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スコットランドの反乱とは わかりやすい世界史用語2688
著作名: ピアソラ
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スコットランドの反乱とは
1639年から1640年にかけてスコットランドで勃発した反乱、通称「主教戦争」は、単なる一地方の宗教的な騒乱ではありません。それは、イングランド国王チャールズ1世の統治に対する最初の、そして最も決定的な挑戦であり、彼の王国全体を巻き込む巨大な嵐の到来を告げる、不吉な雷鳴でした。この反乱は、チャールズが11年間にわたって維持してきた議会なき「個人統治」の脆さを暴き、彼を財政的・軍事的に破綻させ、イングランド議会の召集を余儀なくさせました。そして、その先に待っていたのは、国王と議会の全面衝突、すなわちイングランド内戦でした。したがって、主教戦争を理解することは、17世紀半ばのブリテン諸島を覆った「三王国戦争」の複雑なパズルを解き明かすための、不可欠な鍵となります。 この紛争の直接的な引き金は、チャールズ1世が、カンタベリー大主教ウィリアム=ロードの助言の下、スコットランド国教会に対して、イングランド国教会の様式に近い新しい祈祷書を強制的に導入しようとしたことでした。スコットランドの人々にとって、この祈祷書は、彼らが宗教改革以来守り抜いてきた長老派の信仰と教会の独立性を脅かす、許しがたい「ポープリー」の導入であり、国王による専制的な介入でした。エディンバラのセント=ジャイルズ大聖堂で一人の女性が投げつけたとされる一脚の椅子は、やがて全国的な抵抗運動の狼煙となり、貴族から庶民までが「国民盟約」の下に結集し、神と自らの教会の自由を守るために武器を取ることを誓いました。 しかし、この反乱の根は、単なる宗教問題よりもさらに深く、スコットランドの政治、社会、そしてナショナリズムの土壌にまで伸びていました。1603年にスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位して以来、両国は「同君連合」の関係にありましたが、政治の中心はロンドンに移り、スコットランドは不在の王によって統治されるという状況にありました。イングランドで育ち、スコットランドの気風をほとんど理解していなかったチャールズ1世は、父ジェームズとは異なり、スコットランドの貴族や教会の指導者たちとの対話を軽視し、上からの改革を強行しようとしました。彼の土地政策である「撤回法」は、貴族やジェントリの財産権を脅かし、彼らを反国王感情へと駆り立てました。 主教戦争は、二つの段階に分かれています。1639年の第一次主教戦争は、両軍が国境付近で対峙したものの、本格的な戦闘には至らず、「ベリックの和約」という不確かな停戦で幕を閉じました。しかし、この和約は、双方の不信感を解消するには至らず、チャールズはイングランド議会を召集して戦費を調達しようと試みますが、これも失敗に終わります。そして1640年、スコットランド盟約派軍は、今度は先制攻撃を仕掛け、イングランド北部に侵攻します。ニューバーンの戦いで国王軍を打ち破り、ニューカッスルを占領した彼らは、チャールズに対して屈辱的な「リポンの和約」を強いました。この和約は、スコットランド軍のイングランド駐留経費をイングランド側が支払うことを定めており、チャールズは、この莫大な賠償金を支払うために、彼が最も忌み嫌っていたイングランド議会を再び召集せざるを得なくなったのです。
紛争の根源=チャールズ1世のスコットランド政策
1637年にスコットランドで燃え上がった反乱の炎は、一朝一夕に生じたものではありません。それは、チャールズ1世が即位した1625年以来、十数年にわたって積み重ねられてきた、宗教的、政治的、そして経済的な不満という薪の上に、新しい祈祷書という火の粉が落ちた結果でした。イングランドで育ち、スコットランドの複雑な社会や人々の気質をほとんど理解していなかったこの国王は、一連の無神経で権威主義的な政策によって、自らが統治する北の王国を、知らず書かずのうちに敵に回していたのです。
不在の国王と「アングリ化」への懸念
1603年、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位し、ステュアート朝がロンドンに宮廷を移したことは、スコットランドに複雑な影響をもたらしました。一方で、それは長年の宿敵であったイングランドとの平和を実現し、スコットランド貴族にロンドン宮廷での出世の機会を開きました。しかしその反面、スコットランドは政治の中心から遠ざけられ、「不在の国王」によって統治されるという、新たな問題を抱えることになりました。 ジェームズ1世は、スコットランドで生まれ育ち、その政治の機微を熟知していました。彼はロンドンに移った後も、「ペンによる統治」を巧みに行い、スコットランド枢密院や貴族たちとの頻繁な書簡のやり取りを通じて、彼らの意見に耳を傾け、巧みなパトロン=ネットワークを駆使して、自らの影響力を維持しました。彼は、スコットランド国教会に主教制を再導入し、儀式をイングランド国教会に近づけようと試みましたが(1618年の「パース五箇条」)、その際には、スコットランド議会や教会総会の承認を取り付けるなど、慎重な手続きを踏みました。 しかし、その息子であるチャールズ1世は、全く異なっていました。彼はわずか3歳でイングランドに移り住み、完全にイングランド人として育てられました。彼は、父のようにスコットランドの貴族たちと個人的な関係を築くこともなく、彼らの助言に耳を傾けることもしませんでした。彼にとって、スコットランドは、イングランドに比べて後進的で、秩序に欠ける王国であり、イングランドのモデルに従って「改革」されるべき対象でした。彼の統治スタイルは、対話や妥協ではなく、ロンドンからの勅令による一方的な命令でした。 スコットランドの人々の目には、チャールズの政策は、自国の法、教会、そしてアイデンティティを、より強大で裕福な隣国イングランドのものに従属させようとする、「アングリ化」の試みとして映りました。彼らは、自国がイングランドの一地方に成り下がってしまうのではないかという、深い懸念と反感を抱いていたのです。
撤回法=貴族とジェントリの離反
チャールズが即位直後の1625年に打ち出した「撤回法」は、スコットランドの土地所有者階級、すなわち貴族とジェントリの間に、深刻な不安と敵意を植え付けた最初の、そしておそらく最も重大な失策でした。 この法律は、1542年以降に王領地や教会領地から俗人に譲渡されたすべての土地の権利を、国王が「撤回」する権利を宣言するものでした。その目的は、第一に、宗教改革の際に貴族たちが手に入れた旧教会領地を王室に取り戻し、それを財源としてスコットランド国教会の聖職者の給与を安定させること、第二に、王室自体の財政基盤を強化することにありました。 理論上は、国王が封建的な上位領主としての権利を再確認するという、伝統的な法的行為でした。しかし、その範囲が過去80年以上に遡る、あまりにも広範なものであったため、スコットランドのほぼすべての主要な土地所有者が、その影響を受ける可能性がありました。彼らは、先祖代々受け継いできた土地の所有権が、国王の一存で脅かされることに、強い衝撃と憤りを感じました。 チャールズは、土地を完全に没収するつもりはなく、現在の所有者が一定の和解金を支払うことで、新たな勅許状を得て所有権を再確認できるという道を残していました。しかし、その手続きは煩雑で、不透明であり、多くの貴族は、これを国王による財産の強奪であると見なしました。特に、宗教改革で大きな利益を得ていたアーガイル伯やハミルトン侯といった大貴族たちは、この政策に強く反発しました。 この撤回法は、チャールズにわずかな財政的利益しかもたらさなかった一方で、政治的には壊滅的な結果を招きました。それは、本来であれば王権の最も強力な支柱であるはずの貴族階級を、国王から離反させたのです。彼らは、国王がスコットランドの法と慣習を無視し、自らの財産権を脅かす存在であると認識するようになりました。この時に生まれた不信感は、後の宗教的な対立が起こった際に、貴族たちが反乱の指導者となるための素地を形成しました。
1633年の戴冠式と議会
チャールズは、即位から8年もの間、一度もスコットランドを訪れませんでした。彼がようやくスコットランドでの戴冠式のためにエディンバラを訪れたのは、1633年のことでした。しかし、この訪問は、和解どころか、さらなる対立の火種を蒔く結果に終わりました。 戴冠式は、ホリールード宮殿の礼拝堂で、イングランド式の壮麗な儀式に則って行われました。式典を執り行ったのは、ウィリアム=ロードであり、聖職者たちは、スコットランド人が「ポープリー」の象徴として忌み嫌う、白いサープリスを着用しました。祭壇には、ろうそくや十字架が飾られ、多くのスコットランドの貴族や聖職者たちは、これがカトリックのミサの再現であるかのような印象を受け、強い嫌悪感を抱きました。 戴冠式の後に開かれたスコットランド議会もまた、国王と臣民の間の溝を深めました。チャールズは、自らの政策を承認させるため、議会の運営に高圧的な介入を行いました。彼は、議会の議題を決定する「条項委員会」のメンバーを、事実上、自分で指名しました。 特に議論を呼んだのは、国王が聖職者の服装を規定する権限を認める法案でした。これは、サープリスのような「ポープリー」的な祭服の着用を、法的に強制する道を開くものでした。多くの議員がこの法案に反対しましたが、チャールズは議場で自ら投票者リストをチェックし、反対票を投じようとする者に威圧的な視線を送りました。公式には、法案はわずかな差で可決されたと発表されましたが、多くの議員は、投票結果が不正に操作されたと信じていました。 議会の後、数人の貴族が、国王に対して、議会での不満を表明する「請願書」を起草しました。しかし、チャールズは、これを君主に対する中傷であると見なし、請願書の写しを所持していたバルメリノ卿を、反逆罪で裁判にかけ、死刑判決を下しました。この事件は、国王が、たとえ敬意を払った形であっても、いかなる批判も許さないという、彼の専制的な姿勢をスコットランド全土に知らしめました。貴族たちは、合法的な手段で国王に異議を唱える道が閉ざされたことを悟りました。
ウィリアム=ロードと新しい祈祷書
チャールズのスコットランド宗教政策の背後には、彼の最も信頼する宗教顧問、ウィリアム=ロードの存在がありました。1633年にカンタベリー大主教に就任したロードは、アルミニウス主義者であり、教会の儀式における「美と秩序」を重んじる、いわゆる「高教会派」の指導者でした。彼は、カルヴァン主義の予定説を和らげ、祭壇の設置、ステンドグラスの導入、聖職者の祭服着用といった、儀式的な要素を重視しました。 ロードにとって、スコットランド国教会の簡素で非儀式的な礼拝は、無秩序で不敬なものに映りました。彼は、チャールズと共に、スコットランド教会をイングランド国教会のモデルに近づけることで、両王国に統一された、秩序ある教会を確立しようと夢見ていました。 その計画の集大成が、スコットランドのための新しい祈祷書と、新しい教会法規の導入でした。この計画は、スコットランドの主教たちと協議して進められましたが、そのプロセスは極秘裏に行われ、スコットランド議会や、教会の最高意思決定機関である教会総会には、一切諮られませんでした。 1636年に公布された新しい教会法規は、国王を教会の最高統治者として明確に位置づけ、主教の権威を強化し、長老会の権限を弱めるものでした。さらに、まだ公表されてもいない新しい祈祷書を、教会の唯一の公的な礼拝形式として受け入れることを、聖職者たちに義務付けました。これは、内容も知らされずに、白紙の小切手に署名させられるようなものでした。 そして1637年、ついに問題の新しい祈祷書が完成しました。それは、イングランドの祈祷書と酷似していましたが、いくつかの点で、さらに「高教会派」的、すなわちスコットランド人の目から見れば、さらにカトリック的な変更が加えられていました。例えば、聖餐式のパンとワインを会衆に配る際、よりカトリックの実体変化説に近いと解釈されかねない言葉が用いられていました。 チャールズとロードは、この祈祷書が、スコットランドの人々から、より洗練された、美しい礼拝形式として、喜んで受け入れられるだろうと、本気で信じていたようです。彼らは、自分たちの政策が、スコットランドの宗教的感受性、ナショナルな誇り、そして政治的な独立への渇望という、巨大な火薬庫に火をつけようとしていることに、全く気づいていなかったのです。
国民盟約の成立
1637年7月23日、日曜日。エディンバラのセント=ジャイルズ大聖堂には、新しい祈祷書による最初の礼拝を見届けようと、枢密院議員、裁判官、主教、そして多くの市民が集まっていました。しかし、この日、大聖堂で鳴り響いたのは、荘厳な祈りの言葉ではなく、人々の怒号と、物が飛び交う騒乱の音でした。この出来事は、スコットランド全土を巻き込む、組織的な抵抗運動の始まりを告げるものでした。
ジェニー=ゲディスの椅子
エディンバラ主教が祭壇に進み、新しい祈祷書を開いて礼拝を始めようとしたその瞬間、会衆の中から、一人の女性が「あんたは、あたしの耳元でミサを唱えるつもりかい!」と叫び、自分が座っていた折り畳み式の椅子を、主教めがけて投げつけたと伝えられています。この女性は、市場で野菜を売っていたジェニー=ゲディスという人物であったと、後の伝説は語っています。

この一投を合図に、聖堂内はたちまち大混乱に陥りました。主に女性たちからなる会衆が、「ポープリーだ!」「反キリストの腹わたを、ここから引きずり出せ!」と叫びながら、聖職者たちに石や棒を投げつけ始めました。主教や司祭たちは、命からがら聖堂から逃げ出し、市の役人たちが、ようやく騒ぎを鎮圧しました。 この「ジェニー=ゲディスの反乱」が、全くの自然発生的なものであったのか、それとも、反主教派のジェントリや聖職者によって、ある程度組織されたものであったのかについては、歴史家の間でも意見が分かれています。しかし、いずれにせよ、この出来事が、抑圧されていた民衆の不満を一気に爆発させたことは間違いありません。同様の騒動は、スコットランド各地の教会でも報告されました。新しい祈祷書は、導入されたその日に、事実上、民衆の力によって葬り去られたのです。
請願運動から組織的抵抗へ
当初、スコットランド枢密院は、この騒動を、一部の「下層民」による暴動と見なし、事態を楽観視していました。しかし、祈祷書に対する反対運動は、すぐに社会のあらゆる階層へと広がっていきました。貴族、ジェントリ、バラの代表、そして聖職者たちが、次々と国王に祈祷書の撤回を求める請願書を提出し始めました。 これらの請願者たちは、エディンバラに集結し、やがて「ザ=テーブルズ」として知られる、事実上の臨時政府を組織するに至ります。これは、貴族、ジェントリ、バラ代表、聖職者という四つの身分から、それぞれ代表者を選出して構成された委員会であり、全国の抵抗運動を組織し、指導する役割を担いました。この組織の出現は、抵抗運動が、もはや単なる民衆の暴動ではなく、スコットランドの支配階級が主導する、高度に組織化された政治運動へと発展したことを示していました。 ザ=テーブルズの指導者の中には、モントローズ伯ジェイムズ=グラハムや、ロシズ伯ジョン=レズリーといった、若く野心的な貴族たちがいました。そして、その背後には、アーチボルド=ジョンストン=オブ=ウォリストンという、熱心な長老派の法律家と、アレクサンダー=ヘンダーソンという、尊敬を集める聖職者の存在がありました。彼らは、抵抗運動に、法的な正当性と神学的な裏付けを与えました。 チャールズ1世は、ロンドンから、これらの動きを全く理解できませんでした。彼は、枢密院に対して、請願者を反逆者として非難する布告を出すよう命じましたが、これは火に油を注ぐだけでした。国王の強硬な姿勢は、穏健派をも抵抗運動の側へと追いやり、スコットランドの人々を、さらなる団結へと向かわぜたのです。
国民盟約の起草と署名
国王との和解の道が閉ざされたと判断したザ=テーブルズの指導者たちは、自分たちの運動の正当性を内外に示し、国民的な結束を固めるための、新たな手段を模索し始めました。その結果生まれたのが、「国民盟約」です。 ウォリストンとヘンダーソンによって起草されたこの盟約は、極めて巧みに構成された文書でした。それは、革命的な宣言ではなく、既存の法と信仰を再確認するという、保守的な体裁をとっていました。 盟約は、三つの部分から構成されています。 第一部: 1581年にジェームズ6世自身が署名した「国王の告白」を再録しています。これは、カトリックの教義と慣行を、あらゆる側面から徹底的に否定し、スコットランドの真のプロテスタント信仰を擁護することを誓うものです。父王が承認した文書を引用することで、盟約派は、自分たちが国王に反逆しているのではなく、むしろ、国王自身が守るべきであった、王国の本来の信仰を守っているのだと主張しました。 第二部: 宗教改革以来、スコットランド議会で可決された、長老派教会を支持し、カトリックを非難する、数々の法律を列挙しています。これにより、盟約派の主張が、スコットランドの国法に基づいた、完全に合法的なものであることを論証しました。 第三部: そして、この盟約の核心部分です。署名者は、最近の「革新」が、第一部と第二部で確認された、スコットランドの真の信仰と法に反するものであると断じ、それらを拒絶することを誓います。そして、「我々は、神の栄光、王の栄誉、そして王国の平和のために、この我々の告白と信仰のあらゆる条項を守り、それを擁護することを、神と互いの前で約束し、誓う」と宣言します。さらに、この大義を守るために、互いの生命と財産をかけて助け合うことも誓約します。 この文書の巧みさは、「王の栄誉」を守るという言葉を盛り込み、国王への忠誠を表明している点にあります。彼らは、国王個人に反抗しているのではなく、国王の「悪しき助言者」、すなわちウィリアム=ロードのような人物から、国王と真の宗教を守ろうとしているのだ、という論理を展開したのです。 1638年2月28日、エディンバラのグレイフライアーズ教会に、スコットランドの貴族、ジェントリ、そして市民たちが集まり、この国民盟約への署名が開始されました。最初に署名したのは、モントローズ伯でした。その後、数千の人々が、涙ながらに、あるいは自らの血で、この羊皮紙の文書に署名したと伝えられています。

グレイフライアーズ教会での署名を皮切りに、盟約の写しは、スコットランド全土の教区に送られ、各地で熱狂的な署名運動が繰り広げられました。ごく一部の主教派やカトリック教徒が多かった地域を除き、スコットランドの圧倒的多数の人々が、この盟約の下に結集しました。 国民盟約は、単なる請願書ではありませんでした。それは、神との、そして国民相互の、神聖な契約でした。それは、スコットランドというネーションが、国王の意思に反して、自らの宗教的・政治的運命を自らの手で決定するという、革命的な意志表明でした。この盟約によって、スコットランドは、国王チャールズ1世に対抗するための、強固なイデオロギー的基盤と、鉄の結束を手にいれたのです。武装蜂起は、もはや時間の問題でした。
第一次主教戦争(1639年)
国民盟約の下に結集したスコットランドは、国王チャールズ1世の権威が及ばない、事実上の独立国家と化していました。チャールズは、これを許しがたい反逆と見なし、武力によってスコットランドを服従させることを決意します。一方、盟約派もまた、国王の攻撃を予期し、軍備を整え始めました。こうして、1639年の春、両軍は、後に「第一次主教戦争」と呼ばれる、奇妙な対決へと向かっていきました。それは、ほとんど血が流されることのなかった、「戦なき戦争」でした。
両軍の準備
チャールズ1世は、11年間の個人統治の間に、常備軍と呼べるような軍隊をほとんど持っていませんでした。彼は、イングランド各地の州民兵を召集し、貴族たちに個人的な軍隊を率いて参集するよう命じることで、急ごしらえの軍隊を編成しようとしました。しかし、この軍隊は、多くの深刻な問題を抱えていました。 第一に、財政的な問題です。議会を開かずに統治してきたチャールズには、大規模な軍隊を維持するための資金がありませんでした。彼は、船税の徴収を強化し、カトリック教徒の貴族から寄付を募るなどしましたが、資金は全く足りませんでした。 第二に、兵士の質と士気の低さです。徴兵された兵士の多くは、訓練が不十分で、装備も貧弱でした。さらに重要なことに、彼らの多くは、この戦争の大義に全く共感していませんでした。多くのイングランドのプロテスタントは、スコットランド人の宗教的主張に同情的であり、自分たちが「ポープリー」的な主教たちのために、プロテスタントの同胞と戦うことに、強い抵抗を感じていました。兵士たちの間では、反乱や脱走が相次ぎました。 一方、スコットランド盟約派の軍隊は、あらゆる面で国王軍を凌駕していました。彼らの軍隊は、国民盟約という共通のイデオロギーの下に、固く結束していました。兵士たちは、自らの信仰と自由のために戦うという、高い士気を持っていました。 さらに、盟約派は、経験豊富な指揮官に恵まれていました。その中心人物が、アレクサンダー=レズリーです。レズリーは、長年にわたり、三十年戦争でスウェーデン王グスタフ=アドルフスに仕えた、百戦錬磨の傭兵隊長でした。彼は、ヨーロッパ大陸で培った最新の軍事技術と戦術をスコットランドに持ち帰り、盟約派の軍隊を、規律の取れた、近代的な戦闘集団へと組織化しました。彼の下には、同じく大陸での戦闘経験を持つ、多くのスコットランド人将校が集結しました。 盟約派は、スコットランド国内の王党派の拠点を、迅速に制圧しました。アーガイル伯は、西部のハイランド地方で王党派のハントリー侯の勢力を抑え込み、モントローズ伯は、北東部の王党派の拠点であったアバディーンを占領しました。エディンバラ城やダンバートン城といった、主要な要塞も、次々と盟約派の手に落ちました。1639年の春までには、スコットランドのほぼ全土が、盟約派の支配下に置かれました。
グラスゴー教会総会
軍事的な準備と並行して、盟約派は、自らの行動に神学的な正当性を与えるための、決定的な一手を打ちます。1638年11月、彼らは、国王の許可を得ずに、グラスゴーで教会総会を召集しました。 チャールズは、自らの代理人としてハミルトン侯を派遣し、総会をコントロールしようと試みましたが、総会は、完全に盟約派の聖職者と長老たちによって支配されていました。ハミルトン侯が、総会の権限を超えているとして解散を命じると、総会はそれを無視し、議事を続行しました。 アレクサンダー=ヘンダーソンを議長とするこの総会は、歴史的な決議を次々と可決しました。 新しい祈祷書と教会法規を、非合法かつ無効であると宣言。 スコットランド国教会における主教制そのものを、聖書と国法に反するものとして、完全に廃止。 チャールズが任命したすべての主教を罷免し、破門。 ジェームズ1世の時代に導入された「パース五箇条」を無効化。 グラスゴー総会の決議は、チャールズの宗教政策の完全な否定であり、国王の教会に対する至上権への、正面からの挑戦でした。これは、もはや妥協の余地のない、革命的な宣言でした。この時点で、武力衝突は避けられないものとなりました。
ベリックの対峙と和約
1639年5月、チャールズ1世は、約2万人の軍隊を率いて、スコットランドとの国境の町ベリック=アポン=ツイードに進軍しました。彼の作戦は、陸軍で圧力をかけつつ、ハミルトン侯が率いる海軍をフォース湾に派遣してエディンバラを脅かし、アイルランド総督ストラフォード伯が派遣するアイルランド軍をスコットランド西部に上陸させるという、三方面からの挟撃作戦でした。 しかし、この計画は、ことごとく失敗に終わりました。ハミルトン侯の艦隊は、エディンバラを脅かすことができず、アイルランド軍は、準備が間に合いませんでした。そして、チャールズ自身の陸軍は、ベリック近郊で野営している間に、士気の低下と補給不足に苦しんでいました。 一方、アレクサンダー=レズリーに率いられた、約1万2千人のスコットランド盟約派軍は、国境のすぐ北側、ダンス=ローという丘の上に陣取りました。彼らの軍隊は、国王軍よりも数は少なかったものの、はるかによく訓練され、高い士気を誇っていました。彼らは、自らのキャンプを「キリストのキャンプ」と呼び、毎日、祈りと詩篇の歌声が響き渡っていました。 チャールズは、丘の上に陣取る、規律正しいスコットランド軍を目の当たりにして、自軍の兵士たちが、彼らと戦うことを望んでいないことを悟りました。戦闘を行えば、惨めな敗北を喫する可能性が高いことは、明らかでした。 戦意を喪失したチャールズは、交渉の席に着くことを決意します。1639年6月18日、両軍の代表は、ツイード川のほとりのテントで会見し、「ベリックの和約」に合意しました。 この和約の主な内容は、以下の通りでした。 両軍は、それぞれの軍隊を解散する。 国王は、スコットランドのすべての臣民の財産と生命の安全を保障する。 国王は、スコットランドの宗教問題と市民問題を解決するために、新たな教会総会とスコットランド議会を召集することに同意する。 この和約は、一見すると、両者が面目を保った形での妥協に見えました。しかし、実質的には、チャールズの完全な敗北でした。彼は、武力でスコットランドを屈服させることに失敗し、反乱軍の要求を受け入れ、彼らが支配する議会と教会総会の召集を認めざるを得なかったのです。 一方で、盟約派にとっても、この和約は満足のいくものではありませんでした。和約の条文は、グラスゴー総会の決議の正当性や、主教制の廃止といった、彼らにとって最も重要な問題について、意図的に曖昧なままにされていました。 ベリックの和約は、根本的な問題を何も解決しませんでした。それは、戦争を終わらせたのではなく、一時的に中断させただけの、見せかけの平和でした。両者は、互いに深い不信感を抱いたまま、それぞれの本拠地へと引き上げていきました。第二次主教戦争の勃発は、避けられない運命でした。
第二次主教戦争(1640年)
ベリックの和約がもたらした束の間の平和は、すぐに破られました。チャールズ1世は、和約を、軍隊を再建するための時間稼ぎとしか考えておらず、スコットランド盟約派もまた、国王の誠意を全く信用していませんでした。1640年、両者の対立は再び燃え上がり、今度は、スコットランド軍が国境を越えてイングランドに侵攻するという、より深刻な事態へと発展しました。この第二次主教戦争は、チャールズの個人統治に、決定的なとどめを刺すことになります。
短期議会とストラフォード伯
第一次主教戦争の失敗からチャールズが学んだ教訓は、ただ一つ、強力な軍隊を編成するためには、莫大な資金が必要である、ということでした。そして、その資金を合法的に調達する唯一の方法は、イングランド議会を召集することでした。 この決断を後押ししたのは、彼がアイルランドから呼び戻した、最も有能で、最も冷徹な側近、ストラフォード伯トーマス=ウェントワースでした。かつては議会派のリーダーの一人であったウェントワースは、その後、国王側に転じ、アイルランド総督として、鉄腕を振るって王権を強化し、大きな歳入を上げていました。彼は、チャールズに対して、議会を召集し、愛国心を訴え、スコットランドの反乱軍を打ち破るための戦費を獲得するよう、強く進言しました。彼は、イングランドの人々が、長年の宿敵であるスコットランド人が国境を脅かしていると知れば、国王を支持するだろうと信じていました。 こうして、1640年4月、11年ぶりにイングランド議会が召集されました。後に「短期議会」と呼ばれることになるこの議会に、チャールズとストラフォードは大きな期待を寄せていました。 しかし、彼らの期待は、完全に裏切られました。ジョン=ピムやジョン=ハムデンといった、1620年代の議会闘争を戦い抜いたベテラン議員たちが戻ってきた下院は、国王が要求する戦費を審議する前に、まず、11年間の個人統治の間に蓄積された、国民の「苦情」を解決するべきだと主張しました。船税のような議会の承認なき課税、星室庁による専制的な裁判、そしてロード大主教による宗教的な「革新」など、彼らが議論したい問題は山積みでした。 ピムは、「臣民の自由を侵害することが、王の歳入を増やす最善の方法ではない」と述べ、まず権利の保障が先であり、補助金はその後だという、伝統的な議会の立場を明確にしました。下院が、スコットランド盟約派と密かに連絡を取り合い、彼らの主張に同情しているという噂も流れました。 チャールズは、わずか3週間で、この議会から資金を得る望みがないことを悟りました。1640年5月5日、彼は、何の成果も得られないまま、短期議会を解散しました。この決断は、致命的な失策でした。それは、国王がイングランドの支配階級との協力関係を回復する最後の機会を自ら放棄したことを意味し、多くの穏健派議員をも、国王に敵対する側へと追いやる結果となったのです。
ニューバーンの戦いとリポンの和約
短期議会の解散により、チャールズは、再び、財政的な裏付けのないまま、スコットランドとの戦争に臨まなければならなくなりました。彼は、貴族たちからの個人的な借金や、教会からの寄付などで、何とか軍隊を編成しましたが、その軍隊は、第一次主教戦争の時よりも、さらに士気が低く、装備も貧弱でした。兵士たちの間では、スコットランド人と戦うことへの反発から、暴動や将校殺害事件まで発生しました。 一方、スコットランド盟約派は、チャールズが軍を再建していること、 political そして短期議会が決裂したことを見て、もはや待つ必要はないと判断しました。彼らは、国王が攻撃してくるのを待つのではなく、こちらから先制攻撃を仕掛けることを決定します。彼らの戦略は、イングランド北部に侵攻し、ロンドンの石炭供給の生命線である、ニューカッスル=アポン=タインを占領することでした。これにより、国王に経済的な打撃を与え、イングランド議会に自分たちの主張を直接訴えることを狙ったのです。 1640年8月20日、アレクサンダー=レズリーに率いられた約2万人のスコットランド盟約派軍は、ツイード川を渡り、イングランド領内へと侵攻を開始しました。彼らは、「神と王のための盟約」と書かれた旗を掲げ、自分たちはイングランド国民の敵ではなく、共通の敵である「カンタベリー派」と戦うために来たのだと宣言しました。 国王軍は、ストラフォード伯が病に倒れていたこともあり、有効な指揮系統を欠いていました。イングランド軍の主力部隊は、まだヨークにあり、国境地帯を守っていたのは、コンウェイ卿が率いる、数千の貧弱な部隊だけでした。 8月28日、両軍は、ニューカッスル近郊のタイン川を挟んで対峙しました。ニューバーンという場所にあった数少ない浅瀬を、スコットランド軍が渡ろうとした時、両軍の間で戦闘が始まりました。これが「ニューバーンの戦い」です。 スコットランド軍は、丘の上に、レズリーが大陸から持ち帰った軽量の大砲を巧みに配置し、川を守るイングランド軍の貧弱な土塁に対して、正確で破壊的な砲撃を浴びせました。イングランド兵は、この優勢な砲火の前に、ほとんど抵抗らしい抵抗もできずにパニックに陥り、潰走しました。スコットランド軍は、難なくタイン川を渡り、イングランド軍はニューカッスルを放棄して、南のダラムへと敗走しました。

ニューバーンでの圧勝の後、スコットランド軍は、8月30日に、無抵抗のニューカッスルに入城し、占領しました。彼らは、イングランド北部の二つの州、ノーサンバーランドとダラムを、完全にその支配下に置いたのです。 この事態に、チャールズ1世は、完全に窮地に立たされました。彼の軍隊は崩壊し、ロンドンの石炭供給は敵の手に落ち、そして国庫は空っぽでした。イングランド国内でも、国王に対する不満が高まり、12人の貴族が、国王に対して、議会を召集するよう求める請願書を提出しました。 もはや戦争を継続する能力も意思も失ったチャールズは、スコットランド側との交渉を開始せざるを得ませんでした。1640年10月、両者は、ヨークシャーのリポンで会談し、「リポンの和約」に合意しました。 この和約の内容は、チャールズにとって、屈辱以外の何物でもありませんでした。 正式な和平交渉が妥結するまで、停戦する。 その間、スコットランド軍は、ニューカッスルを含むイングランド北部の占領を継続する。 そして、最も屈辱的な条項として、イングランド側が、占領地に駐留するスコットランド軍の経費として、一日あたり850ポンドという莫大な金額を支払う。 この和約は、事実上の降伏宣言でした。国王は、自国の領土内に、敵軍が駐留することを認め、その費用まで支払うことを約束させられたのです。この莫大な賠償金を支払うためには、議会の承認による大規模な課税以外に、道はありませんでした。 スコットランドの反乱は、こうして、チャールズ1世の個人統治を、完全かつ決定的に終わらせました。彼は、スコットランド軍をイングランドから撤退させるための資金を調達するため、1640年11月3日、新たな議会を召集します。この議会は、その後、王政復古までの20年近くにわたって断続的に存続することになる、あの「長期議会」でした。そして、この議会が、国王の権力を次々と剥奪し、ストラフォード伯とロード大主教を処刑し、最終的に、国王自身との全面戦争へと突入していくことになるのです。
主教戦争の歴史的影響
1639年から1640年にかけての主教戦争は、その軍事的な規模こそ比較的小さなものでしたが、その政治的な影響は、ブリテン諸島の歴史を根底から揺るがす、巨大なものでした。それは、チャールズ1世の絶対主義的な統治モデルの破綻を白日の下にさらし、イングランド内戦へと至る、不可逆的な連鎖反応の引き金を引いた、決定的な出来事でした。 第一に、主教戦争は、チャールズ1世の「個人統治」を崩壊させました。11年間にわたり、彼は、議会という伝統的な政治的パートナーを無視し、大権に基づいた統治を続けてきました。しかし、スコットランドの反乱は、議会の財政的支援なしには、国王が大規模な軍事行動を起こすことすらできないという、厳しい現実を突きつけました。特に、第二次主教戦争の敗北と、その結果としてのリポンの和約は、国王を財政的に完全な破産状態に追い込み、彼が最も忌み嫌っていたイングランド議会の召集を、絶対的な必要事としたのです。 第二に、主教戦争は、イングランドにおける反国王勢力を、劇的に勇気づけ、強化しました。短期議会の決裂と、その後の国王軍の惨めな敗北は、ジョン=ピムらに率いられた議会指導者たちに、国王の弱みと、自分たちの主張の正当性に対する、強い確信を与えました。スコットランド盟約派の成功は、国王の専制に対して、武力で抵抗することが可能であることを示しました。長期議会が召集された時、議員たちは、もはや単に過去の苦情を是正するだけでなく、国王の権力を恒久的に制限し、二度と専制が行われないようにするための、抜本的な改革を断行する決意を固めていました。スコットランド軍がイングランド北部に駐留し続けているという事実そのものが、議会が国王に対して強硬な交渉を行うための、強力な切り札となったのです。 第三に、主教戦争は、「三王国問題」の複雑さと危険性を、初めて明確な形で示しました。チャールズ1世は、イングランド、スコットランド、アイルランドという、それぞれ異なる法、教会、そして歴史的伝統を持つ三つの王国を、統一されたモデルの下で統治しようと試みました。しかし、彼のスコットランドに対する「アングリ化」政策は、現地の宗教的・ナショナルなアイデンティティの強烈な反発を招き、王国全体を不安定化させる結果となりました。スコットランドの反乱は、アイルランドのカトリック教徒にも影響を与え、彼らは1641年に、プロテスタントの植民者に対する大規模な反乱を起こします。このアイルランドの反乱を鎮圧するための軍隊の指揮権を巡る対立が、最終的に、チャールズ1世とイングランド議会の間の、内戦の直接の引き金となりました。主教戦争は、これら三つの王国の運命が、いかに密接に絡み合っているか、そして、一つの王国での火種が、いかに容易に他の王国へと燃え広がるかを示したのです。

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