manapedia
更新日時:
休戦条約《オランダ独立戦争》とは わかりやすい世界史用語2632
著作名: ピアソラ
0 views
休戦条約《オランダ独立戦争》とは

1609年4月9日、アントウェルペンで署名された一つの条約が、40年以上にわたってヨーロッパを揺るがし続けてきたネーデルラントの独立戦争、すなわち八十年戦争に、つかの間の静寂をもたらしました。この条約は「十二年休戦条約」として知られ、反乱を起こした北ネーデルラントの7州(ネーデルラント連邦共和国)と、そのかつての君主であったスペイン=ハプスブルク家との間で、12年間の戦闘停止を取り決めたものです。これは単なる停戦協定ではありませんでした。この条約によって、スペインは、反乱州を「自由な国」として扱い、交渉の対等な当事者として認めざるを得ませんでした。それは、まだ国際的な承認を得ていなかった若い共和国にとって、事実上の独立を勝ち取ったに等しい、画期的な外交的勝利を意味しました。
この休戦が成立するまでの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。1568年に始まったこの戦争は、宗教的対立、政治的自由の希求、そして経済的利害が複雑に絡み合った、ヨーロッパ近代史における最初の大きな国民的解放闘争でした。オラニエ公ウィレム1世の指導の下、反乱州は1581年にスペイン王フェリペ2世の統治権を否認し、独立への道を歩み始めました。しかし、指導者の暗殺、外国君主の招聘の失敗、そしてスペインの名将パルマ公による猛攻など、幾度となく存亡の危機に瀕します。それでも、1588年のスペイン無敵艦隊の敗北を転機に、彼らは息を吹き返しました。オラニエ公ウィレムの息子であるマウリッツ=ファン=ナッサウの卓越した軍事的才能と、ホラント州の法律顧問ヨハン=ファン=オルデンバルネフェルトの老練な政治手腕の下、共和国は驚異的な反撃に転じ、1590年代には「十年間の栄光」と呼ばれる一連の勝利を収め、その領土をほぼ確定させました。
しかし、17世紀に入ると、戦争は再び膠着状態に陥ります。両陣営ともに、長年にわたる戦争によって財政は破綻寸前となり、兵士たちの士気も低下していました。スペインは、ヨーロッパ全土に広がるハプスブルク家の利害に気を配らねばならず、ネーデルラントという一つの戦線にこれ以上資源を注ぎ込むことは困難になっていました。一方、共和国側も、戦争の重荷は主にホラント州の肩にのしかかり、その経済的負担は限界に近づいていました。このような状況の中、和平や休戦を模索する動きが、両陣営の内部から静かに、しかし確実に生まれ始めたのです。
しかし、休戦への道は、深刻な国内対立の火種をはらんでいました。共和国では、戦争の継続を主張する勢力と、平和を求める勢力との間で、国論が真っ二つに割れました。軍総司令官のマウリッツ公は、自らの権威の源泉である戦争を続けることを望み、カルヴァン派の厳格な教義を信奉する勢力は、カトリックのスペインとのいかなる妥協も神への裏切りであると考えました。彼らは「戦争派」として結束します。これに対し、オルデンバルネフェルトは、平和こそが共和国の商業的繁栄を確固たるものにすると信じ、より穏健で寛容な商人層やレヘント(都市の有力者)たちの支持を得て、「平和派」の中心となりました。この対立は、単なる外交政策上の意見の相違にとどまらず、宗教論争、州の主権と連邦の権威をめぐる政治体制の問題、そして二人の指導者の個人的な確執までもが絡み合い、共和国を内部分裂の危機へと追い込んでいきました。



休戦への道

16世紀の終わりから17世紀の初頭にかけて、ネーデルラント独立戦争の戦況は大きな転換期を迎えていました。かつては圧倒的な劣勢に立たされていた反乱州が、驚異的な粘り強さで戦い抜き、今やヨーロッパの一大勢力として無視できない存在となっていたのです。しかし、その成功の裏で、戦争の長期化は双方に深刻な疲弊をもたらしており、それが和平や休戦を模索する動きへと繋がっていきました。
戦況の膠着

1590年代は、ネーデルラント連邦共和国にとって「十年間の栄光」と呼ばれる時代でした。軍事の天才マウリッツ=ファン=ナッサウの指揮の下、共和国軍は画期的な築城術と攻城戦術を駆使して、ブレダ、ナイメーヘン、フローニンゲンといった重要都市を次々とスペインから奪還しました。これにより、共和国は北ネーデルラントのほぼ全域を支配下に置き、その領土を確固たるものにしました。この時期の勝利は、共和国の兵士たちに自信を与え、国民の士気を大いに高めました。
しかし、17世紀に入ると、この快進撃にも陰りが見え始めます。スペイン側も、アルバート大公とその妻イサベラ(フェリペ2世の娘)の統治の下で南ネーデルラントの体制を立て直し、有能な将軍アンブロジオ=スピノラを得て反撃に転じました。特に、1601年から1604年にかけて行われたオーステンデの包囲戦は、戦争の様相が変化したことを象徴する出来事でした。この港湾都市をめぐる攻防は3年以上に及び、両軍合わせて10万人以上もの死傷者を出す、凄惨な消耗戦となりました。最終的にオーステンデは陥落しましたが、スピノラ率いるスペイン軍が払った犠牲もまた甚大なものでした。
この戦いの後、両軍の戦線は完全に膠着状態に陥りました。マウリッツの軍も、スピノラの軍も、互いに決定的な勝利を収めることができず、小規模な都市の奪い合いや、敵地への襲撃を繰り返すばかりとなりました。戦争は、英雄的な解放闘争から、終わりなき消耗戦へとその姿を変えていたのです。
双方の疲弊

この終わりなき戦争は、何よりもまず両国の財政を破綻の瀬戸際へと追い込みました。
スペインにとって、ネーデルラントでの戦争は、広大なハプスブルク帝国が抱える数多くの戦線の一つに過ぎませんでした。地中海ではオスマン帝国と対峙し、フランスとの対立も続き、そしてアメリカ大陸からの銀の輸送船団は常に敵国の私掠船の脅威に晒されていました。フェリペ2世の跡を継いだフェリペ3世の宮廷では、レルマ公のような寵臣が実権を握り、放漫な財政運営が続けられていました。アメリカ大陸からの銀収入は減少し始め、度重なる戦争の費用を賄うことはもはや不可能でした。1607年、スペイン政府は、またしても国家破産(支払い停止宣言)を宣言せざるを得なくなりました。これは、ネーデルラント駐留軍への給料の支払いが滞ることを意味し、兵士の反乱や士気の低下に直結しました。スピノラ将軍は、自らの私財を投じて軍を維持しようとしましたが、それにも限界がありました。スペインにとって、ネーデルラントでの戦争は、もはや勝利の見込みのない、耐え難い重荷となっていたのです。
一方、勝利を重ねていたはずの共和国側も、その内情は決して安泰ではありませんでした。共和国の軍事費は、そのほとんどが最も豊かで人口の多いホラント州の税収によって賄われていました。ホラント州の商人や都市の有力者(レヘント)たちは、愛国心から喜んで戦争を支援してきましたが、40年近く続く戦争の負担は、彼らの忍耐をもすり減らしていました。重税は商業活動を圧迫し、スペインやその同盟国による海上封鎖や私掠行為は、共和国の生命線である貿易に深刻な打撃を与えていました。特に、スペイン=ポルトガル領である東インドやアメリカ大陸との貿易は、戦争によって大きな制約を受けていました。平和が訪れれば、これらの市場へのアクセスが自由になり、莫大な利益がもたらされるはずでした。ホラント州の指導者たち、特に法律顧問であったヨハン=ファン=オルデンバルネフェルトは、これ以上の戦争継続は、共和国の経済的繁栄を損なうだけだと考えるようになっていました。
和平交渉の開始

このような状況を背景に、和平への機運が双方で高まり始めました。交渉の口火を切ったのは、南ネーデルラントを統治するアルバート大公とイサベラでした。彼らは、自らの領地の平和と再建を願い、マドリードの中央政府とは一線を画して、独自に共和国側との接触を試みました。
1606年、秘密裏の交渉が始まりました。当初、スペイン側が提示したのは、共和国の「主権」を認めない形での和平でした。しかし、オルデンバルネフェルトを中心とする共和国の交渉団は、これを断固として拒否しました。彼らにとって、スペインが共和国の独立した主権国家としての地位を認めることは、交渉の絶対的な前提条件でした。
交渉が難航する中、1607年4月、一つの事件が交渉の流れを大きく変えます。ヤコブ=ファン=ヘームスケルク提督率いる共和国艦隊が、ジブラルタル沖で停泊中のスペイン艦隊を奇襲し、これを壊滅させたのです。この勝利は、共和国が今や海上においてスペインを凌駕する力を持っていることを見せつけ、スペインの交渉担当者たちに大きな衝撃を与えました。もはや共和国を対等な相手として扱わざるを得ないことを悟ったスペインは、態度を軟化させます。
1607年4月、両国はまず8ヶ月間の停戦に合意し、本格的な和平交渉の場をハーグに設けることになりました。フランスとイギリスも、この交渉を仲介し、自国の影響力を確保しようと、それぞれ代表団を派遣しました。ヨーロッパ中の注目が、ハーグで繰り広げられる外交戦に集まったのです。しかし、この交渉の開始は、同時に共和国の内部に潜んでいた深刻な対立を表面化させる引き金ともなりました。
共和国の分裂

ハーグでの和平交渉の開始は、ネーデルラント連邦共和国を建国以来最大の国内危機へと導きました。休戦条約の締結そのものをめぐる賛否は、単なる外交政策上の意見対立を超え、共和国のあり方を根底から問う、二つの対立する派閥を生み出したのです。一方は、戦争の継続を主張する「戦争派」、もう一方は、平和の実現を最優先する「平和派」でした。この対立は、二人の傑出した指導者、マウリッツ=ファン=ナッサウとヨハン=ファン=オルデンバルネフェルトの間の個人的な確執によって、さらに激しさを増していきました。
マウリッツとカルヴァン派

戦争の継続を最も強く主張したのは、共和国軍の総司令官(総督)であるマウリッツ=ファン=ナッサウでした。彼は、父であるオラニエ公ウィレム1世の跡を継ぎ、その卓越した軍事的才能で共和国を数々の勝利に導いた英雄でした。彼の権威と名声は、すべて軍事的な成功の上に築かれていました。平和が訪れれば、軍隊の規模は縮小され、総司令官としての彼の役割と影響力は必然的に低下します。彼にとって、戦争は自らの存在意義そのものでした。
また、マウリッツは、スペインの交渉術に深い不信感を抱いていました。彼は、スペインが休戦を利用して軍事力を再建し、いずれ再び攻撃を仕掛けてくると固く信じていました。カトリックのスペインとの和平は、敵に塩を送るようなものであり、共和国の安全を長期的に脅かす危険な賭けだと考えていたのです。彼は、完全な勝利によってスペインをネーデルラントから完全に駆逐するまで、戦いを続けるべきだと主張しました。
このマウリッツの主張を、神学的な信念から熱烈に支持したのが、カルヴァン派の中でも特に厳格な教義を信奉する一派、いわゆる「精密派」あるいは「反レモンストラント派」でした。彼らにとって、この戦争は単なる政治的な闘争ではなく、真の信仰(カルヴァン主義)と偽りの信仰(カトリック)との間の、神聖な戦いでした。カトリックの君主であるスペイン王は「アンチキリスト」であり、彼らとのいかなる妥協も、神への裏切りに等しいと考えられました。彼らは、休戦によって南ネーデルラントのカトリック教徒を見捨てることにも、強い罪悪感を抱いていました。戦争を継続し、ネーデルラント全土をカルヴァン主義の下に解放することこそが、神から与えられた使命だと信じていたのです。
この戦争派には、ゼーラント州も強力な支持母体として加わりました。ゼーラント州の経済は、戦争中に敵国の船舶を拿捕する私掠行為によって大きく潤っていました。平和が訪れれば、この重要な収入源が失われることになります。また、彼らは、休戦によってスヘルデ川の航行が自由化され、ライバルであるアントウェルペン港が復活することを恐れていました。戦争の継続は、彼らの経済的利益に直結していたのです。さらに、アムステルダムの一部の商人や、亡命してきた南ネーデルラント出身者たちも、スペインへの強い敵愾心から戦争継続を支持しました。
オルデンバルネフェルトとホラント州

戦争派と真っ向から対立したのが、ヨハン=ファン=オルデンバルネフェルトが率いる平和派でした。彼は、ホラント州の法律顧問として、40年近くにわたり共和国の政治を動かしてきた、老練な政治家でした。彼は、共和国の外交と内政を一身に担い、その現実的な政治手腕で、建国間もない共和国をヨーロッパの強国の仲間入りさせた立役者でした。
オルデンバルネフェルトは、戦争がもはや英雄的な解放闘争ではなく、国力を消耗させるだけの不毛な消耗戦になっていると冷静に分析していました。彼は、共和国の強さの源泉が、軍事力ではなく、商業と貿易にあることを見抜いていました。戦争の長期化は、重税と貿易の阻害によって、その経済的基盤そのものを蝕んでいました。彼は、有利な条件での休戦こそが、共和国の独立を事実上確定させ、長期的な繁栄を確保するための、最も賢明な道であると確信していました。平和が訪れれば、軍事費を削減でき、その資金を貿易の振興やインフラ整備に回すことができます。また、スペイン=ポルトガル領との貿易が自由化されれば、共和国の商船隊は世界中の海で莫大な富を生み出すことができるはずでした。
このオルデンバルネフェルトの現実的な路線を支持したのは、主にホラント州の都市の有力者であるレヘント層や、大規模な貿易に従事する商人たちでした。彼らは、戦争の経済的負担を最も重く感じており、平和がもたらす商業的利益に大きな期待を寄せていました。
また、宗教的な観点からも、平和派は戦争派とは異なる立場をとりました。彼らの多くは、カルヴァン派の中でも、より穏健で寛容な思想を持つ「自由派」あるいは「レモンストラント派」に属していました。彼らは、個人の信仰の自由を尊重し、国家が神学的な論争に過度に介入することに批判的でした。彼らにとって、カトリック教徒との共存は、必ずしも不可能なことではありませんでした。
このように、休戦をめぐる対立は、マウリッツ対オルデンバルネフェルトという個人の対立、軍人対政治家という立場の対立、戦争継続のイデオロギー対平和による繁栄という国家戦略の対立、そして厳格なカルヴァン主義対寛容な宗教思想という神学的な対立が、複雑に絡み合ったものでした。共和国は、外敵であるスペインと交渉しながら、同時に、国を二分する深刻な内紛の危機に直面していたのです。この亀裂は、休戦条約が結ばれた後も癒えることなく、やがて共和国を悲劇へと導くことになります。
交渉と条約の内容

1608年2月、ハーグのビネンホフ(国会議事堂)で始まった和平交渉は、困難を極めました。共和国の内部対立が交渉の足かせとなっただけでなく、スペインと共和国がそれぞれ譲れないと考える核心的な問題が三つ存在したからです。それは、共和国の「主権」の承認、カトリック教徒の「信仰の自由」、そして「インド貿易」の権利でした。これらの問題をめぐり、1年以上にわたって熾烈な外交的駆け引きが繰り広げられました。
核心的な論点

主権の承認は共和国側にとって交渉の絶対的な出発点でした。オルデンバルネフェルトは、スペインが共和国を「自由で独立した主権国家」として明確に認めることを要求しました。これは、40年にわたる戦争の成果を法的に確定させることを意味しました。一方、スペインのフェリペ3世にとって、かつての反乱臣民を対等な主権国家として認めることは、ハプスブルク家の威信に関わる、耐え難い屈辱でした。スペインの交渉団は、「あたかも」主権国家であるかのように扱う、といった曖昧な表現でごまかそうとしましたが、共和国側は決して妥協しませんでした。
=カトリック教徒の信仰の自由=スペイン側は、休戦の条件として、共和国領内に住むカトリック教徒の公的な信仰の自由を保障するよう強く要求しました。これは、スペイン王がカトリック世界の守護者であるという立場を示すための、象徴的な意味合いを持つ要求でした。しかし、共和国側、特に厳格なカルヴァン派にとって、これは到底受け入れられるものではありませんでした。彼らは、カトリックの「偶像崇拝」を公に認めることは、神への冒涜であり、国内にスペインのスパイや第五列(内部からの敵対者)を抱え込むことになると考えました。共和国の公的教会はカルヴァン派改革派教会であり、その地位を揺るがすような譲歩は不可能でした。
インド貿易の権利 17世紀初頭、共和国の商業的野心は、ヨーロッパを越えて世界へと広がっていました。特に、1602年に設立されたオランダ東インド会社(VOC)は、アジアの香辛料貿易に積極的に参入し、当時スペイン王が兼任していたポルトガルの権益と、各地で衝突していました。スペイン側は、休戦条約によって、共和国が東インド(アジア)および西インド(アメリカ大陸)におけるスペイン=ポルトガル領での貿易を停止することを要求しました。これは、自らの植民地帝国の独占的利益を守るための、死活的に重要な要求でした。しかし、アムステルダムの商人たちにとって、海外貿易の自由は共和国の生命線であり、それを放棄することは考えられませんでした。特に東インド会社は、休戦交渉に反対する強力なロビー団体となっていました。
交渉の頓挫と休戦への転換

これらの核心的な問題で双方の主張は真っ向から対立し、交渉は完全に行き詰まりました。特に、宗教と貿易の問題は、妥協点を見出すことが不可能に見えました。1608年8月、オルデンバルネフェルトは、恒久的な和平条約の締結は不可能であると判断し、交渉の打ち切りを宣言せざるを得ませんでした。
しかし、戦争を再開することもまた、双方にとって望ましい選択肢ではありませんでした。そこで、仲介役であったフランスとイギリスの代表が、新たな提案を行いました。恒久的な和平が無理ならば、長期間の休戦にしてはどうか、というのです。休戦であれば、解決困難な問題を将来に先送りしつつ、当面の戦闘を停止させることができます。この現実的な提案は、双方にとって受け入れ可能な落としどころとなりました。こうして、交渉の目標は、和平条約から休戦条約へと切り替えられ、再び交渉が再開されることになったのです。
十二年休戦条約の成立

休戦条約の交渉においても、論点は同じでした。しかし、「休戦期間中に限り」という条件を付けることで、妥協の余地が生まれました。数ヶ月にわたるさらなる交渉の末、1609年4月9日、アントウェルペンにおいて、ついに「十二年休戦条約」が署名されました。その主な内容は以下の通りです。
主権の承認 条約の第一条で、スペインは、休戦期間中、ネーデルラント連邦共和国を「自由な国、州、そして領土」として扱い、彼らと交渉することに合意しました。スペインは「主権」という言葉そのものを使うことは最後まで拒みましたが、「自由な国」として扱うと約束したことで、共和国は事実上の主権承認を勝ち取ったと解釈しました。これは、共和国にとって最大の外交的勝利でした。
カトリック教徒の信仰の自由 この問題は、条約の本文には盛り込まれず、秘密条項として処理されました。共和国側は、カトリック教徒の私的な信仰の実践を黙認し、彼らを迫害しないことを約束しましたが、公的な礼拝の自由は認めませんでした。これにより、共和国は国内のカルヴァン派を満足させつつ、スペインの面子を立てるという、絶妙な妥協が図られました。
インド貿易の権利 これもまた、最も解決が困難だった問題です。最終的に、条約の第四条は、極めて曖昧な表現で決着しました。「両国の臣民は、ヨーロッパ以外の、スペイン王の支配が及んでいない場所においては、相互に貿易を行うことができる」。この条文は、解釈の余地を大きく残すものでした。共和国側は、これを「スペインが実効支配していないアジアやアメリカの全ての地域で、自由に貿易ができる」と解釈しました。一方、スペイン側は、「教皇子午線によってスペイン=ポルトガル領と定められた地域での貿易は認めない」と解釈しました。結局、この問題は解決されず、東インド会社は休戦期間中も、アジアにおいてポルトガルとの戦闘行為を続けることになります。しかし、条文上、貿易の全面的な禁止を回避できたことは、共和国にとって大きな成果でした。
その他、条約には、敵対行為の全面的な停止、通商の再開、私掠行為の禁止、そして占領地の現状維持などが盛り込まれました。この条約は、40年以上にわたる戦争に、12年間の区切りをつけたのです。それは、多くの問題を未解決のまま残した不完全な合意でしたが、それでも、血と硝煙にまみれたネーデルラントに、待望久しい平和の光をもたらすものでした。
休戦中の騒乱

十二年休戦条約は、共和国に待望の平和と経済的繁栄をもたらしましたが、皮肉なことに、それは国内の政治的・宗教的対立をかつてないほど先鋭化させる引き金となりました。外敵であるスペインとの戦いが一時的に止んだことで、これまで抑えられていた内部の亀裂が一気に表面化したのです。この「休戦中の騒乱」と呼ばれる時代は、共和国を建国以来最大の危機に陥れ、最終的には建国の父の一人であるヨハン=ファン=オルデンバルネフェルトの悲劇的な死という結末を迎えます。
レモンストラント派と反レモンストラント派

対立の核心にあったのは、カルヴァン主義神学における「予定説」の解釈をめぐる論争でした。
一方の極にいたのが、ライデン大学の神学教授であったヤコブス=アルミニウスの教えに従う者たちでした。彼らは、神の救済の意志はすべての人間に向けられており、人間は自らの自由意志によって信仰を受け入れ、救済を得ることができると考えました。この立場は、厳格な予定説を和らげ、人間の役割をより重視するものでした。1610年、彼らは自らの神学的見解を「建白書」と呼ばれる文書にまとめ、ホラント州の議会に提出しました。このことから、彼らは「レモンストラント派」と呼ばれるようになります。この派閥には、オルデンバルネフェルトをはじめとするホラント州の穏健なレヘント層が多く含まれていました。彼らは、神学的な問題に国家が深く介入することに批判的で、異なる意見に対する寛容を重んじる立場でした。
これに猛然と反発したのが、同じくライデン大学の教授であったフランシスクス=ホマルスの教えを信奉する、正統派のカルヴァン主義者たちでした。彼らは、神は永遠の昔に、誰が救われ、誰が滅びるかをすべて決定済みであるという、厳格な二重予定説を固く信じていました。人間の自由意志の役割を認めるアルミニウスの教えは、神の絶対的な主権を損なう、危険な異端思想だと彼らは考えました。彼らは、レモンストラント派の建白書に反論する「反建白書」を提出したため、「反レモンストラント派」と呼ばれました。この派閥には、多くのカルヴァン派の牧師、下層・中層の市民、そして南ネーデルラントからの亡命者たちが含まれており、彼らはマウリッツ公をその政治的指導者として仰ぎました。
政治問題化する宗教対立

当初は神学論争であったこの対立は、すぐに共和国の政治体制の根幹を揺るがす政治問題へと発展しました。その中心的な争点は、「州の主権」と「連邦の権威」のどちらが優先されるか、という問題でした。
オルデンバルネフェルトとホラント州議会は、ユトレヒト同盟の規定に基づき、宗教問題は各州が独自に決定する権限を持つべきだと主張しました。彼らは、ホラント州内の教会の問題について、連邦全体の教会会議(全国教会会議)や、他の州が口出しすることを拒否しました。この立場は、各州が独立した主権を持つという「州主権論」の考え方に基づいています。オルデンバルネフェルトは、ホラント州内の宗教的平和を維持するため、両派の共存を目指し、寛容令を発布しようと試みました。
一方、マウリッツ公と反レモンストラント派は、教義の統一は共和国全体の結束にとって不可欠であり、この問題は連邦全体の機関である全国議会(スターテン=ヘネラール)と、全国教会会議によって解決されるべきだと主張しました。彼らは、連邦の権威が各州の主権に優先すると考え、オルデンバルネフェルトの行動を、連邦の分裂を招く危険なものだと非難しました。
対立はエスカレートし、各地でレモンストラント派の牧師が教会から追放されたり、反レモンストラント派の信者が別の場所で独自の礼拝を行ったりする事態が頻発しました。社会不安が高まる中、1617年、オルデンバルネフェルトは決定的な一手を打ちます。彼は、ホラント州議会を説得し、「断固たる決議」を採択させたのです。この決議は、ホラント州内の都市が、治安を維持するために独自の兵士を雇用することを許可するものでした。
オルデンバルネフェルトの失脚と処刑

この「断固たる決議」は、マウリッツ公の逆鱗に触れました。彼は、これを共和国軍の総司令官である自らの権威に対する、直接的な挑戦と受け取りました。各都市が独自の軍隊を持つことは、連邦軍の統一性を破壊し、内戦につながりかねない暴挙だと彼は考えました。マウリッツは、もはやオルデンバルネフェルトとの共存は不可能であると決意し、クーデターを決行します。
彼は、全国議会の承認を得て、ホラント州の都市に乗り込み、オルデンバルネフェルトが雇った兵士たちを武装解除させました。そして、レモンストラント派のレヘントたちを追放し、代わりに反レモンストラント派の人物を市参事会に据えました。1618年8月29日、マウリッツはついに、オルデンバルネフェルトとその腹心のフーゴー=グロティウスらを、国家反逆罪の容疑で逮捕しました。
その後、マウリッツは自らの息のかかった人物ばかりで構成された特別法廷を設置しました。この法廷は、法的な正当性に多くの疑問符がつくものでした。オルデンバルネフェルトは、弁護士を付けることも、証拠書類を閲覧することも許されず、数ヶ月にわたる厳しい尋問を受けました。彼は、自らの行動が常にホラント州の主権と法に基づいて行われたものであると主張し続けましたが、結論は初めから決まっていました。
1619年5月12日、法廷はオルデンバルネフェルトに死刑を宣告しました。罪状は、国家の宗教を破壊しようとし、連邦の統一を乱した、という曖昧なものでした。翌5月13日、71歳の老政治家は、ハーグのビネンホフの中庭に設けられた処刑台に上りました。彼は、集まった群衆に向かい、「人々よ、私が反逆者だと信じてはならない。私は常に誠実に、敬虔に振る舞ってきた。一人の良き愛国者として、私は死ぬ」と言い残し、斬首されました。
同じ時期、マウリッツはドルトレヒトで全国教会会議を招集し、レモンストラント派の教義を異端として断罪させました。これにより、反レモンストラント派の厳格なカルヴァン主義が、共和国の公的な教義として確立されました。
こうして、休戦がもたらした国内の対立は、共和国の建国の父の一人を法の名の下に殺害するという、最悪の結末を迎えました。オルデンバルネフェルトの死は、マウリッツの権力を絶対的なものにしましたが、それは共和国の政治史に、決して消えることのない深い傷跡を残したのです。
休戦の影響と終結

十二年休戦条約は、共和国に深刻な内部分裂をもたらした一方で、その後のオランダの「黄金時代」の基礎を築く上で、極めて重要な役割を果たしました。12年間の平和は、共和国がその経済力と文化的影響力を飛躍的に増大させるための、貴重な時間となったのです。
経済的繁栄

休戦がもたらした最大の恩恵は、疑いなく経済的な繁栄でした。戦闘の停止は、人々の生活に安全と安定をもたらし、商業活動を活発化させました。
貿易の拡大 休戦により、スペインや南ネーデルラントとの貿易が再開され、ヨーロッパ内の通商網が回復しました。さらに重要なのは、休戦条約が海外貿易の道を大きく開いたことです。条約の曖昧な条文を最大限に活用し、オランダ東インド会社(VOC)はアジアにおける香辛料貿易の独占をさらに推し進め、バタヴィア(現在のジャカルタ)に拠点を築くなど、その帝国を拡大しました。また、西インド(アメリカ大陸)やアフリカ沿岸への進出も活発化し、1621年の休戦終結直後には、オランダ西インド会社(WIC)が設立されることになります。アムステルダムは、フランドルからの難民(商人や職人)の流入と、世界中から富が集まるハブ港としての地位の確立により、ロンドンやパリをしのぐヨーロッパ最大の金融・商業都市へと発展しました。1609年にはアムステルダム振替銀行が、1611年にはアムステルダム証券取引所が設立され、近代的な資本主義経済のインフラが整備されていきました。
産業の発展 貿易の繁栄は、国内の産業にも好影響を与えました。造船業は、巨大な商船隊を建造するために活況を呈し、その技術力はヨーロッパ随一と評価されました。また、フランドルから亡命してきた熟練職人たちは、ライデンなどの都市に毛織物産業をもたらし、その品質の高さで国際的な競争力を持つようになりました。その他、製糖、醸造、陶器などの産業も各地で発展しました。
農業の革新 干拓事業(ポルダー)によって新たな土地が生み出され、集約的な酪農や園芸作物の栽培といった、収益性の高い農業が発展しました。オランダのチーズやバターは、重要な輸出品となりました。
この経済的繁栄は、共和国に莫大な富をもたらし、それが後の戦争再開後の軍事費を支える財政的基盤となると同時に、文化的な開花の土壌ともなりました。
文化的開花

経済的な繁栄と、比較的寛容な知的風土は、科学、芸術、思想の分野で驚くべき文化的開花をもたらしました。この時代は、オランダ黄金時代の幕開けとして記憶されています。
絵画 裕福になった商人や市民階級が、新たな芸術のパトロンとなりました。彼らは、教会の祭壇画や王侯貴族の肖像画ではなく、自らの日常生活、風景、静物、そして集団肖像画などを主題とする絵画を求めました。この需要に応え、フランス=ハルス、ヤン=ファン=ホーイェンといった画家たちが、写実的で市民的な新しい絵画のスタイルを生み出しました。レンブラント=ファン=レインも、この休戦期間中にそのキャリアを開始しています。
科学と思想 ライデン大学は、ヨーロッパ中から学者や学生が集まる、国際的な学問の中心地となりました。フーゴー=グロティウス(オルデンバルネフェルトと共に投獄されたが、後に脱獄)は、獄中で『戦争と平和の法』の構想を練り、近代国際法の父となりました。また、フランスの哲学者ルネ=デカルトは、思想の自由を求めて1620年代にオランダに移住し、その主著の多くをこの地で執筆しました。印刷業が盛んであったため、ヨーロッパの他の国では発禁となるような書物も、オランダでは比較的自由に出版することができました。
このように、休戦期間は、共和国が軍事国家から、商業と文化の先進国へとそのアイデンティティを転換させる、重要な移行期となりました。
休戦の終結と戦争の再開

12年間の休戦は、あっという間に過ぎ去りました。1621年、休戦の期限が迫る中、その延長をめぐる議論が再び起こりました。しかし、休戦開始時とは、国内外の状況が大きく変化していました。
共和国国内では、オルデンバルネフェルトの処刑によって、マウリッツ公と戦争派が完全に主導権を握っていました。彼らは、スペインとの妥協を許さず、戦争の再開を強く望んでいました。また、1621年に設立が予定されていた西インド会社は、スペイン=ポルトガル領アメリカでの私掠行為や植民地獲得を主な目的としており、その活動のためには戦争の再開が不可欠でした。
一方、ヨーロッパ全体の情勢も、大きく変動していました。1618年、ボヘミアでのプロテスタントの反乱をきっかけに、ドイツを主戦場とする三十年戦争が勃発していました。この戦争は、カトリックのハプスブルク家陣営(スペインと神聖ローマ帝国)と、プロテスタント諸侯およびその支援国(フランス、デンマーク、スウェーデンなど)との間の、ヨーロッパ全土を巻き込む大戦争へと発展しつつありました。
このような状況下で、ネーデルラントの戦争は、もはや単独の紛争ではなく、三十年戦争というより大きなヨーロッパ規模の宗教戦争・覇権戦争の一部として位置づけられることになりました。スペインは、ドイツのハプスブルク家を支援するために、ネーデルラントの共和国を再び屈服させ、背後の脅威を取り除く必要がありました。共和国もまた、プロテスタント陣営の一員として、ハプスブルク家の覇権に対抗する運命にありました。
休戦延長交渉は、ほとんど形式的なものに終わり、双方ともに戦争再開の意思を固めていました。1621年4月、休戦条約は期限切れとなり、両国は再び戦争状態に突入しました。オランダ独立戦争の第二ラウンドが、三十年戦争の激しい渦の中で再開されたのです。
十二年休戦条約は、オランダ独立戦争における一つの重要な画期でした。それは、40年にわたる戦いで疲弊した両国に休息を与え、そして何よりも、若いネーデルラント連邦共和国が、国際社会において事実上の主権国家として認められるという、決定的な外交的勝利をもたらしました。
しかし、その平和は、共和国の内部に潜んでいた深刻な対立を白日の下に晒し、国論を二分する激しい政治闘争へと発展させました。その結果、建国の功労者の一人であるオルデンバルネフェルトが処刑されるという悲劇を生み、共和国の政治体制に深い傷跡を残しました。
一方で、この12年間の平和は、共和国がその経済力を爆発的に発展させ、文化的な黄金時代の礎を築くための、かけがえのない時間となりました。休戦中に蓄えられた富と自信は、1621年に戦争が再開された後、共和国がさらに30年近くにわたって強大なスペインと戦い抜き、最終的に1648年のウェストファリア条約で完全な独立を勝ち取るための、原動力となったのです。
このように、十二年休戦条約は、平和と繁栄、そして内乱と悲劇という、光と影の両面を併せ持つ、極めて多義的な出来事でした。それは、一つの戦争を一時的に中断させただけでなく、一つの国家のアイデンティティを形成し、その後の運命を決定づける上で、決定的な役割を果たしたのです。

このテキストを評価してください。
役に立った
う~ん・・・
※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。






世界史