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揚州とは わかりやすい世界史用語651
著作名: ピアソラ
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揚州とは

揚州は、隋・唐の時代において非常に重要な都市でした。
揚州は、現在の中国江蘇省に位置し、古くから交通の要所として栄えてきました。特に隋(581-618年)と唐(618-907年)の時代には、経済的、文化的に重要な役割を果たしました。

隋の時代の揚州

隋の時代、揚州は大運河の建設によってさらに重要性を増しました。隋の煬帝(ようだい)は、首都洛陽と揚州を結ぶ大運河を建設し、これにより南北の交通が大幅に改善されました。この運河は、物資の輸送だけでなく、文化や情報の交流にも大きな影響を与えました。



唐の時代の揚州

唐の時代に入ると、揚州はさらに繁栄しました。唐の詩人たちが揚州を訪れ、その美しさや繁栄を詩に詠んだことでも知られています。例えば、李白や杜牧、蘇東坡などの詩人たちが揚州を題材にした詩を残しています。

揚州は、唐の時代には「揚一益二」と称されるほどの繁栄を誇りました。これは、揚州が当時の中国で最も繁栄した都市であり、次いで益州(現在の成都)が続くという意味です。

経済と文化の中心地

揚州は、経済的な中心地としても重要でした。特に塩の生産と交易が盛んで、塩の専売制度が導入されていました。これにより、揚州は塩の交易を通じて莫大な富を蓄えました。また、絹や茶などの他の産品も揚州を通じて広く取引されました。

文化的にも揚州は重要な役割を果たしました。多くの学者や詩人が揚州を訪れ、文化交流が盛んに行われました。揚州には多くの寺院や書院が建てられ、学問や芸術の中心地としても栄えました。

大運河と揚州

大運河は、揚州の発展において欠かせない存在でした。隋の煬帝が建設を命じたこの運河は、洛陽から揚州を経て杭州までを結び、中国の南北を繋ぐ重要な交通路となりました。この運河を通じて、物資や人々の移動が容易になり、揚州はその中継地点として大いに繁栄しました。

揚州の衰退と再生

唐の末期になると、揚州も他の都市と同様に戦乱や政治的混乱の影響を受け、一時的に衰退しました。しかし、その後も揚州は再び復興し、宋の時代には再び重要な都市としての地位を取り戻しました。

隋・唐の時代の揚州は、経済的、文化的に非常に重要な都市でした。大運河の建設により、南北の交通の要所として栄え、多くの詩人や学者が訪れた文化の中心地でもありました。

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