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マニ教とは わかりやすい世界史用語908
著作名: ピアソラ
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マニ教とは

マニ教は、3世紀にササン朝ペルシアでマニによって創始された宗教であり、善と悪の二元論に基づく独自の教義を持っています。この宗教は、かつて世界中で広く信仰され、特に中東、中央アジア、そして中国において大きな影響を与えました。

起源と創始者マニ

マニは216年に南バビロニア(現在のイラク南部)で生まれました。彼の家族はエルケサイ派というユダヤ・キリスト教の一派に属していましたが、マニ自身は幼少期から宗教的な啓示を受けるようになりました。24歳の時、天使エルタウムからの啓示を受けて、自らを「光の使徒」として公に宣言し、新しい宗教を広めることを決意しました。

教義と宗教体系

マニ教の教義は、善と悪の二元論に基づいています。マニは、世界を善なる霊的な光の世界と、悪なる物質的な闇の世界に分けました。彼の教えによれば、人間の魂は光の世界から来たものであり、物質的な身体は闇の世界に属しています。したがって、魂は物質的な束縛から解放され、光の世界に戻ることを目指すべきだとされました。

マニはまた、自らをアダム、仏陀、ゾロアスター、イエスといった過去の偉大な預言者たちの後継者と位置づけました。彼は、これらの預言者たちの教えが地域的かつ言語的に限定されていたため、真の宗教の普遍的なメッセージを伝えるために自らが選ばれたと主張しました。

宣教活動と拡大

マニは、ササン朝ペルシア全土で積極的に宣教活動を行いました。彼の教えは、特にアラマイ語を話す地域で急速に広まりました。マニ教は、初期のキリスト教と競合する形で広がり、エジプトから北アフリカ、ローマ帝国にまで達しました。マニは、自らの教えを記録し、これらの文書を正典として認めることで、教義の統一性を保ちました。

迫害と最期

マニの教えは、サーサーン朝の王シャープール1世の庇護を受けていましたが、後継者のバハラーム1世の時代になると状況が変わりました。マニは異端とされ、逮捕されました。彼はその後、276年頃に処刑されました。彼の死は「光の使徒の受難」として信者たちに記憶されました。

マニ教の影響と遺産

マニ教は、マニの死後も広範な地域で信仰され続けました。特に、中央アジアや中国においては、8世紀から9世紀にかけて大きな影響力を持ちました。マニ教の教義は、キリスト教、仏教、ゾロアスター教の要素を取り入れたものであり、その普遍的なメッセージは多くの人々に受け入れられました。

しかし、マニ教はキリスト教やイスラム教の台頭により次第に衰退しました。ローマ帝国では、キリスト教会と国家の圧力により5世紀末までにほぼ消滅しました。一方、東方では14世紀まで存続し、中国の福建省などでは現在でもその痕跡が見られます。

マニ教は、3世紀のササン朝ペルシアで新しい宗教を創始し、その教えは広範な地域に影響を与えました。彼の教義は、善と悪の二元論に基づくものであり、過去の偉大な預言者たちの教えを統合し、超越するものとされました。マニ教は、初期のキリスト教と競合しながらも広がりを見せましたが、最終的には衰退しました。

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