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シェークスピアとは わかりやすい世界史用語2515
著作名: ピアソラ
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シェークスピアとは

ウィリアム=シェークスピア。その名は、人類史上最も偉大な作家として、世界のあらゆる言語で語り継がれています。『ハムレット』、『ロミオとジュリエット』、『マクベス』、『リア王』。彼の作品は、出版から四世紀以上を経た今なお、世界中の舞台で上演され、映画化され、そして数え切れないほどの学者によって研究され続けています。彼は、人間の感情の深淵を、その喜びも、悲しみも、嫉妬も、野心も、かつて誰も成し得なかったほどの豊かさと複雑さをもって描き出しました。その言葉は、英語という言語そのものを豊かにし、私たちの思考や感情を表現するための新たな語彙を数多く提供してきました。
しかし、これほどまでに巨大な文学的遺産を残した人物であるにもかかわらず、ウィリアム=シェークスピアという一人の人間についての、確実な記録は驚くほど限られています。彼の生涯は、ストラットフォード=アポン=エイヴォンという地方都市の洗礼記録や結婚許可証、ロンドンの裁判記録や納税記録、そして故郷での不動産取引の証文といった、公的な文書の断片によって、かろうじてその輪郭をたどることができるに過ぎません。彼が何を感じ、何を愛し、何を恐れていたのか。彼自身の声で語られる手紙や日記は、一つとして現存していないのです。
この記録の空白は、長年にわたり、様々な憶測や陰謀論、いわゆる「作者別人説」を生み出す土壌となってきました。地方出身の一介の役者に、あれほどまでに高貴な宮廷の作法や、深遠な哲学的思索、そして広範な古典の知識が書けるはずがない、と。しかし、学術的な研究の積み重ねは、ストラットフォード出身のウィリアム=シェークスピアという人物が、歴史的に実在し、彼こそがそれらの戯曲と詩の作者であったことを、状況証拠の連なりによってほぼ疑いのないものとしています。



ストラットフォードの息子:エリザベス朝イングランドにおける出自と教育

ウィリアム=シェークスピアの物語は、ロンドンの喧騒から遠く離れた、イングランド中西部ウォリックシャーの、エイヴォン川のほとりにある静かな田舎町、ストラットフォード=アポン=エイヴォンで始まります。彼の人格と世界観の基礎が築かれたこの場所と時代を理解することは、その後の彼の作品を読み解く上で不可欠な鍵となります。
ジョン=シェークスピアとメアリー=アーデン=地方の名望家の息子

ウィリアム=シェークスピアは、1564年に生まれたとされています。正確な誕生日は記録されていませんが、ストラットフォードのホーリー=トリニティ教会に残る洗礼記録には、1564年4月26日に「グラマス=シェークスピア」が洗礼を受けたと記されています。当時の慣習では、生後三日ほどで洗礼を受けることが一般的であったため、彼の誕生日は、イングランドの守護聖人である聖ジョージの日と同じ4月23日であったと推定されるのが通例となっています。
彼の父は、ジョン=シェークスピアといい、ストラットフォードの有力な市民でした。ジョンはもともと農家の出身でしたが、町に出て、手袋製造業者および羊毛商として成功を収めました。彼は、不動産取引にも手腕を発揮し、町に複数の家屋を所有する裕福な人物となりました。その社会的地位は着実に上昇し、町の様々な公職を歴任した後、1568年には、町の最高行政職である公選市長にまで選出されています。ウィリアムが幼少期を過ごした家は、ヘンリー=ストリートにある、当時としてはかなり大きな家屋であり、父の成功を物語っています。
母は、メアリー=アーデンといい、ジョンよりも家柄の良い、地主階級の娘でした。アーデン家は、ウォリックシャーで古くから続く由緒あるカトリック系の家系であり、この結婚は、ジョンにとって社会的地位をさらに高めるものであったと考えられます。ウィリアムは、八人兄弟の三番目(長男)として生まれましたが、姉二人は幼少期に亡くなっており、彼が事実上の長子として育てられました。
しかし、シェークスピアが十代半ばに差しかかった1570年代後半から、父ジョンの運勢には陰りが見え始めます。彼は、多額の借金を抱え、資産を切り売りするようになります。町の評議会の会合にも出席しなくなり、その社会的地位は明らかに低下していきました。この経済的困窮の理由については、事業の失敗や、カトリック信仰を隠していたこと(当時、カトリック教徒は公職から追放され、罰金を科されるなど、厳しい弾圧を受けていました)が原因ではないかなど、様々な説が提唱されていますが、確かなことは分かっていません。この父親の栄光と没落の経験は、若きシェークスピアの心に深く刻まれ、後の彼の作品における、運命の変転や社会的地位の不安定さといったテーマに影響を与えた可能性があります。
キングズ=ニュー=スクールでの教育

ストラットフォードの有力市民の息子として、シェークスピアは、町のグラマー=スクール(ラテン語学校)であるキングズ=ニュー=スクールに通ったと考えるのが最も自然です。入学記録は現存していませんが、彼の公選市長の息子という立場から、無償で教育を受ける資格がありました。
当時のグラマー=スクールにおける教育は、極めて厳格で、古典語、特にラテン語の習得に集中していました。生徒たちは、早朝から夕方まで、ラテン語の文法、修辞学、そして文学を徹底的に叩き込まれました。彼らが教科書として用いたのは、オウィディウス、ウェルギリウス、ホラティウス、テレンティウス、プラウトゥスといった、古代ローマの詩人や劇作家たちの作品でした。生徒たちは、これらの作品を暗唱し、翻訳し、そしてその文体を模倣して、自らラテン語で詩や対話文を作成する訓練を受けました。
シェークスピアの作品には、これらの古典文学からの引用や、その物語構造への言及が随所に見られます。例えば、『恋の骨折り損』における衒学的な言葉遊び、『タイタス=アンドロニカス』におけるオウィディウスの『変身物語』の直接的な利用、『間違いの喜劇』におけるプラウトゥスの戯曲の翻案など、彼の受けた古典教育の痕跡は明らかです。彼は、大学には進学しませんでしたが、このグラマー=スクールでの教育が、彼の劇作家としての驚異的な言語能力と、豊かな物語世界の創造の基礎を築いたことは間違いありません。
結婚と「失われた数年間」

シェークスピアの青年期に関する次の確実な記録は、1582年11月27日にウスターの司教区で発行された、彼の結婚許可証です。この時、シェークスピアは18歳。相手は、アン=ハサウェイという名の女性でした。彼女は、ストラットフォード近郊の村、ショッタリーの裕福な農家の娘で、当時26歳であったとされています。二人の年齢差、そして結婚許可証が通常よりも急いで発行されたという事実、さらに、結婚からわずか半年後の1583年5月には、長女スザンナが生まれていることから、この結婚は、いわゆる「できちゃった結婚」であったと考えられています。
1585年2月には、双子の男女、ハムネットとジュディスが生まれます。これにより、シェークスピアは21歳にして、三人の子供の父親となりました。
しかし、この双子の誕生を記録した洗礼簿を最後に、シェークスピアの足跡は、歴史の記録からぷっつりと途絶えてしまいます。彼が再びロンドンの演劇界の記録にその名を現すのは、7年後の1592年のことです。この1585年から1592年にかけての7年間は、「失われた数年間」と呼ばれ、シェークスピアの生涯における最大の謎の一つとなっています。
この期間、彼がどこで何をしていたのかについては、様々な憶測が飛び交っています。例えば、故郷で教師をしていたのではないかという説。父の仕事を手伝っていたという説。あるいは、地元の貴族の家で、家庭教師兼俳優として働いていたという説。さらには、鹿泥棒の罪で故郷を追われ、ロンドンに逃れたという、後世に生まれた伝説もあります。また、大陸に渡って兵士として従軍していたのではないか、という説さえあります。
これらの説にはいずれも確たる証拠はありません。しかし、確かなことは、この「失われた数年間」の間に、シェークスピアは、地方都市の一人の若者から、ロンドンの演劇界で活動するプロの俳優兼劇作家へと、大きな変貌を遂げたということです。彼がどのような経緯で旅回りの劇団に加わり、演劇の世界に足を踏み入れ、そして首都ロンドンを目指すことになったのか。その具体的な道のりは、今となっては知る由もありません。しかし、彼が次に歴史の舞台に登場する時、彼はすでに、その才能を嫉妬されるほどの、新進気鋭の劇作家として、ロンドンの演劇シーンに確かな足跡を記し始めていたのです。
ロンドンの劇作家:エリザベス朝演劇界の寵児へ

1580年代後半から1590年代初頭にかけて、ウィリアム=シェークスピアは、故郷ストラットフォードを離れ、急速に発展しつつあったイングランドの首都ロンドンへとその活動の拠点を移しました。当時のロンドンは、人口が急増し、商業と文化が花開く、活気に満ちた大都市でした。そして、その文化の中心にあったのが、常設劇場が次々と建設され、あらゆる階層の人々を熱狂させていた、プロの演劇でした。この喧騒と興奮に満ちた世界で、シェークスピアは俳優として、そして何よりも劇作家として、その類稀なる才能を開花させていくことになります。
ロンドン演劇界への登場とロバート=グリーンからの嫉妬

シェークスピアがロンドンで劇作家として活動していたことを示す、最初の確実な証拠は、1592年に出版された、ロバート=グリーンという劇作家の遺稿『三文の知恵』の中にあります。グリーンは、オックスフォードとケンブリッジの両大学で学んだ「大学才人派」と呼ばれるエリート劇作家の一人でしたが、放蕩の末に貧困のうちに亡くなりました。
この死後に出版されたパンフレットの中で、グリーンは、同輩の劇作家たちに対して、俳優上がりの成り上がり者たちに用心するようにと警告しています。彼は、その中でも特に一人の人物を名指しこそしていないものの、明らかにシェークスピアを指して、次のように痛烈に非難しています。
「…役者の皮を被った、我々の羽毛で美しく着飾った、成り上がりのカラスがいる。彼は、『虎の心を持ちながら、役者の皮を被っている』。そして、諸君のうちの最良の者と同じように、ブランクヴァース(弱強五歩格の無韻詩)を滔々とまくしたてることができると自惚れている。そして、彼は自分こそが、この国で唯一の『舞台を揺るがす者(Shake-scene)』であると信じ込んでいる、全くの何でも屋なのだ。」
この文章は、シェークスピア研究において極めて重要な意味を持っています。まず、「虎の心を持ちながら、役者の皮を被っている」という一節は、シェークスピアの初期の歴史劇『ヘンリー六世 第3部』に出てくるセリフ「おお、虎の心を持ちながら、女の皮を被っている」をもじったものです。これは、1592年の時点で、すでに『ヘンリー六世』が上演され、シェークスピアの作品として知られていたことを示唆しています。
また、「舞台を揺るがす者(Shake-scene)」という言葉は、シェークスピア(Shakespeare)という姓にかけた、あからさまな当てこすりです。そして、「我々の羽毛で美しく着飾った」という表現は、シェークスピアが、グリーンら大学教育を受けた先輩作家たちのスタイルを盗んで、自分の名声を得ているという非難です。
この嫉妬と軽蔑に満ちた文章は、逆説的に、シェークスピアがこの時期、すでに俳優としてだけでなく、劇作家としても大きな成功を収め、先輩の作家たちを脅かすほどの存在になっていたことを雄弁に物語っています。大学教育を受けていない地方出身の「成り上がり」が、自分たちエリート作家の領域を侵していることに対する、グリーンの苛立ちがはっきりと見て取れます。
初期の作品群:歴史劇、喜劇、そして悲劇の萌芽

1592年のグリーンの言及から、シェークスピアがそれ以前から劇作活動を行っていたことは確実です。彼の初期の作品群は、1590年代初頭から半ばにかけて書かれたと考えられており、そのジャンルは多岐にわたります。
この時期、彼が特に力を注いだのが、イングランドの歴史に基づいた歴史劇のジャンルでした。薔薇戦争の動乱を描いた『ヘンリー六世』三部作と、その続編にあたる『リチャード三世』は、壮大なスケールと、魅力的な悪役リチャード三世の強烈なキャラクターによって、観客から熱狂的な支持を得ました。これらの作品は、テューダー朝の正統性を称揚するという政治的な意図を持ちつつも、権力闘争の非情さや、人間の野心の恐ろしさを描き出し、シェークスピアの劇作家としての力量を世に知らしめました。
同時に、彼はローマの古典喜劇に倣った、軽快な喜劇も執筆しています。プラウトゥスの戯曲を翻案した『間違いの喜劇』は、双子の取り違えが巻き起こすドタバタ劇であり、彼の構成能力の高さを示しています。また、イタリアの恋愛物語に材をとった『ヴェローナの二紳士』や、才気煥発な女性たちが男性を手玉に取る『恋の骨折り損』なども、この時期の作品です。これらの喜劇では、機知に富んだ言葉の応酬、変装、そして愛の成就という、後のシェークスピア喜劇の基本的な要素が見られます。
さらに、この時期には、彼の最初の悲劇とされる『タイタス=アンドロニカス』も書かれました。これは、古代ローマを舞台にした、復讐に次ぐ復讐が繰り広げられる、極めて残虐で血なまぐさい、いわゆる「流血悲劇」です。その過激な暴力描写は、現代の観客には衝撃的かもしれませんが、当時のロンドンの観客には大変な人気を博しました。
パトロンと詩集の出版:ペスト禍の中での活動

1592年の夏から1594年の春にかけて、ロンドンは深刻なペストの流行に見舞われました。感染の拡大を防ぐため、当局は劇場を閉鎖する命令を繰り返し出しました。これにより、劇団は活動の場を失い、多くの俳優や劇作家が経済的な苦境に陥りました。
劇場での収入が途絶えたこの時期、シェークスピアは、新たな活動の道を模索します。彼は、当時、野心的な詩人が名声と経済的支援を得るための常套手段であった、有力な貴族をパトロンと仰ぎ、その人物に詩集を捧げるという方法を選びました。
シェークスピアがパトロンとして選んだのは、若く、美しく、そして芸術の庇護者として知られていた、サウサンプトン伯ヘンリー=リズリーでした。1593年、シェークスピアは、オウィディウスの物語に基づいた、官能的な長編物語詩『ヴィーナスとアドーニス』を出版し、サウサンプトン伯に献呈しました。この詩は、女神ヴィーナスが美少年アドーニスに寄せる、ほとんど暴力的なまでの恋情を描いたもので、その洗練された文体とエロティックな内容で、大きな評判を呼び、ベストセラーとなりました。
翌1594年には、第二の物語詩『ルークリース凌辱』を出版し、これもサウサンプトン伯に捧げました。前作とは対照的に、この詩は、古代ローマの貞淑な貴婦人ルークリースが王子によって凌辱され、自害を遂げるという、暗く悲劇的なテーマを扱っています。献辞の言葉は、前作よりもはるかに親密さを増しており、シェークスピアとサウサンプトン伯の間に、単なる詩人とパトロンという以上の、緊密な関係が築かれていたことを示唆しています。
この二つの詩集の成功は、シェークスピアに、劇作家としてだけでなく、宮廷風の洗練された詩人としての名声をもたらしました。そして、ペストの流行が終息し、劇場が再開される頃には、彼はロンドンの演劇界における、確固たる地位を築き上げていたのです。
宮内大臣一座とグローブ座:劇団人としての成功

1594年は、ウィリアム=シェークスピアのキャリアにおいて、決定的な転換点となる年でした。ペストの流行が終息し、ロンドンの劇場が本格的に再開されると、演劇界は再編成の時期を迎えました。この年、シェークスピアは、イングランドで最も有力な劇団の一つである「宮内大臣一座」の創設メンバーとなり、劇作家としてだけでなく、俳優、そして劇団の株主(共同経営者)として、その後の彼の人生の基盤となる、安定した活動の場を得ることになります。
宮内大臣一座の結成と株主としてのシェークスピア

エリザベス朝時代の劇団は、有力な貴族をパトロンとすることで、法的な保護と社会的な信用を得ていました。宮内大臣一座は、その名の通り、女王エリザベス一世の宮廷で式部卿を務める、初代ハンズドン男爵ヘンリー=ケアリーをパトロンとする劇団でした。この劇団は、当時の演劇界で最高の俳優たちを結集させた、オールスター的な集団でした。その中には、悲劇俳優として名高いリチャード=バーベッジや、道化役者として絶大な人気を誇ったウィル=ケンプなどが含まれていました。
1595年3月の宮廷の会計記録には、シェークスピアが、バーベッジ、ケンプと共に、前年のクリスマスシーズンに女王の前で二つの喜劇を上演したことに対する報酬を受け取った、という記載があります。これは、シェークスピアが、単に劇団に戯曲を提供する外部の作家ではなく、劇団の中核をなす、経営にも関わる重要人物であったことを示す、最初の公式な記録です。
劇団の株主になるということは、シェークスピアにとって、経済的に大きな意味を持っていました。それまでの劇作家は、戯曲を一本いくらで劇団に売り渡すのが一般的で、その収入は不安定でした。しかし、株主となることで、彼は劇団の興行収入から、一定の割合の配当金を得ることができるようになりました。彼の戯曲が人気を博せば博すほど、劇団の収益は上がり、それは直接、彼自身の収入の増加につながりました。この安定した収入源こそが、彼が故郷ストラットフォードで不動産を次々と購入し、裕福な紳士としての地位を築くことを可能にしたのです。
シェークスピアは、この宮内大臣一座(後の国王一座)のために、そのキャリアの最後まで、ほぼ専属の劇作家として戯曲を書き続けることになります。彼は、バーベッジの劇的な演技や、ケンプのコミカルな才能を念頭に置いて、いわば「当て書き」をすることができました。この劇団という安定した共同体との密接な関係が、彼の創作活動にとって、極めて重要な基盤となったことは間違いありません。
四大喜劇と円熟期の歴史劇

宮内大臣一座の座付き作家として、シェークスピアは、1590年代後半、その才能を完全に開花させ、次々と傑作を生み出していきます。この時期は、彼のキャリアにおける、一つの黄金時代と見なされています。
彼は、喜劇というジャンルにおいて、新たな高みに到達しました。夢幻的な森を舞台に、妖精と貴族、そして職人たちの三つの世界が交錯する『夏の夜の夢』。才気と機知に富む女性ベアトリスと、独身主義者のベネディックの間の、機知に富んだ恋愛合戦を描く『空騒ぎ』。男装の麗人ロザリンドが、アーデンの森で愛の試練を繰り広げる『お気に召すまま』。そして、男装したヒロイン、ヴァイオラが巻き起こす、切なくも美しい恋の狂騒劇『十二夜』。これらの作品は、しばしば「四大喜劇」と呼ばれ、シェークスピア喜劇の頂点をなすものとされています。これらの作品に共通しているのは、魅力的なヒロイン、機知に富んだ言葉の応酬、そして愛の成就がもたらす祝祭的な雰囲気です。
同時に、彼は歴史劇の分野でも、新たな傑作を生み出しました。放蕩息子のハル王子(後のヘンリー五世)と、大酒飲みの騎士フォールスタッフとの交流を軸に、王権と友情、そして成長の物語を描いた『ヘンリー四世』二部作は、歴史劇の枠を超えた、人間ドラマの傑作として高く評価されています。特に、フォールスタッフというキャラクターは、シェークスピアが生み出した最も独創的で、生命力にあふれた人物の一人として、絶大な人気を博しました。そして、理想的なキリスト教徒の王として、フランスとの百年戦争を戦い抜くヘンリー五世の姿を描いた『ヘンリー五世』は、愛国的な高揚感に満ちた作品です。
また、この時期には、彼の最も有名で、最も愛されている悲劇『ロミオとジュリエット』も書かれました。敵対する家に生まれた若い恋人たちの、情熱的で、そして破滅的な愛の物語は、その抒情的な詩句の美しさによって、悲劇でありながら、甘美な輝きを放っています。
グローブ座の建設

宮内大臣一座は、当初、ショーディッチ地区にある「シアター座」という劇場を本拠地としていました。しかし、1597年、劇団は、劇場の土地の借地権をめぐって、地主との間に深刻なトラブルを抱えることになります。交渉は決裂し、劇団は本拠地を失う危機に瀕しました。
この危機に際して、劇団の株主たちは、前代未聞の、大胆な行動に出ます。1598年の暮れ、彼らは、大工を雇い、地主との契約が切れたシアター座を解体し、その木材をテムズ川の対岸、サザーク地区のバンクサイドへと運び出したのです。そして、その古材を利用して、新たな劇場を建設しました。これが、演劇史上最も有名と言っても過言ではない劇場、「グローブ座」です。
1599年に完成したグローブ座は、宮内大臣一座が自ら所有し、運営する劇場でした。シェークスピアも、この新しい劇場の株主の一人として、建設に出資しました。これにより、彼の収入はさらに安定し、増加することになりました。彼は、もはや単なる劇作家や俳優ではなく、ロンドンで最も成功した劇場の共同経営者となったのです。
この八角形(あるいは円形)の、屋根のない野外劇場は、その後のシェークスピアの創作活動の拠点となりました。『ハムレット』、『オセロー』、『リア王』、『マクベス』といった、彼の最も偉大な悲劇群は、すべてこのグローブ座の舞台で、リチャード=バーベッジら、気心の知れた仲間たちの演技によって、初めて生命を吹き込まれたのです。シェークスピアの戯曲の多くは、このグローブ座の特定の舞台構造(例えば、張り出し舞台や、バルコニー、舞台下の空間など)を効果的に利用するように書かれています。
この宮内大臣一座という共同体と、グローブ座という自らの劇場を得たことで、シェークスピアは、劇作家として、またビジネスマンとして、その成功を不動のものとしました。しかし、その公的な成功の裏側では、彼の私生活において、深い悲しみが訪れようとしていました。
私生活における悲劇と四大悲劇の時代

1590年代後半から1600年代初頭にかけて、ウィリアム=シェークスピアは、劇作家として、また劇団の共同経営者として、そのキャリアの頂点を極めつつありました。彼の名はロンドン中に知れ渡り、その経済的な成功は、彼が故郷ストラットフォードで「紳士」としての地位を確立することを可能にしました。しかし、この公的な成功の輝かしい光の裏側で、彼の私生活は、深い影に覆われていました。家族との別離、そして愛する息子の死という個人的な悲劇は、この時期に書かれた、彼の最も深遠で、最も暗い傑作群、すなわち「四大悲劇」と分かちがたく結びついているように見えます。
ストラットフォードでの地位確立と息子の死

ロンドンでの成功によって得た富を、シェークスピアは、故郷ストラットフォードへの投資に注ぎ込みました。彼は、もはや単なる手袋職人の息子ではなく、成功したロンドンのビジネスマンとして、故郷に錦を飾ることを望んだのです。
1596年、父ジョンに代わって、シェークスピアは紋章院に家紋の授与を申請し、これが認められました。これにより、シェークスピア家は、法的に「紳士(ジェントルマン)」の家系として認められることになりました。これは、当時、社会的地位の上昇を望む人々にとって、極めて重要な意味を持つものでした。
翌1597年、彼は、ストラットフォードで二番目に大きな邸宅である「ニュー=プレイス」を、多額の現金で購入しました。この広大な家屋は、彼の成功の象徴であり、彼が引退後に暮らすための場所となりました。その後も彼は、ストラットフォード周辺の土地や、穀物などの十分の一税を徴収する権利を次々と購入し、抜け目のない投資家として、その資産を増やしていきました。
しかし、この社会的成功のさなかに、シェークスピアの家庭を、取り返しのつかない悲劇が襲います。1596年8月、彼の唯一の息子であったハムネットが、11歳という若さで亡くなったのです。その死因は記録されていませんが、当時のイングランドでは、子供の死亡率は非常に高く、疫病などで命を落とすことは決して珍しいことではありませんでした。
シェークスピアが、息子の死に際に立ち会うことができたのか、あるいはロンドンにいて、その悲報を手紙で受け取ったのかは分かっていません。しかし、自らの名前と家系を継ぐはずだった、唯一の男子を失った彼の悲しみが、いかほどのものであったかは、想像に難くありません。多くの批評家は、この経験が、彼のその後の作品に深い影響を与えたと指摘しています。特に、数年後に書かれた悲劇『ハムレット』の主人公の名前が、亡き息子の名前と酷似していることは、偶然とは考えにくいものです。また、『ジョン王』の中で、世継ぎのアーサー王子を失った母コンスタンスが嘆き悲しむ場面は、シェークスピア自身の悲痛な叫びが反映されているかのようです。
四大悲劇の森へ:『ハムレット』、『オセロー』、『リア王』、『マクベス』

1601年の父ジョンの死、そして1603年のパトロンであったエリザベス一世の死を経て、イングランドはジェームズ一世の時代を迎えます。シェークスピアの劇団、宮内大臣一座は、新しい国王ジェームズ一世を直接のパトロンとすることになり、「国王一座」と改称されました。これは、彼らがイングランドで最も権威ある劇団であることを、公的に示すものでした。
この1601年から1608年頃にかけての時期、シェークスピアは、それまでの喜劇や歴史劇とは一線を画す、人間の存在の根源を問う、暗く、深遠な悲劇作品を次々と発表しました。これらの作品群は、彼の創作活動の頂点をなすものと見なされています。
その口火を切ったのが、おそらく演劇史上最も有名な作品である『ハムレット』(1601年頃)です。父王を毒殺し、母を娶った叔父クローディアスへの復讐を誓う、デンマークの王子ハムレットの物語。しかし、彼は「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」という有名な独白に象徴されるように、憂鬱と懐疑に苛まれ、行動を遅延させ続けます。この作品は、復讐劇という枠組みを超えて、死、狂気、欺瞞、そして人間の存在の不確かさといった、普遍的なテーマを探求しています。
続く『オセロー』(1604年頃)は、ヴェネツィアのムーア人将軍オセローが、腹心の部下イアーゴーの巧妙な嘘によって、貞淑な妻デズデモーナの不貞を信じ込み、嫉妬の狂気に駆られて彼女を殺害し、そして自らも命を絶つという、息詰まるような家庭悲劇です。イアーゴーという、動機なき悪意の化身のようなキャラクターは、シェークスピアが生み出した最も恐ろしい悪役の一人です。
『リア王』(1605年頃)は、老王リアが、三人の娘たちの愛情を試そうとして、甘言を弄した上の娘二人に国を分け与え、真実を語った末娘コーディリアを勘当してしまうことから始まる、壮大な悲劇です。娘たちに裏切られ、全てを失って荒野をさまようリアの姿は、人間の愚かさと、自然の無慈悲さ、そして極限状況における人間の尊厳を、圧倒的な迫力で描き出します。
そして、『マクベス』(1606年頃)は、魔女の予言にそそのかされたスコットランドの将軍マクベスが、王を暗殺して王位を簒奪し、その後、血に次ぐ血の粛清を重ねて、自らも破滅していくという、権力への野心がもたらす罪と罰の物語です。超自然的な要素と、緊迫した心理描写が融合した、シェークスピアの悲劇の中でも、最も凝縮され、最も疾走感のある作品です。
これらの「四大悲劇」に共通しているのは、主人公たちが、自らの性格上の欠陥(悲劇的欠陥)や、判断の誤りによって、秩序ある世界から混沌と狂気の世界へと転落し、最終的に破滅的な結末を迎えるという構造です。そこには、もはや初期の喜劇に見られたような、愛の成就による祝祭的な解決はありません。世界は不条理で、人間は孤独であり、救いは容易には見出されません。息子の死という個人的な悲劇が、シェークスピアの世界観にどれほどの影響を与えたのかを正確に測ることはできませんが、この時期の彼の目が、人間存在の最も暗い深淵に向けられていたことは、確かです。
晩年の作品とストラットフォードへの帰還

1608年頃を境として、ウィリアム=シェークスピアの作風には、再び大きな変化が見られます。四大悲劇の暗く厳しい世界から、彼は、和解と再生、そして奇跡といったテーマを探求する、新たなジャンルの作品へと向かっていきました。これらの晩年の作品群は「ロマンス劇」と呼ばれ、彼の劇作家としてのキャリアの、穏やかで円熟した最終章を飾るものとなります。そして、ロンドンでの華々しい成功の物語は、静かに故郷ストラットフォードへと回帰し、その幕を閉じることになります。
ロマンス劇の時代:『冬物語』と『テンペスト』

シェークスピアの晩年の作品群、すなわち『ペリクリーズ』(共作の可能性が高い)、『シンベリン』、『冬物語』、そして『テンペスト』は、悲劇でも喜劇でもない、独特の雰囲気を持っています。これらの作品は、悲劇的な出来事、例えば、家族の離散、嫉妬による迫害、そして子供の喪失といったテーマを含みながらも、最終的には、長い年月を経た後に、奇跡的な再会や和解がもたらされ、失われたものが回復されるという、幸福な結末を迎えます。その物語は、しばしば非現実的で、おとぎ話のような要素(神託、死んだはずの人物の復活、魔法など)を含んでいます。
この作風の変化の背景には、いくつかの要因が考えられます。一つは、当時の演劇界の流行の変化です。ジェームズ一世の宮廷では、ベン=ジョンソンらが手がける、精巧な舞台装置と音楽、舞踊を駆使した「仮面劇(マスク)」が人気を博していました。また、フランシス=ボーモントとジョン=フレッチャーのコンビが書く、悲喜劇(トラジコメディ)も、新たな流行となっていました。シェークスピアも、こうした新しい演劇の潮流に敏感に反応し、自らの作品に取り入れたのかもしれません。
また、国王一座が、1608年から、グローブ座という野外劇場に加えて、ブラックフライアーズ座という、完全な屋内劇場を新たな本拠地として使い始めたことも、大きな影響を与えたと考えられます。ブラックフライアーズ座は、裕福な観客層を対象とした、より洗練された劇場でした。蝋燭による人工照明が可能であったため、夜の場面や、幻想的な雰囲気を演出することが容易になり、音楽や特殊効果も、より効果的に使うことができました。ロマンス劇に見られる奇跡的でスペクタクルな場面は、この新しい劇場の特性を活かしたものであった可能性があります。
このロマンス劇の時代を代表する傑作が、『冬物語』(1610年頃)と『テンペスト』(1611年頃)です。
『冬物語』は、シチリア王レオンティーズが、何の根拠もなく、妻ハーマイオニと親友であるボヘミア王ポリクシニーズの不貞を疑い、嫉妬の狂気に駆られて妻と生まれたばかりの娘を死に追いやるという、悲劇的な前半から始まります。しかし、物語は16年の歳月を経て、ボヘミアの牧歌的な田園風景へと舞台を移します。捨てられた王女パーディタは、羊飼いの娘として美しく成長し、ポリクシニーズの息子フロリゼルと恋に落ちます。物語の最後には、奇跡的な出来事が起こり、死んだと思われていたハーマイオニが彫像の中から生き返り、レオンティーズは自らの過ちを悔い、家族は再会を果たします。この作品は、嫉妬と専制がもたらす破壊と、時間と自然、そして若い世代の愛がもたらす再生という、壮大なテーマを描いています。
そして、『テンペスト』(1611年頃)は、シェークスピアが単独で執筆した、最後の戯曲であると考えられています。この作品の主人公は、ミラノ大公の位を弟に奪われ、娘ミランダと共に孤島に流された、魔法使いのプロスペローです。彼は、復讐の機会をうかがい、魔法の力で嵐(テンペスト)を呼び起こし、弟やその共犯者であるナポリ王らを乗せた船を、自らの島に難破させます。しかし、物語の終わりで、プロスペローは、復讐を放棄し、敵たちを赦すことを選びます。そして、彼は自らの魔法の力を捨て、魔法の杖を折り、魔法の書を海の底に沈めると宣言し、一人の人間として、かつての故郷ミラノへと帰っていくことを決意します。
このプロスペローの姿は、しばしば、劇作家としてのキャリアを終え、自らの創造の力を手放して、故郷ストラットフォードへと引退していくシェークスピア自身の姿と重ね合わせて解釈されてきました。彼が舞台に向かって語りかける最後のエピローグは、観客の拍手によって自らを解放してほしいと願う、劇作家の感動的な告別の辞として読むことができます。
ストラットフォードへの帰還と最期

1611年頃を境に、シェークスピアの劇作活動は、明らかにペースダウンします。彼は、ジョン=フレッチャーといった、若い世代の劇作家といくつかの作品(『ヘンリー八世』、『二人の貴公子』など)を共作しますが、ロンドンの演劇界の第一線からは、徐々に身を引いていったようです。彼は、ますます多くの時間を、故郷ストラトフォードの邸宅ニュー=プレイスで過ごすようになり、ロンドンの借家を引き払って、事実上の引退生活に入ったと考えられています。
彼は、もはやロンドンの劇作家ではなく、ストラットフォードの裕福な名士、ウィリアム=シェークスピア紳士として、晩年を過ごしました。彼は、地元の教会の修繕に寄付をしたり、囲い込み計画をめぐる地元の争議に関わったりと、町の有力者としての日々を送っていました。
1616年3月25日、シェークスピアは、自らの遺言書に署名します。この遺言書は、彼の死期が近いことを予期して作成されたもので、彼の財産の分配について、詳細な指示を与えています。彼の財産の大部分は、長女のスザンナとその夫で医師のジョン=ホールに相続されることになっていました。次女のジュディスにも相応の遺産が残されましたが、その結婚相手であるトマス=クワイニーの素行に問題があったためか、厳しい条件が付けられていました。
この遺言書の中で、最も有名で、そして最も多くの議論を呼んできたのが、妻アン=ハサウェイに残された遺産に関する一節です。「私は、妻に、二番目に良いベッドと、それに付属する家具一式を遺贈する」。この記述をめぐっては、様々な解釈がなされてきました。ある者は、これを、夫婦仲が冷え切っていたことの証拠であり、妻に対する侮辱であると見なしました。家の主人が客をもてなすために使う「一番良いベッド」ではなく、「二番目に良いベッド」、すなわち夫婦の寝室で使っていたベッドを遺すというのは、ほとんど皮肉に等しい、と。
しかし、別の解釈によれば、これは侮辱どころか、むしろ愛情のこもった、個人的な思い出の品を贈る行為であったとも考えられます。当時の法では、寡婦は夫の財産の三分の一と、その家に住み続ける権利を自動的に保障されていました。そのため、遺言書で妻の生活保障について詳述する必要はなかったのです。その上で、あえて夫婦の思い出が詰まった寝台を特定して遺贈することは、法的な手続きを超えた、個人的な愛情の表現であった可能性もあります。他の多くの記録と同様、この一節もまた、シェークスピアの私生活の真実を、謎の向こうに隠してしまっています。
遺言書に署名してから約一ヶ月後の1616年4月23日、ウィリアム=シェークスピアは、その生涯を閉じました。奇しくも、それは、彼が生まれた日とされるのと同じ日付でした。享年52歳。その死因については、地元の牧師の日記に、詩人のベン=ジョンソンらと酒を飲み交わし、その後に発熱して亡くなった、という後年の伝聞が記されているのみで、確かなことは分かっていません。
彼は、ストラットフォードのホーリー=トリニティ教会の内陣に、丁重に埋葬されました。これは、彼が町の十分の一税の権利を所有していたことによる、名士としての特権でした。彼の墓石には、自らの亡骸が動かされることを恐れて、次のような呪いの言葉が刻まれています。
「良き友よ、イエスの名にかけて、ここに葬られし塵を掘り起こすことなかれ。この石に触れぬ者に祝福あれ、我が骨を動かす者に呪いあれ。」
死後の名声と『ファースト=フォリオ』

シェークスピアは、その死の時点で、すでに当代で最も成功した劇作家の一人として、広く名を知られていました。しかし、彼が今日のような、時代と国境を超えた不滅の文学的巨人と見なされるようになるのは、彼の死後のことでした。
その名声を決定的なものとしたのが、1623年に出版された、彼の戯曲全集『ウィリアム=シェークスピア氏の喜劇、歴史劇、悲劇』です。これは、今日『ファースト=フォリオ』として知られる、記念碑的な書物です。この戯曲集は、シェークスピアのかつての仲間であり、国王一座の俳優であったジョン=ヘミングスとヘンリー=コンデルによって、亡き友への追悼の意を込めて編纂されました。
当時、戯曲は、上演のための台本と見なされており、文学作品としての価値は低いと考えられていました。多くは、安価な四つ折りの冊子(クォート版)として、海賊版も横行する形で出版されるか、あるいは全く印刷されないまま失われていきました。もし、この『ファースト=フォリオ』が編纂されなければ、『マクベス』、『十二夜』、『テンペスト』、『ジュリアス=シーザー』など、彼の作品の約半数にあたる18作品は、永遠に失われていたと考えられています。
この全集の序文で、ライバルであり友人でもあった劇作家ベン=ジョンソンは、シェークスピアを称えて、次のような有名な言葉を寄せています。「彼は、一つの時代の人間ではなく、すべての時代の人間である」。この言葉は、まさにその後の歴史によって証明されることになりました。
ストラットフォードの一商人の息子として生まれ、ロンドンの喧騒の中でその才能を開花させ、国王一座の株主として成功を収め、そして故郷の名士としてその生涯を閉じた、ウィリアム=シェークスピア。彼の生涯は、記録の断片から浮かび上がる、一つの驚くべき成功物語です。しかし、その公的な記録の背後にある、彼の内面の世界、その喜びも苦悩も、私たちにはほとんど知ることができません。彼が私たちに残してくれたのは、彼自身の人生の物語ではなく、彼が生み出した、ハムレットやリア王、ロザリンドやフォールスタッフといった、数え切れないほどの登場人物たちの、尽きることのない豊かな物語の世界なのです。そして、その作品の中にこそ、私たちは、四世紀の時を超えて、ウィリアム=シェークスピアという人間の、最も深く、最も真実の姿を見出すことができるのかもしれません。

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