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アカデミー=フランセーズとは わかりやすい世界史用語2745 |
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著作名:
ピアソラ
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アカデミー=フランセーズとは
アカデミー=フランセーズのはじまりは、壮麗な宮殿の一室や、国王の厳かな勅令から始まったわけではありません。その起源は、もっと私的で、穏やかな集まりに遡ります。1620年代後半のパリ、そこにはヴァランタン=コンラールという一人の人物がいました。彼は国王の秘書官という公的な地位にありましたが、何よりも文学を愛し、知的な会話に喜びを見出す人物でした。彼の自宅は、マレ地区のサン=マルタン通りにあり、そこがやがてフランスの言語と文学の歴史において、ささやかながらも決定的な役割を果たす舞台となります。
コンラールのサロンには、毎週のように、同じ志を持つ友人たちが集まっていました。彼らは詩人、作家、学者であり、身分は様々でしたが、文学への情熱と、知的好奇心という共通点で結ばれていました。ジャン=ルイ=ゲーズ=ド=バルザック、クロード=ファーブ=ド=ヴォージュラ、ジャン=シャプラン、フランソワ=ル=メテル=ド=ボワロベールといった、後にフランス文学史に名を残すことになる人物たちが、その輪の中にいました。
彼らの集まりには、厳格な規則があったわけではありません。それは、あくまで友人同士の自由な語らいの場でした。自分たちが書いたばかりの作品を朗読し、互いに批評し合う。ある文学的なテーマについて、あるいは新しく出版された本について、心ゆくまで議論を交わす。そして何よりも、彼らが情熱を注いだのは、フランス語そのものでした。当時は、フランス語がラテン語に代わって、学問や文学の主要な言語としての地位を確立しつつある、重要な転換期でした。しかし、その語彙や文法、正書法はまだ十分に整理されておらず、地域による方言差や、個人の癖による揺れが大きい状態でした。
コンラールのサークルに集った人々は、この状況を憂い、フランス語をより洗練され、明晰で、美しい言語へと磨き上げたいという共通の願いを抱いていました。彼らは、どの言葉が最も適切か、どの表現が最も優雅か、どの構文が最も論理的であるかについて、熱心に議論を重ねました。それは、単なる言葉遊びではなく、自分たちの母語に、普遍的な価値を持つ「古典語」としての品格を与えようとする、真摯な試みでした。この私的な集まりが、知らず知らずのうちに、フランス語の純化と標準化という、後のアカデミーが担うことになる使命の、最初の萌芽を育んでいたのです。彼らは、自分たちの活動がやがて国家的な事業へと発展することになるとは、夢にも思っていなかったかもしれません。
リシュリューの介入
コンラールのサロンで続けられていた穏やかで知的な集いは、その性質上、あくまで私的なものであり、外部に広く知られることを望んでいませんでした。しかし、その輪の一人であったフランソワ=ル=メテル=ド=ボワロベールの存在が、この小さなサークルの運命を大きく変えることになります。ボワロベールは、才気煥発で社交的な人物であり、当時のフランスで絶大な権力を握っていた宰相、リシュリュー枢機卿の寵愛を受ける側近の一人でした。
ある日、ボワロベールはリシュリューに対し、コンラールの家で開かれている文学的な集いの魅力を、生き生きと語って聞かせました。彼は、そこで交わされる議論の質の高さや、参加者たちのフランス語に対する情熱を称賛しました。この話は、リシュリューの心に強い関心を呼び起こしました。
リシュリューは、単なる政治家や聖職者ではありませんでした。彼は、フランスという国家の威信と栄光を、あらゆる手段を用いて高めようとする、壮大なビジョンを持った人物でした。彼の頭の中では、政治的な統一と軍事的な成功は、文化的な覇権と分かちがたく結びついていました。スペインやイタリアといった国々が、それぞれ王立のアカデミーを持ち、自国の言語や文化の発展を国家事業として推進していることを、彼はよく知っていました。フランスがヨーロッパの主導的な国家となるためには、武力や外交だけでなく、言語や文学の分野においても、他国を凌駕する輝きを放つ必要がある。リシュリューはそう考えていました。
ボワロベールの話を聞いたリシュリューは、コンラールの私的なサークルが、まさにその国家的な目的を達成するための、理想的な核となりうる存在であると直感しました。彼は、この才能ある文人たちの集団を、単なる個人の趣味の領域にとどめておくのではなく、国家の庇護下に置き、公的な機関へと昇格させることを思い立ちます。それは、彼らの知的なエネルギーを、フランス国家の栄光という、より大きな目標のために利用しようとする、極めて政治的な判断でした。
リシュリューはボワロベールを通じて、この文人グループに、国王の名の下に公的な団体としてアカデミーを設立し、その庇護者となることを申し出ました。この突然の提案は、コンラールのサークルのメンバーたちを大いに当惑させました。彼らは、自分たちの集まりの魅力が、まさにその非公式で自由な雰囲気にあることを知っていました。国家の権力が介入することによって、その自発的な精神が失われてしまうのではないか。権力者の庇護を受けることは、自由な批判精神を奪われ、おもねりを強いられることにつながるのではないか。彼らの多くは、リシュリューの申し出に対して、深い懸念と抵抗感を抱きました。アカデミーの将来を巡る、最初の緊張が生まれた瞬間でした。
アカデミーの誕生
リシュリュー枢機卿からの、アカデミーを公的な機関とするという提案は、コンラールのサークルのメンバーたちに複雑な感情を抱かせました。自由な知の共同体が、国家の権威の下に組み込まれることへの抵抗感は根強いものがありました。しかし、当時のフランスにおいて、宰相リシュリューの意志に逆らうことは、事実上不可能でした。数ヶ月にわたる説得と、おそらくは無言の圧力の末、コンラールとその仲間たちは、ついに宰相の申し出を受け入れることを決断します。
こうして、1634年、アカデミー=フランセーズは非公式ながらもその活動を開始し、翌1635年1月29日、国王ルイ13世は、アカデミーの設立を正式に認可する勅許状に署名しました。この勅許状こそが、アカデミー=フランセーズという組織の、法的な誕生を告げるものでした。しかし、この公式の設立は、決して平坦な道のりではありませんでした。
アカデミーの設立に対して、最も強硬に反対したのが、パリ高等法院(パルルマン)でした。高等法院は、国王の勅許状を審査し、登録することによって初めてそれに法的な効力を与えるという、重要な権限を持っていました。彼らは、アカデミーの設立を、宰相リシュリューが自らの権力をさらに強化し、文化的な領域にまでその支配を及ぼそうとする、危険な試みであると見なしました。また、既存の大学や他の学術団体も、自分たちの権威が、この新しい組織によって脅かされるのではないかと警戒しました。
高等法院は、勅許状の登録を拒否し、アカデミーの存在に公然と異議を唱えました。リシュリューは、この抵抗に直面し、自らの権威と政治的手腕を駆使して、高等法院に圧力をかけ続けなければなりませんでした。この対立は、2年半にも及びました。最終的に、リシュリューの粘り強い交渉と、国王の絶対的な権威を背景にした命令によって、高等法院は屈服します。1637年7月10日、ついに勅許状は登録され、アカデミー=フランセーズは、名実ともにフランスの国家機関として、その歴史的な一歩を踏み出したのです。
この困難な船出は、アカデミーの性格を決定づける上で、重要な意味を持っていました。それは、アカデミーが、純粋な文学者の集まりとしてではなく、当初から国家の権力、特に宰相リシュリューの強い政治的意志によって創設された、極めて公的な組織であることを示しています。その誕生の瞬間から、アカデミーは、文学的な純粋さと、政治的な意図との間の、緊張関係を内包していたのです。
使命と目的
アカデミー=フランセーズの設立を定めた1635年の勅許状は、この新しい組織が果たすべき使命を、明確な言葉で規定していました。その第24条には、アカデミーの「主たる任務」が記されています。それは、フランス語に「明確な規則を与え、純粋で、雄弁で、芸術と科学を扱うことのできる言語にすること」でした。この一文に、アカデミーの創設に込められた、リシュリューの壮大な野心と、当時のフランスが抱えていた文化的な課題が集約されています。
言語の純化と標準化
アカデミーに与えられた最も重要かつ具体的な任務は、フランス語の純化と標準化でした。17世紀初頭のフランス語は、まだ発展途上の言語であり、その語彙、文法、正書法、発音は、大きな混乱と揺らぎの中にありました。宮廷で話される洗練された言葉がある一方で、地方には多様な方言が存在し、作家や学者たちは、それぞれ独自の言語感覚で言葉を用いていました。
アカデミーの役割は、この混沌とした状態に秩序をもたらすことでした。そのために、アカデミーは、フランス語の中に存在する様々な言葉や表現を吟味し、どれが「正しい」フランス語、すなわち「良き慣用(ル=ボン=ユザージュ)」に合致するかを判断する、最高の権威となることが期待されました。この「良き慣用」とは、主に、国王の宮廷で話され、教養ある人々によって書かれる、最も洗練された言葉遣いを指していました。
アカデミーは、古めかしい言葉(古語)、低俗な言葉(俗語)、専門的すぎる言葉(術語)、あるいは外国から借用された言葉などを排除し、フランス語を純粋なものに保つことを目指しました。そして、文法規則を確立し、単語の綴りを統一することで、誰もが従うべき標準的なフランス語のモデルを提示しようとしたのです。この言語の標準化は、単にコミュニケーションを円滑にするだけでなく、フランスという国家の内部的な統一を強化するという、高度に政治的な目的も持っていました。国内のどこでも通用する共通の言語を持つことは、中央集権的な近代国家を形成する上で、不可欠な要素だったのです。
辞書と文法書の編纂
この言語の標準化という壮大な目標を達成するための、具体的な手段として、アカデミーには二つの重要な著作の編纂が義務付けられました。一つは、フランス語のすべての語彙を収録し、その正しい意味と用法を定義する『アカデミー=フランセーズ辞書』。もう一つは、フランス語の文法規則を体系的に記述する『文法書』です。
辞書の編纂は、アカデミーの創設当初から、その最も中心的な事業となりました。アカデミー会員たちは、毎週のように集まり、アルファベット順に一つ一つの単語を取り上げ、その定義や用法について、延々と議論を重ねました。この作業は、想像を絶するほど骨の折れるものであり、アカデミーの総力を挙げた、長期的なプロジェクトとなりました。最初の辞書が完成し、出版されるまでには、創設から約60年もの歳月を要しました(1694年)。この辞書は、アカデミーがフランス語の「良き慣用」を判定する、最高の権威であることを示す、具体的な成果物でした。
一方、文法書の編纂は、辞書ほど順調には進みませんでした。会員たちの間で意見の対立が激しく、作業は遅々として進まず、結局、アカデミー自身の手による包括的な文法書は、この時代には完成しませんでした。しかし、アカデミーの議論や、ヴォージュラのような会員が個人で出版した著作(『フランス語に関する所見』)は、フランス語の文法と思考に大きな影響を与え、古典主義文学の基礎となる、明晰で論理的な言語スタイルの確立に貢献しました。
国家の威信
アカデミー=フランセーズの設立は、言語的な目的だけでなく、フランスという国家の威信を国際的に高めるという、明確な政治的意図を持っていました。リシュリュー枢機卿は、文化の力が、軍事力や経済力と同じくらい、国家の栄光にとって重要であると深く信じていました。
当時、ヨーロッパの文化的な先進国と見なされていたのは、ルネサンスの中心地であったイタリアや、黄金世紀を迎えていたスペインでした。これらの国々は、それぞれフィレンツェのクルスカ学会や、マドリードの王立アカデミーといった、言語や文学を振興するための国家的な機関を持っていました。
リシュリューは、フランスがこれらの国々と肩を並べ、さらには追い越すためには、同様の公的なアカデミーを設立し、フランス語を、かつてのラテン語が持っていたような、普遍的な国際語としての地位にまで高める必要があると考えました。アカデミー=フランセーズは、フランス文化の優秀性を示すためのショーケースであり、その活動を通じて、フランスの知的・文化的な覇権をヨーロッパ全土に及ぼすための、強力な道具となることが期待されたのです。アカデミーが編纂する辞書や、その会員たちが生み出す文学作品は、フランス語の美しさと明晰さを世界に示し、各国の知識人たちがフランス語を学び、使用することを促すでしょう。このように、アカデミーの使命は、その根底において、ルイ13世とリシュリューが進める、強力なフランス国家の建設という、大きな政治的プロジェクトと不可分に結びついていたのです。
初期の活動と『ル=シッド』論争
アカデミー=フランセーズが設立されて間もなく、この新しい組織の権威と役割を、世に知らしめることになる重大な事件が起こりました。それが、劇作家ピエール=コルネイユの戯曲『ル=シッド』を巡る、激しい文学論争です。この論争は、アカデミーが、単なる名誉職の集まりではなく、フランス文学界における最高の審判者としての役割を、実際に果たすことを期待されていることを示す、最初の試金石となりました。
論争の勃発
1637年の初頭に初演されたコルネイユの悲喜劇『ル=シッド』は、パリの観衆から熱狂的な喝采をもって迎えられました。「『ル=シッド』のように美しい」という言葉が流行するほど、その人気は絶大なものでした。物語は、名誉と恋愛の狭間で葛藤する若い恋人たち、ロドリーグとシメーヌの姿を情熱的に描き出し、多くの人々の心を捉えました。
しかし、この圧倒的な成功は、同時に、一部の作家や批評家からの激しい嫉妬と反発を招きました。特に、コルネイユのライバルであった劇作家のジョルジュ=ド=スキュデリーは、『ル=シッド』が、演劇における重要なルール、特にアリストテレスの詩学に由来する「三一致の法則」(時、場所、筋の一致)を無視していると、厳しく批判しました。彼は、物語が24時間以内に完結していないこと、舞台が複数の場所で展開されること、そして筋書きが不自然で道徳的にも問題があると主張し、コルネイユの作品を公に非難するパンフレットを発表しました。
コルネイユもまた、これに猛然と反論し、両者の間で激しい非難の応酬が始まりました。この個人的な対立は、やがてフランスの文学界全体を巻き込む、大きな論争へと発展していきました。論争の核心は、演劇は確立された「規則」に厳格に従うべきか、それとも観客を喜ばせるという「快楽」を優先すべきか、という、古典主義の根本に関わる問題でした。
アカデミーの介入
この論争が激化する中、スキュデリーは、問題をアカデミー=フランセーズの裁定に委ねることを提案します。これは、設立されたばかりのアカデミーにとって、極めてデリケートな状況でした。アカデミーの庇護者であるリシュリュー枢機卿は、この論争を、新しい組織の権威を確立するための絶好の機会と捉え、アカデミーに『ル=シッド』に関する公式な見解をまとめるよう、強く促しました。
しかし、アカデミーの会員たちは、この任務に乗り気ではありませんでした。彼らの多くはコルネイユの才能を高く評価しており、公の場で彼の作品を裁くことに大きな抵抗を感じました。また、アカデミーのメンバーの一人であるジャン=シャプランが、論争の初期にコルネイユを擁護する文章を書いていたことも、事態を複雑にしました。宰相の意向と、文学的な良心との間で、アカデミーは難しい判断を迫られたのです。
リシュリューの強い圧力の下、アカデミーは最終的に、この任務を引き受けざるを得ませんでした。シャプランが中心となり、数ヶ月をかけて、『ル=シッド』に関するアカデミーの公式見解、すなわち『ル=シッドに関するアカデミー=フランセーズの所見』が起草されました。
アカデミーの裁定
1637年末に公表されたこの『所見』は、非常に慎重で、バランスの取れた内容でした。アカデミーは、一方的にコルネイユを断罪することを避けました。まず、コルネイユの詩才や、彼の作品が持つ多くの美点を賞賛し、その人気が正当なものであることを認めました。
しかしその上で、アカデミーは、『ル=シッド』が、演劇の「規則」という観点からは、多くの欠点を持っていることを、冷静に指摘しました。特に、筋書きの「真実らしさ(ヴレサンブランス)」に問題があるとしました。例えば、シメーヌが、自分の父親を殺した相手であるロドリーグと、わずか一日のうちに結婚を決意することは、人間の感情として不自然であると批判しました。また、三一致の法則が完全には守られていない点も、欠点として挙げられました。
この裁定は、スキュデリーの批判を部分的に認めつつも、コルネイユの才能を擁護するという、巧みな妥協の産物でした。アカデミーは、個人の才能や観客の人気といった要素も尊重しつつ、最終的には、文学作品は理性的な「規則」に基づいて評価されるべきであるという、古典主義の基本原則を擁護する立場を明確にしたのです。
この『ル=シッド』論争への介入は、アカデミー=フランセーズの歴史において、決定的な意味を持ちました。それは、アカデミーが、フランスの言語だけでなく、文学の問題においても、最高の権威を持つ公的な審判者であることを、内外に示した最初の事例となりました。アカデミーは、庇護者であるリシュリューの政治的な意図に応え、その存在意義を証明することに成功したのです。この事件を通じて、アカデミーは、フランスにおける文学的価値の基準を定め、文化的な秩序を維持するという、その後の歴史を通じて担い続けることになる、重要な役割を確立したと言えるでしょう。
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