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フィレンツェとは わかりやすい世界史用語2486
著作名: ピアソラ
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フィレンツェとは

ルネサンス期フィレンツェの物語は、単に芸術の開花や学問の復興といった文化的な現象に留まるものではありません。それは、中世末期のヨーロッパが直面していた深刻な危機と、それに立ち向かったフィレンツェ市民の強靭な精神が織りなす、複雑でダイナミックな社会変革の歴史そのものです。14世紀、ヨーロッパはペストの大流行、百年戦争、そして教皇庁の分裂といった未曾有の困難に見舞われ、旧来の封建社会とキリスト教的価値観は大きく揺らいでいました。このような混沌とした時代の中で、フィレンツェは独自の道を歩み始めます。その原動力となったのは、毛織物工業と国際金融業によって築かれた強固な経済基盤でした。アルノ川のほとりに位置するこの都市国家は、ヨーロッパ全土に広がる交易網を駆使し、莫大な富を蓄積しました。この経済的繁栄は、商人や銀行家といった新たな市民階級の台頭を促し、彼らはギルドと呼ばれる同業者組合を結成して都市の政治・経済に強い影響力を持つようになります。
フィレンツェの政治体制は、共和制を標榜していましたが、その実態は常に不安定で、有力な一族間の権力闘争が絶えませんでした。特に、教皇派と皇帝派の対立は、都市を二分する深刻な抗争に発展しました。しかし、この絶え間ない政治的緊張と競争こそが、皮肉にもフィレンツェの活力を生み出す源泉となりました。市民たちは、自らの都市の自由と独立を守るため、古代ローマ共和国の理想に精神的な支柱を求めました。彼らは、キケロのような古代の著述家が説いた「市民的人文主義」の思想に深く共鳴し、公共への奉仕、市民的徳、そして自由の価値を称揚しました。この思想は、単なる政治理念に留まらず、フィレンツェの市民生活のあらゆる側面に浸透し、芸術や学問のパトロン活動へと結びついていきました。富裕な商人や銀行家たちは、自らの富を公共建築や教会の装飾、学者の支援に投じることを、市民としての義務であり名誉であると考えたのです。
14世紀末から15世紀初頭にかけて、フィレンツェはミラノ公国のジャン=ガレアッツォ=ヴィスコンティによる侵略の脅威に晒されます。この危機に直面したフィレンツェ市民は、共和制の自由を守るために団結し、激しい抵抗を繰り広げました。この闘争は、フィレンツェ市民の愛国心と共同体意識を一層強固なものにし、彼らの文化的なアイデンティティを形成する上で決定的な役割を果たしました。レオナルド=ブルーニのような人文主義者たちは、この闘争を古代アテネがペルシアの専制君主に対して自由を守った戦いになぞらえ、フィレンツェを「新しいアテネ」として称賛しました。このように、ルネサンス期フィレンツェの黎明は、経済的繁栄、政治的闘争、そして市民的人文主義という三つの要素が複雑に絡み合いながら、来るべき文化の黄金時代への土壌を育んでいったのです。それは、中世の神中心の世界観から、人間とその理性を中心に据える新しい時代への移行を告げる、力強い胎動でした。



メディチ家の支配と黄金時代

フィレンツェ=ルネサンスの黄金時代は、メディチ家の名と分かちがたく結びついています。この一族は、銀行業で築いた莫大な富を巧みに利用し、フィレンツェの政治的実権を掌握しました。その支配の礎を築いたのが、コジモ=イル=ヴェッキオ(「老コジモ」)です。彼は、公的な役職に就くことなく、非公式な影響力と広範な人的ネットワークを通じて都市を支配するという、巧妙な政治手法を確立しました。コジモは、自らを「市民の中の第一人者」として位置づけ、共和制の体裁を維持しながら、実質的な君主として振る舞いました。彼の権力基盤は、メディチ銀行の顧客や支援者からなる広範な支持層であり、彼は彼らに融資や便宜を図ることで、その忠誠心を確保しました。
コジモの真の偉大さは、その政治的手腕だけでなく、文化に対する深い理解と情熱にもありました。彼は、フィレンツェをヨーロッパ随一の文化都市へと変貌させるという壮大なビジョンを抱いていました。その実現のため、彼は芸術家や人文主義者たちに対して、惜しみない支援を行いました。建築家フィリッポ=ブルネレスキによるサンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂の巨大なクーポラの建設は、コジモのパトロネージを象徴する事業です。この技術的に困難なプロジェクトは、フィレンツェの技術力と芸術的野心の象徴となり、都市の誇りを大いに高めました。また、彼は彫刻家ドナテッロの主要なパトロンでもあり、その依頼によって制作されたブロンズの「ダヴィデ像」は、ルネサンス彫刻における最初の自立した男性裸体像として、美術史に画期的な一歩を記しました。さらに、コジモはプラトン哲学に深い関心を寄せ、マルシリオ=フィチーノを支援してプラトン=アカデミーを設立させました。このアカデミーは、古代ギリシャ哲学の研究とキリスト教神学の統合を目指す新プラトン主義の拠点となり、ルネサンスの知的風景に深遠な影響を与えました。
コジモの孫であるロレンツォ=デ=メディチは、「イル=マニーフィコ(偉大なる人)」と称され、メディチ家の栄光を頂点に導きました。ロレンツォ自身も優れた詩人であり、鋭い審美眼を持つ彼は、祖父以上に情熱的に芸術家たちを支援しました。彼の宮廷には、サンドロ=ボッティチェリ、レオナルド=ダ=ヴィンチ、ミケランジェロ=ブオナローティといった、ルネサンスを代表する巨匠たちが集いました。ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」や「ヴィーナスの誕生」といった神話画は、ロレンツォの宮廷で花開いた新プラトン主義的な美の理想と知的洗練を体現しています。ロレンツォは、若きミケランジェロの才能をいち早く見抜き、彼を自らの邸宅に住まわせ、家族同然に育てました。この環境の中で、ミケランジェロはメディチ家が収集した古代彫刻に触れ、その才能を開花させていきました。
ロレンツォはまた、卓越した外交手腕を発揮し、イタリア諸国間の勢力均衡を維持することで、フィレンツェに平和と安定をもたらしました。彼の時代、フィレンツェは文字通りイタリア半島の文化と政治の中心地として輝きました。しかし、その華やかな治世の背後では、メディチ銀行の経営が悪化し、一族の権力基盤には陰りが見え始めていました。1478年のパッツィ家の陰謀は、メディチ家の支配に対する根強い反発が存在することを示しており、ロレンツォ自身もこの事件で弟ジュリアーノを失い、自らも負傷しました。ロレンツォ=イル=マニーフィコの死後、メディチ家の支配は急速に揺らぎ始め、フィレンツェは新たな混乱の時代へと突入していくことになります。しかし、彼らが築き上げた文化的な遺産は、フィレンツェの黄金時代を象徴するものとして、後世に不滅の輝きを放ち続けるのです。
芸術の革新:ブルネレスキ、ドナテッロ、マザッチョから盛期ルネサンスの巨匠たちへ

ルネサンス期のフィレンツェで起こった芸術の革新は、西洋美術の歴史における決定的な転換点でした。それは、中世の平面的で象徴的な表現から脱却し、現実世界を理性的かつ科学的な視点で捉え、三次元空間の中に人間をリアルに描き出すという、革命的な変化でした。この変革の先駆者となったのが、建築家フィリッポ=ブルネレスキ、彫刻家ドナテッロ、そして画家マザッチョという三人の天才です。
初期ルネサンスの三巨匠

フィリッポ=ブルネレスキは、単なる建築家ではなく、数学や工学にも通じた万能の天才でした。彼の最大の功績は、絵画における線遠近法の発明と、サンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂のクーポラ建設です。線遠近法は、二次元の平面上に三次元の空間を数学的に正確に再現する画期的な技法であり、その後の西洋絵画の空間表現を根本から変えました。ブルネレスキは、フィレンツェの洗礼堂を描いた実験的なパネル画を通じて、この技法の有効性を証明したと言われています。彼の建築においても、この数学的な秩序と合理性が貫かれています。サント=スピリト聖堂やサン=ロレンツォ聖堂の設計に見られる、明快な比例関係と古典的な建築語彙の使用は、ゴシック建築の神秘的な複雑さとは対照的に、人間の理性が把握可能な調和のとれた空間を創造しようとするルネサンスの精神を体現しています。そして、彼の技術と創造性の集大成である大聖堂のクーポラは、古代ローマのパンテオン以来、最大のドーム建築であり、その建設は当時の技術水準を遥かに超える挑戦でした。ブルネレスキは、二重殻構造や魚の骨のような煉瓦の積み方といった革新的な工法を考案し、この難事業を成し遂げました。このクーポラは、フィレンツェのスカイラインを決定づける象徴であると同時に、人間の知性と創造力が神の領域に迫りうることを示した、ルネサンス精神のモニュメントとなったのです。
ドナテッロは、彫刻の世界に革命をもたらしました。彼は、古代ローマ彫刻の力強さとリアリズムを復活させ、それにキリスト教的な精神性と人間的な感情の深みを融合させました。彼の作品は、中世の彫刻がしばしば持っていた硬直した形式性から解放され、生命感と心理的な深みに満ちています。彼の初期の傑作であるオルサンミケーレ聖堂の壁龕のための「聖ゲオルギウス像」は、英雄的な決意を内に秘めた若き聖人の姿を、かつてないほどのリアリズムで捉えています。そして、メディチ家の依頼で制作されたブロンズの「ダヴィデ像」は、西洋美術史における画期的な作品です。ゴリアテの首を踏みつけ、物憂げな表情で佇むこの若者の裸体像は、古代以来初めての自立した大型ブロンズ裸体像であり、古典的な美の理想と人間的な官能性を見事に融合させています。晩年の作品である木彫の「マグダラのマリア」では、長年の苦行によって衰弱しきった聖女の姿を、容赦ないほどのリアリズムで表現し、観る者の心に深い精神的な衝撃を与えます。ドナテッロは、ブロンズ、大理石、木といった多様な素材を自在に操り、人間の存在の複雑さと尊厳を、力強く、そして感動的に表現したのです。
マザッチョは、わずか27年という短い生涯にもかかわらず、絵画の世界にブルネレスキの遠近法とドナテッロのリアリズムをもたらし、絵画の歴史を塗り替えました。彼の代表作であるフィレンツェのサンタ=マリア=デル=カルミネ聖堂ブランカッチ礼拝堂の壁画群は、「絵画の学校」と呼ばれ、後の世代の多くの画家たちが模写に訪れました。特に「貢の銭」の場面は、ルネサンス絵画の記念碑的な作品です。マザッチョはここで、一つの画面の中に複数の時間軸の出来事を描きながらも、ブルネレスキから学んだ線遠近法を用いて、統一感のあるリアルな空間を創り出しています。人物たちは、まるでドナテッロの彫刻のように、重量感と立体感を持ち、地面にしっかりと立っています。彼らの衣服の襞は、その下の身体の構造を明確に示し、光と影の巧みな使用(キアロスクーロ)が、人物に劇的な存在感を与えています。また、人物たちの表情や身振りは、物語のドラマティックな瞬間における彼らの心理状態を見事に表現しています。サンタ=マリア=ノヴェッラ聖堂にある「聖三位一体」の壁画では、線遠近法を完璧に駆使して、まるで壁の向こうに本物の礼拝堂が存在するかのような錯覚を生み出しました。マザッチョの革新は、絵画を単なる物語の挿絵から、現実世界を再現し、人間のドラマを描き出すための強力な媒体へと昇華させたのです。
盛期ルネサンスへの道

ブルネレスキ、ドナテッロ、マザッチョが切り開いた道は、15世紀後半の芸術家たちによってさらに探求され、発展しました。サンドロ=ボッティチェリは、マザッチョの重量感のあるリアリズムとは対照的に、優美で装飾的な線描と、神話的な主題を好みました。彼の「春」や「ヴィーナスの誕生」は、ロレンツォ=デ=メディチの宮廷で流行した新プラトン主義の哲学を反映しており、美を通じて神的な真理に到達しようとする思想を、寓意的に表現しています。その繊細で詩的な画風は、フィレンツェ=ルネサンスの洗練された側面を象徴しています。
そして15世紀末から16世紀初頭にかけて、フィレンツェはレオナルド=ダ=ヴィンチ、ミケランジェロ=ブオナローティ、そしてラファエロ=サンティという三人の巨匠を生み出し、ルネサンス芸術は「盛期ルネサンス」と呼ばれる頂点を迎えます。レオナルドは、科学的な探究心と芸術的な才能を融合させた万能の天才でした。彼は、解剖学、植物学、地質学といった多岐にわたる分野を研究し、その知見を絵画制作に応用しました。彼が開発した「スフマート(ぼかし技法)」は、輪郭線を曖昧にすることで、人物を柔らかな光と大気の中に溶け込ませ、神秘的な雰囲気を生み出しました。「モナ=リザ」の謎めいた微笑みや、「岩窟の聖母」の幻想的な風景は、彼の科学的知識と芸術的感性の完璧な融合を示しています。
ミケランジェロは、彫刻、絵画、建築のすべてにおいて、人間の肉体を通じて崇高な精神性を表現しようとしました。彼の「ダヴィデ像」は、ドナテッロの作品とは対照的に、戦いの直前の緊張感をみなぎらせた、英雄的な理想美を体現しています。その圧倒的なスケールと解剖学的な正確さは、人間の肉体の可能性を極限まで追求した結果です。システィーナ礼拝堂の天井画では、旧約聖書の壮大な物語を、力強くダイナミックな人体表現を通じて描き出し、神と人間のドラマを圧倒的な迫力で表現しました。
ラファエロは、レオナルドの優雅さとミケランジェロの力強さを学び、それらを調和のとれた完璧な様式へと統合しました。彼の描く聖母子像は、人間的な優しさと神聖な美しさを兼ね備え、後世の宗教画の規範となりました。ヴァチカンの署名の間にある「アテナイの学堂」は、古代ギリシャの哲学者たちを一堂に会させ、ルネサンスの理想である古典的知恵とキリスト教的真理の調和を、壮大な構図の中に描き出しています。
これらの巨匠たちの登場により、芸術家の社会的地位も大きく向上しました。彼らはもはや単なる職人ではなく、知的創造を行う「芸術家」として尊敬されるようになり、その作品は、単なる装飾品ではなく、精神的な価値を持つ芸術作品として高く評価されるようになったのです。フィレンツェで始まった芸術の革新は、やがてローマやヴェネツィアへと広がり、ヨーロッパ全体の美術のあり方を永遠に変えることになりました。
人文主義と学問の復興:古典の再発見から新プラトン主義へ

ルネサンス期フィレンツェの文化的な爆発を支えた知的基盤は、「人文主義(ヒューマニズム)」でした。これは、中世のスコラ哲学が神学的な思弁に終始していたのに対し、人間の理性、尊厳、そして可能性を称揚し、古代ギリシャ=ローマの古典文学や哲学を研究することで、より善く生きるための知恵を学ぼうとする知的運動です。人文主義者たちは、忘れ去られていた古代の写本を修道院の図書館から探し出し、それらを校訂、翻訳、注釈することで、古典の知識を甦らせました。
市民的人文主義の誕生

この運動の先駆者となったのが、詩人フランチェスコ=ペトラルカです。彼は、古代ローマの著述家キケロを深く敬愛し、その雄弁術と市民としての生き方に、人間性の理想を見出しました。ペトラルカは、古典研究を通じて個人の内面的な完成を目指しましたが、15世紀初頭のフィレンツェでは、この人文主義がより実践的で政治的な性格を帯びるようになります。これが「市民的人文主義」です。
市民的人文主義の主要な提唱者であるコッルッチョ=サルターティやレオナルド=ブルーニは、フィレンツェ共和国の書記官長として、その学識を国家のために役立てました。彼らは、ミラノ公国の専制君主制による脅威に直面した際、フィレンツェの共和制の自由を擁護するために、その雄弁な筆を振るいました。ブルーニは、その著書『フィレンツェ市民史』の中で、フィレンツェの歴史を古代ローマ共和国の栄光と結びつけ、市民が公共の善のために積極的に政治参加することの重要性を説きました。彼にとって、学問は単なる個人的な慰めではなく、市民としての徳を養い、国家に貢献するための手段でした。このように、市民的人文主義は、古典の教えを現実の政治生活の中に活かそうとする、フィレンツェの共和主義的な精神と深く結びついていました。この思想は、マキャヴェッリの政治思想にも受け継がれ、近代の共和主義思想の源流の一つとなります。
プラトン哲学の復興と新プラトン主義

15世紀半ばになると、フィレンツェの人文主義は新たな段階に入ります。東ローマ帝国の滅亡(1453年)前後から、多くのギリシャ人学者がイタリアに亡命し、それまでラテン語訳でしか知られていなかったプラトンやプロティノスといったギリシャ哲学の原典がもたらされました。このギリシャ哲学の流入は、フィレンツェの知的世界に大きな衝撃を与えました。
この動きを主導したのが、コジモ=デ=メディチの庇護を受けたマルシリオ=フィチーノです。フィチーノは、コジモからカレッジの別荘を与えられ、そこに「プラトン=アカデミー」を設立しました。このアカデミーは、古代アテネのアカデメイアを模した非公式な学問サークルであり、フィチーノを中心に、ロレンツォ=デ=メディチや詩人のアンジェロ=ポリツィアーノ、哲学者のピコ=デラ=ミランドラといった当代一流の知識人たちが集いました。
フィチーノの最大の功績は、プラトンの全著作を初めてラテン語に翻訳し、詳細な注釈を施したことです。これにより、プラトン哲学は西ヨーロッパの知識人たちに広く知られるようになりました。しかし、フィチーノの目的は、単なる文献学者としてプラトンを研究することではありませんでした。彼は、プラトン哲学とキリスト教神学を統合し、一つの調和した真理体系を築き上げようとしました。これが「新プラトン主義」です。
フィチーノは、宇宙を神を頂点とする階層的な秩序として捉えました。この階層の中で、人間は物質的な世界と精神的な世界を結ぶ中心的な位置を占めており、その魂は不滅であると説きました。そして、人間は「愛(アモル)」を通じて、感覚的な美から知的な美、そして最終的には神的な美へと上昇していくことができると考えました。この「プラトニック=ラヴ」の概念は、ルネサンスの恋愛観や芸術観に絶大な影響を与えました。ボッティチェリの神話画に見られるような、地上のヴィーナス(肉体的な美)と天上のヴィーナス(精神的な美)の対比は、この新プラトン主義的な思想を視覚的に表現したものです。
フィチーノの弟子であるジョヴァンニ=ピコ=デラ=ミランドラは、この人文主義的な思潮をさらに推し進めました。彼は、その有名な著作『人間の尊厳について』の中で、人間は神によって定められた特定の性質を持つのではなく、自らの自由意志によって、獣に堕ちることも、天使のような神的な存在になることもできる、変幻自在な存在であると主張しました。この人間中心主義的な思想は、ルネサンスの精神を最も力強く表明したものとされています。ピコはまた、キリスト教、ユダヤ教のカバラ、イスラム教の哲学など、あらゆる思想の中に共通の真理が存在すると信じ、それらを統合しようと試みました。彼の普遍主義的な探求は、ルネサンスの知的好奇心と寛容さの広がりを象徴しています。
このように、フィレンツェの人文主義は、古典の再発見から始まり、市民的な実践を経て、やがて宇宙と人間の本質を探求する壮大な哲学的思索へと発展していきました。この知的探求は、芸術家たちの創造力を刺激し、科学的な探究心を育み、ルネサンスという時代の精神的な支柱となったのです。
経済と社会:銀行業、毛織物工業、そして市民生活

ルネサンス期フィレンツェの華やかな文化は、その強固な経済基盤と独特な社会構造なしには考えられません。この都市の繁栄を支えた二本の柱は、国際的な銀行業と大規模な毛織物工業でした。
金融帝国メディチ銀行

14世紀から15世紀にかけて、フィレンツェの銀行家たちは、ヨーロッパ全土にわたる金融ネットワークを築き上げました。彼らは、教皇庁や各国の王侯貴族に巨額の融資を行い、その見返りとして様々な特権を得て、莫大な利益を上げました。特にメディチ銀行は、その規模と影響力において群を抜いていました。ジョヴァンニ=ディ=ビッチ=デ=メディチによって設立され、その息子コジモ=イル=ヴェッキオの時代に最盛期を迎えたこの銀行は、ローマ、ヴェネツィア、ミラノ、ジュネーヴ、ロンドン、ブルッヘといったヨーロッパの主要都市に支店網を張り巡らせ、国際的な為替取引や信用供与を独占しました。彼らが開発した複式簿記や為替手形といった革新的な金融技術は、国際商業の効率を飛躍的に高め、フィレンツェをヨーロッパの金融センターとしての地位に押し上げました。メディチ家が蓄積した富は、彼らが政治的権力を掌握し、壮大な芸術パトロネージを展開するための原資となったのです。しかし、この金融帝国も永遠ではありませんでした。ロレンツォ=イル=マニーフィコの時代には、放漫な経営や不採算な融資が原因で経営が悪化し、15世紀末にはその輝きを失っていきます。
毛織物工業の繁栄とギルド

フィレンツェ経済のもう一つの柱は、毛織物工業でした。アルテ=デッラ=ラーナ(羊毛ギルド)は、市内で最も強力なギルドの一つであり、数万人もの労働者を雇用していました。彼らは、イギリスやフランドル地方から良質な羊毛を輸入し、それを洗浄、梳毛、紡績、染色、織布、仕上げという高度に専門化された工程を経て、最高品質の毛織物を生産しました。フィレンツェ産の深紅や紫に染め上げられた豪華な織物は、ヨーロッパ中の宮廷や富裕層の間で珍重され、都市に莫大な富をもたらしました。この産業は、大商人たちが原材料の調達から製品の販売までを一貫して管理する問屋制家内工業の形態をとっており、多くの下層労働者を生み出しました。1378年に起こったチョンピの乱は、劣悪な労働条件と低賃金に苦しむ染色工などの下層労働者たちが、ギルドへの参加と政治的権利を要求して起こした反乱であり、フィレンツェ社会が内包する深刻な階級対立を浮き彫りにしました。
フィレンツェの社会構造と市民生活

フィレンツェの社会は、厳格な階層構造を持っていました。頂点に立つのは、メディチ家、ストロッツィ家、ピッツィ家といった国際的な銀行業や商業で財を成した「ポポロ=グラッソ(肥満な市民)」と呼ばれる大商人たちです。彼らは主要なギルドを支配し、都市の政治を牛耳っていました。その下には、中小の商人や職人からなる「ポポロ=ミヌート(痩せた市民)」がおり、さらにその下には、ギルドに所属できず政治的権利も持たない多くの日雇い労働者や下層民が存在しました。
しかし、このような階層社会の中にも、独特のダイナミズムがありました。フィレンツェの市民生活の中心は、家族と、近隣住民の共同体である「ゴンファローネ」、そして教区でした。結婚は、単なる個人的な結びつきではなく、一族の富と社会的地位を維持・拡大するための重要な戦略でした。有力な一族は、互いに婚姻関係を結ぶことで、その権力基盤を強化しました。
フィレンツェの都市景観は、市民の生活と深く結びついていました。有力な一族は、自らの権勢を誇示するために、パラッツォと呼ばれる壮麗な邸宅を建設しました。これらの邸宅は、外部に対しては要塞のような堅固な外観を持つ一方で、内部には優雅な中庭やフレスコ画で飾られた部屋があり、一族の富と洗練された趣味を示していました。メディチ家のパラッツォ=メディチ=リッカルディや、ストロッツィ家のパラッツォ=ストロッツィは、その代表例です。
公共空間もまた、市民生活において重要な役割を果たしました。シニョリーア広場は、政治的な集会や祝祭の舞台であり、ヴェッキオ宮殿やロッジア=デイ=ランツィといった公共建築が、共和国の権威を象徴していました。大聖堂広場は、宗教的な中心地であり、市民の信仰と誇りの象徴であるサンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂が聳え立っていました。市民たちは、これらの広場や教会で情報を交換し、商談を行い、社会的なつながりを育みました。
また、フィレンツェでは、コンフラタニティと呼ばれる宗教的な信徒団が数多く組織され、慈善活動や宗教的な儀式を通じて、社会的な紐帯を強める役割を果たしました。これらの信徒団は、芸術作品を依頼することも多く、フィレンツェの芸術パトロネージの重要な担い手の一つでした。このように、ルネサンス期のフィレンツェは、経済的な繁栄と深刻な社会対立、そして強固な共同体意識が共存する、複雑で活力に満ちた社会だったのです。
サヴォナローラの登場とメディチ家の没落:共和国の終焉

ロレンツォ=イル=マニーフィコの死(1492年)は、フィレンツェの黄金時代に終焉をもたらし、都市を新たな混乱の時代へと導きました。ロレンツォの息子ピエロは、父のような政治的手腕もカリスマ性も持ち合わせておらず、「不運なピエロ」と呼ばれました。彼の稚拙な外交政策は、フィレンツェを深刻な危機に陥れます。1494年、フランス王シャルル8世がイタリアに侵攻すると、ピエロは十分な抵抗もせずにフランスに屈服し、重要な領土を割譲してしまいました。この屈辱的な対応はフィレンツェ市民の怒りを買い、メディチ家はフィレンツェから追放され、60年続いた彼らの支配は一旦終わりを告げました。
メディチ家追放後のフィレンツェで、精神的な指導者として絶大な影響力を持ったのが、ドミニコ会修道士ジロラモ=サヴォナローラです。サヴォナローラは、サン=マルコ修道院の院長であり、その預言的な説教で多くの市民の心を捉えました。彼は、フィレンツェの道徳的退廃と贅沢を激しく非難し、教会と社会の改革を訴えました。彼は、メディチ家がもたらした世俗的で異教的なルネサンス文化を悪の根源とみなし、古代神話を主題とする芸術や、人文主義的な学問を厳しく批判しました。彼の説教は、フランスの侵攻とメディチ家の没落という社会不安の中で、終末論的な響きをもって人々の心に浸透していきました。
サヴォナローラの指導の下、フィレンツェは神政政治的な共和国へと変貌しました。彼は、イエス=キリストをフィレンツェの唯一の王と宣言し、厳格な道徳律に基づいた社会改革を断行しました。賭博は禁止され、市民の服装や行動は厳しく監視されました。この改革の頂点となったのが、1497年の「虚飾の焼却」です。サヴォナローラの信奉者たちは、市中を練り歩き、鏡、化粧品、賭博道具、そしてボッティチェリの作品を含む異教的な主題の絵画や人文主義的な書物などをシニョリーア広場に集め、巨大な焚火で焼き払いました。この出来事は、ルネサンスの自由な精神に対する、宗教的熱狂の勝利を象徴するものでした。かつてロレンツォの宮廷で優美な神話画を描いたボッティチェリも、サヴォナローラの影響を強く受け、その後は敬虔な宗教画のみを描くようになったと言われています。
しかし、サヴォナローラの急進的な改革と、教皇アレクサンデル6世に対する公然たる批判は、多くの敵を作りました。教皇は彼を破門し、フィレンツェ市政府に対して彼の引き渡しを要求しました。かつて彼を熱狂的に支持した市民たちも、その厳格すぎる支配と、経済的な停滞に不満を募らせていきました。1498年、サヴォナローラは政敵によって捕らえられ、異端者として有罪判決を受けました。そして、かつて「虚飾の焼却」が行われたのと同じシニョリーア広場で、絞首刑に処された後、その遺体は火刑に処されました。
サヴォナローラの死後、フィレンツェは共和制を維持しようと試み、ピエロ=ソデリーニを終身の正義の旗手として選出しました。この時期、若きニッコロ=マキャヴェッリが書記官として活躍し、レオナルド=ダ=ヴィンチとミケランジェロがヴェッキオ宮殿の壁画制作を競い合うなど、文化的な活力の最後の輝きが見られました。しかし、イタリアを巡るフランスとスペインの対立の中で、フィレンツェ共和国は孤立を深めていきました。1512年、教皇ユリウス2世の支援を受けたスペイン軍がフィレンツェに迫ると、共和国は崩壊し、メディチ家がフィレンツェに復帰しました。
その後、メディチ家出身の教皇レオ10世(ロレンツォの次男ジョヴァンニ)やクレメンス7世(ジュリアーノの庶子ジュリオ)の権威を背景に、メディチ家の支配はより強固なものとなっていきます。1527年の「ローマ劫掠」を機に、フィレンツェ市民は再びメディチ家を追放し、最後の共和国を樹立しますが、それも長くは続きませんでした。1530年、神聖ローマ皇帝カール5世と教皇クレメンス7世が和解し、皇帝軍がフィレンツェを包囲します。ミケランジェロが防衛施設の設計に携わるなど、市民は英雄的な抵抗を見せましたが、長くは続かず、ついに降伏しました。これにより、フィレンツェ共和国の歴史は完全に終わりを告げ、1532年、アレッサンドロ=デ=メディチが初代フィレンツェ公となり、世襲の君主制が確立されました。かつて市民の自由と共和制の理想を掲げた都市は、絶対君主制国家へと変貌し、ルネサンスの輝かしい時代は幕を閉じたのです。しかし、フィレンツェが人類の歴史に残した芸術的、知的遺産は、その後の西洋文明の発展に計り知れない影響を与え続けることになります。

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