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対馬(宗氏)とは わかりやすい世界史用語2434
著作名: ピアソラ
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対馬(宗氏)とは

対馬の宗氏は、日本の歴史において、特に朝鮮半島との関係において、他に類を見ない独特の地位を占めてきた一族です。その歴史は、13世紀から19世紀後半にかけて、鎌倉時代から江戸時代の終わり、そして明治維新に至るまで、対馬を統治し続けたことで知られています。

宗氏がその本拠地を九州北部から対馬に移したのは、1400年代頃のことです。 九州の筑前における領地を維持しようと奮闘しましたが、15世紀半ばには大内氏によってその地域から最終的に追放されてしまいました。 その後、宗氏は少弐氏と共に、戦国時代(1467年~1600年)を通じて何度も大内氏と戦いました。 この時期、宗氏は九州における領地を失ったり取り戻したりを繰り返すことになります。
宗氏の歴史を考える上で、その出自に関するもう一つの興味深い説は、彼らが朝鮮半島にルーツを持つ可能性があるという点です。これは、宗氏の親氏族である惟宗氏、さらにその親氏族である秦氏が新羅に起源を持つとされることに由来します。 このような背景は、後に宗氏が朝鮮との間で築くことになる複雑で多層的な関係性を理解する上で、一つの視点を提供してくれるかもしれません。
いずれにせよ、宗氏は対馬という地理的に孤立した島を拠点としながらも、巧みな戦略と粘り強い交渉によって、中央の権力闘争の波を乗りこなし、自らの地位を確立していきました。



中世における宗氏と朝鮮との関係

宗氏の歴史を語る上で、朝鮮半島との関係は切り離すことができません。山がちで農業生産力が低い対馬にとって、朝鮮との貿易は経済的な生命線でした。 幸いなことに、宗氏と朝鮮の李氏朝鮮(1392年成立)は、互いに利益を共有する関係を築くことができました。
室町時代に入ると、宗氏は朝鮮との外交・貿易において重要な役割を担うようになります。 1419年、朝鮮は倭寇の根拠地と見なした対馬に対し、応永の外寇として知られる軍事侵攻を行いました。 この侵攻は、対馬を古くからの朝鮮領土であると主張すると同時に、海賊行為を抑制することを目的としていました。 宗氏が降伏した後、朝鮮王朝は対馬を慶尚道の一部と見なし、宗氏をその統治下にある役人と位置づけるようになります。ただし、島の統治や行政における広範な自治権は宗氏に残されました。
この出来事を経て、宗氏の朝鮮王朝における役人、あるいは家臣としての地位は、1443年にさらに確固たるものとなります。 室町幕府に仕える対馬の守護という地位を維持しつつも、宗氏は同時に、朝鮮の海域や領土内での日本人の交易や渡航に関する許可証を発行する独占的な権利を朝鮮王朝から与えられたのです。 対馬や朝鮮へ渡航する日本の船はすべて、朝鮮王朝がこの目的のために宗氏に与えた印章が押された許可証を必要としました。 これにより、他の武家や日本の勢力が、朝鮮との政治的・経済的関係において宗氏を迂回したり、凌駕したりすることは困難になりました。
この年、対馬の大名であった宗貞盛は、嘉吉条約(癸亥約条)を提案しました。 この条約によって、対馬から朝鮮への貿易船の数が定められ、宗氏が朝鮮との貿易を独占することになったのです。 宗氏は朝鮮への海賊の襲撃を大幅に減らすことを求められ、その見返りとして、朝鮮半島との貿易における事実上の独占権を与えられました。 この貿易による富と権力は、宗氏の領土の小ささや朝鮮に対する従属的な立場を補って余りあるものであり、やがて彼らを日本の主要な氏族の一つへと押し上げていくことになります。
朝鮮王朝はまた、宗氏に毎年200石の米の俸給と、毎年50隻の貿易船を朝鮮に派遣し、特定の海上料金や貨物税を課す許可を与えました。 このようにして、宗氏は日本と朝鮮という二つの権力の間で、巧みに自らの地位を築き上げていきました。彼らは、倭寇の活動を抑制することで朝鮮側の信頼を得ると同時に、貿易の独占権を確保することで経済的な基盤を固めたのです。
しかし、宗氏と朝鮮の関係は常に平穏だったわけではありません。1510年には、三浦の乱として知られる事件が起こります。これは、釜山、蔚山、鎮海へ交易に訪れる対馬や壱岐の日本人商人に対する朝鮮の厳しい政策に反発した商人たちが起こした暴動でした。 宗氏もこの暴動を支援しましたが、間もなく鎮圧されました。 この事件の結果、朝鮮へ派遣される船の数は年間50隻から25隻に削減され、それまで釜山周辺をある程度自由に移動できた対馬の役人や代表者は、釜山の倭館(日本人居留地)に活動を制限されることになりました。
また、1547年の丁未約条(天文条約)では、倭寇の活動が活発化したことを受けて、交易は釜山港に限定され、宗氏の通商も年間20隻に制限されました。
このように、宗氏は朝鮮との関係において、協力と対立を繰り返しながらも、その特異な立場を維持し続けました。彼らは、対馬という地理的な条件を最大限に活用し、外交と貿易の担い手として、中世の日本史において他に類を見ない役割を果たしたのです。その活動は、単なる経済活動にとどまらず、両国間の文化交流や情報伝達においても重要な意味を持っていました。
戦国時代から安土桃山時代にかけての宗氏

戦国時代、日本国内が群雄割拠の乱世に突入する中でも、対馬の宗氏は朝鮮との関係を軸に、独自の道を歩み続けました。九州本土では、大内氏や毛利氏、大友氏といった有力大名との間で領土をめぐる争いが絶えませんでしたが、宗氏は対馬という島を拠点とすることで、本土の戦乱から一定の距離を保つことができたのです。
15世紀半ばに大内氏によって筑前の領地を追われて以降、宗氏は少弐氏と連携し、大内氏と何度も戦いました。 この過程で、宗貞盛とその弟である宗盛国は、大内氏を10回以上も打ち破る活躍を見せ、九州の主要な港の一つである博多の商人たちとの関係を深めていきました。 しかし、最終的に少弐氏が大内氏に敗れると、大内氏が朝鮮との主要な貿易相手となり、宗氏の立場は相対的に低下しました。
それでも宗氏は、大内氏ほど有利な枠組みはなかったものの、朝鮮との友好関係を維持し続けました。 1559年に少弐冬尚が龍造寺隆信に敗れて少弐氏が滅亡すると、宗氏の九州における領土的野心は終わりを告げました。 以後、宗氏は対馬の支配と朝鮮との関係に、より一層注力していくことになります。
この時代の宗氏を語る上で欠かせない人物が、宗義智(1568年~1615年)です。 彼は宗氏の第19代当主であり、対馬藩の初代藩主でもあります。 義智は、1580年に養父である宗義調が敗れ、対馬が豊臣秀吉の九州平定に先立って征服された後、1588年に家督を継ぎました。 1587年、秀吉は宗氏の対馬領有を認め、義智は秀吉に仕えることになります。
義智が秀吉のために最初に取り組んだ主要な任務の一つが、秀吉の代理人として朝鮮との交渉を組織することでした。 秀吉は、朝鮮との国交を再確立し、明への遠征計画に朝鮮を参加させることを望んでいました。 1589年、義智は秀吉の要求、すなわち、明への遠征に参加するか、さもなくば日本との戦争に直面するという最後通牒を朝鮮に伝える任務を負いました。
しかし、朝鮮との特別な貿易特権を持つ宗氏にとって、日本と朝鮮の間の紛争は避けたい事態でした。 対馬は当時、朝鮮へ向かうすべての日本の船の唯一の検問所であり、宗氏は朝鮮との貿易において大きな利害関係を持っていたのです。 そのため、義智は交渉を2年近く遅らせました。 秀吉が再度命令を下した際も、義智は朝鮮宮廷への訪問を、両国関係を改善するための運動へと矮小化しようと試みました。
最終的に、朝鮮国王宣祖は、明の朝貢国であり同盟国であったため、日本軍が明を侵攻するために朝鮮を通過することを拒否しました。 これにより、秀吉は朝鮮への軍事侵攻を計画することになります。
1592年に始まった文禄・慶長の役(壬辰倭乱)において、宗義智は重要な役割を担うことになります。対馬の地理的な重要性と、朝鮮に関する知識と経験から、義智は戦争の最初の主要な陸上攻撃である釜山鎮の戦い(1592年4月13日)を率いるよう命じられました。 この戦いには、彼の義父である小西行長も加わっていました。 義智はその後もいくつかの戦闘で指揮を執り続けました。
しかし、戦争が始まって間もなく、宗氏は朝鮮との関係修復に乗り出します。彼らは幕府の公式な使節を装って、数多くの使者を派遣しました。 これには、幕府と朝鮮の両方に対する自らの立場を改善しようという狙いがあったと考えられます。 宗氏が、自らをより良く見せるために公式文書を脚色した証拠も存在します。
この戦争は1598年に秀吉の死によって終結しますが、宗氏の外交努力はその後も続きました。彼らは、戦争によって断絶した日本と朝鮮の国交を回復させるという、極めて困難な任務を自ら引き受けたのです。この時期の宗氏の行動は、自らの存続と繁栄のためには、平和的な外交関係がいかに重要であるかを深く理解していたことを示しています。彼らは、戦国大名としての武力だけでなく、外交官としての知略をも併せ持った、稀有な存在だったと言えるでしょう。
江戸時代における宗氏の役割と対馬藩

豊臣秀吉の死後、日本は関ヶ原の戦いを経て徳川家康による江戸幕府の時代へと移行します。宗氏は関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方しましたが、徳川家康から罰せられることはありませんでした。 これには、家康が朝鮮や中国との関係改善を模索しており、朝鮮との独自の外交チャンネルを維持していた宗氏を赦免したという説が有力です。
外様大名であった宗氏は、対馬の支配を続けることを許されました。 1603年、徳川家康が新たな幕府を樹立すると、宗義智は正式に対馬府中藩(10万石)を与えられました。 この10万石という石高は、対馬の実際の農業生産高が3万石未満であったことを考えると、その外交的・経済的な重要性が高く評価された結果でした。
江戸幕府は、宗氏に朝鮮との外交交渉と貿易を委ねました。 これにより、宗氏は日本と朝鮮との間の唯一の公式な窓口としての地位を独占することになります。 対馬藩は、釜山に倭館と呼ばれる役所を置き、日常的な貿易や外交業務を行いました。 この倭館には、400人から500人の役人、商人、朝鮮語や医学を学ぶ学生などが駐在していました。
宗氏の最も重要な役割の一つは、朝鮮通信使の応接でした。朝鮮通信使は、新しい将軍の就任を祝ったり、将軍の世継ぎの誕生を祝ったりするために朝鮮から派遣された大規模な使節団でした。 1607年から1811年までの間に、12回の公式な朝鮮通信使が日本を訪れ、その多くは将軍に謁見するために江戸まで旅をしました。 これらの使節団は、300人から500人もの人々で構成され、その旅は数ヶ月に及びました。
宗氏にとって、通信使の応接は藩の威信を示す絶好の機会であると同時に、莫大な経済的負担を伴うものでした。しかし、この役割を担うことで、宗氏は幕府内での特異な地位を確保し、政治的・経済的に大きな利益を得ることができました。 また、通信使は、日本にとって幕府の正当性を内外に示すプロパガンダとして、また、江戸を中心とする国際秩序の理想像を具現化する重要な要素として機能しました。
宗氏は、徳川幕府の代理人および代弁者として、朝鮮政府との仲介役を務め続けました。 このユニークな立場は、江戸時代を通じて宗氏に安定と繁栄をもたらしました。彼らは、参勤交代においても特別な地位を与えられ、通常は隔年で行われる江戸への出府が3年に1度に短縮されていました。
しかし、その一方で、宗氏は二重の臣従関係という複雑な立場にありました。彼らは徳川幕府の家臣であると同時に、朝鮮国王の家臣でもあったのです。 宗氏は朝鮮国王に定期的に朝貢使節を送り、その見返りとして、17世紀半ば以降は毎年8,300石の米や、様々な朝鮮・中国製品を受け取っていました。
この複雑な立場は、時に宗氏を危険な状況に追い込むこともありました。1634年から1635年にかけて発覚した柳川一件は、その代表的な例です。これは、宗氏の家老であった柳川氏が、数十年前に幕府の承認なしに幕府の名を騙って外交文書を偽造していたことが発覚した事件です。 宗氏もこの文書作成に関与していたことは明らかでしたが、朝鮮との貿易・外交関係を維持する上での宗氏の重要性から、罰せられたのは柳川氏のみでした。 この事件以降、幕府は京都から僧侶を対馬に交代で駐在させ、外交文書を監督させるようになります。
また、宗氏は貿易の利益を最大化するために、様々な手段を講じていました。九州国立博物館に所蔵されている対馬宗家関係資料の中には、朝鮮政府が日本の渡航者に外交文書に押印するために与えた「図書」と呼ばれる銅製の印章が多数含まれています。 興味深いことに、宗家の古文書にある印章の多くは対馬以外の人物の名前のものであり、これは宗氏が島外の人物からできるだけ多くの交易許可を集めようとしていたことを示しています。 さらには、足利将軍家を代表する「徳有鄰」の印や、朝鮮国王の「為政以徳」の印の木製偽造品まで作成し、両国の文書を偽造していたことも明らかになっています。 これらの事実は、宗氏が日本と朝鮮の外交関係の中で、いかに独自の、そして時には危うい立場を築き上げていたかを物語っています。
経済的には、対馬藩は17世紀後半には朝鮮貿易と銀山で繁栄しましたが、18世紀に入ると貿易の不振や銀鉱石の枯渇に苦しみました。 経済改革や幕府からの度重なる援助も、藩の財政を改善するには至りませんでした。
江戸時代を通じて、宗氏は日本と朝鮮の間の唯一の架け橋として、他に類を見ない役割を果たし続けました。彼らの存在なくして、江戸時代の両国関係を語ることはできないでしょう。その歴史は、外交、貿易、文化交流が複雑に絡み合った、非常に興味深い事例と言えます。
明治維新と宗氏の終焉

19世紀半ば、日本の長い鎖国政策は、欧米列強の圧力によって終わりを告げようとしていました。国内では、徳川幕府の権威が揺らぎ、尊皇攘夷運動が高まりを見せます。この激動の時代は、対馬の宗氏にも大きな変化をもたらしました。
1862年、対馬藩は尊皇攘夷運動の主導的な藩の一つであった長州藩と同盟を結びました。 これは、時代の変化を敏感に察知し、新たな権力構造の中で生き残りを図ろうとする宗氏の戦略的な動きであったと考えられます。しかし、1864年に反幕府派が粛清されると、対馬藩は人材を失い、明治維新において大きな役割を果たすことはできませんでした。
1868年、明治天皇の下で新政府が樹立され、明治維新が始まります。 この政治的変革は、日本の封建制度に終止符を打ち、社会のあらゆる側面に巨大な変化をもたらしました。 1869年には版籍奉還が行われ、大名たちは土地と人民を天皇に返還しました。 そして1871年、廃藩置県によって藩制度が完全に廃止され、宗氏による対馬の支配は、数世紀にわたる歴史の幕を閉じることになったのです。
対馬藩の最後の藩主であった宗重正(義達)は、1869年に厳原県の知事となり、廃藩置県後は華族制度の下で1884年に伯爵の爵位を授けられました。 これにより、宗氏は武家としての支配者の地位を失い、近代日本の新たな貴族階級の一員となりました。
宗氏が長年にわたって担ってきた朝鮮との外交業務は、新設された外務省に引き継がれました。 これにより、対馬が日本と朝鮮の間の唯一の窓口であった時代は終わりを告げ、両国の関係は国家間の直接的な交渉へと移行していきました。
宗氏の歴史は、鎌倉時代から明治維新に至るまで、約700年間にわたって対馬を統治し続けた、非常に稀有な例です。 彼らは、対馬という地理的に特殊な環境を最大限に活用し、朝鮮との貿易と外交を独占することで、小規模な領土ながらも大きな影響力を保持し続けました。

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