|
|
|
|
|
更新日時:
|
|
![]() |
ビザンツ帝国の滅亡とは わかりやすい世界史用語2320 |
|
著作名:
ピアソラ
543 views |
|
ビザンツ帝国の滅亡とは
ビザンツ帝国の滅亡は、1453年5月29日のコンスタンティノープル陥落によって決定的な瞬間を迎えました。 この出来事は、古代ローマ帝国から続く国家の最終的な終焉を意味し、中世の終わりと近世の始まりを告げる画期的な出来事と見なされています。 しかし、この帝国の終焉は一つの出来事の結果ではなく、何世紀にもわたる政治的、経済的、軍事的衰退の集大成でした。
衰退の序章:内部対立と外部からの圧力
ビザンツ帝国の衰退は、11世紀に始まったと広く考えられています。 この時期、帝国は内部の政治的不安定と、外部からの新たな脅威という二重の課題に直面していました。 1071年のマンジケルトの戦いは、帝国の歴史における転換点の一つと見なされています。 この戦いでビザンツ軍はセルジューク・トルコに壊滅的な敗北を喫し、小アジアにおける帝国の支配領域の大部分を失いました。 この領土の喪失は、帝国にとって重要な兵士の供給源と食料生産地を奪うことになり、軍事力と経済力の両面に深刻な打撃を与えました。
さらに、この敗北は内戦を引き起こし、帝国の弱体化を加速させました。 11世紀後半には、8つもの反乱が起こるなど、政治的な混乱が続きました。 帝国の伝統的な軍事制度であったテマ制(軍管区制)は、11世紀以降衰退の一途をたどり、帝国は傭兵への依存度を高めざるを得なくなりました。 テマ制は、かつては帝国に安価で大規模な兵力を提供する効果的な手段でしたが、その崩壊は帝国の防衛能力を著しく低下させました。
経済面では、プロノイア制(軍役奉仕と引き換えの土地供与)の腐敗が進み、多くの貴族が税金を納めず、軍役にも服さないという状況が生まれていました。 これにより国家の財政基盤はさらに弱まり、信頼性の低い傭兵への依存を深めるという悪循環に陥りました。 また、ヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの海洋都市国家に商業的な覇権を奪われ、帝国の歳入は減少し続けました。
第四次十字軍の衝撃
ビザンツ帝国にとって致命的な打撃となったのが、1204年の第四次十字軍によるコンスタンティノープル占領と略奪です。 当初、聖地エルサレムの奪還を目的としていたはずの十字軍は、政治的・経済的な思惑が絡み合い、キリスト教世界の中心地であるコンスタンティノープルを攻撃するという前代未聞の事態に至りました。 この出来事は、東西キリスト教会の分裂を決定的なものにし、ビザンツ帝国に回復不可能なほどの損害を与えました。
十字軍による3日間にわたる略奪は凄惨を極め、古代から中世にかけての貴重な芸術品や遺物の多くが破壊されるか、西ヨーロッパ、特にヴェネツィアへと持ち去られました。 都市の人口は激減し、教会や修道院は冒涜されました。 帝国はラテン帝国として知られる十字軍国家と、ニカイア帝国、トレビゾンド帝国、エピロス専制侯国といったビザンツ系の後継国家に分裂しました。
1261年、ニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪還し、ビザンツ帝国はパレオロゴス王朝の下で再興されます。 しかし、再興された帝国はかつての栄光を取り戻すことはできず、領土も大幅に縮小した地域大国に過ぎませんでした。 第四次十字軍によって失われた首都は、帝国の権威と経済力に致命的な傷を残し、その後の衰退を決定づけたのです。
パレオロゴス朝の苦闘とオスマン帝国の台頭
再興後のパレオロゴス朝の時代は、絶え間ない内外の危機に満ちていました。帝国はラテン人、セルビア人、ブルガリア人、そして急速に勢力を拡大するオスマン・トルコからの攻撃に絶えずさらされました。 特に14世紀に頻発した内戦は、帝国の国力を著しく消耗させました。 1321年から1328年、そして1341年から1347年にかけての内戦は、強力な隣国への対応を遅らせ、帝国をさらに不安定にしました。
この内乱の隙を突いて勢力を拡大したのが、アナトリア北西部で台頭したオスマン・ベイ国でした。 オスマン1世に率いられたガーズィ(イスラムの戦士)たちは、ビザンツ領へと侵攻を繰り返しました。 1329年のペレカノンの戦いでの敗北後、ビザンツ帝国はオスマンの進撃を食い止める力を失いました。 1354年のガリポリ陥落は、オスマン・トルコがヨーロッパ大陸へ足がかりを築く決定的な出来事となり、多くの歴史家はこれをビザンツ帝国の滅亡が不可避となった瞬間と見なしています。
14世紀後半には、ビザンツ帝国はオスマン帝国の属国同然の状態にまで追い込まれました。 皇帝ヨハネス5世は、オスマン帝国への対抗策として西ヨーロッパからの支援を求めましたが、ヴェネツィアで債務者として逮捕されるという屈辱を味わうことになります。 帝国の領土はコンスタンティノープル周辺とギリシャ南部のモレアス専制公領、そして黒海南岸のいくつかの都市に限られ、かつての大帝国の面影はほとんど残っていませんでした。 1453年までに、コンスタンティノープルの人口は激減し、広大な畑の中に城壁で囲まれた村々が点在するような状態になっていたのです。
最後の皇帝コンスタンティノス11世
帝国の最後の皇帝となったのは、コンスタンティノス11世パレオロゴスでした。 1449年に即位した彼は、勇気と活力に満ちた人物でしたが、彼が受け継いだのは破滅的な遺産でした。 彼は帝国の防衛のために全力を尽くし、東西教会の合同を認めることで西側からの支援を得ようと試みましたが、その努力は実りませんでした。
コンスタンティノス11世は、1404年2月8日に皇帝マヌエル2世パレオロゴスとセルビア貴族のヘレナ・ドラガシュの間に生まれました。 彼は若い頃から軍人として優れた能力を発揮し、モレアス専制公として統治にあたっていました。 兄である皇帝ヨハネス8世が子供を残さずに亡くなると、その有力な後継者として皇帝に即位しました。 彼の短い治世は、後継者問題、そしてオスマン帝国の脅威への対処という2つの大きな課題に直面していました。
西側からの支援を得るため、彼はフィレンツェ公会議で決定された教会の合同を再確認しましたが、これはカトリックを嫌うビザンツの民衆や聖職者の激しい反発を招きました。 結局、ヴェネツィアやジェノヴァから少数の兵士が駆けつけたものの、西ヨーロッパ諸国からの大規模な援軍が到着することはありませんでした。
コンスタンティノープル包囲戦
1451年にオスマン帝国のスルタンに即位した21歳のメフメト2世は、コンスタンティノープルの征服を自らの使命と定めました。 彼は周到な準備を進め、1452年にはボスポラス海峡の最も狭い地点にルメリ・ヒサルと呼ばれる要塞を建設し、黒海と地中海の間の交通を遮断しました。
そして1453年4月6日、メフメト2世率いるオスマン軍がコンスタンティノープルの包囲を開始しました。 オスマン軍の兵力は、西側の資料によれば8万人から20万人と推定されており、ビザンツ側の守備兵約7,000人を圧倒していました。 ビザンツ軍は、皇帝コンスタンティノス11世の指揮の下、ギリシャ人兵士約5,000人と、ジェノヴァやヴェネツィアからの外国人兵士約2,000人で構成されていました。 ジェノヴァの傭兵隊長ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴは、陸上防衛の指揮官に任命され、その専門知識を駆使して防衛戦を指導しました。
オスマン軍の最大の切り札は、ハンガリー人の技術者ウルバンが製造した巨大な大砲でした。 ウルバンは当初ビザンツ側に協力を申し出ましたが、帝国には彼を雇う資金がありませんでした。 その後、彼はメフメト2世に仕え、「バビロンの城壁をも打ち砕く」と豪語する巨大な大砲を製造したのです。 この大砲は「バシリカ」とも呼ばれ、長さ約27フィート(約8.2メートル)、重さ1,500ポンド(約680キログラム)の石弾を発射することができました。
オスマン軍は、この巨大な大砲を含む60門以上の大砲を動員し、コンスタンティノープルの難攻不落と謳われたテオドシウスの城壁に対して、絶え間ない砲撃を加えました。 砲撃は城壁にいくつかの破れ目を作りましたが、守備隊は夜間に懸命の修復作業を行い、持ちこたえました。 オスマン軍はまた、城壁の下にトンネルを掘って侵入を試みましたが、ビザンツ側はこれを察知し、ギリシャ火などを用いて撃退しました。
海からの攻撃も熾烈でした。オスマン艦隊は金角湾の入り口に張られた巨大な防鎖に行く手を阻まれましたが、メフメト2世は奇策を用います。 彼は艦隊の一部を陸路でガラタ地区の丘を越えさせ、金角湾内に送り込むことに成功しました。 これにより、ビザンツ側は防衛兵力をより広範囲に分散させざるを得なくなり、防衛線はさらに手薄になりました。
最後の総攻撃と帝国の終焉
55日間にわたる包囲戦の末、1453年5月29日の未明、メフメト2世は総攻撃の命令を下しました。 オスマン軍は陸と海から一斉に攻撃を開始しました。 最初の攻撃は非正規兵によって行われ、その後、精鋭部隊であるイェニチェリが投入されました。 守備隊は必死の抵抗を続け、二度にわたる攻撃を撃退しました。
しかし、三度目の攻撃で、ついに城壁の一部が破られました。 ジェノヴァの指揮官ジュスティニアーニが負傷し、戦線を離脱したことで、守備隊の士気は大きく揺らぎました。 オスマン兵がケルコポルタと呼ばれる小さな門から市内に侵入したという情報も混乱を助長しました。 皇帝コンスタンティノス11世は、皇帝の徽章を脱ぎ捨て、自ら剣を抜いて乱戦の中に身を投じ、壮絶な最期を遂げたと伝えられています。
市内に突入したオスマン軍は、3日間にわたる略奪を行いました。 多くの市民が殺害され、財産が奪われました。キリスト教世界の至宝であったハギア・ソフィア大聖堂もモスクへと変えられました。
滅亡がもたらしたもの
コンスタンティノープルの陥落とビザンツ帝国の滅亡は、ヨーロッパと世界の歴史に大きな影響を与えました。
第一に、オスマン帝国のヨーロッパへの進出が本格化しました。 かつてキリスト教世界の東の盾であったビザンツ帝国が消滅したことで、オスマン帝国はバルカン半島における支配を確立し、ウィーン包囲に至るまでヨーロッパへの拡大を続けることになります。 メフメト2世はコンスタンティノープルを新たな首都とし、イスタンブールと改名しました。 彼は自らを「ローマ皇帝(カイセリ・ルーム)」と称し、オスマン帝国をローマ帝国の後継者と位置づけました。
第二に、ルネサンスの進展に寄与しました。 コンスタンティノープルからイタリアなど西ヨーロッパへ逃れた多くのギリシャ人学者は、古代ギリシャ・ローマの貴重な文献や知識をもたらしました。 これが、西ヨーロッパにおける古典研究の復興を促し、ヒューマニズムと科学の発展、すなわちルネサンスを加速させる一因となったのです。
第三に、東方正教会の世界における中心が移動しました。ビザンツ帝国は東方正教会の中心であり、その文化はロシアやバルカン半島の国々に大きな影響を与えていました。 帝国の滅亡後、その役割の一部はモスクワ大公国などに引き継がれていくことになります。
ビザンツ帝国は、その千年にわたる歴史の中で、古代ローマの遺産を継承し、ギリシャ・ローマの古典文化を保存・伝達する重要な役割を果たしました。 また、強力な軍事力と外交力によって、西ヨーロッパを東方からの脅威から守る防波堤の役割も担っていました。 その滅亡は、一つの帝国の終わりであると同時に、ヨーロッパが新たな時代へと移行する象徴的な出来事だったのです。
このテキストを評価してください。
|
役に立った
|
う~ん・・・
|
※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。 |
|
トプカプ宮殿とは わかりやすい世界史用語2319
>
イスタンブルとは わかりやすい世界史用語2321
>
オスマン帝国とは わかりやすい世界史用語2313
>
カーヌーンとは わかりやすい世界史用語2339
>
モハーチの戦いとは わかりやすい世界史用語2329
>
「スルタンの奴隷」(カプクル、デウシルメ制)とは わかりやすい世界史用語2324
>
オスマン帝国統治下の社会 ~シパーヒー、イェニチェリ、カピチュレーションとオスマンの平和~
>
最近見たテキスト
|
ビザンツ帝国の滅亡とは わかりやすい世界史用語2320
10分前以内
|
>
|
デイリーランキング
注目テキスト
世界史
- 先史時代
- 先史時代
- 西アジア・地中海世界の形成
- 古代オリエント世界
- ギリシア世界
- ヘレニズム世界
- ローマ帝国
- キリスト教の成立と発展
- アジア・アメリカの古代文明
- イラン文明
- インドの古代文明
- 東南アジアの諸文明
- 中国の古典文明(殷・周の成立から秦・漢帝国)
- 古代の南北アメリカ文明
- 東アジア世界の形成と発展
- 北方民族の活動と中国の分裂(魏晋南北朝時代)
- 東アジア文化圏の形成(隋・唐帝国と諸地域)
- 東アジア諸地域の自立化(東アジア、契丹・女真、宋の興亡)
- 内陸アジア世界の形成
- 遊牧民とオアシス民の活動
- トルコ化とイスラーム化の進展
- モンゴル民族の発展
- イスラーム世界の形成と拡大
- イスラーム帝国の成立
- イスラーム世界の発展
- インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
- イスラーム文明の発展
- ヨーロッパ世界の形成と変動
- 西ヨーロッパ世界の成立
- 東ヨーロッパ世界の成立
- 西ヨーロッパ中世世界の変容
- 西ヨーロッパの中世文化
- 諸地域世界の交流
- 陸と海のネットワーク
- 海の道の発展
- アジア諸地域世界の繁栄と成熟
- 東アジア・東南アジア世界の動向(明朝と諸地域)
- 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)
- トルコ・イラン世界の展開
- ムガル帝国の興隆と衰退
- ヨーロッパの拡大と大西洋世界
- 大航海時代
- ルネサンス
- 宗教改革
- 主権国家体制の成立
- 重商主義と啓蒙専制主義
- ヨーロッパ諸国の海外進出
- 17~18世紀のヨーロッパ文化
- ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成
- イギリス革命
- 産業革命
- アメリカ独立革命
- フランス革命
- ウィーン体制
- ヨーロッパの再編(クリミア戦争以後の対立と再編)
- アメリカ合衆国の発展
- 19世紀欧米の文化
- 世界市場の形成とアジア諸国
- ヨーロッパ諸国の植民地化の動き
- オスマン帝国
- 清朝
- ムガル帝国
- 東南アジアの植民地化
- 東アジアの対応
- 帝国主義と世界の変容
- 帝国主義と列強の展開
- 世界分割と列強対立
- アジア諸国の改革と民族運動(辛亥革命、インド、東南アジア、西アジアにおける民族運動)
- 二つの大戦と世界
- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























