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フエ(ユエ)とは わかりやすい世界史用語2446
著作名: ピアソラ
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フエとは

ベトナム最後の王朝である阮朝の時代、フエは単なる首都という以上の存在でした。それは、国の政治、文化、そして精神的な中心地として、ベトナムのアイデンティティそのものを象徴する場所でした。フオン川のほとりに位置するこの都市は、壮大な城塞、壮麗な宮殿、そして静謐な皇帝廟が点在し、王朝の権威と宇宙観を体現していました。フエの都市計画そのものが、自然との調和を重んじる東アジアの哲学と、皇帝を世界の中心とみなす政治思想を反映した、一つの芸術作品であったと言えます。紫禁城を中心とするフエの建造物群は、中国の宮廷建築の影響を受けつつも、ベトナム独自の美意識と自然観を取り入れた、独特の様式を確立しました。それは、豊かな彫刻、精緻な陶磁器のモザイク、そして周囲の風景と一体化する庭園設計に見て取ることができます。
しかし、フエの歴史は栄光だけではありませんでした。19世紀半ばから始まったフランスによる植民地化の波は、阮朝の主権を徐々に蝕み、フエの政治的地位を大きく変容させました。皇帝は名目上の元首として存続しましたが、実権はフランスの総督府に移り、フエはかつての政治的中心地としての役割を失っていきます。それでもなお、この都市はベトナムの伝統文化の最後の砦として、その精神的な重要性を保ち続けました。宮廷音楽であるニャーニャック、伝統的な儀式、そして学問の中心地としての役割は、植民地時代を通じて、そしてその後の激動の20世紀を乗り越えて、フエのアイデンティティを支え続けました。ベトナム戦争では、フエはテト攻勢の激戦地となり、多くの歴史的建造物が破壊されるという悲劇に見舞われましたが、戦後、その文化的価値が再認識され、国内外の協力のもとで懸命な修復作業が進められました。1993年には、「フエの建造物群」がベトナムで初めてユネスコの世界文化遺産に登録され、その普遍的な価値が国際的に認められることとなりました。



阮朝の成立とフエの首都選定

阮朝の起源は、16世紀にまで遡る南北分裂時代のベトナム南部に勢力を築いた阮氏にあります。数世紀にわたる鄭氏との抗争の末、18世紀後半の西山(タイソン)の乱によって阮氏の支配は一度終焉を迎えます。しかし、阮氏の生き残りであった阮福暎(後の嘉隆帝)は、シャム(現在のタイ)やフランス人宣教師の支援を受けながら粘り強く勢力を回復し、1802年、ついにベトナム全土を統一して阮朝を創始しました。この歴史的な統一事業を成し遂げた嘉隆帝にとって、新しい王朝の首都をどこに置くかは、国家の将来を左右する極めて重要な決定でした。
彼が選んだのは、かつて阮氏が本拠地としていたフエでした。この選択には、いくつかの戦略的かつ象徴的な理由がありました。まず地理的に、フエは統一されたベトナムのほぼ中央に位置していました。これにより、北部のハノイ周辺と南部のメコンデルタ地帯の両方を統治する上で、地理的な利便性がありました。国土の重心に首都を置くことで、皇帝の権威が国全体に行き渡ることを意図したのです。
さらに、フエは風水の観点からも理想的な場所とされていました。フオン川が龍のように蛇行して街を流れ、その背後には御屏山が屏風のようにそびえ立っています。このような地形は、気の流れが良く、繁栄をもたらす「龍脈」の地と考えられていました。嘉隆帝は、自然のエネルギーを取り込み、王朝の永続的な安寧を確保するために、風水の専門家であるジオマンサーの助言を重視し、フエの地形を入念に調査させました。城塞の建設地は、フオン川と御屏山に守られ、外敵からの防御と精神的な加護の両方を得られる場所として選ばれたのです。
また、フエを首都とすることは、阮氏の正統性を主張する上でも重要な意味を持っていました。フエは、何世紀にもわたって阮氏が支配の拠点としてきた土地であり、彼らの祖先の地でもありました。この地に新たな首都を建設することは、西山朝によって一度は断絶された阮氏の支配を再興し、その歴史的な連続性を内外に示す行為でした。嘉隆帝は、単に新しい都市を建設するのではなく、阮氏の栄光の歴史の上に、より壮大で永続的な王朝を築き上げることを目指したのです。
こうして、嘉隆帝の強力なリーダーシップのもと、1805年からフエの壮大な都市建設プロジェクトが開始されました。フランスの軍事技術者であるヴォーバンの様式を取り入れた星形の城塞の設計に、中国の都市計画思想とベトナム独自の宇宙観が融合され、フエは阮朝の権威と理想を体現する帝都として、その歴史的な歩みを始めることになったのです。
帝都の構造:城塞、皇城、紫禁城

阮朝の帝都フエは、皇帝の絶対的な権威と宇宙の中心としての役割を象徴するため、緻密な計画に基づいて設計された多重構造の都市でした。その構造は、外側から順に「城塞(京城)」、「皇城」、「紫禁城」という三つの同心円状の城壁によって構成されており、それぞれが異なる機能と意味を持っていました。この設計は、北京の紫禁城をモデルとしながらも、フエの自然地形とベトナム独自の文化を取り入れた独特のものでした。
城塞(京城)

最も外側に位置するのが、周囲約10キロメートルに及ぶ巨大な城壁と堀で囲まれた「城塞」です。この城壁は、19世紀初頭のヨーロッパで主流であったヴォーバン様式の要塞建築技術を取り入れて設計されており、ジグザグに配置された稜堡(りょうほ)が特徴です。これにより、どの角度から攻撃を受けても死角が少なく、効率的な防御が可能でした。城壁は土とレンガで築かれ、高さは約6.6メートル、厚さは21メートルにも達しました。城壁の外側には広大な堀が巡らされ、都市の防御をさらに強固なものにしていました。
城塞には10の門が設けられ、それぞれが特定の目的のために使用されました。例えば、南側の正門である午門は、皇帝が重要な儀式のために出入りする際にのみ使用される特別な門でした。城塞の内部には、行政機関、軍事施設、そして一般の住民が暮らす居住区が広がっていました。ここは、帝都の政治、軍事、そして市民生活が営まれる広大なエリアであり、皇城と紫禁城を守る第一の防衛線でもありました。城塞の設計には、フランス人技術者の協力があったものの、全体の計画は阮朝の皇帝の厳格な監督のもと、ベトナムの伝統的な都市計画思想に基づいて進められました。
皇城

城塞の内部、フオン川に面した南側の中心部には、周囲約2.5キロメートルの正方形の城壁で囲まれた「皇城」が存在します。ここは、王朝の最高行政機関が集中する、政治の中枢でした。皇城の城壁もまたレンガで造られ、4つの主要な門が四方に配置されていました。南の正門である午門は、皇城への入り口であると同時に、城塞全体の象徴的な門でもありました。
皇城の内部には、皇帝が政務を執り行い、外国使節を引見した太和殿、官僚たちが集う勤政殿、そして王室の祭祀を執り行うための世廟や太廟など、100を超える大小さまざまな建物が整然と配置されていました。これらの建物の配置は、厳格な儒教の儀礼と風水の原則に基づいており、皇帝の権威と秩序を視覚的に表現していました。特に太和殿は、皇城の中心に位置し、その壮麗な建築と装飾は阮朝の権力の頂点を象徴するものでした。皇城は、皇帝が公的な領域でその力を示す舞台であり、国家の運営がここから指令されていたのです。
紫禁城

皇城のさらに内部、その中心に位置するのが「紫禁城」です。ここは、皇帝とその家族、そしてごく一部の限られた側近や宦官のみが入ることを許された、最も神聖でプライベートな空間でした。周囲を高い壁で囲まれ、外部の世界から完全に隔離されていました。紫禁城は、皇帝の日常生活の場であり、皇后や側室、皇子や皇女たちが暮らす後宮もこの中にありました。
紫禁城には、皇帝の寝室である乾成殿、皇后の住居である坤泰宮、読書や思索のための書斎である建中殿など、皇帝の私生活を支えるための様々な建物が含まれていました。これらの空間は、豪華でありながらも、皇帝がくつろぎ、家族と過ごすための安らぎの場として設計されていました。しかし、同時に、ここは厳格な規則と儀礼に縛られた場所でもありました。皇帝以外の男性の立ち入りは厳しく制限され、宦官が内部の運営を担っていました。紫禁城は、皇帝が天の子としての神聖性を保ち、公的な役割から解放される唯一の場所であり、阮朝の権力構造の最も奥深く、神秘的な核心部分を形成していたのです。
このように、フエの三重構造は、公的な領域から私的な領域へ、そして俗なる世界から聖なる世界へと段階的に移行する、皇帝中心の宇宙観を物理的な形で表現したものでした。それは、単なる防御施設や居住区の集合体ではなく、阮朝の政治哲学、宗教観、そして美意識が凝縮された、壮大な空間芸術であったと言えます。
フエの建築様式と装飾芸術

阮朝時代のフエの建築は、中国の宮廷建築、特に北京の紫禁城から強い影響を受けつつも、ベトナムの気候風土と独自の美意識を融合させた、独特の様式を発展させました。その特徴は、自然との調和を重んじる設計思想、精緻で色彩豊かな装飾、そして多様な素材を巧みに用いた芸術性にあります。これらの要素は、宮殿、寺院、皇帝廟など、フエのあらゆる建造物に見ることができます。
建築の基本構造は、木造の骨組みに瓦屋根を載せたもので、建物を支える巨大な柱には、硬質で耐久性の高い鉄木やリム材が用いられました。屋根は、中国建築と同様に反り返った曲線を描き、その端には龍や鳳凰などの神聖な動物をかたどった装飾が施されています。屋根瓦には、皇帝を象徴する黄色や、高貴な色とされる青緑色の釉薬瓦が使われ、建物の格式を示していました。特に太和殿のような重要な建物の屋根は二層構造になっており、その威厳を強調しています。建物の配置は、風水の原則に厳密に従っており、周囲の山や川、湖といった自然環境と一体化するように設計されています。これにより、建物は単独で存在するのではなく、風景の一部として溶け込み、調和のとれた美しい景観を生み出しています。
フエの建築を最も特徴づけているのは、その華麗で精緻な装飾芸術です。特に目を引くのが、「ホアン・カム」と呼ばれる陶磁器の破片を用いたモザイク装飾です。これは、色鮮やかな陶器やガラスの破片を漆喰の壁面に埋め込み、龍、鳳凰、麒麟といった神話上の生き物や、菊、竹、蓮などの植物、さらには風景や物語の一場面などを描き出す技法です。このモザイクは、太陽の光を反射してきらきらと輝き、建物に生命感と豪華さを与えています。啓定帝廟の内部は、この陶磁器モザイクで壁から天井まで埋め尽くされており、その圧倒的な装飾性はフエの装飾芸術の頂点とされています。
木彫もまた、フエの建築において重要な役割を果たしています。柱や梁、扉、欄間など、建物のあらゆる木製部分に、熟練した職人による見事な彫刻が施されています。モチーフは、自然の動植物や幾何学模様、漢字の詩文など多岐にわたり、その一つ一つに吉祥や長寿、幸福といった意味が込められています。彫刻には、しばしば金箔が貼られたり、朱や黒の漆が塗られたりして、空間に荘厳さと深みを与えています。
さらに、阮朝の建築では「一詩一画」という独特の装飾が見られます。これは、建物の梁や壁に、漢詩とそれに対応する絵画を一対で装飾するもので、フエの皇城内にある長生宮などで見ることができます。詩の内容は、その場所の機能や季節の風景に関連しており、文学と絵画、そして建築が一体となった、非常に知的で洗練された芸術形式です。これは、学問を重んじた阮朝の皇帝たちの教養と美意識を反映しています。
これらの建築様式と装飾技術は、皇帝の絶対的な権威を視覚的に示すと同時に、自然との共生、宇宙との調和というベトナムの伝統的な価値観を表現するものでした。フエの建造物群は、単なる権力の象徴ではなく、阮朝の人々が育んだ豊かな精神文化と芸術的才能の結晶であり、ベトナムの文化遺産の中でもひときわ輝く存在となっているのです。
宮廷生活と儀式

阮朝時代のフエにおける宮廷生活は、厳格な儀礼と複雑な規則によって支配されていました。皇帝を頂点とする階層秩序は絶対であり、その日常生活から国家の重要な祭典に至るまで、あらゆる行動が儒教の教えに基づいて定められた作法に則って行われました。これらの儀式は、単なる形式ではなく、皇帝の神聖性と権威を強化し、社会の秩序を維持するための重要な装置でした。
皇帝の生活は、紫禁城という閉ざされた空間で営まれました。朝は早く、官僚たちからの報告を受け、政務に関する裁決を下すことから一日が始まります。政務の場である太和殿や勤政殿では、皇帝は玉座に座り、官僚たちは位階に応じて定められた位置に整列し、厳粛な雰囲気の中で儀式的に報告が行われました。午後は、読書や詩作、庭園の散策など、より私的な時間を過ごしましたが、それさえも皇帝としての品位を保つための教養の一部と見なされていました。
宮廷には、皇帝の家族である皇后、多くの側室、そしてその子供たちが暮らす後宮がありました。後宮は女性の世界であり、そこにも厳格な序列が存在しました。皇后を頂点に、側室たちは階級分けされ、それぞれに与えられる住居や衣服、食事、そして皇帝からの寵愛の度合いも異なりました。女性たちの間での競争や陰謀は絶えなかったと想像されますが、彼女たちの最も重要な役割は、王朝の跡継ぎとなる皇子を産むことでした。
宮廷の運営を支えていたのが、宦官と女官たちです。宦官は、去勢された男性であり、皇帝以外の男性が立ち入ることのできない紫禁城の内部で、皇帝の身の回りの世話から後宮の管理、さらには政治的な密命に至るまで、多岐にわたる役割を担いました。彼らは皇帝に最も近い存在として、時に大きな影響力を持つこともありました。女官たちは、皇后や側室に仕え、裁縫や食事の準備、儀式の補助などを行いました。
阮朝の宮廷では、年間を通じて数多くの儀式が執り行われました。最も重要なものの一つが、皇帝が天と地の神を祀る「南郊の儀」です。これは、皇帝が天命を受けて国を治める「天子」であることを示すための儀式であり、フエの南郊に設けられた祭壇で、壮大な行列と厳粛な手順に則って行われました。また、先祖を祀る儀式も極めて重要でした。皇城内にある世廟や太廟では、歴代皇帝の位牌が祀られ、定期的に祭祀が行われました。これは、儒教における「孝」の徳を示し、王朝の正統性と連続性を強調するものでした。
その他にも、皇帝の誕生日を祝う祝賀の儀、新年を祝う儀、科挙の合格者を祝う儀など、宮廷の儀式は多岐にわたりました。これらの儀式には、それぞれに定められた衣装、音楽、供物が用いられ、王朝の富と文化の高さを内外に誇示する機会ともなりました。特に、宮廷音楽である「ニャーニャック」は、儀式の進行に不可欠な要素であり、その荘厳な音色は儀式の神聖性を高める役割を果たしました。これらの複雑で華麗な儀式を通じて、阮朝は皇帝を中心とする秩序ある宇宙観を絶えず再生産し、その支配を盤石なものにしようとしたのです。
ニャーニャック:ベトナムの宮廷音楽

ニャーニャックは、阮朝時代のフエ宮廷で育まれた、ベトナムを代表する雅楽、すなわち宮廷音楽です。その起源は13世紀の陳朝にまで遡ることができますが、阮朝時代に最も洗練され、体系化されました。ニャーニャックは単なる音楽ではなく、年間を通じて行われる様々な宮廷儀式と密接に結びついた、王朝の権威と威厳を象徴する重要な文化でした。2003年には、その文化的価値が認められ、ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作」に宣言され、その後2008年に無形文化遺産として登録されました。
ニャーニャックは、「雅な音楽」を意味し、その名の通り、優雅で荘厳な響きを特徴とします。演奏は、大規模なオーケストラと、時には歌手や踊り手を伴って行われました。使用される楽器は多岐にわたり、石や青銅で作られた打楽器(編磬、編鐘)、様々な種類の太鼓、管楽器(笛、オーボエに似た管)、そして弦楽器(琴、琵琶)などが含まれます。これらの楽器が織りなす複雑で重厚なハーモニーは、儀式の厳粛な雰囲気を高め、皇帝の神聖性を演出する上で不可欠な役割を果たしました。
ニャーニャックの演奏は、特定の儀式の進行に合わせて厳密に規定されていました。例えば、皇帝が祭壇に昇る時、供物を捧げる時、そして儀式が終わる時など、それぞれの場面で異なる楽曲が演奏されました。楽曲の構成やテンポ、使用される楽器の組み合わせは、その儀式の重要度や内容によって細かく定められていました。歌詞の多くは、皇帝の徳を称え、王朝の繁栄と国家の安寧を祈る内容で、漢詩の形式で書かれていました。
演奏者たちは、宮廷に所属する専門の音楽家であり、厳しい訓練を経て高度な技術を習得しました。彼らは、儀式の際には豪華な衣装を身にまとい、その演奏は視覚的にも華やかなものでした。ニャーニャックは、南郊の儀のような国家の最重要祭祀から、皇帝の誕生日や大使の歓迎式典、さらには宮廷内の宴会に至るまで、あらゆる公的な場で演奏されました。それは、宮廷生活に彩りを添える娯楽であると同時に、儒教的な秩序と調和の理念を音によって表現する、高度に精神的な芸術形式でもあったのです。
しかし、1945年の阮朝の終焉とともに、ニャーニャックはその最大のパトロンである宮廷を失い、存続の危機に瀕しました。多くの音楽家は離散し、楽器や楽譜も失われました。その後の戦争と社会の混乱の中で、この伝統音楽は忘れ去られようとしていました。しかし、ベトナム戦争終結後、その文化的価値を再認識する動きが高まり、政府や研究者、そして数少なくなった元宮廷音楽家たちの努力によって、復興への道が始まりました。失われた楽曲の再構築、楽器の復元、そして後継者の育成が進められ、今日ではフエの王宮劇場などで定期的に演奏会が開かれるようになり、その優雅な音色を再び耳にすることができるようになりました。ニャーニャックの復興は、阮朝の華やかな宮廷文化を現代に伝える、貴重な成功例と言えます。
フランス植民地時代の影響

19世紀半ば、フランスのインドシナへの進出は、阮朝と帝都フエの運命を劇的に変えました。1858年のダナン攻撃に始まり、フランスは徐々にベトナムへの軍事的・政治的圧力を強めていきました。阮朝は抵抗を試みましたが、近代的な兵器と組織力を持つフランス軍の前に劣勢を強いられ、1883年と1884年に締結された二つのフエ条約(アルマン条約とパトノートル条約)によって、ベトナムはフランスの保護国となり、事実上の植民地支配下に置かれることになりました。
この政治的な変動は、フエの地位に決定的な影響を与えました。阮朝の皇帝は、主権を失い、フランスの総督府の監視下に置かれた象徴的な存在となりました。かつてはベトナム全土を統治する絶対君主であった皇帝の権力は、皇城の内側に限定され、国家の重要な決定はすべてハノイに置かれたフランス領インドシナ連邦の総督が行うようになりました。フエは、ベトナムの政治的な首都としての機能を失い、王朝の伝統を維持するだけの地方都市へとその地位を落としていきました。
植民地支配は、フエの都市景観にも変化をもたらしました。フランスは、城塞の南側、フオン川の対岸に新しい行政地区を建設しました。ここには、総督府の出先機関、銀行、郵便局、ホテルなど、西洋風の建築様式の建物が次々と建てられました。レンガ造りの壁、アーチ型の窓、バルコニーなどを特徴とするこれらの建物は、伝統的な木造建築が並ぶフエの街並みとは対照的な景観を生み出しました。これにより、フエはベトナムの伝統文化を象徴する旧市街と、フランスの近代的な支配を象徴する新市街という、二つの異なる顔を持つ都市へと変貌していきました。
文化的な面でも、フランスの影響は徐々に浸透していきました。フランス語教育が導入され、キリスト教の布教も進められました。一部の皇帝、特に啓定帝は、フランス文化に強い関心を示し、その影響は彼の建築プロジェクトにも現れています。例えば、啓定帝廟は、伝統的なベトナム建築の様式を踏襲しつつも、バロック様式の要素やステンドグラス、鉄柵など、西洋の建築素材やデザインが大胆に取り入れられており、二つの文化が混淆した独特の美学を生み出しています。
しかし、フランスの支配下にあっても、フエはベトナムの伝統文化の中心地としての精神的な重要性を失いませんでした。皇帝の存在は、たとえ象徴的であっても、多くのベトナム人にとって国家のアイデンティティの拠り所であり続けました。宮廷では、規模は縮小されながらも、伝統的な儀式やニャーニャックの演奏が続けられ、ベトナムの文化的な伝統が細々と守られていました。フランスの支配は、フエから政治的な力を奪いましたが、その結果として、フエはベトEナムの魂と過去の栄光を記憶する、ノスタルジックで文化的な象徴としての役割を、より一層強めることになったのです。この時代は、フエにとって屈辱と衰退の時代であったと同時に、新たな文化の流入と混淆が起こり、その複雑な歴史に新たな一層を付け加えた時代でもありました。
阮朝の終焉とその後

20世紀に入ると、ベトナム内外の政治情勢は大きく変動し、阮朝の存続基盤を揺るがし始めました。フランスの植民地支配に対する民族独立運動が各地で高まり、ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟会(ベトミン)が勢力を拡大していきました。第二次世界大戦中、日本軍がフランス領インドシナに進駐すると、フランスの支配力は一時的に弱体化します。1945年3月、日本軍はフランスの植民地政府を打倒し(明号作戦)、阮朝の皇帝であった保大帝にベトナム帝国の独立を宣言させました。しかし、この独立は日本の傀儡政権に過ぎず、長続きはしませんでした。
同年8月、日本の敗戦が濃厚になると、ベトミンは「八月革命」と呼ばれる全国的な蜂起を開始し、各地で権力を掌握しました。この抗いがたい時代の流れの中で、保大帝は国家の統一と独立を優先する決断を下します。1945年8月30日、フエ皇城の午門において、保大帝は退位式に臨み、ベトミンの代表に王朝の象徴である剣と印章を譲り渡しました。この瞬間、1802年から143年間にわたって続いた阮朝は、その歴史に幕を下ろしました。ベトナムは、数千年にわたる君主制の時代を終え、新たな共和国の時代へと移行したのです。
阮朝の終焉後、フエは帝都としての地位を完全に失いました。ベトナム民主共和国(北ベトナム)の首都はハノイに置かれ、フエは中部の一地方都市となりました。しかし、その後の第一次インドシナ戦争、そしてベトナム戦争において、フエは再び歴史の渦に巻き込まれていきます。特に1968年のテト攻勢では、フエは北ベトナム軍とアメリカ・南ベトナム軍との間で約1ヶ月にわたる激しい市街戦の舞台となりました。この「フエの戦い」によって、皇城や紫禁城を含む多くの歴史的建造物が砲撃や爆撃によって深刻な被害を受け、破壊されました。かつて壮麗を誇った宮殿は瓦礫の山と化し、フエの文化遺産は壊滅的な打撃を被ったのです。
1975年のベトナム戦争終結後、統一されたベトナム社会主義共和国政府は、当初、阮朝を封建的で抑圧的な王朝とみなし、その遺産であるフエの建造物群を軽視する傾向にありました。しかし、1980年代のドイモイ(刷新)政策以降、文化遺産の重要性が見直されるようになります。フエの歴史的価値が再評価され、その保存と修復に向けた取り組みが国内外の支援を得て本格的に始まりました。
そして1993年、この長年の努力が実を結び、「フエの建造物群」は、ベトナムで初めてユネスコの世界文化遺産に登録されました。これは、フエの遺産がベトナム一国の宝であるだけでなく、人類共通の貴重な財産であることが国際的に認められたことを意味します。この登録を契機に、修復作業はさらに加速し、太和殿や午門、歴代皇帝の廟などが、かつての姿を取り戻しつつあります。破壊された建物の再建も進められており、フエは歴史観光の拠点として、国内外から多くの観光客を惹きつけています。阮朝は滅びましたが、その魂が宿る帝都フエは、戦争の傷跡を乗り越え、ベトナムの豊かな歴史と文化を未来へと語り継ぐ存在として、今なお輝きを放っているのです。
世界遺産としてのフエ

1993年、「フエの建造物群」は、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。これは、ベトナムの文化遺産としては初の快挙であり、阮朝の帝都が持つ普遍的な価値が国際社会によって公式に認められた画期的な出来事でした。この登録は、戦争によって甚大な被害を受け、一時は忘れ去られかけていたフエの歴史的建造物群の保存と修復に、大きな弾みを与えることになりました。
ユネスコがフエを世界遺産として認定した理由は、主に以下の三つの評価基準に基づいています。
第一に、フエの建造物群は、「人類の創造的才能を表現する傑作」であると評価されました(評価基準(i))。フエの都市計画は、自然の地形を見事に活かし、風水の理念に基づいて設計されています。フオン川と御屏山を背景に、城塞、皇城、紫禁城という三重の構造を持つ帝都は、東アジアの古代哲学と宇宙観を壮大なスケールで具現化した、他に類を見ない都市芸術の例と見なされました。また、太和殿の荘厳な建築や、啓定帝廟に見られる陶磁器モザイクの精緻な装飾など、個々の建造物が示す高い芸術性も、この評価の根拠となりました。
第二に、フエは、「ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの」であると評価されました(評価基準(ii))。阮朝は、19世紀初頭のベトナムにおいて、西洋の先進的な軍事技術(ヴォーバン様式の要塞建築)を積極的に取り入れ、それを中国の伝統的な宮廷建築の原則と融合させました。この東西の文化と技術の交流が、フエのユニークな城塞都市の形態を生み出した点が重視されました。フエは、ベトナムが外来文化を主体的に受容し、自国の伝統と統合させて新たな文化を創造した顕著な例証とされたのです。
第三に、フエは、「現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠」であると評価されました(評価基準(iv))。フエは、ベトナム最後の封建王朝であった阮朝の政治、文化、宗教の中心地でした。皇城や紫禁城、皇帝廟群は、19世紀から20世紀半ばにかけてのベトナムの宮廷生活、儀式、そして統治システムがどのようなものであったかを具体的に示す、他に代えがたい物的な証拠です。特に、1945年に君主制が終焉を迎えて以降、フエは消滅した王朝文化を今に伝える、まさに「生きた博物館」としての価値を持つと認められました。宮廷音楽ニャーニャック(後に無形文化遺産として登録)のような無形の伝統とともに、フエの建造物群は、ベトナムの封建時代の記憶を凝縮した、かけがえのない遺産なのです。
世界遺産登録後、フエの建造物群の保存修復事業は国際的な協力のもとで本格化しました。日本、フランス、ポーランドなど多くの国々が技術的・資金的支援を提供し、ベトナム政府と専門家は、テト攻勢で破壊された建物の再建や、劣化した装飾の修復に精力的に取り組んでいます。

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