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海禁政策とは わかりやすい世界史用語2403
著作名: ピアソラ
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海禁政策《清》とは

清の海禁政策は、清王朝の時代に実施された一連の海洋貿易及び海上交通の制限政策を指します。この政策は、特定の歴史的状況に応じて導入と緩和が繰り返され、清朝の政治、経済、社会、そして対外関係に多岐にわたる影響を及ぼしました。

清朝初期の海禁政策:政治的安定の追求

清王朝は、1644年に満洲族によって建国されましたが、中国全土の支配を確立するまでには長い時間を要しました。特に南部沿岸地域では、明王朝の残存勢力による抵抗が続いていました。その中心的な存在が、鄭成功とその一族でした。鄭氏は台湾を拠点とし、強力な海上勢力を率いて清朝に抵抗を続け、中国本土への攻撃を繰り返していました。
この鄭氏の勢力を弱体化させ、明朝支持者との連携を断つことを目的として、清朝は1647年に海禁令を再開しました。これは明代の政策を踏襲したものでした。しかし、当初の海禁令は徹底されていませんでした。状況が大きく変わったのは、1661年、康熙帝の即位に伴い、より厳格な海禁令が発令された時です。これは「遷界令」として知られ、沿岸部の住民を強制的に内陸へ移住させるという、極めて厳しい内容でした。 浙江省、福建省、広東省などの沿岸住民は、海岸から30〜50里(約15〜25キロメートル)内陸への移住を命じられ、家屋や田畑は焼き払われました。この政策の目的は、鄭氏勢力が沿岸地域から食料や物資を補給することを不可能にし、経済的に孤立させることにありました。
この「大いなる清野」とも呼ばれる政策は、沿岸地域の社会と経済に壊滅的な打撃を与えました。 多くの人々が住む家を失い、伝統的な漁業や塩業、そして海上貿易といった生業を奪われました。 移住先での生活は困難を極め、多くの人々が貧困に苦しみました。この政策は、鄭氏の勢力を削ぐという軍事的な目的はあったものの、その代償として沿岸住民に甚大な犠牲を強いるものでした。 また、この政策は、清朝が支配を確立するためには、民衆の生活を犠牲にすることも厭わないという強硬な姿勢を示すものでもありました。
一方で、この厳格な海禁政策は、清朝内部からも批判を受けました。1659年の時点で、金鋐という役人は、海禁が銀の流入を止め、国内の通貨供給量を減少させ、商人たちに年間700万から800万両もの損失を与えていると指摘しています。 このように、海禁政策は当初から経済的な非効率性を内包しており、その実施は政治的・軍事的必要性が経済的合理性に優先された結果でした。



康熙帝による海禁の緩和と開港

1683年、清朝は台湾の鄭氏政権を制圧し、中国全土の統一をほぼ達成しました。 これにより、海禁政策の最大の目的であった政治的・軍事的脅威が消滅しました。この状況の変化を受け、康熙帝は海禁政策を転換する決断を下します。彼は、貿易が国家と社会の双方に利益をもたらすという信念を持っていました。
1684年、康熙帝は正式に海禁を解除し、民衆が再び海上に出ることを許可しました。 翌1685年には、外国の民間商人が中国の港で貿易を行うことも許可され、満洲族も漢民族と同様に海外貿易に従事できることが宣言されました。 この政策転換の背景には、康熙帝自身の商業を重視する思想がありました。彼は、利益の追求を貿易政策の出発点と捉え、海外貿易が国家を豊かにすると考えていたのです。
この開港政策に伴い、清朝は新たな貿易管理体制を構築しました。1685年、広州、漳州(福建省)、寧波(浙江省)、雲台山(江蘇省)の4つの港に税関(海関)が設置され、海外貿易の管理と関税徴収が始まりました。 これにより、これまで非合法な密貿易として行われていた海上交易が、国家の管理下で合法的に行われるようになりました。この新しいシステムは、清朝に新たな税収をもたらすとともに、貿易の秩序を維持する役割を果たしました。
康熙帝の開港政策は、中国の商人だけでなく、外国商人にも歓迎されました。特に、日本との貿易は重要視されました。当時、清朝は国内の通貨制度を支える銅の確保に苦慮しており、日本からの銅の輸入は不可欠でした。康熙帝は、日本から銅を輸入する商人に対して貸付を行うなど、積極的に貿易を支援しました。
しかし、康熙帝の開港政策は、完全な自由貿易を意味するものではありませんでした。1717年、彼は突如として東南アジアへの中国船の渡航を禁止します。 この背景には、海外に居住する中国人(華僑)が反清勢力と結びつくことへの警戒感がありました。 特に、東南アジアは反体制派や海賊の拠点と見なされており、康熙帝は治安上の懸念から再び制限を強化したのです。 このように、康熙帝の時代、海禁政策は政治的安定と経済的利益の間で揺れ動き、完全な開放と厳格な閉鎖の間を変動する、柔軟かつ状況に応じた政策として運用されました。

広東システム(一口通商体制)の確立

18世紀半ば、清朝の貿易政策は再び大きな転換点を迎えます。乾隆帝の治世である1757年、ヨーロッパ商人との貿易は広州一港に限定されることになりました。 これが「広東システム」または「一口通商体制」と呼ばれるもので、アヘン戦争によって終焉を迎える1842年まで続くことになります。
この体制が確立された背景には、いくつかの要因がありました。一つは、外国からの政治的・商業的脅威に対する清朝の警戒感です。 18世紀に入ると、イギリス東インド会社をはじめとするヨーロッパの商船が、広州だけでなく寧波など他の港にも来航し、貿易の拡大を求めるようになりました。特に1750年代にジェームズ・フリントというイギリス商人が寧波での貿易を試み、さらには北京にまで赴いて貿易条件の改善を直訴しようとした「フリント事件」は、清朝に衝撃を与えました。 この事件をきっかけに、乾隆帝は外国人の活動をより厳格に管理する必要性を痛感し、貿易港を広州に限定する措置をとったのです。
広東システムの下では、外国商人の活動は厳しい制限下に置かれました。
まず、貿易は毎年10月から1月までの特定の期間にしか許可されませんでした。 貿易期間外、商人たちはマカオで過ごすことを余儀なくされました。
次に、外国商人は「十三行」と呼ばれる特定の商館地区に居住することが義務付けられ、広州の城壁内に入ることは許されませんでした。 女性が商館地区に立ち入ることも禁止されていました。
さらに、外国商人が中国の役人と直接交渉することは固く禁じられており、すべての取引は「公行(コホン)」と呼ばれる政府公認の特許商人組合を通じて行わなければなりませんでした。 このコホンが、外国船の入港手続きから商品の価格交渉、納税の保証、そして在留外国人の行動監督まで、すべての責任を負う仕組みでした。 イギリス東インド会社は、すべてのイギリス船と船員に対してコホンに責任を負うという形で、両国の政府は直接関与せず、商人団体を介して間接的に関係を持っていました。
このシステムは、清朝にとっていくつかの利点がありました。第一に、外国人を特定の場所に隔離し、その行動を監視することで、国内の社会秩序への影響を最小限に抑えることができました。 第二に、コホンという独占的な商人組合を介在させることで、貿易から得られる利益を確実に吸い上げることができました。 コホンから得られる莫大な収益は、国庫ではなく皇帝の内廷(皇室財産)に納められており、このシステムを維持することは清朝の支配者層にとって直接的な利益につながっていました。 第三に、朝貢貿易の形式を維持しつつ、実質的な貿易を行うことで、中国中心の国際秩序という理念を維持しようとしました。
しかし、このシステムは多くの問題を抱えていました。コホンの商人たちは、多額の費用を当局に支払うことで独占権を得ており、その負担は必然的に取引価格に転嫁されました。 また、税関監督官(「ホッポ」として知られる)による汚職や恣意的な課税が横行し、貿易の健全な発展を阻害しました。 外国商人にとっては、行動の自由が極端に制限され、中国語の学習も禁止されるなど、不満が募る一方でした。 このような硬直的で制限の多い広東システムは、やがてイギリスをはじめとする西欧諸国との間に深刻な緊張を生み出す温床となっていきました。

海禁政策の経済的・社会的影響

清朝の海禁政策、特に初期の厳格な遷界令と後期の広東システムは、中国の経済と社会に複雑で多岐にわたる影響を及ぼしました。
経済的な側面では、海禁政策は沿岸地域の経済に深刻な打撃を与えました。遷界令によって、漁業、製塩業、造船業といった伝統的な海洋産業は壊滅的な被害を受けました。 多くの港湾都市が衰退し、地域経済は停滞しました。 また、民間による自由な海上貿易が禁止されたことで、中国商人が東南アジアなどで築き上げてきた貿易ネットワークは一時的に断絶しました。 これにより、中国経済は世界経済のダイナミズムから隔絶されることになりました。
しかし、一方で、海禁政策が中国経済の発展を完全に停滞させたわけではありません。政策の施行が不徹底であった時期や地域もあり、密貿易は常に存在し続けました。 実際、16世紀半ば以降、密貿易の隆盛が中国に商業革命をもたらしたという見方もあります。 康熙帝による開港後は、民間貿易が再び活発化し、18世紀には国内商業が大きく発展しました。 特に、長江中流域や上流域の開発が進み、人口増加と相まって国内市場は拡大を続けました。 政府の税制(地丁銀制)が銀納を基本としていたため、農民も生産物を市場で売って貨幣を得る必要があり、これが商品経済の発展を後押しした側面もあります。
広東システム下では、貿易は一港に集中しましたが、茶、絹、陶磁器などの輸出は莫大な利益を生み出しました。 特にイギリスでの茶の需要は爆発的に増加し、18世紀のイギリス政府の税収の10%を茶の関税が占めるほどでした。 この貿易は、当初は中国側の大幅な出超(輸出超過)であり、大量の銀が中国に流入しました。
社会的な側面では、遷界令は沿岸住民の生活基盤を根こそぎ奪い、多くの離散民を生み出しました。 強制移住はコミュニティを破壊し、人々は伝統的な生活様式を失いました。 これは社会不安の大きな要因となり、海賊行為や密貿易に身を投じる人々を増やす結果にもつながりました。 また、海外への移住も厳しく制限されました。清朝は、海外に移住した中国人が反清勢力と結びつくことを恐れ、彼らを「棄民」(見捨てられた民)と見なし、許可なく帰国した者を罰するなど、冷淡な態度をとりました。
文化的な側面では、海禁政策は国際的な文化交流や技術移転を妨げました。 特に、航海術や造船技術の分野で、中国はかつての優位性を失い、ヨーロッパ諸国に後れを取ることになりました。 外部からの情報や刺激が制限されたことで、中国社会は内向的になり、世界の変化から取り残されていく一因となったという指摘もあります。

アヘン戦争と海禁政策の終焉

18世紀後半から19世紀にかけて、広東システムが内包していた矛盾は次第に顕在化し、最終的にはアヘン戦争という形で爆発しました。その最大の要因は、イギリスとの間の貿易不均衡問題と、それを解決するために持ち込まれたアヘンでした。
当時、イギリスは中国から大量の茶を輸入していましたが、一方で中国市場で売れるイギリス製品は毛織物などごくわずかでした。 そのため、イギリスは茶の代金を大量の銀で支払わなければならず、深刻な貿易赤字に陥っていました。 この状況を打開するため、イギリス東インド会社はインドで生産したアヘンを中国に密輸することを画策します。
アヘンは中毒性の高い麻薬であり、その使用は瞬く間に中国社会に広がりました。 1729年に雍正帝がアヘンの販売と吸引を禁止し、その後もたびたび禁令が出されましたが、密輸は止まりませんでした。 地方官僚やコーホンの商人たちが賄賂を受け取って密輸を黙認していたため、取り締まりは効果を上げませんでした。 1820年代になると、アヘン貿易の拡大により、これまで中国に流入していた銀が、逆に大量に流出するようになります。 これにより銀の価格が高騰し、銀で納税していた農民の負担が増大するなど、深刻な経済問題を引き起こしました。 アヘン中毒者の増加は、社会の風紀を乱し、人々の健康を蝕む深刻な社会問題ともなっていました。
事態を憂慮した道光帝は、1839年、林則徐を広州に派遣し、アヘンの厳格な取り締まりを命じます。林則徐は、イギリス商人らが所有していた2万箱以上のアヘンを没収し、処分するという断固たる措置を取りました。 これに対し、イギリス政府は自国商人の財産が侵害されたとして、自由貿易と外交上の平等を主張し、軍事力に訴えることを決定します。
1840年6月、イギリスの遠征軍が中国に到着し、アヘン戦争が勃発しました。 技術的に優れたイギリス軍の前に、清軍は各地で敗北を喫します。 1842年8月、清朝はイギリスの要求を受け入れ、不平等条約である南京条約を締結せざるを得なくなりました。
南京条約により、広東システムは完全に崩壊しました。 この条約で、清朝は広州に加え、厦門、福州、寧波、上海の5港を開港することを強制されました。 また、コーホンによる貿易独占は廃止され、イギリス商人はどの中国商人とも自由に取引できるようになりました。 さらに、香港の割譲、多額の賠償金の支払いなども定められました。
アヘン戦争の敗北と南京条約の締結は、清朝の海禁政策の終わりを告げるだけでなく、中国の歴史における大きな転換点となりました。それは、中国が長年維持してきた華夷秩序(中国中心の国際秩序)が崩壊し、ヨーロッパ主導の国際関係の枠組みに組み込まれていく過程の始まりでした。 この後、第二次アヘン戦争を経て、さらに多くの港が開かれ、内陸への外国人の立ち入りも認められるようになり、中国は半植民地化の道を歩むことになります。
清朝の海禁政策は、王朝初期においては国内の政治的安定を確保するという明確な目的を持っていました。しかし、時代が下るにつれて、その硬直的な運用は世界情勢の変化に対応できなくなり、最終的には外国からの軍事介入を招く結果となりました。この歴史は、閉鎖的な政策が長期的に国家にもたらす脆弱性を示す事例として、後世に多くの教訓を残しています。

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