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海関とは わかりやすい世界史用語2404
著作名: ピアソラ
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海関とは

清朝時代の「海関」は単なる関税徴収機関ではなく、清朝後期の中国において、財政、外交、近代化の多岐にわたる分野で極めて重要な役割を果たした、中国政府の機関でありながら外国人によって管理・運営された特異な組織でした。
海関の設立背景と初期の展開

19世紀半ば、清朝は国内の動乱と国外からの圧力という二重の危機に直面していました。アヘン戦争(1839-1842年)の敗北により、清朝は南京条約の締結を余儀なくされました。この条約は、それまで広州一港に限定されていた対外貿易の窓口を、上海、寧波、福州、厦門の4港にも拡大することを定めました。 これにより、従来の広東システムは崩壊し、複数の港で外国貿易が行われる「条約港体制」が始まります。 この体制の変化は、各港における関税徴収の仕組みを新たに構築する必要性を生じさせました。
南京条約とその後の虎門寨追加条約では、公正な関税徴収を確保するための規定が盛り込まれました。 これは、それまでの広東貿易で問題となっていた、役人の恣意的な税率適用や汚職といった慣行を是正する目的がありました。 しかし、開港された各港で効率的かつ公正な関税徴収システムを確立することは、清朝にとって大きな課題でした。
この状況をさらに複雑にしたのが、1850年に始まった太平天国の乱です。 この大規模な内乱は中国南部を中心に広がり、清朝の統治能力を著しく低下させました。 特に、長江デルタ地帯の経済的中心地であった上海は大きな影響を受けました。1853年、太平天国と連携する秘密結社「小刀会」が上海の城内を占拠する事件が発生します。 この混乱により、従来の清朝の税関機能は完全に麻痺し、関税の徴収が不可能になりました。
関税収入の途絶は、清朝政府にとって深刻な財政的打撃であっただけでなく、条約で定められた賠償金の支払いを危うくするものでした。 また、関税が徴収されない無法状態は、条約を遵守する商人たちにとって不公平な状況を生み出し、貿易秩序そのものを崩壊させる恐れがありました。この危機的状況に対し、上海に駐在していたイギリス、アメリカ、フランスの領事たちは、自国民の商益を守り、貿易の安定を確保するために介入を決意します。
1854年、3国領事の主導により、上海に外国人による関税管理機構「外国税務司」が設立されました。 これは、清朝の役人が不在の中で、条約に定められた関税を徴収するために考案された応急処置的な仕組みでした。 3国領事がそれぞれ1名ずつ税務司を推薦し、彼らが中心となって関税の査定業務を行いました。 この組織は、あくまで清朝政府に代わって関税を徴収するものであり、徴収された税収は清朝に引き渡されました。 当初、清朝政府はこの外国人が管理する機関に対して懐疑的でしたが、その効率性と公正さ、そして何よりも安定した税収をもたらす能力を目の当たりにし、その価値を認識するようになります。
この上海での成功を受け、アロー戦争(第二次アヘン戦争、1856-1860年)後の天津条約(1858年)において、この外国人による税関管理システムをすべての条約港に拡大することが正式に規定されました。 これにより、1854年に上海で臨時的に始まった組織は、清朝の公式な国家機関「大清皇家海関総税務司」、通称「海関」として、中国全土の開港場でその役割を担うことになったのです。 この組織は、清朝が崩壊し中華民国が成立した1912年以降は改称され、1949年に中華人民共和国と中華民国(台湾)でそれぞれの税関組織に分割されるまで、約100年間にわたり存続しました。



組織構造と人事

海関は、北京に置かれた総税務司を頂点とする、厳格な階層構造を持つ官僚組織でした。 総税務司は、組織全体の最高責任者であり、絶大な権限を持っていました。 その下には、各条約港に設置された税関があり、それぞれの税関は税務司によって管理されていました。 さらに、上海には統計科が設置され、貿易データの収集、分析、出版を担う重要な役割を果たしました。
海関の最大の特徴は、その職員構成にありました。組織のトップである総税務司をはじめ、各港の税務司など、上級職のほとんどが外国人によって占められていました。 職員の国籍は多岐にわたりましたが、特にイギリス人が圧倒的多数を占めていました。 その他にも、ドイツ、アメリカ、フランス、そして後には日本など、様々な国籍の人々が職員として採用されました。 1895年の時点では、約700人の外国人職員と約3,500人の中国人職員が在籍していたと記録されています。
職員は、主に「内班」と「外班」に分けられていました。 内班は、主に事務や管理業務に従事するデスクワーク中心の職員であり、高い教育水準が求められました。外班は、港での貨物検査や監視など、現場での実務を担当しました。 当初、中国人職員の多くは下級職に限定されていましたが、1929年以降になると、中国人職員の上級職への登用も始まりました。
この国際的な職員構成は、海関の運営に大きな影響を与えました。様々な国の出身者が集まることで、特定の国の利益に偏らない中立的な運営が目指されました。しかし、実際にはイギリス人が主導権を握っており、イギリスの帝国主義的な利益と深く結びついていた側面も否定できません。 日清戦争後には、海関内での各国の職員比率をめぐり、イギリスとロシアの間で対立が生じるなど、国際政治の縮図のような様相を呈することもありました。
外国人職員は、中国政府に雇用された公務員という立場でありながら、出身国の領事裁判権(治外法権)の保護下にありました。 彼らは条約港内の外国人居留地に住み、西洋的な生活様式を維持することが多く、中国人社会とは一線を画したコミュニティを形成していました。 しかし、税務司などの上級職員は、業務上、中国の地方官僚や商人、さらには中央政府の高官と頻繁に接触する必要があり、中国の言語や文化、政治情勢に精通していることが求められました。 特に、長年にわたり総税務司を務めたロバート・ハートは、中国の文化や慣習を深く理解し、清朝政府から絶大な信頼を得ていました。
海関は、職員の採用と昇進において、能力主義に基づいた近代的な人事制度を導入しようと試みました。汚職を防ぎ、効率的な業務を遂行するために、厳格な服務規律が定められました。 また、義和団事件後には、優秀な中国人職員を育成するための専門学校(税務学堂)を設立するなど、組織の近代化と人材育成にも力を注ぎました。 このように、海関は清朝の伝統的な官僚制度とは一線を画す、西洋式の近代的行政組織として機能していたのです。

ロバート・ハートと海関の発展

海関の歴史を語る上で、サー・ロバート・ハートの存在は不可欠です。 彼は1863年から1911年までの長きにわたり、海関の第二代総税務司を務め、この組織を単なる関税徴収機関から、清朝の国家運営に深く関与する巨大な官僚機構へと育て上げました。
アイルランド出身のハートは、1854年にイギリスの領事館員として中国に渡りました。 当初は寧波のイギリス領事館で通訳官として勤務していましたが、1859年に初代総税務司であるホレイショ・ネルソン・レイの誘いを受け、設立間もない海関に加わりました。 1863年、レイが清朝政府との対立の末に解任されると、ハートがその後任として総税務司に任命されました。
ハートのリーダーシップの下で、海関はその機能と影響力を飛躍的に拡大させました。彼は、海関の第一の任務である関税徴収において、公正さと効率性を徹底しました。 関税の「査定」は海関が行い、実際の税金の「徴収」は中国側の税関銀行が行うという役割分担を明確にすることで、汚職の機会を最小限に抑えました。 海関が査定した正確な税収額が北京の中央政府に直接報告されるようになったことで、中央政府は地方の税収に対する管理を強化することができました。 ハートの就任から20年後には、海関が徴収する関税は、清朝中央政府の歳入の約3分の1を占めるまでに至りました。 この安定した財源は、太平天国の乱などの内乱鎮圧や、その後の洋務運動における近代化プロジェクトの資金源として、極めて重要な役割を果たしました。
ハートは、海関の役割を関税徴収だけに留めませんでした。彼は、中国の近代化にはインフラ整備が不可欠であると考え、海関の業務を様々な分野に広げていきました。その主なものを以下に挙げます。
航行援助施設の整備: 中国沿岸部や長江流域の測量を行い、詳細な海図を作成しました。 また、灯台、灯浮標、信号所といった航行援助施設を建設・管理し、船舶の安全な航行を確保しました。 これにより、中国沿岸は世界で最も航行しやすい海域の一つとして認識されるようになりました。
港湾管理: 各条約港の港湾管理や水路の浚渫なども海関の重要な業務でした。 これにより、大型の蒸気船が安全に入港できるようになり、貿易の拡大に貢献しました。
郵政事業の創設: ハートは中国における近代的な郵便制度の創設を主導しました。 当初は海関の一部門として始まった郵政事業は、1911年に独立した国家機関(中華郵政)となり、全国的な郵便網の基礎を築きました。
情報収集と出版活動: 上海に設置された統計科は、中国の貿易に関する詳細な月次、四半期、年次の報告書を発行しました。 これらの統計資料は、中国経済の動向を把握するための貴重な情報源として、国内外で高く評価されました。 さらに、気象観測データや医療に関する報告書など、多岐にわたる情報を収集・出版し、中国に関する知識の普及に貢献しました。
外交的役割: ハート自身、清朝政府の最高顧問として、外交交渉の場で重要な役割を果たしました。 彼は中国の立場を深く理解しつつ、西洋列強との仲介役を務め、多くの紛争解決に貢献しました。 海関の職員もまた、非公式な外交官として、中国政府と外国の代表者との間の意思疎通を助けました。
ハートは、清朝政府、特に総理各国事務衙門(清朝の外交を管轄した官庁)から深い信頼を寄せられていました。 彼は自身を「傍観者」と位置づけ、客観的な立場から清朝の行政改革に関する提言を行うこともありました。 彼の長期にわたるリーダーシップと、中国の国益を考慮した運営方針が、海関という特異な組織を清朝末期の中国社会に根付かせ、その発展を可能にした最大の要因であったと言えます。
海関の多岐にわたる機能

ロバート・ハートの指導の下、海関は単なる関税徴収機関という枠組みを大きく超え、清朝後期の中国において国家の根幹に関わる多様な機能を担うようになりました。その活動範囲は、財政、インフラ整備、情報、外交といった広範な分野に及び、中国の近代化プロセスに深く関与しました。
財政機関としての役割

海関の最も基本的な、そして最も重要な機能は、関税収入の確保でした。 効率的で不正のない徴税システムを確立したことにより、海関は清朝中央政府にとって、最も信頼性が高く安定した財源となりました。 19世紀後半には、海関からの税収が中央政府歳入の3分の1から半分を占めることもありました。 この莫大な収入は、太平天国の乱や捻軍の反乱といった大規模な内乱の鎮圧費用を賄う上で決定的な役割を果たしました。
さらに、日清戦争(1894-1895年)や義和団事件(1900年)の敗北後、清朝は巨額の賠償金の支払いや外国からの借款の返済に迫られました。 これらの対外債務の担保として、海関の関税収入が充てられました。 海関は、これらの債務の管理と返済を確実に実行する機関としての役割も担うようになり、中国の国家財政におけるその重要性はますます高まりました。 このため、列強諸国にとっても、海関が安定的に機能し続けることは、自国の債権を保全する上で死活問題であり、海関の存在を支持する大きな要因となりました。
近代インフラの構築者として

海関は、貿易の円滑化と安全確保のために、中国の近代的な海事インフラの整備を主導しました。 その代表的なものが、灯台や各種航路標識の建設と維持管理です。 19世紀半ばまで、広大な中国の沿岸には近代的な航行援助施設がほとんど存在せず、航海は危険を伴うものでした。海関は、イギリス海軍が開始した沿岸測量事業を引き継ぎ、中国沿岸全域および長江の詳細な海図を作成しました。 そして、そのデータに基づき、戦略的な地点に次々と近代的な灯台を建設していきました。 これらの事業は、海関の海事部門が担当し、船舶の安全航行に大きく貢献しました。
また、各条約港の港湾施設の改善、水路の浚渫、気象情報の提供なども海関の重要な業務でした。 これらはすべて、貿易の効率を高め、経済活動を活性化させるための基盤整備であり、海関が単なる徴税機関ではなく、近代的な国家インフラを構築する開発機関としての側面を持っていたことを示しています。
情報センターとしての役割

海関は、19世紀の中国において、最も体系的かつ信頼性の高い情報収集・発信機関でした。 1873年に上海に設立された統計科は、海関の「頭脳」とも言える部署でした。 ここでは、すべての条約港から集められた貿易データを集計・分析し、『貿易統計』として定期的に刊行しました。 この統計報告書は、輸入品・輸出品の品目、数量、価格、貿易相手国などの詳細なデータを含んでおり、中国経済の実態を客観的に把握するための第一級の資料でした。
統計科の活動は貿易統計に留まりませんでした。各港の税務司は、管轄地域の経済、社会、文化に関する報告書を作成することが奨励されており、これらの報告書は『海関十年報告』としてまとめられました。さらに、医療報告書や、航海者向けの通達など、専門的な出版物も多数発行されました。 これらの出版物は、海関内部の印刷所で印刷され、国内外に広く配布されました。 海関が収集・編纂した情報は、中国を外部の世界に紹介し、また外部世界の知識を中国に伝える上で、重要な架け橋の役割を果たしたのです。

海関の活動は、上記以外にも多岐にわたりました。
郵政事業: 中国の近代郵便制度(中華郵政)の基礎を築きました。
国際博覧会への参加: 中国を代表して、約30回に及ぶ万国博覧会や国際展示会への参加を組織しました。
教育機関の運営: 職員養成のための税務学堂や、外交官養成のための同文館の運営に資金を提供し、関与しました。
密輸取締と治安維持: 海関は独自の武装した巡視船団を保有し、密輸の取締りや海賊対策といった沿岸警備の役割も担っていました。
このように、海関は関税行政を中核としながらも、財政、インフラ、情報、外交、教育、治安維持といった、近代国家に不可欠な様々な機能を統合的に担う、他に類を見ない複合的な行政機関として発展していったのです。
海関が清朝社会と経済に与えた影響

海関の存在は、清朝後期の中国社会と経済に、深く、そして多面的な影響を及ぼしました。その影響は、単に財政収入の増加に留まらず、貿易構造の変化、近代化の促進、そして国家主権の問題にまで及びました。
財政的安定と中央集権化への寄与

海関がもたらした最も直接的かつ重要な影響は、清朝中央政府への安定的で巨額な財源の提供でした。 太平天国の乱をはじめとする内乱で既存の徴税システムが崩壊する中、海関からの関税収入は、反乱鎮圧のための軍事費を賄い、清朝の体制崩壊を防ぐ上で決定的な役割を果たしました。 また、関税収入が地方政府を経由せず、北京の中央政府に直接送金される仕組みは、中央政府の財政基盤を強化し、地方に対する中央の統制力を高める一助となりました。 ロバート・ハート自身も、清朝の統治における中央集権化を積極的に推進する立場をとっていました。
しかし、この財源は同時に、外国への賠償金や借款返済の担保ともなりました。 日清戦争や義和団事件の後、関税収入のほぼ全額がこれらの対外債務の支払いに充てられるようになると、海関は事実上、列強の債権を管理するための機関という側面を強めていきました。 これは、中国の財政が外国の管理下に置かれることを意味し、国家主権の観点からは大きな問題でした。
貿易の拡大と構造変化

海関による公正で予測可能な関税制度の運用は、国際貿易の拡大を促進しました。 煩雑で不透明だった旧来の徴税慣行が改められたことで、外国商人は安心して貿易活動に従事できるようになり、条約港における貿易量は飛躍的に増大しました。海関が発行した詳細な貿易統計は、この時代の貿易の動向を克明に記録しています。
一方で、海関の存在は、中国が世界経済のグローバルなネットワークに組み込まれていくプロセスを加速させました。アヘンの輸入は、海関の統計によれば19世紀後半を通じて減少し、国内での栽培が増加したことが示唆されていますが、依然として重要な輸入品でした。 工業製品、特に綿製品の輸入が増加する一方で、茶や絹といった伝統的な輸出品も重要であり続けました。海関は、こうしたグローバルな商品の流れを管理し、記録する役割を担いました。
近代化の触媒として

海関は、西洋の技術、制度、知識を中国に導入する上で、重要な触媒の役割を果たしました。灯台や港湾施設の建設は、物理的なインフラの近代化に直接貢献しました。 郵政事業の創設は、国内の情報伝達網の近代化を促しました。
さらに重要なのは、海関という組織そのものが、近代的な行政モデルを中国に提示したことです。能力主義に基づく人事、明確な職務分掌、文書主義、汚職防止のための厳格な規律といった特徴は、縁故や慣習が支配的だった清朝の伝統的な官僚制とは対照的でした。 海関で働いた中国人職員を通じて、あるいは海関と接触のあった清朝官僚を通じて、こうした近代的な行政の理念や実務が、徐々に中国社会に浸透していくきっかけとなりました。海関が運営に関わった税務学堂や同文館は、西洋の知識を持つ新しいタイプの人材を育成する場となりました。
主権の侵害という側面

海関が中国の財政安定や近代化に貢献した一方で、その存在は本質的に中国の国家主権を侵害するものでした。関税自主権は、南京条約によってすでに失われていましたが、海関という外国人が管理する機関が関税行政を掌握したことは、主権のさらなる侵食を意味しました。 海関のトップである総税務司は、清朝政府に雇用された一職員でありながら、実際には北京駐在の外国公使団と緊密に連携し、時には清朝政府の意向よりも列強の利益を優先する場面もありました。
特に、関税収入が対外債務の担保とされたことで、海関は中国の「国富」を管理し、外国へ流出させるための装置としての性格を帯びるようになりました。 海関の効率性が高まれば高まるほど、より多くの富が賠償金や借款の返済として国外に流出するというジレンマを抱えていました。このため、海関は「帝国主義の道具」あるいはイギリスの「非公式帝国」の重要な柱であったと批判的に評価されることも少なくありません。
海関は、清朝後期の中国が直面した複雑な状況を象徴する存在でした。それは、一方では国家の崩壊を防ぎ、近代化を推進する原動力となりながら、他方では国家主権を損ない、半植民地的な状況を固定化させる役割も果たした、極めて両義的な機関だったのです。
清朝末期から終焉へ

19世紀末から20世紀初頭にかけて、清朝を取り巻く内外の情勢はますます緊迫し、海関もまた大きな変革の波に洗われることになります。日清戦争(1894-1895年)と義和団事件(1900年)という二つの大きな出来事は、海関の役割と性格に決定的な影響を与えました。
日清戦争の敗北により、清朝は莫大な賠償金を日本に支払う義務を負いました。この賠償金を調達するため、清朝は外国の銀行団から多額の借款を受け入れましたが、その際の担保とされたのが海関の関税収入でした。 さらに、1901年に締結された北京議定書(辛丑和約)により、義和団事件の賠償金(庚子賠款)の支払いも義務付けられ、これもまた関税収入や塩税収入を担保としました。 これにより、海関の税収はほぼすべてが対外債務の返済に充てられることになり、海関は清朝政府の財政機関というよりも、国際的な債権管理機関としての性格を一層強めることになりました。 列強諸国は、自国の債権を確実に回収するために、海関の運営に対する関与を強めていきました。
義和団事件の際には、北京の総税務司署も攻撃を受け、ロバート・ハートをはじめとする職員たちが公使館区域に籠城するという事態も発生しました。 この事件は、海関のアーカイブに大きな損害を与えましたが、一方で事件後の処理において海関の重要性を改めて浮き彫りにしました。
この時期、海関はその活動範囲をさらに拡大します。国内の物流にかかる伝統的な税金であった常関税の徴収管理も、海関の管轄下に置かれるようになりました。 これは、海関の徴税能力と公正さに対する信頼の表れであると同時に、清朝の伝統的な税務行政が機能不全に陥っていたことを示しています。
1908年、45年間にわたって総税務司の地位にあったロバート・ハートが、ついにその職を辞して帰国の途につきました。 彼の退任は、海関の一つの時代の終わりを告げるものでした。後任には、同じくイギリス人のフランシス・アグレンが就任しました。
1911年に辛亥革命が勃発し、翌1912年に清朝が滅亡すると、海関は新たな試練に直面します。 中国の最高権力が失われた混乱の中で、この外国人が管理する機関が存続できるかどうかは不透明でした。 しかし、海関が管理する関税収入は、依然として対外債務の唯一確実な返済原資であり、列強諸国は海関の存続を強く望みました。結果として、海関は中華民国政府に引き継がれ存続することになります。
清朝の滅亡後も、海関は中国の財政と貿易において中心的な役割を担い続けました。しかし、中国国内でナショナリズムが高まるにつれて、関税自主権の回復と、海関の管理権を中国人の手に取り戻そうとする動きが強まっていきます。外国人、特にイギリス人が上級職を独占する海関のあり方は、国家主権の象徴として、次第に批判の対象となっていきました。
清朝時代に設立され、その後の中国史にも大きな影響を与え続けた海関は、1949年の中華人民共和国成立と、それに伴う組織の分割によって、その歴史に幕を閉じることになります。 1854年の設立から約一世紀にわたり、海関は中国と世界が交錯する最前線に立ち続け、近代中国の形成に複雑で多岐にわたる影響を残した、他に類を見ない特異な国家機関でした。

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