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クロムウェルとは わかりやすい世界史用語2695
著作名: ピアソラ
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クロムウェルとは

オリバー=クロムウェル。その名はイングランド史において賞賛と憎悪、尊敬と軽蔑という両極端の感情を喚起します。ある者にとって彼は王の専制を打ち破り、議会の権利と人民の自由のために戦った英雄です。神の意志を地上で実現しようとした敬虔な信徒でもあります。またある者にとって彼は王殺しの逆賊であり、軍事独裁を敷いた偽善者、そしてアイルランドの地を残酷に踏みにじった征服者です。歴史上の人物でこれほど評価が真っ二つに分かれる人物も珍しいでしょう。

彼はイングランド東部の無名のジェントリから身を起こし、40代になるまで歴史の表舞台とはほとんど無縁の生活を送っていました。しかしイングランド内戦の渦中に身を投じるや、その内に秘めた非凡な軍事的才能と政治的手腕を開花させます。そして瞬く間に議会派の最も重要な指導者へと駆け上がりました。彼は信仰心に燃える兵士たちからなる無敵の軍隊を組織し国王軍を打ち破ります。ついには国王その人を裁きの場へと引きずり出し処刑するという前代未聞の革命を成し遂げました。そしてイングランド史上唯一の共和政国家の頂点に立ち、護国卿として王なき国を統治したのです。

クロムウェルの生涯は一個人の物語に留まりません。それは17世紀のイングランドが経験した宗教、政治、社会の全てを巻き込んだ大動乱の物語そのものです。彼の行動は神への深い信仰心に根差していましたが、その結果はしばしば冷徹で時には残酷な政治的現実をもたらしました。彼は自らを神の摂理の卑しい道具と見なしていましたが、その手にはイングランドの絶対的な権力が握られていました。この信仰と権力、理想と現実の間の絶え間ない緊張こそが、クロムウェルという人物の複雑さとその行動のドラマを解き明かす鍵となります。



若き日々

後にイングランドの運命をその双肩に担うことになるオリバー=クロムウェルですが、その人生の最初の40年間は驚くほど平凡でした。彼は歴史の片隅で地方のジェントリとして家族と信仰に生きる目立たない一人の男に過ぎませんでした。しかしこの静かな歳月の中にこそ、後の彼を形作ることになる信仰心の確立、性格の形成、そして地方社会での経験が深く刻み込まれていったのです。

家系と生い立ち

オリバー=クロムウェルは1599年4月25日、イングランド東部ケンブリッジシャーのハンティンドンで生まれました。クロムウェル家はかつてヘンリー8世の治世下で絶大な権勢を誇ったトマス・クロムウェルの姉の子孫にあたります。宗教改革の際に解散された修道院の土地を得てジェントリ階級としての地位を築いた家柄でした。しかしオリバーの父ロバート・クロムウェルは分家の次男であり、その資産は一族の中では比較的控えめでした。彼はハンティンドンの地で農業を営み、治安判事や町の役員を務める尊敬される地方の名士でした。

このような環境で育ったオリバーはジェントリ階級の子弟としてごく一般的な教育を受けました。地元のグラマー・スクールで学んだ後、1616年にはケンブリッジ大学のシドニー・サセックス・カレッジに入学します。このカレッジは当時ピューリタン神学の中心地として知られており、若きクロムウェルがその思想に触れる最初の機会となったことは想像に難くありません。しかし彼は学位を取得することなくわずか1年ほどで大学を去ります。1617年に父ロバートが亡くなったため家に戻り、家長として母と姉妹たちの面倒を見る必要が生じたのです。その後法学院で学ぶために一時ロンドンに出たという説もありますがその記録は定かではありません。

1620年クロムウェルはロンドンの裕福な商人の娘であるエリザベス・バウチャーと結婚します。この結婚は愛情に満ちた幸福なものであったと伝えられており、二人の間には9人の子供が生まれました。結婚後彼はハンティンドンに戻り父から受け継いだ土地を耕し地方のジェントリとしての日々を送ります。彼の生活は農業経営、家族の世話、そして地域社会での務めによって占められていました。この時点では彼がいつか国政を動かす人物になると予想した者は誰一人いなかったでしょう。

信仰の危機と回心

1620年代後半から1630年代にかけてクロムウェルは深刻な精神的、そしておそらくは経済的な危機を経験します。彼は後にこの時期の自分を「罪の長」と呼び、うつ病に苦しんでいたことを示唆しています。彼は自らの魂の救済について深く悩み、神の怒りの下にいるという絶望感に苛まれていました。この内面の苦闘は1628年にハンティンドン選出の国会議員として初めて議会に参加した際にその一端を覗かせます。彼は議会で反ピューリタン的な主教を激しく非難する情熱的ではあるがやや支離滅裂な演説を行いました。

この精神的な闇からの脱出は1630年代後半に訪れた劇的な「回心」の経験によってもたらされました。これはピューリタンの信仰において中心的な位置を占める体験です。自らの罪深さを完全に認め神の絶対的な恵みによってのみ救われることを受け入れる内的な変革です。この回心を経てクロムウェルは自分が神によって選ばれ救われた者であるという揺るぎない確信を得ました。彼の人生はこの瞬間から新たな意味と目的を与えられたのです。もはや彼の行動は個人的な野心や利益のためではなく、神の栄光を現し神の意志をこの地上で実現するためのものとなりました。この燃えるような信仰心と自らの行動が神の摂理の一部であるという確信が、後の彼の全ての決断の根底に流れる強力な原動力となります。

この時期彼は親族との土地争いをきっかけにハンティンドンを離れ、近くのセント・アイヴス、次いでイーリーへと移り住みます。イーリーでは母方の叔父から広大な土地と大聖堂の俗人信徒への賃貸料徴収権という重要な地位を相続しました。これにより彼の経済状況は安定し、彼はイーリー周辺の沼沢地の干拓事業をめぐる争いで小農民たちの権利を守る代弁者として頭角を現します。「沼沢地の王」というあだ名で呼ばれるようにもなりました。この経験は彼に一般の人々の生活への共感と不正に対する義憤を育んだことでしょう。彼は地方の地主としてまた敬虔なピューリタンとして、静かにしかし着実にその後の激動の時代に備えていたのです。

内戦の勃発と軍人としての台頭

1640年クロムウェルは41歳になっていました。それまでの彼の人生は地方のジェントリとしてのものであり国政の中心からは遠い存在でした。しかし国王チャールズ1世と議会の対立が抜き差しならない段階に達しイングランドが内戦へと突き進んでいく中で、この無名の田舎紳士は眠っていた非凡な才能を覚醒させ歴史の表舞台へと躍り出ることになります。

短期議会と長期議会

1640年国王チャールズ1世はスコットランドとの戦争(主教戦争)の戦費を調達するため11年ぶりに議会を召集しました。クロムウェルはケンブリッジ選挙区から議員として選出されます。しかしこの「短期議会」は国王への課税協力よりも国王の専制的な統治に対する不満の表明を優先したため、わずか3週間で解散されてしまいました。

スコットランド軍のイングランド侵攻という危機に直面した国王は同年再び議会を召集せざるを得なくなります。これが後にイングランド革命の舞台となる「長期議会」です。クロムウェルも再びケンブリッジから選出され議会に参加しました。この初期の議会において彼はまだ指導的な人物ではありませんでした。しかしジョン・ピムやジョン・ハムデンといった議会指導者たちと連携し、ピューリタンの立場から国王の政策やウィリアム・ロード大主教の教会改革を厳しく批判する熱心な議員の一人として知られるようになります。彼の演説は飾り気はないものの聖書からの引用に満ち、その信仰の深さと情熱を物語っていました。彼は国王の側近であるストラフォード伯の処刑や主教の権限を制限する法案(根絶請願)を強く支持しました。

議会と国王の対立はアイルランドでカトリック教徒の反乱が勃発したことをきっかけに決定的なものとなります。反乱鎮圧のための軍隊の指揮権をめぐり国王と議会は互いに譲らず、ついに1642年8月チャールズ1世はノッティンガムで王旗を掲げ議会に宣戦を布告しました。イングランド内戦の始まりです。

鉄騎隊の組織

内戦が始まるとクロムウェルはためらうことなく故郷のケンブリッジシャーに戻り議会派のために軍隊を組織し始めました。彼は自らの財産を投じて騎兵隊を編成し、国王派がケンブリッジ大学から資金や銀器を運び出すのを阻止するなど早くもその行動力を発揮します。

当初の議会軍は寄せ集めの素人集団でした。国王派の戦闘経験豊富な貴族たちが率いる騎兵隊の前にしばしば敗北を喫しました。1642年10月のエッジヒルの戦いに参加したクロムウェルは議会軍の弱点が兵士たちの士気の低さと規律の欠如にあることを見抜きます。彼は国王派の「名誉の精神」に対抗しうるのは神への信仰心であると確信しました。

この信念に基づき彼は自らの騎兵隊を徹底的に鍛え上げられた信仰心に篤い兵士たちの精鋭部隊へと変貌させていきます。彼は兵士を選ぶにあたってその社会的地位を問わず信仰心と戦闘意欲を最も重視しました。彼の部隊には裕福な自営農民や職人など敬虔なピューリタンが多く集まりました。彼らは自分たちが神の大義のために戦っていると固く信じていました。クロムウェルは彼らに厳しい規律を課し略奪や飲酒を禁じ、聖書の学習と祈りを奨励しました。その一方で彼は兵士たちと生活を共にし彼らの面倒をよく見、深い信頼関係を築きました。

こうして組織された彼の騎兵隊はその規律の正しさと戦闘における圧倒的な強さから、敵である王党派のルパート王子によって「鉄騎隊(アイアンサイズ)」という異名で呼ばれるようになります。鉄騎隊は単なる戦闘集団ではなく信仰によって結ばれた共同体でした。彼らはクロムウェルの指揮の下、各地の戦いで目覚ましい活躍を見せ彼の軍人としての名声を急速に高めていきました。

マーストン・ムーアの戦いとニューモデル軍

クロムウェルの軍事的才能が全国的に知れ渡るきっかけとなったのが1644年7月のマーストン・ムーアの戦いです。これは内戦中最大規模の戦闘であり、議会軍とスコットランド軍の連合軍が国王軍と対峙しました。この戦いでクロムウェル率いる鉄騎隊は連合軍の左翼に配置されました。

戦闘が始まるとクロムウェルは敵の指揮官であるルパート王子の騎兵隊に猛然と突撃しました。激しい戦闘の最中クロムウェル自身も首を負傷しますが彼の部隊は怯むことなく戦い続け、ついにルパートの騎兵隊を打ち破ります。しかし戦場の反対側では議会軍の右翼が敗走し中央の歩兵部隊も崩壊寸前でした。この危機的状況を見て取ったクロムウェルは驚くべき機転と統率力を発揮します。彼は敵を追撃していた部隊を再集結させると戦場を横切って国王軍の歩兵部隊の背後を突きました。この決定的な一撃によって戦況は完全に逆転し議会軍は圧倒的な勝利を収めました。マーストン・ムーアの勝利はクロムウェルを議会派の最も優れた騎兵指揮官としてその地位を不動のものにしました。

しかし議会軍全体としては依然として指導部の対立や戦略の不統一といった問題を抱えていました。マンチェスター伯のような貴族出身の司令官たちは国王との全面対決に及び腰であり戦争の終結を遅らせているとクロムウェルは考えました。彼は議会でこれらの司令官を痛烈に批判し軍の抜本的な改革を訴えます。

このクロムウェルの主張が実を結び1645年議会は「辞退条例」と「ニューモデル軍条例」という二つの重要な法案を可決します。辞退条例は国会議員が軍の指揮官を兼任することを禁じるもので、これによりマンチェスター伯などの貴族司令官は軍から排除されました。そしてニューモデル軍条例に基づき各地の議会軍はトーマス・フェアファクス卿を総司令官とする単一の全国的な常備軍「ニューモデル軍」として再編成されました。クロムウェルは国会議員であったため本来ならば指揮権を放棄しなければなりませんでした。しかし彼の軍事的才能はもはや不可欠であり特例として騎兵隊の副司令官に任命されます。ニューモデル軍は鉄騎隊をモデルとし能力本位で将校を登用し厳しい規律と宗教的熱意によって特徴づけられる全く新しいタイプの軍隊でした。クロムウェルはこの新しい軍の中核的な指導者として内戦を最終的な勝利へと導く役割を担うことになったのです。

革命の指導者へ

ニューモデル軍の創設はイングランド内戦の転換点となりました。クロムウェルはこの強力な軍事組織の中核として国王軍を打ち破り戦争を終結させます。しかし戦争の勝利は新たな対立の始まりに過ぎませんでした。戦後のイングランドのあり方をめぐり議会内の長老派と軍を支持基盤とする独立派の間で深刻な対立が生じます。この政治的闘争の中でクロムウェルは単なる軍人から革命の方向性を決定づける最高の政治指導者へと変貌を遂げていきます。

ネイズビーの戦いと第一次内戦の終結

1645年6月14日ニューモデル軍はその真価を問われる最初のそして決定的な戦いを迎えます。ネイズビーの戦いです。この戦いでクロムウェルは右翼の騎兵部隊を指揮しました。

戦闘が始まるとクロムウェルは対峙する国王軍の騎兵隊を猛攻の末に撃破します。マーストン・ムーアの時と同様、戦場の反対側では議会軍の左翼がルパート王子率いる国王軍騎兵隊に敗れ敗走していました。しかしルパートの部隊が規律を失い議会軍の輜重隊の略奪に向かったのに対し、クロムウェルは再びその卓越した戦場での統率力を発揮します。彼は自らの部隊を完全に掌握し国王軍の中央、すなわち歩兵部隊の側面に回り込んで攻撃を仕掛けました。左翼から敗走してきた部隊を立て直した部隊も加わり国王軍の歩兵は完全に包囲され壊滅しました。

ネイズビーの戦いは国王軍にとって致命的な敗北でした。国王軍の主力歩兵部隊はほぼ全てが捕虜となりチャールズ1世の私的な書簡も押収されました。この書簡から国王がヨーロッパのカトリック勢力に援助を求めていたことが明らかになり彼の信頼性は完全に失墜します。この勝利の後ニューモデル軍はイングランド各地の国王派の拠点を次々と攻略し、1646年チャールズ1世はスコットランド軍に投降。第一次イングランド内戦は議会派の完全な勝利に終わりました。

軍と議会の対立

戦争が終結すると議会の多数派を占める長老派は国家の秩序を回復するため二つの大きな課題に取り組もうとしました。一つはスコットランドとの約束に従いイングランドに長老制の教会制度を確立すること。もう一つは膨大な戦費の負担を軽減するため巨大な軍事組織となったニューモデル軍を可及的速やかに解体することでした。

しかしこの方針は軍の兵士たちの激しい反発を招きます。兵士たちの多くはクロムウェルのような独立派やさらに急進的な宗派に属していました。長老制という新たな宗教的画一性が強制されることを自らが戦った大義への裏切りと見なしたのです。また議会が未払いの給与を清算することなく一部の兵士をアイルランドへ派遣し残りを解散させようとしたことは彼らの怒りに火をつけました。

1647年軍の各連隊は「煽動員(アジテーター)」と呼ばれる兵士代表を選出し、将校たちと共に軍全体の要求をまとめるための「軍総評議会」を組織しました。軍はもはや単なる議会の道具ではありません。独自の政治的意思を持つ独立した勢力として公然と議会に挑戦し始めたのです。

当初クロムウェルは議会と軍の間の調停役として両者の和解に努めました。彼は議会の権威を尊重する一方で兵士たちの正当な要求にも深く共感していました。しかし長老派が軍の指導者を逮捕しようとするなど強硬な姿勢を崩さない中、クロムウェルはついに決断を下します。1647年6月彼はロンドンを離れてニューマーケットの軍本部に合流し軍と運命を共にすることを宣言しました。この直後軍は議会が国王と単独で和解することを防ぐため国王チャールズ1世の身柄を確保します。軍と議会の対立はもはや後戻りできない段階に達しました。

パトニー討論と第二次内戦

軍が政治の主導権を握る中でその内部からもより急進的な要求が噴出しました。兵士たちの間で大きな影響力を持っていた「レヴェラーズ(平等派)」は財産によらない男子普通選挙権、議会の定期的な解散、そして法の下の平等などを盛り込んだ「人民協定」と呼ばれる憲法草案を提示しその即時実行を求めました。

1647年秋ロンドン郊外のパトニーで軍総評議会が開かれました。この人民協定をめぐりクロムウェルやその娘婿であるヘンリー・アイアトンら軍の高級将校(グランディーズ)とレヴェラーズの代表との間で激しい討論が交わされました(パトニー討論)。レヴェラーズは全ての人間が生まれながらに持つ自然権に基づき普通選挙権を主張しました。これに対しアイアトンらは選挙権は土地などの恒久的な財産を持つ者に限定されるべきだと反論しました。彼らは普通選挙権が認められれば財産を持たない多数派が私有財産制度そのものを覆しかねないと危惧したのです。クロムウェルは両者の間の妥協点を探ろうとしましたが議論は平行線をたどりました。

この内部対立の隙を突くように国王チャールズ1世がハンプトン・コートから脱走し、ワイト島のカリスブルック城でスコットランドと密約を結びます。国王はイングランドに長老制を3年間試験的に導入する見返りにスコットランドの軍事支援を取り付けたのです。これにより1648年第二次イングランド内戦が勃発しました。

クロムウェルとニューモデル軍にとってこの国王の裏切りは神に対する冒涜であり許しがたい罪でした。彼らは二度も国を血の海に沈めた国王を「血にまみれた男」と呼び、彼に神の裁きを下すことを誓い合いました。クロムウェルはウェールズと北イングランドで蜂起した国王派とスコットランド軍をプレストンの戦いなどで迅速に鎮圧します。第二次内戦はニューモデル軍の圧倒的な力の前にもろくも崩れ去りました。しかしこの勝利はクロムウェルと軍に国王をどう処遇するかというイングランドの歴史上最も重大な決断を迫ることになったのです。

国王の処刑と共和政の樹立

第二次内戦の勝利はクロムウェルとニューモデル軍の決意を固めさせました。彼らは度重なる裏切りによって国に戦禍をもたらした国王チャールズ1世をもはや交渉の相手とは見なしません。裁きの対象と見なすようになります。この決断はイングランドを君主制から共和政へと導く革命のクライマックスでした。そしてクロムウェルの生涯における最も重大で最も議論を呼ぶ行動でした。

プライドのパージとランプ議会

クロムウェルと軍が第二次内戦の鎮圧に奔走している間、ロンドンの長期議会では依然として長老派が多数を占めており国王との和解交渉(ニューポート条約)を進めていました。軍はこの動きを自らの血によって得た勝利を無に帰す裏切り行為であると見なしました。軍の指導者たちは国王とのいかなる交渉も打ち切って国王を「正義の裁き」にかけることを要求する「軍の抗議書」を議会に提出しましたが議会はこれを拒否しました。

もはや議会との対話は不可能であると判断した軍はついに実力行使に踏み切ります。1648年12月6日トーマス・プライド大佐率いる部隊がウェストミンスターの議会を封鎖しました。そして国王との交渉を支持した約140人の議員を逮捕または議場から追放しました。この軍事クーデターは「プライドのパージ」として知られています。この粛清によって長期議会は軍の意向に従う独立派とその同調者、わずか70名ほどの議員からなる残部議会となりました。この議会はその構成員の少なさから軽蔑的に「ランプ議会」と呼ばれます。イングランドの政治権力はこの瞬間完全にニューモデル軍とその指導者であるクロムウェルの手に落ちたのです。

クロムウェル自身はこのクーデターの直接の計画者ではありませんでした。彼はプライドのパージが実行された時北イングランドにいましたがロンドンに戻るとこの軍の行動を追認しました。彼は当初国王の処刑にはためらいがあったとも言われています。しかし軍の兵士たちの強い要求と国王の罪は神の法によって裁かれなければならないという自らの信仰心の間で葛藤した末、最終的に国王の裁判と処刑を決断します。彼はこれを神が自分たちに課した恐ろしいが必要な義務であると信じるに至ったのです。

国王裁判と処刑

ランプ議会は軍の要求に従い1649年1月「イングランドの人民」の名において国王を裁くための135名の委員からなる特別高等裁判所を設置しました。このような法廷は前代未聞であり、その合法性には大きな疑問符が付きました。貴族院は法案の可決を拒否し裁判官の多くも参加をためらいました。

裁判は1月20日にウェストミンスター・ホールで始まりました。国王チャールズ1世は法廷に引き出されると一貫してその権威を認めようとしませんでした。彼は国王は神から権力を与えられたのであり人民のいかなる法廷によっても裁かれることはないと主張しました。彼は法廷で弁明することを拒否し自らを無法な権力に立ち向かう人民の自由の殉教者として描き出そうとしました。

しかし判決は初めから決まっていました。クロムウェルは裁判の背後でためらう委員たちに署名を迫るなど強い圧力をかけました。1月27日裁判所はチャールズ1世を「反逆者、殺人者、そして国家に対する公敵」として有罪とし死刑を宣告しました。死刑執行令状に署名した59名の委員の中にオリバー=クロムウェルの名がはっきりと記されています。

1649年1月30日の凍てつくような寒い朝、チャールズ1世はホワイトホール宮殿の前に設けられた処刑台に威厳を保ったまま登りました。彼は群衆に向かって短い演説を行い自らの無実と人民の真の自由は主権者と臣民がそれぞれの本分を守ることにこそあると語りました。そして祈りを捧げた後彼は首を断頭台に差し出しました。斧が一閃するとイングランド国王の首は胴体から切り離され、群衆からはどよめきともうめきともつかない声が上がったと言われています。神聖視されてきた王の処刑はイングランドだけでなくヨーロッパ全土に衝撃を与えました。それは君主の権力が絶対ではないことを最も劇的な形で示した事件であり革命がもはや後戻りできない地点に達したことを意味していました。

コモンウェルスの設立

国王の処刑後ランプ議会はイングランドの新しい国制の確立を急ぎました。1649年5月議会は君主制と貴族院の廃止を宣言しイングランドを「コモンウェルス(共和国)であり自由国家」であると布告しました。最高権力は人民の代表である一院制の議会(下院)に属します。行政は議会が任命する41名からなる国務会議によって担われることになりました。クロムウェルはこの国務会議の初代議長に就任し新しい共和国の最も影響力のある人物となりました。

しかしこの新しい共和国の基盤は極めて脆弱でした。その権力はプライドのパージという非合法な軍事力に依存しており国民の大多数の支持を得ているとは言えませんでした。国内には処刑された国王の息子チャールズ2世を支持する王党派が依然として存在します。レヴェラーズのような急進派はランプ議会を新たな専制であると非難し軍内部で反乱を試みました。

さらに共和国は外部からの深刻な脅威に直面していました。アイルランドとスコットランドはチャールズ2世を正統な国王として承認しイングランドの共和政に公然と敵対しました。特にアイルランドではカトリック同盟と王党派が手を結びイングランドの支配に対する大規模な反乱が続いていました。この内外の危機を乗り越え新しい共和国を守り抜くという重責が、今や国務会議の指導者でありニューモデル軍の総司令官であるオリバー=クロムウェルの双肩に重くのしかかっていたのです。

コモンウェルスの防衛

国王を処刑しコモンウェルスを樹立したクロムウェルと独立派の政権でしたがその前途は多難でした。新しい共和国は内外の敵に囲まれておりその存続は風前の灯火でした。クロムウェルはニューモデル軍の総司令官としてこれらの脅威を一つ一つ武力によって排除していくという困難な任務に乗り出します。この過程で彼は英雄的な軍事指導者としての名声を確立する一方、その冷酷で非情な側面をも露呈させることになります。

アイルランド遠征

コモンウェルスにとって最も差し迫った脅威はアイルランドでした。1641年以来アイルランドはイングランド人プロテスタント入植者に対するカトリック教徒の反乱によって混乱状態にありました。国王の処刑後アイルランドのカトリック同盟は国王派のオーモンド侯と手を結びチャールズ2世を国王として擁立しイングランドの支配に抵抗していました。イングランドの共和政政府にとってアイルランドは王党派が大陸の支援を得てイングランドに侵攻するための格好の拠点でした。その制圧は共和国の安全保障にとって最優先課題でした。

1649年8月クロムウェルは約1万2000人の精鋭部隊を率いてアイルランドのダブリンに上陸しました。彼は遠征の目的を神の名において反乱を鎮圧し1641年にプロテスタントを虐殺した者たちに復讐し、そしてアイルランドを完全にイングランドの支配下に置くことであると宣言しました。

クロムウェルが最初に取りかかったのは王党派の拠点となっていた港湾都市の攻略でした。9月彼は強固に要塞化された都市ドロヘダを包囲します。降伏勧告を拒否されたクロムウェルは総攻撃を命じ激しい戦闘の末に城壁を突破しました。その後の出来事はクロムウェルの評判に永遠の汚点を残すことになります。彼の命令の下ニューモデル軍の兵士たちは武器を捨てて降伏した守備兵や教会に避難していた聖職者、そして一部の市民を含む数千人を虐殺したのです。クロムウェルはこの虐殺を神の正義の裁きでありさらなる流血を避けるための厳しい見せしめであると正当化しました。

翌10月南部の港町ウェックスフォードでも同様の虐殺が起こりました。これらの残虐行為はアイルランド人の抵抗意欲を打ち砕く効果があった一方で、クロムウェルに対するそしてイングランドに対する消えることのない憎悪をアイルランド人の心に刻みつけました。

クロムウェルは9ヶ月にわたる遠征でアイルランドの東部と南部を制圧し王党派の組織的な抵抗をほぼ壊滅させました。彼の遠征の後共和政政府はカトリック教徒から広大な土地を没収します。そしてそれをニューモデル軍の兵士やイングランドからの投機家たちに分配しました。多くのアイルランド人地主は不毛の地である西部のコノートへと強制的に移住させられました。この過酷な土地収奪と植民地化政策はアイルランド社会を根底から破壊し、その後の何世紀にもわたるイングランドとアイルランドの間の敵対関係の根源となりました。

スコットランド遠征

1650年5月クロムウェルはアイルランドを部下に任せ新たな脅威に対処するためイングランドに呼び戻されました。スコットランドがチャールズ2世を国王として戴冠させイングランド侵攻の準備を進めていたのです。スコットランドはかつてイングランド議会と同盟を結んでいましたが国王の処刑とイングランドが長老制を受け入れなかったことに強く反発していました。

当初ニューモデル軍の総司令官であったトーマス・フェアファクスはかつての同盟国であるスコットランドと戦うことを良心上の理由から拒否し辞任します。これによりクロムウェルが正式にニューモデル軍の総司令官に就任しました。

1650年7月クロムウェルはスコットランドに侵攻しますがデイヴィッド・レズリー率いるスコットランド軍の巧みな焦土作戦と防御戦術の前に苦戦を強いられます。補給に苦しんだイングランド軍はダンバーの港で数的に優位なスコットランド軍に包囲され絶体絶命の窮地に陥りました。

しかし1650年9月3日の早朝クロムウェルは敵の布陣の弱点を見抜き奇襲攻撃を仕掛けます。このダンバーの戦いでイングランド軍は圧倒的に不利な状況を覆し奇跡的な大勝利を収めました。クロムウェルはこの勝利を神が自分たちの正当性を示した摂理の御業であると信じました。

翌1651年チャールズ2世は最後の賭けとしてスコットランド軍の主力を率いてイングランドに侵攻し王党派の蜂起を促そうとしました。クロムウェルはチャールズの軍を追撃しイングランド中部のウスターでこれを捕捉します。1651年9月3日、奇しくもダンバーの戦いからちょうど1年後のこの日ウスターの戦いが起こりました。クロムウェルは数的に優位な兵力でスコットランド軍を完全に包囲しこれを撃滅しました。チャールズ2世は辛うじて戦場から脱出し有名な「ロイヤル・オーク」の逸話など数々の冒険の末に大陸へと亡命しました。

ウスターの戦いはイングランド内戦の最後の主要な戦闘となりました。この勝利によってブリテン諸島における王党派の組織的な抵抗は終結しコモンウェルスの支配は軍事的に確立されました。クロムウェルはロンドンに凱旋し議会から英雄として迎えられます。彼はアイルランドとスコットランドを征服しイングランド、スコットランド、アイルランドからなる統一された共和国を現実に打ち立てたのです。しかし軍事的な成功は政治的な安定を必ずしも意味しませんでした。戦争が終わり外部の脅威が去った今クロムウェルの目は国内の政治改革、そして非効率で自己満足に陥っていると彼が感じていたランプ議会へと厳しく向けられることになったのです。

護国卿への道

ブリテン諸島を軍事的に統一しコモンウェルスを安定させたクロムウェルでしたが彼の政治的な闘争はまだ終わっていませんでした。彼は戦争の大義であったはずの「敬虔な改革」が遅々として進まないことに深い不満と焦りを募らせていました。彼の目は今や国内の政治体制、特に権力にしがみつき改革を怠るランプ議会へと向けられます。この議会との対立を通じてクロムウェルは自らがイングランドの唯一の統治者となる「護国卿」への道を歩むことになります。

ランプ議会との対立と解散

ランプ議会はプライドのパージによって生き残った議員たちで構成されていました。しかし国王処刑から数年が経つうちにその正統性と求心力を失いつつありました。彼らは新しい選挙を行って自らの権力を手放すことを恐れ、議席を維持することに固執していました。軍やクロムウェルが求める法制度の改革やより福音的な教会の設立といった改革はほとんど進展しませんでした。クロムウェルの目にはランプ議会はかつての国王と同じように腐敗し自己の利益のみを追求する専制的な集団と映るようになっていました。

クロムウェルと軍の指導者たちは議会に対し自らを解散し新しい選挙を実施するための法案を可決するよう繰り返し圧力をかけました。しかし議会は現職議員が自動的に次の議会の議席を確保できるような自己保身的な内容の法案を画策し軍との対立を深めます。
ついに1653年4月20日クロムウェルの忍耐は限界に達しました。彼は議会が自分たちに都合の良い選挙法案を強行採決しようとしていると聞き、兵士の一隊を率いて議場に乗り込みました。彼は議員たちを一人一人指さしながら「腐敗した者」「不公正な者」と激しい言葉で罵倒し、彼らの怠慢と偽善を糾弾しました。そして議会の権威の象徴である議長のメイス(職杖)を指し「あの安ぴか物をここから取り除け」と命じます。「お前たちの座っている時間は長すぎた。お前たちがここで何か良いことをしたというのか。去れ、そして二度と戻ってくるな。主が、お前たちを追い払ってくださったのだ」と叫び、議員たちを議場から追い出してしまいました。こうしてイングランド革命の舞台であった長期議会は、その13年の歴史をクロムウェルの武力によって不名誉な形で終えたのです。
ベアボーンズ議会

ランプ議会を解散させたクロムウェルと軍の指導者たちは新たな統治形態を模索する必要に迫られました。彼らは通常の選挙を行えば王党派や長老派が多数を占め革命の成果が覆されることを恐れていました。そこで彼らが考案したのが全国の独立派教会から推薦された「敬虔な」人物の中から軍の将校たちが議員を選ぶという全く新しい形の議会でした。
1653年7月こうして選ばれた140名の議員からなる指名議会が召集されました。この議会はその議員の一人であったロンドンの皮革商人で説教師でもあった「プレイズゴッド・ベアボーン」の名にちなみ、軽蔑的に「ベアボーンズ議会」と呼ばれます。しかし実際には議員の多くはクロムウェルのようなジェントリ階級の出身者でした。
この「聖者の議会」は神の国を地上に実現するという高い理想に燃えていました。彼らは十分の一税の廃止、大法官裁判所の廃止、法典の編纂など急進的な改革案を次々と議論しました。しかしその急進主義は議員内部の穏健派と急進派の対立を激化させ、また財産を持つ階級の不安を煽りました。特に十分の一税の廃止は聖職者の生活と多くの俗人信徒(ジェントリ)の財産権を脅かすものでした。
クロムウェル自身もこの議会の性急すぎる改革と内部対立に失望し始めます。彼は秩序と安定を維持しつつ漸進的な改革を進めることを望んでいました。1653年12月わずか5ヶ月でベアボーンズ議会は内部から崩壊します。穏健派の議員たちが早朝に議場に集まり自らの権力をそれを与えたクロムウェルに返還することを決議し、自ら解散してしまったのです。
護国卿への就任

ベアボーンズ議会の失敗はクロムウェルと軍の指導者たちに議会主導の統治の限界を痛感させました。彼らは国家の安定のためには強力な行政権を持つ一人の人物による統治が必要であるという結論に達します。
この考えを具体化したのがジョン・ランバート少将ら軍の将校たちが起草したイングランド史上初にして唯一の成文憲法「統治章典」でした。この憲法は国家の統治権を終身任期の「護国卿」と定期的に召集される単一制の議会、そして行政を補佐する国務会議の間で分担させる権力分立の考え方を取り入れていました。護国卿は軍の統帥権を持ち行政の最高責任者でしたが、その権力は議会と国務会議によって制限されていました。
1653年12月16日オリバー=クロムウェルはウェストミンスター・ホールで厳粛な式典に臨み、この統治章典に基づいてイングランド、スコットランド、アイルランドのコモンウェルスの「護国卿」に就任しました。彼は黒いベルベットのスーツに身を包み王のような宝珠や王笏ではなく市民の剣を手に宣誓を行いました。彼は国王になることを拒否しましたがその権力はかつての国王に匹敵するかあるいはそれを凌ぐものでした。40代まで無名の田舎紳士であった男が今やブリテン諸島の最高統治者として王なき国を率いることになったのです。
護国卿としての統治

護国卿に就任したクロムウェルはイングランドに安定と秩序をもたらし「敬虔な改革」を実現するという二つの大きな目標を追求しました。彼の統治は護国卿政(プロテクトレート)として知られます。軍事独裁の側面を持ちながらもある程度の宗教的寛容と積極的な外交政策によって特徴づけられます。しかし彼の統治は常に議会との対立とその権力の正統性への問いに悩まされ続けました。
最初の護国卿議会

統治章典に基づき1654年9月最初の護国卿議会が召集されました。クロムウェルはこの議会が彼と協力して国家の再建に取り組んでくれるものと期待していました。彼は議会の開会演説で自らが権力を求めたのではなく国家の混乱を収拾するために神の摂理によってこの地位に導かれたのだと語りました。
しかし議会はクロムウェルの期待を裏切ります。議員の多くは共和主義者であり軍の将校たちが作った統治章典そのものの正統性を問題視しました。彼らは護国卿という一人の人物に権力が集中することに強く反発し憲法の修正をめぐる議論に時間を費やしました。議会はクロムウェルが護国卿政の基本原則(一人の人物と議会による統治、議会の定期的な召集、信教の自由、軍の共同管理)を認めることを議員に誓約させるという強硬手段に出た後も彼の政策にことごとく反対しました。
統治章典では議会は最低5ヶ月間は解散できないと定められていました。クロムウェルは太陰月(28日周期)で計算して規定の期間が過ぎるや否や、1655年1月怒りに満ちた演説と共にこの非協力的な議会を解散してしまいました。議会政治を通じて国家を統治しようとする彼の最初の試みは失敗に終わったのです。
軍政監制度

議会の解散後クロムウェルの政権は王党派による反乱の陰謀(ペンラドックの蜂起)に直面します。この反乱は容易に鎮圧されましたがクロムウェルに地方の治安維持と道徳改革を徹底させるためのより直接的な統治手段が必要であると確信させました。
1655年彼はイングランドとウェールズを11の軍管区に分割しそれぞれにニューモデル軍の少将を「軍政監」として任命しました。軍政監たちは地方の民兵を指揮して治安を維持するだけでなく治安判事を監督し不道徳な行為を取り締まる広範な権限を与えられました。彼らは酒場を閉鎖し賭博や熊いじめ、馬上槍試合といった娯楽を禁止し安息日の遵守を徹底させようとしました。
この軍政監制度はピューリタン的な道徳改革を地方レベルで強制しようとする試みでした。「聖者の統治」というクロムウェルの理想の一つの現れでした。しかしこれは国民から極めて不評でした。人々は軍人による直接的な支配を自由への侵害であり専制であると見なしました。またこの制度を維持するための費用を王党派に課せられた特別な税金(十分の一税)で賄おうとしたこともジェントリ階級の強い反発を招きました。軍政監制度はクロムウェル政権の独裁的なイメージを決定づけ、その後の歴史においてイングランド人が常備軍に対して抱く根深い不信感の原因となりました。
外交政策と宗教的寛容

国内政治では困難に直面したクロムウェルですが外交においては大きな成功を収めました。彼の外交の基本方針はイングランドの商業的利益を守りヨーロッパにおけるプロテスタント勢力の盟主としての地位を確立することでした。
彼は強力な海軍を建設し商業上のライバルであったプロテスタント国オランダとの第一次英蘭戦争を有利な条件で終結させました。その後彼はヨーロッパの二大カトリック大国であるフランスとスペインのどちらと同盟を結ぶべきかという選択に迫られます。彼は海外植民地をめぐる対立とスペインが異端審問の拠点であるという宗教的理由からスペインを主要な敵と定めフランスとの同盟を選択しました。
この「西方政策」の一環としてイングランド海軍はカリブ海のスペイン植民地を攻撃しジャマイカを占領しました。これは大英帝国の基礎を築く重要な一歩となります。またフランスとの同盟によりイングランド軍は大陸での戦闘に参加しダンケルクを占領しました。クロムウェルの下でイングランドはヨーロッパにおける主要な軍事大国としての地位を再び確立したのです。
宗教政策においてクロムウェルは護国卿としてある程度の寛容を実践しました。彼は国教会の存在を認めず様々なプロテスタント宗派(独立派、長老派、バプテストなど)が国家の支援を受けながらも平和的に共存することを認めました。彼の寛容はカトリック教徒や国教会派には及びませんでしたが私的な信仰の実践は、ある程度黙認されました。
特筆すべきはユダヤ人に対する彼の政策です。ユダヤ人はエドワード1世の時代から3世紀半にわたってイングランドから追放されていました。クロムウェルは商業的な理由とユダヤ人の回心がキリストの再臨の前提であるという千年王国的な信仰から彼らのイングランドへの再定住を非公式に許可しました。これは彼の現実主義と宗教的信念が結びついた画期的な政策でした。
国王就任問題と統治の終焉

軍政監制度の不評とスペインとの戦争による財政的な必要からクロムウェルは1656年再び議会を召集せざるを得なくなりました。この第二回護国卿議会は当初クロムウェルに対してより協力的でした。しかしこの議会もまたクロムウェルに彼の統治の根幹を揺るがす重大な問題を突きつけることになります。
1657年議会は「謙虚な請願と勧告」として知られる新しい憲法案をクロムウェルに提出しました。この憲法案の最も重要な項目はクロムウェルに護国卿の称号を捨て「国王」の称号を受け入れるよう要請するものでした。議員たちの多くは国王という称号がイングランドの古来の法制度に根差した国民にとって馴染み深いものであると考えました。彼らは世襲の君主制を復活させクロムウェルを新たな王朝の創始者とすることで軍の支配を終わらせ、より伝統的で安定した統治形態に戻ることを望んだのです。
クロムウェルはこの申し出に深く悩み、数週間にわたって葛藤しました。国王になることは彼により大きな正統性と安定をもたらすかもしれなかった。しかし彼は君主制を「神が破壊し血の海に沈めたもの」として、それを打倒するために戦ってきたのです。何よりもランバートをはじめとする軍の高級将校たちが国王の称号の復活に猛烈に反対しました。彼らにとってそれは革命の大義そのものへの裏切りでした。
最終的に1657年5月クロムウェルは神の摂理と軍の反対を理由に国王の称号を受け入れることを正式に拒否しました。しかし彼は「謙虚な請願と勧告」の他の部分を受け入れ修正された憲法の下で再び護国卿として就任しました。彼は王のような紫のマントをまとい王笏を手に、事実上の国王としてより盛大な就任式を行いました。また貴族院に代わる「第二院」が創設され彼は自らの支持者をその議員に任命しました。護国卿政はますます君主制に近い外観を呈するようになっていきました。
しかしクロムウェルの健康は長年の激務と家族の不幸(特に愛娘エリザベスの死)によって急速に蝕まれていました。1658年夏彼はマラリア(当時「沼沢熱」と呼ばれた)と腎臓結石の合併症にかかり病床に伏します。死期を悟った彼は後継者として息子のリチャード・クロムウェルを指名しました。
1658年9月3日、奇しくも彼がダンバーとウスターで輝かしい勝利を収めた記念日にオリバー=クロムウェルは59年の波乱に満ちた生涯を閉じました。彼の死の床には激しい嵐が吹き荒れたと伝えられています。それはあたかもイングランドを根底から揺るがした偉大な人物の魂が天に昇るのを象徴しているかのようでした。
死後の評価

オリバー=クロムウェルの死は彼が一代で築き上げた護国卿政のあまりにも早い終焉の始まりでした。彼という強力な個性を失った共和国は急速にその結束力を失いイングランドは再び王政復古へと向かいます。そして彼の遺体と評判はその後の政治の変転の中で数奇な運命をたどることになりました。
王政復古と死後の処刑

クロムウェルの後を継いだ息子のリチャードは父のような政治的手腕も軍からの支持も持ち合わせていませんでした。彼は軍と議会の間の対立を収拾することができずわずか8ヶ月で護国卿の地位を辞任してしまいます。権力の空白が生じ、イングランドは無政府状態に陥りました。この混乱を収拾したのはスコットランド駐留軍の司令官であったジョージ・マンク将軍でした。彼は軍を率いてロンドンに進駐し長期議会の生き残りの議員たちを呼び戻し、新しい議会のための自由な選挙を実施させました。
この新しい議会(仮議会)は王党派が多数を占め1660年5月亡命していたチャールズ2世を国王としてイングランドに迎え入れることを決議しました。王政復古です。
新しい王政の下でクロムウェルに対する報復が始まりました。彼は国王殺しの首謀者として国家に対する最大の反逆者と見なされました。1661年1月30日チャールズ1世の処刑からちょうど12年目の記念日にクロムウェルの遺体はウェストミンスター寺院の墓から掘り起こされました。そして国王裁判に関わった他の二人の遺体と共にタイバーンの処刑場へと運ばれ絞首台に吊るされたのです。一日中晒された後、その首は胴体から切り落とされウェストミンスター・ホールの屋根に高く掲げられました。彼の胴体は処刑場の共同墓穴に投げ込まれました。これは王政を転覆させた者に対する見せしめとしての象徴的な復讐でした。クロムウェルの首はその後20年以上もの間ウェストミンスターの空の下で風雨に晒され続けたと言われています。
歴史的評価の変遷

王政復古後の18世紀を通じてクロムウェルは一般的に野心に満ちた偽善者、権力欲の塊、そして狂信的な独裁者として否定的に描かれ続けました。デイヴィッド・ヒュームのような歴史家は彼を自らの目的のために宗教を利用した冷笑的な人物として評価しました。
しかし19世紀になると彼の評価は劇的に変化し始めます。トーマス・カーライルはその著書『オリバー=クロムウェルの手紙と演説』の中でクロムウェルを偽善者ではなく神の意志を誠実に実行しようとした誠実で偉大な英雄として描き出しました。ヴィクトリア朝時代の人々はクロムウェルのピューリタン的な道徳観や帝国を拡大した功績、そして議会の権利のために戦った姿に自らの時代の価値観を重ね合わせ彼を再評価しました。この時期クロムウェルは非国教徒や自由主義者たちにとって自由の闘士としての象徴的な存在となっていきます。19世紀末には反対を押し切ってウェストミンスターの国会議事堂の前に彼の銅像が建てられました。
20世紀に入ると彼の評価はさらに多様化し複雑になります。ウィンストン・チャーチルは彼を偉大な軍事指導者そして愛国者として賞賛しつつもその独裁的な側面を批判しました。マルクス主義の歴史家たちは彼をブルジョワ革命の指導者として位置づけました。一方でアイルランドにおいては彼はドロヘダやウェックスフォードでの虐殺、そして過酷な土地収奪の記憶と結びつき、一貫して残忍な侵略者、抑圧の象徴として記憶され続けています。

結局のところオリバー=クロムウェルとはどのような人物だったのでしょうか。彼は矛盾に満ちた巨人でした。彼は議会の自由のために戦いながらその議会を武力で解散させました。彼は信教の自由を擁護しながらカトリック教徒を迫害しました。彼は国王になることを拒否しながら王以上の権力を行使しました。彼は自らを神の卑しい僕と呼びながら国家の運命をその手に握りました。
彼の行動を理解する鍵はやはり彼の揺るぎない信仰心にあります。彼は自らの全ての行動を神の摂理の現れであると信じていました。彼にとって国王の処刑もアイルランドでの虐殺も議会の解散も全ては神がイングランドに課した恐ろしくも聖なる計画の一部でした。この確信が彼に常人には不可能な決断を下させ歴史の流れを変えることを可能にしたのです。
彼がイングランドに残した遺産もまた複雑です。彼が樹立した共和政はわずか10年あまりで崩壊しました。しかし彼が主導した革命は国王の権力が絶対ではないことを証明し、イングランドが立憲君主制へと向かう道を決定的に開きました。彼が築いた海軍力は大英帝国の礎となり、彼が擁護した信教の自由の理念は後の世に大きな影響を与えました。
オリバー=クロムウェルは英雄かそれとも悪漢か。その問いに単一の答えを出すことはおそらく不可能でしょう。彼はその両方の要素を巨大なスケールで内包した人物でした。確かなことは彼がイングランド東部の無名のジェントリから身を起こし自らの信仰と才能だけを武器に国家の頂点に上り詰め、そしてイングランドの歴史を永久に変えてしまった類まれな人物であったということです。

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