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議院内閣制(責任内閣制)とは わかりやすい世界史用語2733 |
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著作名:
ピアソラ
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議員内閣制(責任内閣制)とは
マグナ=カルタと議会の萌芽
議院内閣制の根底にある、国王の権力は法の下にあり、国民の代表(議会)の同意なしに統治は行えないという思想の源流は、中世にまで遡ります。その最初の画期として挙げられるのが、1215年にジョン王が貴族たちの圧力によって承認した「マグナ=カルタ」です。この文書は、国王が法を超越する存在ではなく、法に従わなければならないこと、そして課税には王国の「共同の助言」が必要であることを定めました。これは、国王の恣意的な権力行使に初めて法的な制約を課し、後の立憲主義と議会制の基礎となる重要な原則を打ち立てたものです。
この「共同の助言」を与える機関として、13世紀を通じて発展したのが「議会」です。当初は国王が貴族や高位聖職者を招集する会議に過ぎませんでしたが、シモン=ド=モンフォールの改革(1265年)やエドワード1世の模範議会(1295年)を経て、各州や都市から選出された騎士や市民の代表(後の庶民院)が参加するようになります。特に、国王が戦費調達のために課税を行うには、土地を持つジェントリや都市の商人といった、富の担い手である彼らの同意が不可欠でした。この「財政承認権」こそが、議会、とりわけ庶民院が国王に対して影響力を行使するための最も強力な武器となりました。
テューダー朝とステュアート朝の対立
16世紀のテューダー朝、特にヘンリー8世やエリザベス1世の時代、国王と議会は比較的良好な協力関係にありました。宗教改革のように国家の根幹を揺るがす大事業も、「国王は議会にありて(King-in-Parliament)」という一体性の下で、議会の立法を通じて進められました。しかし、この協力関係は、国王が自らの政策を実現するために議会の立法権能を利用したものであり、権力の中心は依然として国王にありました。
この均衡が崩れたのが、17世紀にスコットランドからステュアート家が王位を継承してからです。ジェームズ1世(在位1603–1625)とチャールズ1世(在位1625–1649)は、「王権神授説」を信奉し、国王の権力は神から直接与えられたものであり、地上のいかなる法や機関(議会)にも拘束されないと主張しました。彼らは、議会の同意なしに新たな関税を課したり(課税問題)、議会の意に沿わない寵臣を重用したり、議会を無視して統治を行おうとしました。
これに対し、エドワード=コーク卿のような法律家に率いられた議会は、マグナ=カルタ以来の「古来の権利」とコモン=ロー(慣習法)の優位を盾に、国王の絶対主義的な試みに激しく抵抗しました。1628年の「権利の請願」は、議会の同意なき課税や不法な逮捕・投獄を禁じるなど、国王大権に明確な制限を加えようとするものでした。チャールズ1世はこれを不本意ながら承認しますが、翌年には議会を解散し、以後11年間にわたる「個人的統治」を開始します。この国王と議会の対立は、宗教問題(国教会とピューリタンの対立)とも絡み合い、ついにイングランド内戦(1642–1651)という武力衝突へと発展しました。
内戦は議会派の勝利に終わり、チャールズ1世は「国民に対する反逆者」として処刑され、イングランドは一時的に共和制となります。この一連の出来事は、国王が国民の代表である議会を無視して統治することは許されないという原則を、血をもって証明するものでした。
名誉革命と議会主権の確立
王政復古と新たな対立
1660年、チャールズ2世が即位して王政が復古しますが、国王と議会の間の根本的な緊張関係は解決されたわけではありませんでした。チャールズ2世は父の悲劇から学び、より慎重に行動しましたが、彼の親カトリック的な政策や、議会に責任を負わない側近グループ(カバル内閣)による政治は、再び議会の不信を招きました。
この時期、カトリック教徒である国王の弟ジェームズ(後のジェームズ2世)の王位継承をめぐり、議会は二つの勢力に分裂します。ジェームズの継承を阻止しようとする「ホイッグ党」と、正統な王位継承の原則を擁護する「トーリー党」です。ここに、後の議院内閣制の担い手となる近代的な政党が誕生しました。
名誉革命と権利の章典
1685年に即位したジェームズ2世は、公然とカトリックを擁護し、審査法を無視してカトリック教徒を要職に任命するなど、絶対君主制への道を突き進みました。これに対し、ホイッグとトーリーの両党は団結して反旗を翻し、ジェームズ2世の娘メアリーとその夫であるオランダ総督オレンジ公ウィレム(ウィリアム3世)に軍を率いてイングランドに来るよう要請しました。ジェームズ2世は戦わずしてフランスに亡命し、この無血の政変は「名誉革命」(1688年)と呼ばれます。
翌1689年、議会は「権利の宣言」を起草し、これをウィリアムとメアリーが受諾することを王位継承の条件としました。この宣言を成文化したのが「権利の章典」です。これは、国王が議会の承認なしに法律の効力を停止したり、金銭を徴収したり、平時に常備軍を維持したりすることを違法と定めました。また、議会選挙の自由、議会内での言論の自由、そして議会を頻繁に開催することも保障しました。
名誉革命と権利の章典は、イギリス憲政史上、決定的な転換点でした。これにより、国王の権力は神からではなく、法と議会に由来するという「議会主権」の原則が確立されたのです。国王はもはや法の支配者ではなく、法の下にある存在(立憲君主)となりました。これ以降、いかなる国王も、統治のためには議会の継続的な協力、とりわけ庶民院による財政的な承認が不可欠となったのです。この権力構造の変化こそが、行政権を担う執行部(内閣)が議会に対して責任を負うという、議院内閣制が成立するための土台を築きました。
責任政府の発展
大臣の責任
議院内閣制の核心は、政府(内閣)が議会、特に国民の代表である下院(庶民院)の信任に基づいて存立し、議会に対して責任を負うという「責任政府」の原則にあります。この原則は、名誉革命以前から徐々に形成されていました。
中世以来、国王は「悪事をなしえず(The King can do no wrong)」という法的な擬制がありました。これは、国王の命令であっても、それが違法であれば、その助言を行い実行した大臣が責任を問われるべきだという考え方につながりました。議会は、国王の悪政の責任を、国王自身ではなく、その「邪悪な助言者」である大臣に負わせるために、「弾劾(impeachment)」という手続きを用いました。
17世紀後半、カバル内閣の崩壊後、政権を担ったダンビー伯は、国王の命令でフランスと秘密交渉を行ったとして庶民院から弾劾されます。彼が「国王の命令に従っただけだ」と弁明したのに対し、庶民院は「大臣は国王の違法な命令に従う義務はなく、従った場合は大臣自身が法的責任を負う」と主張しました。これは、大臣の責任が国王個人に対してではなく、法と議会に対して負われるべきであるという原則を明確に示すものでした。
内閣の形成
国王が統治を行うためには、議会の支持を取り付ける必要性が高まるにつれ、国王と議会の間を仲介する機関の重要性が増しました。これが「内閣(Cabinet)」です。もともとは国王が枢密院の中から選んだ少数の側近と私室(キャビネット)で行う非公式な会議を指す言葉でしたが、名誉革命後は、議会に影響力を持つ有力政治家で構成される、事実上の最高執行機関へと変貌していきます。
ウィリアム3世は、当初ホイッグ・トーリー両党から閣僚を登用しましたが、戦争遂行のために議会の支持を確実にする必要から、次第に議会の多数派であるホイッグ党員で内閣を固める傾向を強めました。ここに、内閣のメンバーが同じ政治的信条(政党)を共有するという「政党内閣」の萌芽が見られます。
初代首相ウォルポールと議院内閣制の確立
ハノーヴァー朝と首相の登場
議院内閣制の確立を決定づけたのは、1714年のハノーヴァー朝の開始という偶然の出来事でした。ステュアート朝のアン女王が死去し、ドイツのハノーファー選帝侯ゲオルクがジョージ1世として即位します。彼はイギリスの事情に疎く、英語もほとんど話せませんでした。そのため、彼は統治の実際的な業務にほとんど関心を示さず、内閣の会議にも出席しなくなりました。
国王が内閣の議論を主宰しなくなったことで、閣僚の中から一人、会議を主導し、内閣をまとめ、国王と議会の間の主要な連絡役を果たす人物が必要となりました。この役割を担ったのが「首相(Prime Minister)」です。
ウォルポールの統治
この首相の役割を初めて実質的に、そして20年以上にわたって担ったのが、ホイッグ党の指導者ロバート=ウォルポールでした。1721年に第一大蔵卿として事実上の政権のトップに立ったウォルポールは、その長期政権の間に、後の議院内閣制の基本となる三つの重要な慣習を確立しました。
第一は、「内閣の連帯責任」です。ウォルポールは、内閣が一致して政策を決定し、対外的には単一の主体として行動することを求めました。閣僚は、内閣の決定に公には賛成しなければならず、もし同意できない場合は辞職するのが当然とされました。これにより、内閣は個々の大臣の寄せ集めではなく、統一された意思を持つ責任主体となりました。
第二は、「政党内閣」の原則です。ウォルポールは、国王の信任を得つつも、その権力基盤を庶民院におけるホイッグ党の多数派に置きました。彼は、官職任命権などの国王の恩顧(パトロネージ)を巧みに利用して、議会内に安定した支持基盤を築き、政権を維持しました。そして、自分と意見の合わない閣僚を更迭し、自らの支持者で内閣を固めました。
第三、そして最も重要なのが、「議会への責任」です。ウォルポールは、政権が存続するためには、国王の信任だけでなく、庶民院の信任が不可欠であることを身をもって示しました。1742年、対スペイン戦争の遂行をめぐって議会内の支持を失い、ある重要でない法案の採決で敗北したことをきっかけに、彼は辞職します。国王ジョージ2世は彼を慰留しましたが、ウォルポールは庶民院の支持なしに政権運営は不可能だと判断したのです。
これは、内閣が庶民院の信任を失った場合には、国王の信任の有無にかかわらず、総辞職しなければならないという、議院内閣制の核心的な原則が確立した瞬間でした。行政権を担う内閣が、国民の代表である庶民院に対して政治的責任を負うという、責任政府のメカニズムがここに完成したのです。
その後の発展と制度の完成
国王の役割の変化
ウォルポールの時代以降も、国王は依然として政治に大きな影響力を持ち続けました。ジョージ3世(在位1760–1820)は、ウォルポールが確立した首相と政党内閣のシステムを嫌い、自らが大臣を直接任免する「国王の友」による政治を取り戻そうと試みました。アメリカ独立戦争の敗北は、こうした国王の試みが国益を損なうことを示し、結果的に議会と内閣の優位を再確認させることになりました。
19世紀に入ると、ヴィクトリア女王の長い治世(1837–1901)の下で、国王は「君臨すれども統治せず」という立憲君主の役割に徹するようになります。政治的な実権は完全に首相と内閣に移り、国王の役割は、内閣を任命すること、助言を与えること、そして警告すること、といった象徴的・儀礼的なものに限定されていきました。
選挙権拡大と政党政治
19世紀はまた、議院内閣制を支える政党政治が近代化された時代でもあります。1832年の第一次選挙法改正をはじめとする一連の改革によって、選挙権が産業資本家や労働者階級へと段階的に拡大されていきました。これにより、庶民院議員は、少数のパトロンの意向ではなく、より広範な有権者の意思を代表する存在となっていきます。
選挙権の拡大に対応して、ホイッグ党とトーリー党は、それぞれ自由党と保守党へと発展し、全国的な党組織と明確な政策綱領を持つ近代政党へと脱皮しました。グラッドストンとディズレーリという二人の偉大なライバルに率いられた両党は、総選挙で国民に政策を訴え、勝利した党の党首が首相となって内閣を組織するという、現代と同じ二大政党制のモデルを確立しました。これにより、内閣はもはや議会内の派閥の支持に依存するだけでなく、総選挙で示された民意に直接基づいて成立する、より民主的な正統性を持つ存在となったのです。
20世紀初頭の1911年、自由党政府は、予算案を拒否した貴族院の権限を大幅に制限する「議会法」を制定します。これにより、世襲の貴族院に対する、選挙で選ばれた庶民院の優越が法的に確立され、イギリスの議院内閣制は、その最終的な形をほぼ完成させました。
このように、イギリスの議院内閣制は、特定の設計図に基づいて一度に作られたものではなく、マグナ=カルタに始まる法の支配の探求、ステュアート朝との闘争で勝ち取られた議会の権利、名誉革命による議会主権の確立、そしてウォルポールの下で形成された責任政府の慣習といった、長い歴史の層が積み重なってできたものです。それは、国王大権と人民の自由との間の絶え間ない緊張関係の中から生まれた、妥協と進化の産物であり、イギリスの歴史そのものを体現する制度なのです。
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