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広州とは わかりやすい世界史用語652
著作名: ピアソラ
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広州とは

唐の時代(618年~907年)の広州(現在の広州市)は、中国南部の重要な貿易港として大いに栄えました。この時期、広州は中国最大の港であり、世界でも有数の大規模な港の一つでした。

広州の歴史的背景

広州の歴史は古く、紀元前214年に秦の始皇帝が南海郡を設置したことに始まります。その後、漢代には南越国の首都として栄え、唐代に至るまでに重要な貿易拠点としての地位を確立しました。

唐代の広州の発展

唐代に入ると、広州はさらに発展し、国際貿易の中心地となりました。広州港は、東南アジア、インド、アラビア半島、さらには東アフリカまでの広範な地域と交易を行っていました。広州からは絹、陶磁器、紙、銅、鉄、金、銀などが輸出され、これらの製品は世界中で高く評価されました。



外国人居留地と文化交流

広州には多くの外国人商人が居住しており、アラブ人、ペルシャ人、インド人、さらにはユダヤ人やキリスト教徒も含まれていました。これにより、広州は多文化が共存する都市となり、異文化交流が盛んに行われました。唐代の広州には、外国人のための居留地や寺院が建設され、彼らの宗教や文化が尊重されていました。

広州の行政と経済

唐代の広州は、広州府の府治として行政の中心地でもありました。広州府は、広東省全域を管轄し、経済的にも重要な役割を果たしていました。広州には中国最古の税関が設置され、貿易の管理と税収の確保が行われていました。

広州の繁栄とその影響

広州の繁栄は、中国全体の経済発展にも大きな影響を与えました。広州を通じて流入する外国の技術や文化は、中国の発展に寄与し、逆に中国の製品や文化も世界に広まりました。このような国際的な交流は、唐代の中国をより開かれた社会にし、文化的な多様性をもたらしました。

広州の衰退とその後

しかし、878年に黄巣の乱が発生し、広州は大きな打撃を受けました。反乱軍が広州を占領し、多くの外国人商人が殺害され、広州の国際貿易は一時的に停滞しました。その後、広州は再び復興し、宋代には再び重要な貿易港としての地位を取り戻しましたが、唐代のような繁栄は再び訪れることはありませんでした。

唐代の広州は、中国南部の重要な貿易港として大いに栄え、多文化が共存する国際都市として発展しました。この時期の広州の繁栄は、中国全体の経済発展に寄与し、異文化交流の中心地としての役割を果たしました。しかし、黄巣の乱による打撃を受け、その後の復興にもかかわらず、唐代のような繁栄を取り戻すことはできませんでした。

このように、唐代の広州は中国の歴史において重要な役割を果たし、その影響は現在の広州にも見ることができます。

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