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島津氏とは わかりやすい世界史用語2430 |
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著作名:
ピアソラ
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島津氏とは
島津氏は、日本の歴史において際立った存在感を示す一族です。その歴史は12世紀末に始まり、19世紀の近代国家形成に至るまで、約700年間にわたって日本の南端、九州地方を拠点に強大な力を保持し続けました。 鎌倉時代から江戸時代の終わりまで、同じ領地を継続して支配した数少ない大名家の一つであり、その孤立した地理的条件と独自の文化、そして強力な軍事力によって、日本史における重要な局面で中心的な役割を果たしました。 中世から近代に至るまで、一貫して歴史の表舞台で活躍したという点で、島津氏は他に類を見ない特異な存在と言えるかもしれません。
起源と鎌倉時代
島津氏の祖とされるのは、島津忠久という人物です。 彼は12世紀末、鎌倉幕府の創設者である源頼朝から九州南部の薩摩、大隅、日向の三国にまたがる広大な島津荘の地頭に任じられ、その地名をとって島津姓を名乗ったとされています。 忠久の出自については、源頼朝の庶子であるという説もかつては存在しましたが、今日ではこの説はほとんど顧みられていません。 むしろ、彼の母方の血筋である惟宗氏との関連が指摘されており、当初は惟宗姓を名乗っていたと考えられています。
忠久は1187年に薩摩国の守護に任命され、頼朝の奥州遠征にも従軍しました。 1196年に初めて薩摩の地に入ると、周辺の勢力を平定し、日向国に城を築くなど、九州南部における支配の礎を築きました。 しかし、忠久の時代、島津氏の支配はまだ盤石なものではありませんでした。比企能員の変に連座したことで、大隅・日向両国の守護職を一時的に失うなど、その道のりは平坦ではありませんでした。
忠久の子、忠時は承久の乱で功績を挙げ、失われた領地の一部を取り戻します。 そして3代目の久経の時代、元寇(モンゴル襲来)という国家的な危機が訪れます。 この戦いは、九州の御家人たちに大きな負担を強いる一方で、島津氏にとっては大きな転機となりました。これまで鎌倉に居住し、代官を派遣して領地を治めていた一族が、本格的に九州へ移住し、直接的な領地経営に乗り出すきっかけとなったのです。 この直接支配への移行は、在地領主としての島津氏の力を飛躍的に高め、九州南部における影響力を確固たるものにしていきました。
南北朝・室町時代の内乱と再統一
14世紀に入り、後醍醐天皇による建武の新政と、それに続く南北朝の動乱は、日本全国を巻き込む内乱の時代をもたらしました。島津氏もこの時代の波に無縁ではありませんでした。5代当主の貞久は、当初後醍醐天皇方として鎌倉幕府打倒に参加し、その功績によって失われていた大隅、日向の守護職を回復します。 しかし、新政から離反した足利尊氏が九州へ落ち延びてくると、貞久はこれを支援し、足利方が室町幕府を樹立する上で重要な役割を果たしました。
ところが、この後、島津氏は内部対立に苦しむことになります。貞久は三男の師久に薩摩国守護職を、四男の氏久に大隅国守護職をそれぞれ譲ったことから、一族は二つの系統に分裂してしまいました。 師久を祖とする「総州家」と、氏久を祖とする「奥州家」は、それぞれが正統性を主張し、約1世紀にわたって抗争を繰り広げたのです。 この内乱は、島津氏の力を大きく削ぐことになりましたが、同時に、一族内の競争を通じて、個々の武将の能力が磨かれていくという側面もあったかもしれません。
この長い分裂状態を終息させ、島津氏を再統一したのが、奥州家出身の9代当主、忠国です。彼は一族内の抗争を勝ち抜き、再び島津氏を一つの強力な勢力としてまとめ上げました。しかし、彼の死後も一族内の不安定な状況は続き、真の安定は16世紀の戦国時代まで待たなければなりませんでした。
戦国時代の飛躍と九州統一への道
16世紀半ば、15代当主として島津貴久が登場すると、島津氏の歴史は新たな局面を迎えます。 貴久は、長きにわたる内乱で分裂していた薩摩、大隅の両国を再統一することに成功し、島津氏が九州全土に覇を唱えるための強固な基盤を築き上げました。 彼の成功は、彼自身の卓越した指導力もさることながら、彼を支えた家臣団の忠誠心と、そして何よりも、彼の4人の息子たちの存在が大きかったと言えるでしょう。
貴久の長男である16代当主・義久は、優れた戦略家であり、九州統一事業の総司令官として采配を振るいました。 次男の義弘は、勇猛果敢な武将として数々の戦場で武功を挙げ、島津軍の中核を担いました。 三男の歳久、四男の家久もまた、兄たちを補佐し、それぞれの持ち場で重要な役割を果たしました。 この「島津四兄弟」の結束とそれぞれの才能が、島津氏を戦国時代屈指の強大な勢力へと押し上げたのです。
島津氏の戦術は、特に注目に値します。彼らは、日本でいち早く鉄砲(火縄銃)を戦場に導入し、その国内生産にも着手したことで知られています。 彼らの得意とした戦法は「釣り野伏」と呼ばれるものでした。これは、まず一部の部隊がおとりとなって敵を誘い込み、伏せていた鉄砲隊が一斉に射撃を加えて混乱させ、そこへ本隊が突撃して壊滅させるという、非常に高度な戦術でした。 この戦術を駆使し、島津軍は自軍よりはるかに大規模な敵軍を何度も打ち破っています。
1572年の木崎原の戦いでは、わずか300の兵で伊東氏の3000の大軍を破るという劇的な勝利を収めました。 1578年の耳川の戦いでは、九州北部に勢力を誇った大友氏の軍勢を壊滅させ、その勢力を大きく後退させました。 さらに1584年の沖田畷の戦いでは、肥前の龍造寺氏を破り、当主の龍造寺隆信を討ち取るという大金星を挙げます。 これらの勝利により、島津氏は伊東氏、大友氏、龍造寺氏という九州の三大勢力を次々と打ち破り、1586年には、ついに九州のほぼ全域をその支配下に置くことに成功したのです。
豊臣秀吉との対決と近世大名への道
九州統一を目前にした島津氏の前に、新たな強大な敵が現れます。天下統一を進める豊臣秀吉です。大友氏の救援要請を受けた秀吉は、1587年、20万を超える大軍を率いて九州に侵攻しました(九州平定)。
島津軍は各地で奮戦しましたが、圧倒的な物量の差はいかんともしがたく、徐々に追い詰められていきます。 当主の義久は和平を模索しましたが、弟の義弘らは徹底抗戦を主張するなど、一族内でも意見が分かれました。 しかし、最終的には秀吉の軍門に降ることを決断します。義久は自ら僧籍に入り、秀吉の本陣に出頭して降伏しました。
秀吉は、島津氏のこれまでの武功と、その潜在的な力を考慮し、比較的寛大な処置を下しました。島津氏は征服した領地の大部分を放棄させられたものの、本拠地である薩摩、大隅、そして日向の一部を安堵させ、存続を許されたのです。 義久は隠居し、家督は弟の義弘が継ぐことになりましたが、その後も義久は実質的な権力を持ち続けたとされています。 この敗北は、島津氏にとって大きな屈辱であったかもしれませんが、同時に、豊臣政権下の一大名として、新たな時代を生き抜くための重要な転換点となりました。
その後、島津氏は秀吉の朝鮮出兵にも従軍します。特に義弘は、朝鮮半島で目覚ましい活躍を見せました。1598年の泗川の戦いでは、わずか7千の兵で数万の明・朝鮮連合軍を撃退するという驚異的な勝利を収めています。 この戦いでの活躍は、島津軍の強さを改めて天下に示すことになりました。また、この出兵の際に朝鮮から連れ帰った陶工たちによって、後に薩摩焼と呼ばれる独自の陶磁器文化が花開くことになります。
関ヶ原の戦いと徳川幕藩体制
1600年、秀吉の死後、天下の覇権をめぐって徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突した関ヶ原の戦いが勃発します。この天下分け目の決戦において、島津氏は西軍に与しました。 しかし、戦場での義弘の立場は複雑でした。西軍の総大将である石田三成との連携がうまくいかず、戦闘の大部分において島津軍は動くことができませんでした。
西軍の敗色が濃厚になると、島津軍は敵陣の真っ只中に孤立してしまいます。この絶体絶命の状況で、義弘は驚くべき決断を下します。正面の敵中を突破して撤退するという、前代未聞の退却戦を敢行したのです。 この「島津の退き口」と呼ばれる壮絶な撤退戦で、島津軍は多くの犠牲を出しながらも、追撃する東軍の猛将たちに手痛い損害を与え、見事に薩摩への帰還を果たしました。
西軍に味方した大名の多くが領地を没収される中、島津氏の処遇は徳川家康にとって大きな悩みどころでした。島津氏の強大な軍事力と、本国薩摩の地理的な遠さを考えれば、下手に刺激して反乱を招くことは避けたかったのです。 交渉の末、家康は島津氏の本領である薩摩、大隅、日向の領有を認めるという破格の決定を下しました。 これにより島津氏は、外様大名という立場ながら、江戸時代を通じて全国で第二位となる約77万石の石高を誇る、屈指の雄藩としての地位を確保したのです。
江戸時代、島津氏は薩摩藩として、巧みな政治手腕を発揮します。1609年には、幕府の許可を得て琉球王国に侵攻し、これを支配下に置きました。 これにより、幕府の鎖国政策下においても、琉球を通じた中国との密貿易ルートを確保し、莫大な利益を上げることになります。 この貿易による経済的利益と、外国を事実上支配しているという政治的威信は、薩摩藩の力をさらに強大なものにしました。 また、藩内では「外城」と呼ばれる独自の地方支配制度を維持し、藩主への強い求心力と高い軍事力を保ち続けました。 参勤交代の義務が隔年で免除されるなど、幕府からも特別な扱いを受けていたことが、その特異な立場を物語っています。
幕末の動乱と明治維新
250年以上にわたる徳川の泰平が揺らぎ始めた幕末期、薩摩藩と島津氏は再び歴史の表舞台に躍り出ます。その中心となったのが、28代当主の島津斉彬です。 斉彬は非常に聡明で開明的な人物であり、西洋の科学技術や軍事技術の導入に早くから着目していました。 彼は、富国強兵をスローガンに掲げ、反射炉や溶鉱炉を建設して大砲を鋳造し、洋式帆船を建造するなど、藩の近代化(集成館事業)を強力に推進しました。 また、篤姫を将軍家に嫁がせるなど、中央政界においても巧みな政治工作を展開しました。
しかし、斉彬は藩主就任からわずか7年で急逝してしまいます。 彼の死後、藩の実権は弟の島津久光が握ることになりました。 久光は、兄の遺志を継ぎ、西郷隆盛や大久保利通といった有能な下級武士を登用し、藩政改革を進めました。 当初、久光は朝廷と幕府の協調を目指す「公武合体」路線を推進しましたが、時代の流れは次第に倒幕へと傾いていきます。 1862年に久光が兵を率いて京都へ上る途中で発生した生麦事件は、イギリスとの間に薩英戦争を引き起こす原因となりました。 この戦争で西洋の圧倒的な軍事力を目の当たりにした薩摩藩は、攘夷(外国排斥)の不可能を悟り、むしろ積極的にイギリスに接近して軍備の近代化を加速させるという、現実的な路線に転換します。
その後、薩摩藩は、長年のライバルであった長州藩と「薩長同盟」を結び、倒幕運動の主導権を握りました。 1867年、ついに徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府は終焉を迎えました。翌年に始まる戊辰戦争では、薩摩藩は新政府軍の中核として旧幕府軍と戦い、明治新政府の樹立に決定的な貢献を果たしたのです。
近代以降の島津氏
明治維新後、廃藩置県によって薩摩藩は鹿児島県となり、大名としての島津氏の支配は終わりを告げました。 しかし、一族の影響力が失われたわけではありません。最後の藩主となった島津忠義や、その父である久光は、新政府から公爵の位を授けられ、華族として高い地位を保ちました。 薩摩出身者は政府や軍の要職を占め、日本の近代化を牽引し続けました。
一方で、急進的な近代化政策は、士族階級の間に深刻な不満を生み出しました。その不満の受け皿となったのが、かつて維新の立役者であった西郷隆盛です。1877年、西郷を盟主として、旧薩摩藩の士族たちが決起した西南戦争が勃発します。 これは、近代日本における最後の、そして最大の内戦となりました。この戦いで西郷は敗れ、命を落としますが、彼の精神は多くの人々に影響を与え続けました。
島津家自体は、この内乱には直接関与しませんでした。久光は新政府の西洋化政策に批判的で、一時は政府の役職に就きながらも、やがて辞任して鹿児島で隠棲生活を送りました。 彼は、島津家に伝わる歴史書の編纂に余生を捧げたと言われています。
近代以降も、島津家の一族からは実業家や研究者など、様々な分野で活躍する人物が輩出されました。 例えば、島津製作所の創業者である島津源蔵も、その一人として挙げられます。 約700年にわたり南九州に君臨し、日本の歴史の大きな節目で常に重要な役割を果たしてきた島津氏の物語は、封建時代から近代国家へと至る日本のダイナミックな変遷を象徴していると言えるでしょう。
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