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ニューネーデルラント植民地とは わかりやすい世界史用語2678
著作名: ピアソラ
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ニューネーデルラント植民地とは

北アメリカ大陸の東海岸、その歴史を語る時、私たちの多くは、プリマスのピルグリム=ファーザーズや、バージニアのジェームズタウンといった、イギリス植民地の物語を思い浮かべます。しかし、そのイギリス植民地の間に、まるで楔のように打ち込まれ、わずか半世紀という短い期間ながらも、その後のアメリカの歴史に、深く、そして永続的な影響を及ぼした、非イギリス系の植民地が存在したことを、忘れてはなりません。それが、オランダ西インド会社によって築かれた、ニューネーデルラント植民地です。
17世紀、オランダは「黄金時代」の絶頂を迎え、その商船隊は世界の海を支配していました。その野心は、アジアの香辛料諸島だけに留まらず、新大陸アメリカにも向けられました。1609年、オランダ東インド会社に雇われたイギリス人探検家ヘンリー=ハドソンが、アジアへの北西航路を探す中で、偶然にも、後に彼の名を冠することになる雄大な川(ハドソン川)を発見したことから、この物語は始まります。彼が持ち帰ったのは、アジアへの道ではなく、この地域に生息するビーバーの毛皮が、ヨーロッパで莫大な利益を生むという、魅力的な情報でした。
この発見をきっかけに、オランダの商人たちは、ハドソン川流域へと引き寄せられ、先住民との間で、活発な毛皮交易を開始します。そして1621年、この地域の貿易独占権を与えられたオランダ西インド会社が、本格的な植民地の建設に乗り出しました。植民地の中心として、マンハッタン島の南端に築かれたのが、ニューアムステルダム。そして、毛皮交易の拠点として、ハドソン川を遡った内陸部に築かれたのが、フォート=オレンジでした。この二つの拠点を軸として、デラウェア川からコネチカット川に至る広大な領域が、ニューネーデルラントと名付けられたのです。
しかし、ニューネーデルラントの歴史は、輝かしい成功物語ではありませんでした。その経営は、常に困難に満ちていました。本国オランダから、この荒々しい新大陸へ移住しようとする人々は、なかなか集まりませんでした。会社の独占的な支配と、歴代総督の強圧的な統治は、数少ない植民者たちの不満を常に掻き立てました。そして何よりも、北と南から急速に拡大してくる、人口で圧倒的に勝るイギリス植民地の存在が、常にその存続を脅かしていました。
それでもなお、この植民地は、極めてユニークな社会を育みました。利益を最優先する商業会社によって運営されたニューネーデルラントは、宗教的な理想に燃えたニューイングランドとは異なり、驚くほどの多様性と寛容性を持つ、多民族・多言語社会となりました。オランダ人、ワロン人、ドイツ人、スカンディナビア人、そしてアフリカから強制的に連れてこられた奴隷たち。さらには、迫害を逃れてきたユダヤ人やクエーカー教徒までもが、この地で、互いに隣り合って暮らしていました。ニューアムステルダムの街角では、18もの言語が話されていたと記録されています。このコスモポリタンな気風は、他のどの北米植民地にも見られない際立った特徴でした。



発見と交易の時代

ニューネーデルラント植民地の物語は、一人の探検家の、壮大な勘違いから始まりました。17世紀初頭、ヨーロッパの海洋国家は、スペインとポルトガルが支配する南回りの航路を避け、アジアの豊かな市場へと至る、新たな近道、すなわち「北西航路」の発見に、しのぎを削っていました。この夢を追い求めた多くの探検家の一人が、イギリス人のヘンリー=ハドソンでした。
ヘンリー=ハドソンの探検

ヘンリー=ハドソンは、すでに二度、イギリスのモスクワ会社のために、北極海経由でアジアへ至る航路の探検に挑み、失敗していました。彼の評判を聞きつけたオランダ東インド会社(VOC)は、17世紀初頭の世界で最も強力で裕福な企業でしたが、彼をアムステルダムに招き、三度目の挑戦を依頼します。1609年4月、ハドソンは、わずか20人ほどの乗組員を乗せた小さな船「ハーフ=ムーン(半月)号」で、アムステルダムを出航しました。
彼の任務は、北極海を東へ進み、ロシアの北を回ってアジアへ向かうことでした。しかし、北極海の厳しい氷に行く手を阻まれ、寒さに不満を募らせた乗組員たちの間で、反乱寸前の事態となります。進退窮まったハドソンは、ここで、驚くべき決断を下します。彼は、会社の命令を無視し、船の舵を180度転換させ、大西洋を横断して、北アメリカ大陸へと向かったのです。彼は、かつてイギリスのジェームズタウン植民地の指導者ジョン=スミスから聞いた、北米大陸を貫通して太平洋へと抜ける水路があるかもしれない、という未確認の情報を、試してみることにしたのです。
1609年9月、数週間の航海の末、ハーフ=ムーン号は、後にニューヨーク湾となる、広大な湾に到達しました。彼は、この湾に注ぎ込む大きな川を発見し、これこそが太平洋へと続く海峡かもしれないと期待を抱きました。彼は、この川を約150マイル(約240キロメートル)にわたって遡上していきます。川の両岸に広がる、豊かな森と、穏やかな風景は、乗組員たちを魅了しました。
しかし、川の水が次第に淡水に変わっていくにつれて、ハドソンの期待は、失望へと変わっていきました。現在のオールバニ市の近くまで到達したところで、川の水深が浅くなり、これ以上進むことが不可能であることを悟ります。彼が発見したのは、アジアへの近道ではなく、単なる内陸河川だったのです。
失意のうちに、ハドソンは川を下り始めましたが、この探検は、全くの無駄足ではありませんでした。彼は、航海の途中で、この地域に住む、レナペ族やマヒカン族といった、アルゴンキン語族系の先住民と接触しました。彼は、彼らが身に着けていた、光沢のある、厚い毛皮に注目します。それは、ヨーロッパの市場で、帽子などの高級品を作るために、非常に高い値段で取引される、ビーバーの毛皮でした。ハドソンは、いくつかの毛皮や貝殻(ワンパム)を、ヨーロッパ製の安価な装飾品と交換し、これが、非常に利益の上がるビジネスになることを、確信しました。
1609年11月、ハドソンは、ヨーロッパに帰還しますが、イングランドのダートマスに寄港したところ、当局に拘束されてしまいます。敵国であるオランダのために探検を行ったことを、裏切り行為と見なされたのです。彼は、二度とオランダのために働くことはありませんでしたが、彼が持ち帰った航海日誌と、毛皮交易の可能性に関する情報は、アムステルダムの商人たちの間に、瞬く間に広まりました。
毛皮交易の始まり

ハドソンの報告は、利益に敏感なオランダの商人たちを、すぐさま行動に駆り立てました。1610年以降、複数の小規模な貿易会社が、競ってハドソン川流域へと船を派遣し始めました。彼らの目的は、ただ一つ、ビーバーの毛皮でした。
当時のヨーロッパでは、フェルト帽が、社会的地位を示す重要なファッションアイテムであり、その最高の素材が、ビーバーの毛皮でした。ビーバーの毛皮には、防水性に富んだ、柔らかい下毛があり、これが、高品質なフェルトを作るのに、最適だったのです。ヨーロッパのビーバーは、乱獲によって、ほぼ絶滅状態にあったため、北米産の毛皮は、極めて高い需要がありました。
オランダの商人たちは、ハドソン川を遡り、先住民との間に、交易関係を築いていきました。彼らは、ヨーロッパから持ってきた、金属製の斧、ナイフ、鍋、そしてガラス製のビーズや、派手な布地といった品々を、ビーバーやカワウソの毛皮と交換しました。先住民にとって、鉄製の道具は、彼らが伝統的に使っていた石器や骨角器よりも、はるかに効率的で、魅力的でした。こうして、両者の間には、相互の利益に基づいた、共生関係が生まれました。
当初、交易は、船上で行われる、季節的なものでした。しかし、競争が激化するにつれて、商人たちは、より安定した交易関係を築くために、年間を通じて滞在する、小規模な交易拠点を、川沿いに建設する必要性を感じるようになります。
ニューネーデルラント会社の設立とフォート=ナッサウ

ハドソン川流域での毛皮交易の利益が明らかになるにつれて、個別の商人たちの間の競争は、過当なものとなり、毛皮の仕入れ価格を吊り上げ、利益を圧迫し始めました。この無秩序な競争を憂慮したオランダの連邦議会は、商人たちに、協力して一つの会社を設立するよう、促します。
1614年、いくつかの貿易会社が合同し、「ニューネーデルラント会社」が設立されました。連邦議会は、この会社に対して、北緯40度から45度の間のアメリカ大陸沿岸における、3年間の貿易独占権を与えました。この勅許状において、「ニューネーデルラント」という名前が、初めて公式に使用されました。
この独占権を得たニューネーデルラント会社は、同1614年、ハドソン川がモホーク川と合流する地点の近く、現在のオールバニ市内にあたる、キャッスル島に、最初の恒久的な拠点となる、小さな交易所を建設しました。彼らは、オランダの独立に貢献した、オラニエ=ナッサウ家に敬意を表して、この交易所を「フォート=ナッサウ」と名付けました。
フォート=ナッサウは、わずか十数人の従業員が駐在する、簡素な木造の砦でしたが、その戦略的な位置は、極めて重要でした。この場所は、ハドソン川を通じて大西洋と結ばれていると同時に、西へ延びるモホーク川を通じて、五大湖地方へと至る、内陸の交易ルートの結節点にあったからです。この地域は、当時、北米で最も強力な先住民連合であった、イロコイ連邦の、東の部族であるモホーク族の勢力圏でした。オランダ人たちは、このモホーク族との間に、安定した同盟関係を築くことに成功します。モホーク族は、内陸の他の部族から毛皮を調達し、それをフォート=ナッサウのオランダ人に供給する、仲介者としての役割を果たすようになりました。このオランダとイロコイ連邦との同盟関係、いわゆる「契約の鎖」は、ニューネーデルラントの歴史を通じて、その安全保障と経済の根幹をなす、極めて重要な要素であり続けました。
しかし、キャッスル島は、春の雪解け水による、ハドソン川の洪水に、毎年悩まされました。1617年か1618年には、砦は放棄され、より高い場所へと移転されました。そして、ニューネーデルラント会社の3年間の独占期間も終了し、毛皮交易は、再び、自由競争の時代へと戻りました。
この初期の探検と交易の時代は、ニューネーデルラント植民地の、その後の性格を決定づけました。それは、宗教的な理想や、農業による定住を目指したものではなく、あくまで、毛皮交易という、商業的な利益の追求を、第一の目的とする、極めて実利的な事業として始まったのです。この商業主義の精神は、植民地の歴史の、隅々にまで浸透していくことになります。
西インド会社による植民地化

17世紀の初頭、ハドソン川流域における毛皮交易は、大きな利益を生む可能性を秘めていましたが、それは同時に、多くの課題を抱えていました。個々の商人による無秩序な競争は、利益を圧迫し、イングランドやフランスといった、他のヨーロッパ諸国との競争も、激化しつつありました。この地域のオランダの権益を、より恒久的で、強固なものにするためには、国家的な後ろ盾を持つ、より強力な組織が必要でした。その役割を担うことになったのが、1621年に設立された、オランダ西インド会社(GWC)でした。
西インド会社の設立とニューネーデルラントの位置づけ

オランダ西インド会社は、スペインとの八十年戦争を、海外で遂行するための、半官半民の軍事組織として設立されました。その主な目的は、ブラジルやカリブ海で、スペイン・ポルトガル帝国を攻撃し、その富を奪うことにありました。
この壮大な戦略の中で、北アメリカのニューネーデルラントは、当初、それほど高い優先順位を与えられていたわけではありませんでした。ブラジルの砂糖や、カリブ海の銀に比べれば、ビーバーの毛皮から得られる利益は、比較的小さなものでした。しかし、西インド会社は、この地域の毛皮交易がもたらす安定した収益と、北米大陸における戦略的な足場としての価値を、認識していました。会社は、設立と同時に、ニューネーデルラントにおける、すべての貿易と植民の独占権を、連邦議会から与えられました。
会社の最初の仕事は、この地域における、オランダの主権を、内外に示すことでした。1624年、会社は、最初の公式な植民者たちを乗せた船「ニュー=ネーデルラント号」を、ハドソン川へと派遣しました。この船には、約30の家族が乗っていましたが、その多くは、オランダ人ではなく、当時スペインの支配下にあった、南ネーデルラント(現在のベルギー)出身の、フランス語を話すプロテスタント教徒、ワロン人でした。彼らは、宗教的迫害を逃れて、オランダに避難していた人々でした。
これらの最初の植民者たちは、一つの場所に集住するのではなく、会社の広大な領有権主張を、実効支配で裏付けるために、いくつかの場所に、分散して配置されました。一部は、ハドソン川上流、かつてのフォート=ナッサウの近くに、新たに建設された「フォート=オレンジ」(現在のオールバニ)へ。一部は、デラウェア川の南へ。また一部は、コネチカット川の河口へと送られました。そして、数家族が、ハドソン川の河口に浮かぶ、ガバナーズ島に、最初の拠点を築きました。
ニューアムステルダムの建設

植民者を広範囲に分散させる戦略は、防衛上、極めて脆弱であることが、すぐに明らかになりました。会社の取締役会である「19人会」は、植民地の中心となる、一つの要塞化された主都を建設し、そこに植民者を集住させる方針に、転換します。
1625年、会社は、新たな総督として、ウィレム=フェルフルストを任命し、彼に、主都の建設地を選定するよう、指示しました。そして、同1625年、技師であり、測量士でもあった、クリジン=フレデリクスが、詳細な建設計画書と共に、ニューネーデルラントへ派遣されました。
当初、主都の建設地としては、デラウェア川の河口などが検討されましたが、最終的に選ばれたのは、ハドソン川の河口に位置する、マンハッタン島の南端でした。この場所は、いくつかの点で、理想的でした。第一に、大西洋とハドソン川を結ぶ、水路の入り口を、完全にコントロールできる、戦略的な位置にありました。第二に、広大で、安全な停泊地を提供できる、良港を備えていました。第三に、島の南端は、防衛上有利な地形をしていました。
1626年、フェルフルストの後を継いで、新たな総督となった、ピーター=ミヌイットが、このマンハッタン島の購入に関する、歴史的な取引を行ったとされています。伝説によれば、ミヌイットは、この地域に住んでいたレナペ族の代表者と会い、斧、鍋、ビーズ、布地といった、総額60ギルダー(現在の価値で約1000ドル程度と推定される)に相当する、ヨーロッパ製の品物と引き換えに、マンハッタン島全体を、譲り受けたと伝えられています。
しかし、この取引は、ヨーロッパ人と先住民の間の、土地所有に関する、根本的な考え方の違いを、象徴するものでした。ヨーロッパ人にとって、土地は、個人や団体が、排他的に所有し、売買できる「商品」でした。一方、先住民にとって、土地は、特定の個人が所有するものではなく、部族全体が、共同で利用するものであり、売買の対象ではありませんでした。彼らは、オランダ人から品物を受け取ることで、土地を「売り渡した」とは考えておらず、むしろ、その土地を、オランダ人と「共有して利用する」権利を与えた、と解釈していた可能性が高いです。この認識の齟齬は、後に、両者の間で、多くの紛争を引き起こす原因となります。
土地の確保に続き、会社の奴隷を含む労働者たちが、マンハッタン島の南端に、要塞の建設を開始しました。この要塞は「フォート=アムステルダム」と名付けられ、その周囲に、植民者の住居、教会、倉庫、そして会社の事務所などが、徐々に建設されていきました。この集落全体が、「ニューアムステルダム」と呼ばれる、ニューネーデルラント植民地の、政治と経済の中心地となったのです。
パトルーン制の導入

ニューアムステルダムの建設は進みましたが、植民地が抱える、最も深刻な問題は、依然として解決されていませんでした。それは、圧倒的な人口不足です。17世紀のオランダ本国は、経済的な繁栄と、宗教的な寛容を享受しており、危険で、不便な新大陸へ、わざわざ移住しようと考える人々は、ごく少数でした。農業を発展させ、植民地を自給自足させるためには、より多くの移民を、惹きつける必要がありました。
この問題を解決するため、西インド会社は、1629年に、「自由と免除に関する憲章」として知られる、新たな計画を打ち出しました。これが「パトルーン制」です。
この制度は、会社の投資家(パトルーンと呼ばれる)が、自らの費用で50人以上の成人をニューネーデルラントに移住させた場合、その見返りとして、広大な土地の所有と、その土地における、封建領主のような、広範な特権を与えるというものでした。パトルーンは、ハドソン川沿いの、長さ16マイル(約26キロメートル)、あるいは川の両岸にまたがる場合は、長さ8マイルの土地を自由に選ぶことができました。
パトルーンは、その領地内で、民事および軽犯罪に関する独自の裁判権を持ち、領民から、十分の一税を徴収し、漁業や狩猟、製粉などの独占権を、行使することができました。一方、領地に住む小作人たちは、パトルーンに地代を支払い、彼の許可なく、領地を離れることは、禁じられていました。ただし、パトルーンは、毛皮交易を行うことは禁じられており、これは、会社の独占権として、留保されていました。
この制度は、中世ヨーロッパの封建制度を、新大陸に持ち込むような試みでした。会社の取締役の中には、この制度に、大きな期待を寄せる者もいました。その一人が、アムステルダムの裕福なダイヤモンド・真珠商人であり、会社の主要な投資家であった、キリヤン=ファン=レンセラーでした。彼は、この制度を利用して、フォート=オレンジの周辺に、広大な領地「レンセラーウィック」を確保しました。彼の代理人は、巧みに先住民から現在のオールバニ郡とレンセラー郡の、ほぼ全域にまたがる、巨大な土地を、安価で手に入れました。
しかし、レンセラーウィックは、パトルーン制の、唯一の成功例となりました。他の多くのパトルーン領は、計画倒れに終わるか、あるいは、すぐに放棄されてしまいました。その主な理由は、パトルーンたちが、制度の抜け穴を利用して、禁止されていたはずの毛皮交易に、公然と手を染め、会社と激しく対立したからです。また、自由を求めて新大陸にやってきた植民者たちにとって、封建領主のようなパトルーンの支配は、決して魅力的なものではありませんでした。
パトルーン制は、植民地の人口を、劇的に増加させることには、失敗しました。しかし、それは、ハドソン川流域の土地所有のパターンに、永続的な影響を残しました。特に、レンセラーウィックのような、巨大な荘園の存在は、その後のニューヨーク州の社会と政治に、19世紀半ばの「地代反逆戦争」に至るまで、長く影響を及ぼし続けることになります。
こうして、西インド会社による植民地化は、ニューアムステルダムという主都の建設と、パトルーン制という野心的な社会実験を通じて、その基礎を築いていきました。しかし、その前途には、先住民との対立、植民者たちの不満、そして会社の近視眼的な経営という、多くの困難が待ち受けていたのです。
植民地の社会と経済

ニューネーデルラントは、オランダ西インド会社という、利益追求を至上命題とする商業企業によって設立され、運営された植民地でした。この事実は、その社会の構造、経済のあり方、そして人々の日常生活の、隅々にまで、深い影響を及ぼしました。それは、宗教的理想を掲げたニューイングランドのピューリタン社会とも、タバコ=プランテーションを基盤としたバージニアの貴族社会とも、全く異なる、ユニークな性格を持つ社会でした。
多様な住民構成

ニューネーデルラント社会の、最も際立った特徴は、その驚くべき多様性にありました。会社の最大の悩みは、一貫して、労働力となる人口の不足でした。17世紀のオランダ本国は、経済的に豊かで、宗教的にも寛容であったため、わざわざ新大陸の荒野に移住しようというオランダ人は、常に少数でした。
この人口不足を補うため、西インド会社は、国籍や宗教を問わず、ニューネーデルラントに来たいと願う者を、誰でも受け入れるという、極めて実利的な方針をとりました。その結果、植民地には、ヨーロッパ中から、様々な背景を持つ人々が、引き寄せられてきました。
もちろん、支配層の中心は、オランダ改革派教会に属する、オランダ人でした。しかし、最初の植民者の中核をなしたのは、南ネーデルラント出身の、フランス語を話すワロン人でした。その後も、ドイツ、フランス、イギリス、スカンディナビア諸国、そしてアイルランドなどから、多くの移民がやってきました。彼らは、戦争や貧困、宗教的迫害を逃れて、新大陸に、新たな生活の機会を求めてきた人々でした。1640年代に、ニューアムステルダムを訪れたイエズス会の宣教師イザーク=ジョグは、この小さな町で、18もの異なる言語が話されているのを聞いて、驚いたと記録しています。
この多様性は、宗教の面でも、顕著でした。公式な宗教は、オランダ改革派教会でしたが、会社は、商業活動を妨げない限りにおいて、他の宗派の存在にも、黙認の姿勢をとることが多かったのです。ルター派、メノナイト、そして、イングランドから逃れてきた、様々な宗派のプロテスタントが、この地で暮らしていました。
しかし、この寛容には、明確な限界がありました。特に、総督ピーター=ストイフェサントの時代には、非改革派に対する、抑圧的な政策がとられることもありました。彼は、クエーカー教徒の活動を、特に危険視し、彼らの集会を禁じ、厳しい罰則を科しました。1657年、ロングアイランドのフリッシング(現在のクイーンズ区フラッシング)の住民たちが、クエーカー教徒の受け入れを求める、有名な「フリッシング嘆願書」をストイフェサントに提出しましたが、彼は、これを一蹴し、署名者たちを罰しました。
また、1654年には、ブラジルのレシフェがポルトガルに奪回された際に、そこから逃れてきた、23人のセファルディム系ユダヤ人が、ニューアムステルダムに到着しました。ストイフェサントは、当初、彼らの定住を拒否しようとしましたが、ユダヤ人の株主が、西インド会社の本社に大きな影響力を持っていたため、会社の取締役会は、ストイフェサントに対して、彼らの居住を許可するよう、命じました。ただし、彼らは、公的な礼拝所を建設することは許されず、特定の職業から排除されるなど、多くの制約を受けました。
ニューネーデルラントの多様な住民構成の中で、忘れてはならないのが、アフリカから強制的に連れてこられた、奴隷たちの存在です。
奴隷制度の役割

ニューネーデルラントにおける奴隷制度は、植民地の最初期から、その社会経済構造に、深く組み込まれていました。最初の奴隷たちは、1626年頃に、西インド会社によって、ニューアムステルダムに連れてこられました。彼らは、会社の「所有物」であり、要塞の建設、土地の開墾、道路の敷設、そして会社の農場での労働など、植民地のインフラを築くための、不可欠な労働力として、酷使されました。
ニューネーデルラントの奴隷制度は、後のアメリカ南部の、プランテーション奴隷制とは、いくつかの点で、異なっていました。この時期の奴隷は、主に会社や、都市部の富裕な個人に所有されており、その労働は、農業だけでなく、港湾での荷役や、職人の手伝いなど、多岐にわたりました。
また、オランダの法制度の下では、奴隷は、ある程度の法的権利を認められていました。彼らは、法廷で証言したり、訴訟を起こしたり、財産を所有したり、そして、法的に有効な結婚をしたりすることが、可能でした。
さらに、ニューネーデルラントには、「半自由」という、独特の地位が存在しました。これは、長年、忠実に働いた奴隷に対して、会社がある種の条件付きの自由を与えるというものでした。半自由となったアフリカ人たちは、自分の住居を持ち、家族と暮らし、自分のために働くことができましたが、その見返りとして、毎年、会社に、一定の貢納物(農産物や毛皮など)を納める義務を負っていました。また、彼らや、その妻は、必要に応じて、会社の労働に、呼び出される可能性がありました。そして、最も重要な点として、彼らの子供たちは、自由な身分を継承できず、奴隷として生まれました。この制度は、会社にとって、奴隷を管理し、労働力を確保するための、都合の良い方策でした。
しかし、これらの特徴は、奴隷制度の、本質的な非人道性を、何ら和らげるものではありません。彼らは、本人の意思に反して、故郷から引き離され、商品として売買され、生涯にわたる強制労働を、強いられたのです。1660年代には、ニューアムステルダムの人口の、約20パーセントを、アフリカ系の奴隷が占めていたと推定されており、彼らの労働なくして、植民地の経済は、成り立ちませんでした。
経済の基盤

ニューネーデルラントの経済は、二つの柱の上に成り立っていました。それは、毛皮交易と農業です。
設立当初から、植民地の存在理由そのものであったのが、ビーバーの毛皮交易でした。その中心地は、内陸のフォート=オレンジでした。ここで、オランダ人の交易商人たちは、モホーク族をはじめとする、イロコイ連邦の先住民と、取引を行いました。オランダ人は、ヨーロッパ製の工業製品、特に、銃、火薬、そしてアルコール(ラム酒やブランデー)を供給し、その見返りとして、大量のビーバーの毛皮を、手に入れました。
銃の供給は、オランダとイロコイ連邦の同盟関係を、強固なものにしました。最新の火器で武装したイロコイ族は、その軍事力を、飛躍的に高め、他のライバル部族(フランスと同盟していたヒューロン族など)を圧倒し、より広範な領域から、毛皮を調達することができるようになりました。この共生関係は、両者に利益をもたらしましたが、それは同時に、北米大陸の先住民社会の間の、勢力バランスを、大きく変化させ、より激しい「毛皮戦争」の時代を、引き起こすことにもなりました。
毛皮交易が、植民地の最も儲かる事業であった一方で、その経済的な基盤を支えたのは、農業でした。西インド会社は、植民地が、食料を自給自足できるようになることを、強く望んでいました。植民地の農業の中心地は、マンハッタン島、ロングアイランド、そしてハドソン川沿いの、肥沃な土地でした。
主な作物は、小麦、ライ麦、トウモロコシ、そして野菜類でした。特に、余剰の小麦は、カリブ海のオランダ領キュラソー島などへ輸出され、重要な収入源となりました。また、タバコの栽培も、バージニアからの影響で、試みられました。
農業の発展は、パトルーン制の導入によって、促進されることが期待されましたが、前述の通り、これは、レンセラーウィックを除いて、ほとんど成功しませんでした。多くの植民者は、封建的なパトルーンの支配下に入るよりも、会社から直接、土地を借りるか、購入して、独立した農民となることを、望みました。
ニューアムステルダムの港は、これらの経済活動の中心でした。毛皮や小麦が、ここからヨーロッパやカリブ海へと船積みされ、ヨーロッパからの工業製品や、アフリカからの奴隷が、陸揚げされました。港は、合法的な貿易だけでなく、密輸の拠点としても、賑わいを見せました。特に、イギリス領ニューイングランドとの間で、オランダの法律を潜り抜けて、タバコやその他の商品を取引する、活発な密貿易が行われていました。
このように、ニューネーデルラントの社会と経済は、多様な人々の流入、奴隷制度への依存、そして、毛皮交易と農業という、二本柱の経済によって、特徴づけられていました。それは、常に緊張と矛盾をはらみながらも、ダイナミックで、コスモポリタンな、他に類を見ない社会を、北米の荒野に、生み出したのです。
統治と対立

ニューネーデルラントの政治は、その設立から終焉まで、一貫して、権威主義的な統治と、それに対する植民者たちの抵抗という、緊張関係によって特徴づけられていました。植民地は、代議制議会を持つイギリス植民地とは異なり、オランダ西インド会社から任命された、一人の総督(Director-General)によって、ほぼ独裁的に統治されていました。この統治のあり方は、植民地の内部、そして外部との間に、絶え間ない対立を生み出す原因となりました。
総督による統治

ニューネーデルラントの最高権力者である総督は、行政、立法、司法の三権を、その手に集中させていました。彼は、会社の代理人として、植民地の防衛、交易の管理、法の執行、そして土地の分配など、あらゆる事柄について、最終的な決定権を持っていました。
総督は、数人のメンバーからなる評議会によって、補佐されていました。しかし、評議員もまた、総督自身か、あるいは会社によって任命されるため、総督の権力を有効に抑制する機関とはなり得ませんでした。植民者には、自らの代表を選び、植民地の運営に参加する、制度的な権利は与えられていませんでした。
この権威主義的な統治システムは、歴代総督の個性によって、その様相を大きく変えました。

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