルターという一人の修道士の行動によって、突如として歴史の舞台に登場したわけではありません。その巨大な地殻変動の根底には、数世紀にわたって蓄積されてきた、深く、そして複雑な社会的、政治的、そして何よりも精神的な緊張が存在していました。宗教改革の激しい炎が燃え広がるための土壌は、ルターが歴史の表舞台に登場するずっと以前から、着々と耕されていたのです。
14世紀から15世紀にかけてのヨーロッパは、中世的な普遍主義が崩壊し、新しい時代への移行が始まる、大きな転換期にありました。かつてヨーロッパのキリスト教世界を霊的に束ねていたローマ教皇庁の権威は、深刻な危機に瀕していました。フランス王の干渉によって教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移された「アヴィニョン捕囚」(1309年=1377年)、そしてローマとアヴィニョンに複数の教皇が並び立ち、互いに正統性を主張して対立した「教会大分裂(大シスマ)」(1378年=1417年)は、教皇の普遍的な権威を地に堕とし、キリスト教徒の間に深刻な精神的混乱と不信感をもたらしました。教皇は、もはやキリストの代理人として尊敬される存在ではなく、世俗的な権力闘争と財政的な貪欲さにまみれた、イタリアの一君主と見なされるようになっていました。
この教皇権の失墜と並行して、教会内部の腐敗と道徳的退廃は、多くの人々の目にあまるものとなっていました。高位聖職者である司教や大司教の多くは、貴族階級の次男や三男が占め、政治的なポストと化していました。彼らは、複数の司教区を兼任してその収入を独占しながら、自らの司教区に赴任することさえせず、魂の救済という本来の職務を全く顧みませんでした。下級聖職者である教区司祭たちの多くもまた、十分な教育を受けておらず、神学的な知識はもとより、礼拝で用いるラテン語さえろくに理解できない者も少なくありませんでした。聖職売買(シモニア)や、聖職者の妻帯(ニコライティズム)も横行し、聖職者の道徳的権威は地に落ちていました。



民衆の精神的な渇望と、教会の提供する現実との間のギャップは、広がる一方でした。14世紀にヨーロッパを襲った黒死病(ペスト)の大流行は、人々の心に死への恐怖と、死後の救済への切実な問いを深く刻み付けました。人々は、自らの罪が神の怒りを招いたのだと信じ、魂の救いを求めて、かつてないほど熱心に宗教的な実践に励みました。聖遺物への崇敬、聖人への祈り、そして免償(贖宥状)の購入といった、目に見える「善行」を通じて、死後に煉獄で受けるべき罰を少しでも軽くしようと躍起になったのです。
教会は、この民衆の不安に巧みにつけ込み、救済を商品化していきました。特に、免償符の販売は、教皇庁にとって重要な収入源となりました。免償とは、本来、罪の告白と悔い改めを行った信者に対して、教会が課す世俗的な償い(罰)を免除するものでした。しかし、時代が下るにつれて、それは、金銭の寄進と引き換えに、煉獄での苦しみの期間を短縮できる「証明書」として、大々的に販売されるようになっていったのです。1517年にドイツで問題となった免償符の販売は、その中でも特に悪質なもので、購入すれば、すでに亡くなった親族の魂でさえ、即座に煉獄から天国へと引き上げることができると宣伝されました。これは、多くの敬虔な信者にとって、神聖な救済を金で売買する、許しがたい冒涜行為と映りました。
このような教会の腐敗と形式主義に対する批判の声は、ルター以前にも存在していました。14世紀のイギリスでは、オックスフォード大学の神学者ジョン=ウィクリフが、聖書こそが信仰の唯一の権威であると主張し、教皇制や聖職者の特権を厳しく批判しました。彼は、聖書の英語への翻訳を指導し、神の言葉を民衆の手に直接届けようとしました。彼の思想は、ボヘミア(現在のチェコ)の改革者ヤン=フスに受け継がれます。フスは、プラハ大学の学長として、教会の腐敗を糾弾し、聖書に基づく改革を訴えましたが、1515年のコンスタンツ公会議で異端として有罪判決を受け、火刑に処せられました。彼らの運動は、武力によって鎮圧されましたが、その思想は、改革を求める人々の間に、地下水脈のように生き続けていました。
また、ルネサンス期に興ったヒューマニズム(人文主義)も、宗教改革の重要な知的背景を形成しました。「原典に戻れ」を合言葉とするヒューマニストたちは、中世のスコラ神学の煩瑣な議論を批判し、聖書や教父たちの著作を、その原語(ギリシア語、ヘブライ語)で直接研究することの重要性を説きました。その代表格であるエラスムスは、1516年に、ギリシア語の新約聖書を、新しいラテン語訳と共に校訂・出版しました。この『校訂ギリシア語新約聖書』は、それまで教会の公式な聖書であったラテン語訳聖書(ウルガタ)の多くの誤りを明らかにし、聖書のテキストそのものに立ち返って神学を再構築するための、決定的な土台を提供しました。ルターが後に聖書をドイツ語に翻訳する際に用いたのも、このエラスムスのギリシア語聖書でした。エラスムス自身は、教会の分裂を望まず、カトリック教会の内部からの穏健な改革を望みましたが、彼の聖書研究と教会風刺は、結果的に、より急進的な改革の道を備えることになったのです。
さらに、15世紀半ばにグーテンベルクによって発明された活版印刷技術は、宗教改革の思想が、かつてない速度と規模で広まることを可能にする、革命的なメディアでした。ルターの著作やパンフレットは、印刷機によって大量に複製され、数週間のうちにドイツ全土、さらにはヨーロッパ中に届けられました。これにより、宗教改革は、もはや一部の神学者や聖職者だけのものではなく、読み書きのできる都市の市民や、さらには読み聞かせを通じて農民にまで届く、広範な民衆運動へと発展する可能性を秘めることになったのです。
政治的な側面では、神聖ローマ帝国の分権的な構造が、宗教改革の思想が保護され、根付くための、またとない環境を提供しました。皇帝の権力が弱く、ザクセン選帝侯のような有力な諸侯が、自らの領邦において強い主権を持っていたため、皇帝や教皇がルターを異端として断罪しても、それを即座に実行することができませんでした。諸侯たちは、ローマからの政治的・経済的な自立を求める中で、宗教改革を、自らの領邦主権を強化するための好機と捉えました。
このように、1517年のヨーロッパは、民衆の精神的な不満、教会の腐敗、改革を求める先行者の思想、ヒューマニズムによる新しい知、活版印刷という新しいメディア、そして領邦君主の政治的野心といった、様々な要素が複雑に絡み合い、爆発寸前の状態にありました。まさに、乾ききった薪が、点火を待つばかりに積み上げられていたのです。その薪に火をつけたのが、マルティン=ルターという、一人の無名の修道士が抱いた、魂の救済をめぐる深刻な問いでした。
マルティン=ルターと宗教改革の勃発

プロテスタント宗教改革の直接的な引き金となったのは、ドイツのアウグスティヌス会修道士であり、ヴィッテンベルク大学の聖書学教授であったマルティン=ルターが抱いた、個人的な魂の苦悩と、そこから得られた神学的な発見でした。彼の行動は、当初、大学内部での神学的な討論を意図したものでしたが、それは期せずして、ヨーロッパ全土を巻き込む巨大な宗教的・政治的変動の導火線となりました。
ルターは、1505年、落雷の恐怖の中で聖アンナに助けを求め、修道士になることを誓ったという有名な逸話が示すように、極めて感受性が強く、罪と神の裁きに対して、人一倍の恐怖心を抱いていました。修道院に入った彼は、誰よりも厳格に修道生活の規則を守り、断食、祈り、苦行に励みました。しかし、彼がどれほど努力しても、神の義なる裁きの前に、自らが罪深い存在であるという意識は消えず、魂の平安を得ることができませんでした。彼は、聖人としてではなく、怒れる審判者としての神の姿に、絶えずおびえていたのです。
この霊的な危機からの突破口は、彼がヴィッテンベルク大学で聖書、特に詩編とローマの信徒への手紙を講義する中で、訪れました。彼は、ローマの信徒への手紙1章17節にある「福音には、神の義が啓示されている。その義は、信仰に始まり、信仰に進ませる。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりである」という一節に、雷に打たれたような衝撃を受けます。彼は、ここで語られている「神の義」が、人間が罪を犯したことに対して罰を与える、裁きの義ではなく、神が、信仰を持つ罪深い人間を、一方的な恵みによって義(正しいもの)としてくださる、救いの義であると理解したのです。
この「塔の体験」として知られる発見は、ルターの神学の根幹をなす「信仰義認」の教理の核心です。人間は、自らの善行や努力によって救われるのではなく、ただ、キリストの十字架の贖いを信じる信仰によってのみ、神の恵みによって義とされる。救いは、人間の側から神に到達するものではなく、神の側から人間に与えられる、無償の賜物である。この理解は、ルターを、長年の魂の苦しみから解放しました。そして同時に、それは、人間の善行や功績を救いの条件とする、当時のカトリック教会の教え、特に免償符の販売を、根底から覆すものでした。
1517年、教皇レオ10世が、ローマのサン=ピエトロ大聖堂の改築資金を集めるために、ドイツで大規模な免償符の販売を許可したことが、ルターの行動を促す直接のきっかけとなりました。販売を担当したドミニコ会修道士ヨハン=テッツェルは、「箱の中に金貨がチャリンと音を立てて入ると、魂は煉獄から飛び上がる」といった、極めて扇情的な口上で、免償符の功徳を説いて回りました。これを聞いたルターは、人々が、真の悔い改めではなく、安易な金銭の支払いに救いを求めることで、その魂が永遠の破滅に導かれていることに、強い義憤と牧会的な危機感を覚えました。
1517年10月31日、ルターは、免償符の神学的な問題点を問うための「九十五箇条の提題」をラテン語で作成し、通例に従って、ヴィッテンベルク城教会の扉に掲示しました。これは、大学の同僚たちとの学術的な討論を呼びかけるためのものであり、教会全体に対する反逆を意図したものではありませんでした。提題の内容も、免償の制度そのものを完全に否定するものではなく、その乱用を批判し、真の悔い改めの重要性を説く、比較的穏健なものでした。
しかし、ルターの意図とは裏腹に、この提題は、爆発的な反響を呼び起こします。誰かが、このラテン語の提題をドイツ語に翻訳し、活版印刷機にかけて、大量に印刷・配布したのです。数週間のうちに、それはドイツ全土に広まり、教会の腐敗と搾取に不満を抱いていた多くの人々の心を捉えました。特に、ドイツからイタリアのローマへ、大量の金銭が吸い上げられていることに対する、経済的・民族的な反感が、ルターの主張への共感を増幅させました。
事態を重く見たローマ教皇庁は、当初、これを「一修道士のつまらない言い争い」と見なしていましたが、ルターが自説を撤回しないため、徐々に対応を硬化させていきました。1518年、ルターはアウクスブルクで教皇特使カイエタヌスの審問を受けますが、自説の撤回を拒否します。1519年には、ライプツィヒで、当代随一の神学者ヨハン=エックと公開討論会を行います。この討論で、エックは、ルターの主張が、かつて異端として火刑に処せられたヤン=フスの主張と類似していることを巧みに指摘し、ルターを窮地に追い込みました。追い詰められたルターは、ついに、教皇や公会議も誤りを犯す可能性があり、信仰に関する最終的な権威は、聖書のみにあると宣言します。これは、カトリック教会の権威構造そのものを否定する、決定的な一線を超える発言でした。
ライプツィヒ討論の後、ルターとローマ教会の決裂は、もはや避けられないものとなりました。1520年、ルターは、彼の思想の核心を示す、三つの重要な文書を立て続けに出版します。まず、『ドイツのキリスト者貴族に与う』では、教皇権が築いた「三つの壁」(聖職権が世俗権より上であること、聖書の解釈権は教皇のみが持つこと、公会議の召集権は教皇のみが持つこと)を打ち破るよう、ドイツの諸侯に呼びかけました。次に、『教会のバビロニア捕囚』では、カトリック教会の七つの秘跡(サクラメント)を批判し、聖書に明確な根拠があるのは、洗礼と聖餐の二つだけであると主張しました。そして、『キリスト者の自由』では、「キリスト者は、すべてのものの上に立つ、自由な主人であって、何人にも従属しない。キリスト者は、すべてのものに仕える、僕であって、何人にも従属する」という逆説的な言葉で、信仰によって義とされた人間が、律法から解放されると同時に、隣人への愛に生きる者となるという、信仰義認の倫理的な帰結を説きました。これらの著作は、宗教改革の綱領となり、その思想を、より明確で、より急進的な形で、人々に示しました。
1520年6月、教皇レオ10世は、ルターに自説の撤回を命じる脅迫教皇勅書『エクスルゲ・ドミネ(主よ、立ち上がってください)』を発布します。しかし、ルターは、同年12月、ヴィッテンベルクの市民や学生が見守る前で、この教皇勅書を教会法典と共に火の中に投じ、ローマ教会との完全な決別を宣言しました。これを受けて、1521年1月、教皇はルターを正式に破門します。
しかし、ルターの身柄をどうするかは、神聖ローマ皇帝の手に委ねられていました。新しく皇帝に即位したカール5世は、敬虔なカトリック教徒であり、ルターの教えを異端と見なしていましたが、ルターを保護するザクセン選帝侯フリードリヒ賢公の政治的影響力を無視することはできませんでした。彼は、1521年、ヴォルムスで帝国議会を召集し、ルターに弁明の機会を与えることを決定します。
ヴォルムスに召喚されたルターは、皇帝と帝国の諸侯たちが居並ぶ前で、自らの著作を撤回するよう求められました。彼は、一日の猶予を求めた後、翌日、歴史に残る有名な言葉で、撤回を拒否しました。「聖書の証しと、明白な理性によって論破されない限り、私は、私が引用した聖句に縛られています。私の良心は、神の言葉に捉えられています。私は、何も撤回することはできませんし、また、するつもりもありません。なぜなら、良心に背いて行動することは、安全でもなければ、正しいことでもないからです。神よ、我を助けたまえ。アーメン」。
この断固たる態度は、ルターの個人的な信仰の表明であると同時に、中世的な権威(教皇と公会議)に対して、個人の良心と聖書の権威を対置させる、近代的な精神の表明でもありました。議会の後、カール5世は、ヴォルムス勅令を発し、ルターを帝国の無法者(帝国アハト刑)と宣言し、その著作の所有や配布を禁じました。しかし、ルターは、帰路の途中、フリードリヒ賢公の手配によって「誘拐」され、ヴァルトブルク城にかくまわれます。この城で、彼は、新約聖書のドイツ語への翻訳という、宗教改革の歴史において最も重要な仕事の一つに着手することになるのです。ヴォルムスでの出来事は、一人の修道士の抗議が、帝国の政治構造そのものを揺るがす、巨大な運動へと発展したことを、象徴的に示すものでした。
宗教改革の多様な展開

マルティン=ルターが点火した宗教改革の炎は、彼の意図や制御をはるかに超えて、ヨーロッパ各地に燃え広がり、それぞれの地域の政治的、社会的、文化的な文脈と結びつきながら、多様な形態をとって展開していきました。ルター派の改革が、主にドイツと北欧の君主たちの主導で進められたのに対し、スイスでは、都市の共和主義的な伝統の中で、より急進的で、市民的な性格を持つ改革運動が生まれました。
スイスの改革=ツヴィングリとカルヴァン

スイスにおける宗教改革の先駆者は、チューリッヒの説教者であったウルリヒ=ツヴィングリです。ツヴィングリは、ルターとは独立して、エラスムスの影響の下で聖書を研究し、同様に聖書中心主義の立場に至りました。しかし、彼の改革の進め方は、ルターとは対照的でした。ルターが、領邦君主の保護の下で、上からの改革を進めたのに対し、ツヴィングリは、チューリッヒの市参事会という、市民の代表機関との協力の下で、公開討論会を通じて、改革を進めていきました。1523年に行われた第1回チューリッヒ討論会で、ツヴィングリは、聖書のみを信仰と生活の唯一の規範とする「六十七箇条」を提示し、市参事会は、彼の教えが聖書に基づいていることを認め、その説教を公式に許可しました。
ツヴィングリの改革は、ルターの改革よりも、より徹底的で、急進的なものでした。彼は、聖書に明確な根拠のないものは、すべて教会の礼拝から排除すべきであると考えました。その結果、チューリッヒの教会からは、聖像、聖遺物、祭壇、そしてオルガンまでもが撤去されました。礼拝は、説教と祈りを中心とする、極めて簡素なものへと変えられました。
ルターとツヴィングリの間の決定的な違いは、聖餐論をめぐる見解の相違でした。ルターは、カトリックの全質変化説(パンとぶどう酒が、キリストの身体と血そのものに変化するという説)は否定したものの、聖餐において、キリストの身体と血が、パンとぶどう酒と「共に、その中に、その下に」、真に存在すると信じました(共在説)。一方、ツヴィングリは、より合理主義的な立場から、聖餐を、キリストの死を記念し、信者の信仰を公に告白するための、象徴的な行為であると解釈しました。キリストは、天に昇られた後、父なる神の右の座に着座しており、物理的に地上の聖餐に臨在することはありえないと考えたのです。
この聖餐論をめぐる対立を解消し、プロテスタント陣営の政治的な結束を図るため、ヘッセン方伯フィリップは、1529年にマールブルクで、ルターとツヴィングリの会談(マールブルク会談)をセッティングしました。しかし、両者は、他の多くの点で合意に達したものの、聖餐論においてだけは、最後まで妥協することができませんでした。ルターは、テーブルにチョークで「これは我が体なり」と書き、文字通りの解釈を譲らなかったと言われています。この会談の決裂は、プロテスタント内部の最初の大きな分裂となり、その後のルター派と改革派(カルヴァン派)の分立を決定づけることになりました。ツヴィングリの改革運動は、チューリッヒから、ベルン、バーゼルといった他のスイスの都市にも広がりましたが、1531年、カトリックの州との間で行われたカッペルの戦いで、ツヴィングリ自身が陣頭に立って戦い、戦死したことで、その拡大は頓挫しました。
ツヴィングリの死後、スイスの宗教改革の指導的な役割を引き継いだのが、フランス出身の神学者ジャン=カルヴァンです。カルヴァンは、フランスでプロテスタントへの弾圧が激化したため、スイスのバーゼルに亡命し、そこで1536年に、プロテスタント神学の金字塔となる『キリスト教綱要』の初版を出版しました。この著作は、聖書全体の教えを、論理的かつ体系的に解説したものであり、プロテスタントの教義を、首尾一貫した神学体系として確立しました。
その後、カルヴァンは、ジュネーヴの宗教改革を指導するよう招かれます。彼は、一度、その厳格すぎる改革方針が市民の反発を招き、追放されますが、数年後に呼び戻され、1541年以降、その死に至るまで、ジュネーヴの宗教的・政治的な指導者として、絶大な影響力を振るいました。カルヴァンは、ジュネーヴに、牧師、教師、長老、執事という四つの職分に基づく、独自の教会制度を確立しました。特に重要なのが、信徒の中から選ばれた「長老」が、牧師と共に、教会の運営と、信徒の信仰生活の監督(教会懲戒)に当たるという「長老制」です。牧師と長老からなる「宗務局」は、ジュネーヴ市民の道徳生活を厳しく監視し、神の栄光を地上に実現するための「神権政治」とも言うべき、徹底した規律社会を築き上げました。
カルヴァンの神学の中心的な特徴は、神の絶対的な主権を強調する、厳格な「予定説」です。これは、神が、世界の創造の前に、永遠の定めによって、ある人々を救い(選び)に、他の人々を滅び(遺棄)に、あらかじめ定めておられるという教えです。この教えは、一見、人間の努力を無意味にする、冷酷な運命論のように思えますが、カルヴァン主義者にとっては、むしろ逆の意味を持ちました。彼らは、自らが救いに選ばれた「選民」であるという確信を、世俗的な職業における成功や、禁欲的で規律正しい生活の中に、見出そうとしました。社会学者マックス=ヴェーバーが、その著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じたように、この世俗内禁欲の精神が、近代的な資本主義の発展を促す、重要な倫理的土台となったという見方もあります。
カルヴァンのジュネーヴは、ヨーロッパ中からプロテスタントの亡命者が集まる、国際的な宗教改革の中心地となりました。彼らは、ジュネーヴでカルヴァンの神学と教会制度を学び、やがて故国に帰って、それぞれの地で改革運動の指導者となりました。スコットランドのジョン=ノックス、フランスのユグノー、オランダのゴイセン、そしてイングランドのピューリタンなど、カルヴァン主義は、ヨーロッパ各地に広まり、ルター主義と並ぶ、プロテスタンティズムのもう一つの大きな潮流を形成していきました。
急進的宗教改革=再洗礼派

ルターやツヴィングリ、カルヴァンといった、主流派の改革者たちの他に、宗教改革の時代には、より急進的で、社会の根底からの変革を求める、様々なグループが登場しました。彼らは、主流派の改革が、あまりに生ぬるく、妥協的であると批判し、聖書、特に新約聖書の山上の説教の教えを、文字通り、徹底的に実践しようとしました。彼らは、しばしば「急進的宗教改革」と総称されますが、その思想や行動は、極めて多様でした。
その中でも、最も代表的なグループが、「再洗礼派」です。彼らの中心的な主張は、幼児洗礼の否定でした。彼らは、洗礼(バプテスマ)は、自らの信仰を主体的に告白できる、成人に対してのみ授けられるべきであると考えました。幼児洗礼は、聖書に根拠がなく、個人の信仰に基づかない、無意味な儀式であると見なしたのです。そして、幼児期に洗礼を受けた者も、成人して信仰告白をした上で、再び洗礼を受け直すべきであると主張しました。この「再洗礼」の実践から、彼らは、敵対者から「アナバプテスト(再洗礼派)」という蔑称で呼ばれるようになりました(彼ら自身は、幼児洗礼を真の洗礼と認めないため、自らを再洗礼派とは考えていませんでした)。
この幼児洗礼の否定は、当時の社会の根幹を揺るがす、極めて危険な思想と見なされました。なぜなら、幼児洗礼は、個人をキリスト教共同体の一員として登録する、社会的な儀礼であり、教会と国家が一体化していた当時の社会において、それは、国家の市民となるための、必須の条件でもあったからです。幼児洗礼を否定することは、教会と国家の両方から離脱し、既存の社会秩序を拒否することを意味しました。
再洗礼派の多くは、聖書の教えに基づき、徹底した平和主義を貫き、武器を取ることを拒否しました(非戦論)。また、彼らは、国家への忠誠の誓いを立てることや、公職に就くことも拒否しました。彼らは、自らを、この世から分離された、真の信者のみからなる、純粋な共同体であると考え、国家教会(ルター派であれ、カトリックであれ)から厳しく自らを区別しました。
このような彼らの思想と行動は、カトリック、ルター派、カルヴァン派のいずれからも、社会の秩序を破壊する危険な異端と見なされ、ヨーロッパ中で、最も過酷な迫害の対象となりました。1529年のシュパイアー帝国議会では、再洗礼派を死刑に処すという帝国法が制定され、数千人、あるいはそれ以上の再洗礼派の人々が、火刑や水刑(皮肉を込めて「第三の洗礼」と呼ばれた)によって、殉教していきました。
しかし、再洗礼派の中には、平和主義的な主流派から逸脱し、千年王国思想(キリストが地上に再臨し、千年間、義人たちと共に統治するという思想)と結びついて、暴力的な革命を目指すグループも現れました。その最も大きな例は1534年から35年にかけての、ミュンスターでの反乱です。ヤン=マティスやヤン=ファン=ライデンといった指導者に率いられた再洗礼派の一派が、ドイツ北西部の都市ミュンスターを占拠し、そこを「新しいエルサレム」と宣言しました。彼らは、市内に千年王国を樹立しようとし、私有財産を否定し、一夫多妻制を導入するなど、極端な社会実験を行いました。しかし、この「ミュンスター王国」は、カトリックとプロテスタントの連合軍によって包囲され、凄惨な戦闘の末に陥落しました。指導者たちは、残虐な方法で処刑され、その遺体は、見せしめとして、市の教会の塔に吊るされた籠の中に、長年にわたって晒されました。
このミュンスターでの悲劇は、再洗礼派全体のイメージを著しく悪化させ、彼らに対する迫害を、さらに激化させる口実となりました。しかし、迫害を生き延びた平和主義的な再洗礼派のグループは、オランダの元カトリック司祭メノ=シモンズのような、穏健な指導者の下で再組織され、メノナイトとして、その信仰を後世に伝えていきました。彼らが掲げた、幼児洗礼の否定、信仰者の教会、国家と教会の分離、そして平和主義といった理念は、後のバプテスト教会やクエーカーなど、近代の自由教会の伝統の中に、深く受け継がれていくことになります。
イングランドの宗教改革

ドイツやスイスの宗教改革が、神学的な動機から始まったのに対し、イングランドの宗教改革は、国王の離婚問題という、極めて政治的な、あるいは個人的な動機から始まったという、独特の性格を持っています。しかし、その後の展開は、大陸のプロテスタンティズムの影響を強く受けながら、カトリックとプロテスタントの中間的な道を歩む、「イングランド国教会(アングリカン・チャーチ)」という、独自の教会を形成していくことになります。
改革のきっかけを作ったのは、テューダー朝の国王ヘンリー8世です。彼は、当初、敬虔なカトリック教徒であり、ルターの教えを批判する『七つの秘跡の擁護』という本を著し、教皇から「信仰の擁護者」という称号を与えられたほどでした。しかし、彼の関心は、男子の世継ぎをもうけ、テューダー朝の王位を安定させることにありました。彼の妻、キャサリン=オブ=アラゴン(スペイン王家出身、カール5世の叔母)は、娘のメアリー(後のメアリー1世)を産んだものの、男子を産むことができませんでした。世継ぎの誕生を熱望するヘンリーは、若く魅力的な女官アン=ブーリンに心を奪われ、キャサリンとの結婚を無効にし、アンと結婚することを望むようになります。
ヘンリーは、キャサリンが、もともと彼の兄アーサーの妻であったことを理由に、レビ記の教え(兄弟の妻をめとってはならない)に反する、神の法に背いた結婚であったと主張し、教皇クレメンス7世に、結婚の無効を申請しました。しかし、教皇は、この要求を認めることができませんでした。なぜなら、キャサリンの甥にあたる、神聖ローマ皇帝カール5世が、1527年にローマを占領(ローマ劫掠)し、教皇を事実上の支配下に置いており、叔母であるキャサリンに不利益となるような決定を、教皇が下すことを、決して許さなかったからです。
教皇からの許可が得られないことに業を煮やしたヘンリー8世は、側近のトマス=クロムウェルや、カンタベリー大司教に任命したトマス=クランマーの助言を受け、教皇権そのものから離脱するという、大胆な手段に打って出ます。1533年、クランマーは、イングランドの教会法廷で、ヘンリーとキャサリンの結婚を無効と宣言し、ヘンリーと、すでに妊娠していたアン=ブーリンとの結婚を合法化しました。そして、1534年、イングランド議会は、「国王至上法(首長令)」を可決します。これは、イングランド国王が、「イングランド国教会の、地上における唯一最高の首長」であることを宣言するものでした。これにより、イングランドの教会は、ローマ教皇の権威から完全に切り離され、国王を首長とする、独立した国民教会となったのです。
この「上からの改革」は、当初、教義や礼拝の形式においては、ほとんど変化をもたらしませんでした。ヘンリー8世自身は、カトリックの教義を信奉し続けており、彼の目的は、あくまで教会の支配権を、教皇から自らの手に移すことにありました。彼は、教皇権を否定する一方で、ルター派の教えが国内に広まることには、依然として警戒していました。
しかし、国王至上法の制定は、イングランドに、大陸のプロテスタント思想が流入するための、門戸を開く結果となりました。特に、カンタベリー大司教クランマーは、プロテスタントの思想に深く共鳴しており、穏健ながらも、着実に改革を進めようとしました。また、トマス=クロムウェルは、財政的な目的から、イングランド中の修道院の解散を断行しました。これにより、広大な修道院の土地と財産が、王領に組み込まれ、王権の強化に大きく貢献しました。
ヘンリー8世の死後、その幼い息子エドワード6世が即位すると、イングランドの宗教改革は、一気にプロテスタントの方向へと傾きます。若き国王自身が、熱心なプロテスタントであり、摂政のサマセット公や、カンタベリー大司教クランマーの指導の下で、急進的な改革が進められました。クランマーは、プロテスタントの教義を全面的に反映した『共通祈祷書』を作成し、イングランド全土の教会での使用を義務付けました。これにより、ラテン語のミサは廃止され、英語による、説教中心の礼拝が行われるようになりました。また、聖職者の結婚も認められました。

しかし、エドワード6世が若くして病死すると、イングランドの宗教事情は、再び劇的な揺り戻しに見舞われます。次に王位に就いたのは、ヘンリー8世と最初の妻キャサリン=オブ=アラゴンの娘、メアリー1世でした。熱心なカトリック教徒であった彼女は、母が受けた屈辱と、自らが庶子とされた経験から、プロテスタンティズムを深く憎んでいました。彼女の治世の目標は、父と弟が進めた宗教改革をすべて覆し、イングランドをローマ=カトリック教会に復帰させることでした。
メアリーは、国王至上法をはじめとする、父ヘンリー8世時代の反教皇的な法を次々と撤廃し、教皇の権威をイングランドに回復させました。エドワード6世時代に導入された『共通祈祷書』は禁止され、ラテン語によるミサが復活しました。結婚していた聖職者たちは、その職を追われました。さらに、彼女は、プロテスタントの指導者たちに対する、過酷な弾圧を開始します。カンタベリー大司教トマス=クランマーをはじめ、多くの高位聖職者や信徒が、異端として火刑に処せられました。その数は300人近くに上ったと言われ、この過酷な迫害によって、彼女は後世、「血まみれのメアリー」という不名誉な呼び名で記憶されることになります。しかし、皮肉なことに、この弾圧は、プロテスタントの信仰を根絶するどころか、殉教者たちの英雄的な死を通じて、イングランドの人々の心に、反カトリック、反ローマの感情を、より深く刻み付ける結果となりました。多くのプロテスタント信徒は、大陸のジュネーヴなどに亡命し、そこでカルヴァン主義の、より急進的な思想に触れることになります。
メアリー1世が、後継者を残さずに亡くなると、王位は、ヘンリー8世とアン=ブーリンの娘、エリザベス1世に継承されました。エリザベスの長い治世(1558年=1603年)は、イングランドの宗教問題に、最終的な解決をもたらすことになります。エリザベス自身は、プロテスタントとして育てられましたが、彼女の関心は、神学的な純粋さよりも、むしろ国家の統一と安定にありました。彼女は、メアリーのような極端なカトリック政策も、エドワードのような急進的なプロテスタント政策も、共に国家を分裂させると考え、カトリックとプロテスタントの要素を巧みに組み合わせた、中道的な解決を目指しました。
1559年、エリザベスは、「エリザベス朝の宗教的解決」として知られる、一連の法を制定します。まず、新たな「国王至上法」によって、国王が再びイングランド国教会の首長であることが確認されました。ただし、女性であるエリザベスは、「最高の首長」という称号の代わりに、「最高の統治者」という、やや穏やかな称号を用いました。次に、「礼拝統一法」によって、新しい『共通祈祷書』の使用が、全国の教会で義務付けられました。この祈祷書は、エドワード6世時代のものを基にしていましたが、聖餐に関する記述など、カトリック的な解釈の余地も残すように、意図的に曖昧な表現が用いられました。教義的にはプロテスタントの立場を取りながらも、司教制や華やかな祭服といった、カトリック的な教会組織や礼拝の形式を一部維持することで、できるだけ多くの国民を、新しい国教会の中に留めようとしたのです。
このエリザベス朝の解決は、イングランド国教会(アングリカン・チャーチ)の基本的な性格を決定づけました。それは、プロテスタントの神学と、カトリックの伝統的な要素が共存する、独特の「中間的な」教会でした。しかし、この妥協的な路線は、すべての人の満足を得ることはできませんでした。一方では、ローマ教皇に忠誠を誓い続けるカトリック教徒が、国内に依然として存在し、彼らはしばしば、国家への反逆者と見なされ、弾圧の対象となりました。他方では、メアリーの迫害を逃れて大陸に亡命し、カルヴァンの神学に染まって帰国した、より急進的なプロテスタントたちがいました。彼らは、エリザベスの改革が、あまりに生ぬるく、カトリック的な「偶像崇拝」の残滓が多く残っていると批判しました。彼らは、イングランド国教会を、聖書に基づいて、さらに徹底的に「浄化」することを求め、やがて「ピューリタン」と呼ばれるようになります。このピューリタンと国教会の間の緊張は、17世紀のイングランド革命(ピューリタン革命)へとつながる、深刻な対立の火種となっていくのです。
カトリック教会側の反応=対抗宗教改革

プロテスタンティズムの急速な拡大に対して、カトリック教会は、ただ手をこまねいて見ていたわけではありません。当初は、ルターの運動を過小評価していたローマ教皇庁も、事態の深刻さを認識するにつれて、プロテスタントの攻勢に対抗し、失われた権威と信徒を回復するための、大規模な改革運動に乗り出しました。この16世紀半ばから17世紀にかけてのカトリック教会内部の自己改革と、プロテスタンティズムへの反撃の動きは、総称して「対抗宗教改革」または「カトリック改革」と呼ばれます。
この改革運動の中心となったのが、1545年から1563年にかけて、断続的に開催された「トリエント公会議」です。神聖ローマ皇帝カール5世は、プロテスタントとの和解を目指して、公会議の開催を強く要求しましたが、教皇庁は、公会議が再び教皇の権威を脅かすことを恐れ、開催に消極的でした。しかし、プロテスタントの勢いがもはや抑えがたいものとなる中で、教皇パウルス3世は、ついに公会議の召集を決断します。
トリエント公会議の目的は、二つありました。一つは、プロテスタントによって挑戦された、カトリックの教義を再確認し、明確化すること。もう一つは、プロテスタントの批判の的となった、教会内部の腐敗と規律の乱れを是正することです。
教義の面では、公会議は、プロテスタントの主張に対して、一切の妥協を拒否し、伝統的なカトリックの教えを、より強固な形で再定義しました。ルターの「聖書のみ」の原則に対しては、聖書と、それと同等の権威を持つ「聖伝(教会の伝統)」の両方が、信仰の源泉であると宣言しました。「信仰のみ」による義認の教理に対しては、信仰は救いの始まりではあるが、それだけでは不十分であり、愛の行いを伴う善行もまた、救いに必要であると定めました。秘跡(サクラメント)については、プロテスタントが二つに限定したのに対し、伝統的な七つの秘跡(洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻)すべてが、キリストによって制定されたものであると確認しました。特に、聖餐におけるパンとぶどう酒が、完全にキリストの身体と血に変化するという「全質変化(実体変化)」の教義は、改めて強調されました。また、聖人や聖遺物の崇敬、煉獄の存在、そして免償の有効性も、その乱用を戒めつつも、基本的には維持されました。このように、トリエント公会議は、プロテスタントとの神学的な溝を埋めるのではなく、むしろ、その違いを明確にし、カトリック教会の教義的なアイデンティティを、戦闘的に再構築する役割を果たしたのです。
一方で、公会議は、教会内部の規律改革(綱紀粛正)においては、重要な成果を上げました。聖職売買(シモニア)は厳しく禁じられ、司教は、複数の司教区を兼任することができなくなり、自らの司教区に居住することが義務付けられました。これは、司教が、単なる領主ではなく、信徒の魂の救済に責任を持つ、牧者としての役割を果たすことを、改めて要求するものでした。また、聖職者の教育水準の向上が、急務であると認識され、各司教区に、司祭を養成するための「神学校」を設立することが決定されました。これにより、無学で品行の悪い聖職者が一掃され、神学的な知識と高い道徳性を備えた、新しい世代の司祭が養成されていくことになります。
対抗宗教改革のもう一つの重要な原動力となったのが、この時期に設立された、新しい修道会の活動です。その中でも、最も大きな影響力を持ったのが、イグナティウス=デ=ロヨラによって設立された「イエズス会」です。元軍人であったロヨラは、その軍隊的な精神を、新しい修道会に持ち込みました。イエズス会の会員は、教皇に対する絶対的な服従を誓い、「教皇の精鋭部隊」として、世界中に派遣されました。彼らは、三つの主要な分野で、目覚ましい活動を展開しました。
第一に、教育です。イエズス会は、ヨーロッパ各地に、質の高い大学や学院を設立し、カトリックの貴族や指導者層の子弟を教育しました。彼らの教育は、古典的な人文主義の教養と、厳格なカトリック神学を結びつけたものであり、プロテスタントの教育機関に対抗する、強力な知的拠点となりました。
第二に、プロテスタントへの反撃です。イエズス会の会員たちは、神学的な訓練を積んだ説教者、聴罪司祭、そして宮廷顧問として、プロテスタントが優勢であった地域、特にドイツ南部やポーランドなどに派遣され、多くの人々をカトリック信仰に引き戻すことに成功しました。
第三に、海外宣教です。大航海時代によって、ヨーロッパ人の世界が拡大する中で、イエズス会は、キリスト教世界の外への布教に、情熱を燃やしました。フランシスコ=ザビエルは、インドや日本にまで赴き、カトリックの教えを伝えました。また、マテオ=リッチは、中国の宮廷に入り込み、西洋の科学技術を紹介しながら、キリスト教と中国文化の融合を試みました。彼らの活動によって、カトリック教会は、ヨーロッパで失った地盤を、新世界で補って余りあるほどの、世界的な宗教へと変貌を遂げていくことになります。
さらに、対抗宗教改革は、宗教的な感情を、より直接的で、情熱的な形で表現する、新しい芸術様式を生み出しました。これが「バロック芸術」です。プロテスタント教会が、簡素で、知的な礼拝を重んじたのに対し、バロック様式のカトリック教会は、壮麗な建築、躍動的な彫刻、劇的な絵画、そして荘厳な音楽を駆使して、人々の五感に直接訴えかけ、カトリック信仰の勝利と栄光を、視覚的・聴覚的に表現しようとしました。ベルニーニの彫刻や、カラヴァッジョの絵画は、奇跡や殉教の場面を、生々しく、感情豊かに描き出し、見る者を、信仰の神秘へと引き込みました。
このように、対抗宗教改革は、プロテスタンティズムへの単なる反動ではなく、カトリック教会が、自らの内部に存在する生命力を再発見し、近代世界に対応するための、自己変革のプロセスでもありました。トリエント公会議によって教義的な砦を固め、イエズス会という強力な尖兵を得て、バロック芸術という華やかな鎧をまとったカトリック教会は、プロテスタントとの長期にわたる闘争に、備えることになったのです。宗教改革によって始まった宗派間の対立は、16世紀後半から17世紀にかけて、フランスのユグノー戦争や、ヨーロッパ全土を巻き込んだ三十年戦争といった、血で血を洗う宗教戦争の時代へと、突入していくことになります。プロテスタントの成立は、ヨーロッパに、信仰の多様性をもたらすと同時に、かつてない規模の分裂と抗争の時代をも、もたらしたのです。

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