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匈奴とは わかりやすい世界史用語407
著作名: ピアソラ
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匈奴とは

匈奴は、紀元前3世紀から数百年間、モンゴル高原に住んでいた遊牧民族の連合体でした。彼らは、冒頓単于の下で、紀元前209年に匈奴の最盛期を作り上げました。この時代の匈奴は、以前の支配者である月氏を打倒し、東アジアのステップ地帯の支配権を握りました。匈奴は、現在のモンゴル、東カザフスタン、東キルギス、南シベリア、そして中国北部の一部地域(満州、新疆、内モンゴル、甘粛省)にまたがる広大な領土を支配していました。匈奴は「オアシスの道」をおさえ、大遊牧国家を建国しました。

匈奴の政治体制は部族連合であり、様々な言語が話されていました。彼らの宗教はシャーマニズムやテングリズム、そして仏教が含まれていたとされています。匈奴の首都はオルドスで、後にルンチェンに移りました。
匈奴は、中国の歴史記録において、紀元前5世紀頃から登場し、北中国の小国が後に万里の長城となる防壁を築き始めた原因となった侵入を繰り返しました。匈奴は、紀元前3世紀末に、中国皇帝の称号である「天子」に相当する「単于」と呼ばれる支配者の下で、広範囲にわたる部族連合を形成し、中国にとって大きな脅威となりました。彼らは、現在のシベリア、モンゴル、そしてパミール高原から満州西部に至るまでの広大な領土を支配しました。

匈奴は、騎馬弓兵としての優れた戦闘能力を持ち、時には30万人もの騎馬弓兵を動員して中国北部に侵入しました。彼らは、中国の戦車よりもはるかに機動性に優れていました。秦の時代(紀元前221年~紀元前206年)に完成した万里の長城は、匈奴の侵入を遅らせましたが、完全には阻止できませんでした。初期の漢王朝の支配者たちは、匈奴の指導者と中国の姫君との結婚を通じて彼らをコントロールしようとしましたが、匈奴による中国への襲撃は続きました。その後、漢の武帝は、匈奴に対して積極的な政策を開始し、彼らを迂回するために中央アジアへの遠征を行い、匈奴の敵と同盟を結びました。

紀元前1世紀には、匈奴帝国は東西に分裂しました。東の部族は中国に服従し、西の部族は中央アジアへと追いやられました。紀元1世紀には、中国の遠征により、現在の甘粛省と新疆省の大部分が一時的に中国の支配下に入りました。しかし、漢王朝が衰退するにつれて、中国は匈奴の将軍たちを北部の国境警備に雇いましたが、これら半漢化した部族はしばしば中国に反旗を翻しました。特に、漢の滅亡(紀元220年)とその後の王朝の成立後は、匈奴は中国に対して頻繁に反乱を起こしました。

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