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トプカプ宮殿とは わかりやすい世界史用語2319 |
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著作名:
ピアソラ
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トプカプ宮殿とは
トプカプ宮殿は、オスマン帝国の約600年にわたる統治の歴史を象徴する壮大な建造物群です。 イスタンブールの歴史的半島、かつて古代ビュザンティオンのギリシャ都市が存在したサライブルヌの丘の上に位置し、マルマラ海、ボスポラス海峡、金角湾を一望できる戦略的に重要な場所に建てられました。 この宮殿は、単一の巨大な建物ではなく、複数の庭園、宝物館、武器庫、時計コレクション、カフタン、肖像画、そして預言者たちの聖遺物などを収蔵する展示施設を含む、四つの中庭から構成される複合体です。 1453年にコンスタンティノープルを征服したスルタン、メフメト2世の命により、1459年に建設が開始され、1478年頃に主要な部分が完成しました。 当初は「新宮殿」を意味する「サライ・ジェディード・イ・アーミレ」と呼ばれていましたが、19世紀に近くの海辺の門にちなんで「大砲の門」を意味する「トプカプ」という名で知られるようになりました。
15世紀半ばから19世紀半ばまでの約400年間、トプカプ宮殿はオスマン帝国のスルタンたちの主要な居住地であり、帝国の行政および教育の中心地としての役割を果たしました。 帝国の最高意思決定機関である帝国議会(ディーワーン・ヒュマーユーン)がここで開かれ、帝国の運命を左右する重要な決定が下されました。 宮殿の設計は、メフメト2世によって基本的な配置が定められ、その後のスルタンたちによって増改築が繰り返されました。 特に、1509年の地震や1665年の大火の後には大規模な修復・拡張工事が行われ、高名な建築家ミマール・スィナンもこれに携わりました。 彼の貢献により、ハレムや浴場、私室などが再建・拡張され、16世紀末には宮殿はほぼ現在の姿になりました。
しかし、17世紀以降、スルタンたちはボスポラス海峡沿いに建てられた新しい宮殿を好むようになり、トプカプ宮殿の政治的重要性は徐々に薄れていきました。 1856年、スルタン・アブデュルメジト1世は、より現代的な様式と快適さを備えたドルマバフチェ宮殿に宮廷を完全に移すことを決定しました。 それでも、トプカプ宮殿は帝国の宝物庫、図書館、造幣局などの機能を保持し続け、オスマン帝国が終焉を迎えるまで、即位式や祝祭などの公式な儀式の場として使用され続けました。 1922年にオスマン帝国の君主制が廃止され、トルコ共和国が成立すると、初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクの命により、1924年4月3日に宮殿は博物館として一般に公開されることになりました。
今日、トプカプ宮殿博物館はトルコ文化観光省の管轄下にあり、イスタンブールで最も多くの観光客が訪れる博物館の一つとなっています。 1985年には、「イスタンブール歴史地域」の一部としてユネスコの世界遺産に登録され、その歴史的・文化的な価値が国際的に認められています。 宮殿は、オスマン帝国の壮麗な建築、宮廷生活の複雑さ、そして帝国の権力構造を今に伝える貴重な遺産として、世界中から訪れる人々を魅了し続けています。
宮殿の構造:四つの中庭と主要な門
トプカプ宮殿は、厳格な儀礼と機能に基づいて設計された、四つの中庭を中心とする階層的な構造を持っています。 それぞれの中庭は、より制限された次の空間へと続く門によって隔てられており、公的な領域からスルタンの私的な領域へと、段階的に移行する構成になっています。 この独特の配置は、オスマン帝国の権力構造と宮廷の序列を建築的に表現したものです。
第一の中庭(アライ・メイダヌ):公と私の境界
第一の中庭は「閲兵の庭」または「イェニチェリの庭」としても知られ、宮殿内で唯一、オスマン時代に一般の人々も立ち入ることができた最も外側の広大な空間です。 南側に位置する壮大な「帝王の門」(バーブ・ヒュマーユーン)が、宮殿への主要な入り口となっています。 この門は1478年にさかのぼる建造物で、19世紀に大理石で覆われ、上部にはコーランの詩句やスルタンのトゥグラ(花押)が金色のカリグラフィーで飾られています。 門をくぐると、儀式や行列が行われた広大な庭園が広がります。
この中庭には、かつてビザンツ帝国時代の教会であり、オスマン時代には倉庫や帝国の武器庫として使用されたアヤ・イリニ教会、1727年に建設された旧帝国造幣局(ダルプハーネ・イ・アーミレ)、そして複数の噴水が現存しています。 中でも「死刑執行人の噴水」は、宮殿の厳格な掟を象徴する歴史的な遺物です。 訪問者はこの中庭を通り、宮殿の行政機能の中心である第二の中庭へと続く「挨拶の門」(バービュッセーラーム)へと進みます。
挨拶の門(バービュッセーラーム):権威への入り口
挨拶の門、または「中央の門」(オルタ・カプ)は、第一の中庭と第二の中庭を隔てる重要な門です。 八角形の尖塔を持つ二つの大きな塔が特徴的なこの城門は、ビザンツ建築の影響が見られ、その建設年代は定かではありませんが、少なくとも1542年には存在していたことが扉の碑文からわかっています。 この門を通過することは厳しく管理されており、スルタン以外の者は全員馬から降りることが義務付けられていました。 この慣習は、門を馬上で通過することが許された唯一の人物であるスルタンの絶対的な権威を強調するものでした。 門は宗教的な碑文やスルタンのモノグラムで豊かに装飾されており、ここから先が帝国の中心部であることを示していました。 門の内部には、門衛のための宿舎やマスジド(小モスク)、さらには国家の牢獄として機能した部屋も備わっていました。
第二の中庭(ディーワーン・メイダヌ):帝国の行政の中心
挨拶の門を抜けると、帝国の行政運営が行われた第二の中庭、別名「ディーワーン広場」に入ります。 この中庭は、メフメト2世の治世下である1465年頃に完成し、スレイマン1世の時代(1525年~1529年頃)に最終的な姿になったと考えられています。 中庭の北側には帝国議会(ディーワーン)、ハレム、そして「正義の塔」が、南側には広大な宮殿厨房が配置されています。 その他にも、かつての宮殿病院、パン屋、イェニチェリの兵舎、厩舎などがこの中庭を囲んでいました。
帝国議会は、大宰相(グランド・ヴィジエ)をはじめとする高官たちが集まり、国事を議論する場所でした。 スルタンは、隣接する正義の塔の小窓から、自らの存在を知らせることなく議会を傍聴することができたと言われています。 宮殿厨房は、多い時には1,000人以上の料理人を抱え、毎日何千人もの食事を準備していました。 ここでは、世界中から集められた貴重な陶磁器コレクションも展示されています。 中庭の奥には、スルタンの私的な領域である第三の中庭へと続く「吉兆の門」(バービュッサーデ)が控えています。
吉兆の門(バービュッサーデ):スルタンの私的領域へ
吉兆の門は、第二の中庭から第三の中庭へと入るための門であり、スルタンの私的な宮殿の心臓部への入り口を象徴しています。 スルタンの臨席を象徴するこの門は、大理石の柱に支えられたドームを持ち、スルタンの許可なくして誰も通ることはできませんでした。 大宰相でさえ、特定の日に特定の条件下でのみ通行が許されたのです。 15世紀にメフメト2世によって建設されたと考えられ、18世紀にはムスタファ3世とマフムト2世の治世下でロココ様式に改装されました。 門の上部にはコーランの詩句とスルタンのトゥグラが飾られ、その神聖さと権威を際立たせています。
第三の中庭(エンデルーン・アヴルス):宮殿の心臓部
吉兆の門の先には、宮殿の心臓部である第三の中庭、または「内廷」(エンデルーン・アヴルス)が広がっています。 ここは、スルタンの私室(ハス・オダ)、宝物庫、ハレム、そしてアフメト3世の図書館などに囲まれた緑豊かな庭園です。 この中庭は、スルタンに仕える小姓(アー)たちの居住区画にも囲まれていました。 彼らはここで音楽、絵画、書道などの芸術を学び、優秀な者は高位の役人になることができました。
第三の中庭の重要な施設の一つが「謁見の間」です。 美しいファサードを持つこの16世紀の建物で、スルタンは宰相や高官、外国の大使と会見し、国事を協議しました。 また、「遠征隊の宿舎」と呼ばれる18世紀の建物は、スルタンの豪華な衣装コレクションを展示する場として使われています。 そして、この中庭で最も神聖な場所が、預言者ムハンマドの聖遺物などを収める「聖遺物室」です。 イズニクタイルで装飾されたこの部屋には、イスラム世界にとって極めて重要な品々が保管されています。
第四の中庭(ソファ・イ・ヒュマーユーン):スルタンの私的な楽園
第四の中庭は「帝王のソファ」とも呼ばれ、宮殿内で最も奥深く、スルタンとその側近だけが立ち入ることを許された私的な空間です。 第三の中庭からさらに奥に進んだ場所にあり、一連の庭園テラス、キオスク(東屋)、パビリオンで構成されています。 ここはスルタンが日々を過ごし、休息と娯楽のための場所として機能しました。
この中庭には、オスマン建築の傑作とされる美しいパビリオンが点在しています。 ムラト4世がバグダッド遠征の勝利を記念して1638年以降に建てさせた「バグダッド・キオスク」は、緑と青のイズニクタイルで覆われたファサードが特徴で、内部は色鮮やかなタイル、塗装された天井、ステンドグラス、真珠母貝や亀甲の象嵌で豪華に装飾されています。 フランス国王ルイ14世から贈られた銀製の火鉢もここに置かれています。 同じくムラト4世によってエレバン(現在のアルメニアの首都)攻略を記念して1636年に建てられた「レヴァン・キオスク」もあります。
また、「割礼の間」は、スルタン・アフメト3世の息子たちの割礼の儀式に使われたことからその名が付きましたが、元々はスルタンの夏の寝室として使われていたと言われています。 内部と外部は希少なタイルのコレクションで飾られています。 スルタン・イブラヒムの治世下、1640年に建てられた「イフターリエ・キオスク」は、ラマダン中にスルタンが断食を終える場所として使われた小さな東屋で、金角湾の素晴らしい眺望を提供します。 これらの建物は、ボスポラス海峡や金角湾の景色を取り入れたオスマン帝国の宮殿庭園デザインとパビリオン建築の優れた例を示しています。
ハレム:神秘に包まれたスルタンの私生活の場
トプカプ宮殿の中でも最も神秘的で人々の興味を引く場所が、ハレム(ハーレム・イ・ヒュマーユーン)です。 「禁じられた場所」を意味するハレムは、スルタンとその家族、すなわち母后(ヴァーリデ・スルタン)、妻たち、子供たち、そして多数の側室や女性の使用人たちが暮らす、厳重に隔離された私的な居住区でした。 スルタンやその近親者、そして去勢された宦官(かんがん)であるハレムの衛兵以外、男性の立ち入りは固く禁じられていました。
ハレムは16世紀後半に宮殿に追加され、ミマール・スィナンをはじめとする建築家たちによって設計、拡張されました。 最盛期には400以上の部屋、9つの浴場、2つのモスク、病院、宿舎、洗濯場などを備えた、さながら一つの都市のような複合施設でした。 内部は、豪華なイズニクタイルやキュタフヤタイルで装飾され、オスマン建築の粋を集めた空間が広がっています。
ハレムの社会は、厳格な階層構造を持っていました。 その頂点に君臨したのは、スルタンの母親であるヴァーリデ・スルタンでした。 彼女はハレム内で絶大な権力を持ち、時には帝国の政治にも大きな影響力を行使しました。 彼女の居住区はハレムの中心部にあり、スルタンや王子たちがハレム内を移動する際には必ず通る場所に位置していました。 スルタンの寵愛を受けた側室(ハセキ・スルタン)や、公式な妻(カドゥン・エフェンディ)、子供を産んだ者(イクバル)、スルタンの目に留まった者(ギョズデ)など、女性たちはそれぞれの地位に応じて異なる待遇を受け、スルタンの寵愛と権力を巡って陰謀や駆け引きを繰り広げました。
ハレムの警備と運営は、主にアフリカ出身の黒人宦官たちが担っていました。 彼らは「黒人宦官長」(クズラル・アー)に率いられ、ハレムの門の警備、出入りの管理、外部の人間を排除するなどの重要な任務を担っていました。 彼らの居住区は、ハレムの入り口近くにある「宦官の中庭」に面していました。
ハレム内の建築物の中でも特筆すべきは、ムラト3世の私室です。 ミマール・スィナンの作とされるこの部屋は、16世紀のオスマン建築の最高傑作の一つと評価されています。 また、アフメト3世の私室は「果物の部屋」とも呼ばれ、チューリップ時代を象徴する華やかな装飾が施されています。 スルタンの私的な空間である「帝王の間」(ヒュンキャール・ソファス)は、ハレムで最も印象的な部屋の一つで、祝宴や儀式が執り行われました。 このように、ハレムは単なる女性たちの居住空間ではなく、独自の規則と階層を持つ社会であり、教育機関でもあり、そしてオスマン帝国の権力闘争が繰り広げられる政治的な舞台でもあったのです。
宮殿の建築様式と装飾
トプカプ宮殿の建築は、単一の様式で統一されているわけではなく、約400年にわたる増改築の歴史を反映し、オスマン様式を基調としながらも、イスラム、ペルシャ、さらにはヨーロッパのバロックやロココ様式の影響も取り入れた、多様なスタイルの混合体となっています。 この建築的な重層性が、宮殿に独特の魅力を与えています。
宮殿の基本的な構造は、低い建物が中庭を囲むという配置で、これはヨーロッパの宮殿に見られるような単一の巨大な建築物とは対照的です。 この配置は、メフメト2世によって確立されたもので、丘の最も高い地点にスルタンの私室を置き、そこからボスポラス海峡の岸辺に向かって様々な建物やパビリオンが広がっていくという構成です。 構造材には、切石、レンガ、木材が用いられ、壁は石とレンガを交互に積むというオスマン建築特有の工法で作られています。 これにより、構造的な強度と視覚的なコントラストの両方が実現されています。
宮殿の内部および外部を彩る装飾は、その豪華さと芸術性の高さで知られています。特に有名なのが、イズニクやキュタフヤで生産された色鮮やかなタイルです。 バグダッド・キオスクのファサードを覆う青と緑のタイルや、ハレムの各部屋を飾る複雑な模様のタイルは、オスマン陶芸の最高傑作とされています。 これらのタイルには、アラベスク模様、幾何学模様、そしてチューリップやカーネーションといった花々のモチーフが描かれ、楽園のような空間を創り出しています。
タイル装飾に加え、精緻な木工の象嵌細工も見事です。 真珠母貝や亀甲を用いた象嵌は、扉や家具、天井などに施され、豪華さを加えています。 また、壁やドームには、コーランの詩句やスルタンの功績を称える言葉が、美しいアラビア書道(カリグラフィー)で描かれています。 ムラト3世の私室のドーム中央には、コーランの「純正章」が円形にデザインされており、信仰と芸術が一体となった空間を形成しています。
ステンドグラスも、宮殿の内部空間に神秘的な光をもたらす重要な要素です。 18世紀以降の改築では、ヨーロッパのロココ様式の影響を受けた装飾が取り入れられ、より華やかで曲線的なデザインが見られるようになります。 このように、トプカプ宮殿の建築と装飾は、オスマン帝国の長い歴史の中で培われた美的感覚と、様々な文化との交流が生み出した、他に類を見ない芸術的な成果を示しています。
トプカプ宮殿博物館のコレクション
1924年に博物館として生まれ変わったトプカプ宮殿は、オスマン帝国のスルタンたちが収集した膨大で貴重なコレクションを収蔵しています。 これらのコレクションは、帝国の富と権力、そして高い芸術的水準を物語るものであり、世界中から多くの人々を惹きつけています。
帝国の宝物庫(ハズィネ)
宮殿のコレクションの中でも特に有名なのが、第三の中庭にある帝国の宝物庫に展示されている品々です。 ここには、スルタンたちが代々受け継いできた宝石、宝飾品、儀式用の武具などが収められています。 その中でも最も有名なのが、「スプーン職人のダイヤモンド」です。 86カラットという大きさを誇るこの洋梨型のダイヤモンドは、世界最大級のダイヤモンドの一つとして知られています。 もう一つの至宝が「トプカプの短剣」です。 柄の部分に3つの大きなエメラルドが埋め込まれ、鞘はダイヤモンドで覆われたこの短剣は、オスマン帝国の金工技術の粋を集めた傑作です。 これらの他にも、金や宝石で飾られた玉座、豪華な装身具、外国の君主からの贈り物など、目もくらむような宝物が数多く展示されています。
聖遺物
第三の中庭にある聖遺物室には、イスラム世界にとって極めて重要な宗教的遺物が保管されています。 これらは、16世紀にスルタン・セリム1世がエジプトを征服した際にイスタンブールにもたらされたものが中心です。 預言者ムハンマドの外套、剣、歯、そして一本の髭などが含まれており、イスラム教徒にとっては神聖な巡礼地ともなっています。 これらの聖遺物が宮殿内に安置されていることは、オスマン帝国のスルタンがイスラム世界の指導者(カリフ)としての権威を持つことを象徴していました。
その他のコレクション
トプカプ宮殿博物館は、上記の他にも多岐にわたるコレクションを所蔵しています。
オスマン帝国の衣装: スルタンたちが着用した豪華なカフタン(上着)や儀式用の衣装が数百点展示されています。 金糸や銀糸で刺繍が施された絹織物など、当時の最高級のテキスタイル技術を見ることができます。
武器・武具: オスマン帝国時代に製造または収集された、精巧な装飾が施された剣、短剣、銃、鎧などが展示されています。 これらは実用的な武器であると同時に、高い芸術性を持つ工芸品でもあります。
陶磁器: 宮殿厨房には、中国や日本の磁器をはじめとする、世界最大級の陶磁器コレクションがあります。 特に、中国の青磁や白磁のコレクションは、その質と量において世界的に有名です。
細密画(ミニアチュール)と写本: 宮殿の図書館には、オスマン帝国時代に制作された美しい細密画で飾られた写本や、貴重なアラビア語、ペルシャ語、トルコ語の書籍が数多く保管されています。 これらは、当時の歴史、文化、科学を知る上で重要な資料となっています。
時計コレクション: ヨーロッパの王室から贈られたものなど、様々な時代の精巧な時計が展示されています。
これらのコレクションは、トプカプ宮殿が単なるスルタンの住居や行政の中心であっただけでなく、文化と芸術の中心地でもあったことを示しています。 博物館を訪れる人々は、これらの展示品を通して、オスマン帝国の栄華とその豊かな文化遺産に触れることができます。
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