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ネーデルラント連邦共和国とは わかりやすい世界史用語2633 |
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著作名:
ピアソラ
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ネーデルラント連邦共和制とは
ヨーロッパの歴史地図を眺めると、17世紀から18世紀にかけて、王や皇帝が支配する広大な君主制国家の海の中に、ひときわ異彩を放つ一つの存在が浮かび上がります。それが、ネーデルラント連邦共和国、正式名称を「七州連合ネーデルラント共和国」です。この国は、絶対王政がヨーロッパの主流であった時代に、君主を持たない共和制を掲げ、商業の力によって世界的な大国へと駆け上がりました。その独特な政治システム、驚異的な経済的繁栄、そして比類なき文化的創造性は、同時代の人々を驚かせ、後世に大きな影響を与え続けることになります。
この共和国の誕生は、意図された設計図に基づくものではなく、むしろ偶然と苦難の産物でした。16世紀後半、ネーデルラントの17州は、当時世界最強の帝国であったスペイン=ハプスブルク家の支配下にありました。しかし、君主フェリペ2世による中央集権化政策と、プロテスタントに対する過酷な宗教弾圧は、現地の貴族や民衆の激しい反発を招きました。1568年、オラニエ公ウィレム1世を指導者として始まった反乱は、八十年戦争として知られる、長く血なまぐさい独立闘争へと発展します。
反乱の初期段階において、彼らの目的は必ずしも独立ではありませんでした。彼らが求めたのは、古来からの特権と自由を尊重し、信仰の寛容を認める君主の下での自治でした。1581年にフェリペ2世の統治権を否認した後も、彼らはフランスのアンジュー公やイギリスのエリザベス1世といった外国の君主に主権を委ねようと試みます。しかし、これらの試みはことごとく失敗に終わりました。君主探しの旅に疲れ果てた反乱州は、他に選択肢がないという状況の中で、不承不承ながら、君主なしで自らを統治するという、前例のない道を選び取ったのです。こうして、7つの北部州、すなわちホラント、ゼーラント、ユトレヒト、ヘルダーラント、オーファーアイセル、フリースラント、フローニンゲンが連合し、事実上の共和国が誕生しました。
この共和国の政治構造は、一言で言えば「矛盾の塊」でした。それは、主権を持つ7つの州が、それぞれの独立性を強く主張しながら、外交や軍事といった共通の利益のために緩やかに結束するという、極めて分権的な連合体でした。中央政府と呼べるような強力な機関は存在せず、すべての重要な決定は、各州の代表が集まる全国議会(スターテン=ヘネラール)において、全会一致の原則に基づいて行われました。この非効率的で複雑なシステムは、常に内部対立の火種を抱え、政治的な麻痺に陥る危険性をはらんでいました。
さらに、この共和国には、その共和制の理念とは相容れない、半ば君主的な存在が組み込まれていました。それが、オラニエ=ナッサウ家の当主が世襲的に務める「総督(スタットハウダー)」の地位です。総督は、連邦軍の総司令官として絶大な軍事権を握り、民衆からのカリスマ的な人気を背景に、しばしば州議会や全国議会と対立しました。共和国の歴史は、この総督の権力を支持する「オラニエ派」と、州の主権と自由を重んじる都市の有力者たち、すなわち「レヘント」を中心とする「州議会派」との間の、絶え間ない権力闘争の歴史でもありました。
にもかかわらず、この奇妙で不安定な国家は、17世紀を通じて驚異的な成功を収めます。その船団は世界の海を支配し、アムステルダムは国際金融と貿易の中心地として栄華を極めました。レンブラントやフェルメールといった巨匠たちが活躍し、思想の自由を求めてヨーロッパ中から知識人が集まりました。なぜ、このような非効率で矛盾に満ちた政治システムが、これほどの繁栄と安定を生み出すことができたのでしょうか。
共和国の成立
ネーデルラント連邦共和国の誕生は、ある特定の日に革命が起きて成立したというような、劇的な出来事ではありませんでした。それは、スペイン=ハプスブルク家の支配に対する長く困難な反乱の過程で、他の選択肢が尽きた結果として、徐々に形作られていったものです。その道のりは、独立への明確な意志よりも、むしろ古来の権利と自由を守ろうとする保守的な動機から始まりました。
ハプスブルク家への反乱
16世紀半ば、ネーデルラントとして知られる低地地方の17州は、神聖ローマ皇帝カール5世の治世下で、ハプスブルク家の広大な帝国の一部に組み込まれていました。この地域は、中世以来、都市の自治権が非常に強く、各州や都市は君主から与えられた多くの特権(チャーター)を享受していました。君主は、新たな課税や法律の制定に際して、各州の代表からなる身分制議会(スターテン)の同意を得るのが慣例でした。
しかし、カール5世の跡を継いだ息子、フェリペ2世がスペインからこの地を統治するようになると、状況は一変します。敬虔なカトリック教徒であったフェリペ2世は、この地域で急速に広まっていたカルヴァン主義をはじめとするプロテスタントを根絶しようと、異端審問を強化し、厳しい宗教弾圧政策を推し進めました。同時に、彼は父の政策を引き継ぎ、中世的な特権を無視して、ネーデルラントを中央集権的な近代国家へと変貌させようと試みました。彼は、現地の貴族を政治の中枢から排除し、スペイン人の顧問官を重用しました。
これらの政策は、三つの主要な社会層の怒りを買いました。まず、エフモント伯やホールン伯、そしてオラニエ公ウィレム1世といった大貴族たちは、自らの政治的影響力が奪われたことに強く反発しました。次に、都市の商人やギルドといった市民階級は、古くからの都市の自治権と経済的自由が脅かされることに危機感を抱きました。そして、プロテスタントの信者たちは、自らの信仰と生命そのものが危険に晒されていると感じました。
1566年、下級貴族たちがイサベル総督に宗教弾圧の緩和を求める請願を行ったことをきっかけに、緊張は爆発します。同年夏には、カルヴァン派の民衆による大規模な偶像破壊運動(ビルダーシュトルム)が各地の教会を襲いました。この暴動に激怒したフェリペ2世は、アルバ公フェルナンド=アルバレス=デ=トレドに1万の精鋭部隊を率いさせてネーデルラントに派遣しました。
アルバ公は、恐怖政治をもって反乱を鎮圧しようとしました。彼は「騒擾評議会」、通称「血の評議会」を設置し、エフモント伯やホールン伯を含む数千人を反逆罪で処刑しました。さらに、彼は議会の同意なしに新たな重税(十分の一税)を課そうとし、ネーデルラントの経済に大打撃を与えました。このアルバ公の圧政は、反乱の火を消すどころか、むしろそれに油を注ぐ結果となりました。国外に逃れていたオラニエ公ウィレム1世は、反乱の指導者として旗揚げし、1568年、彼の軍隊が戦いでスペイン軍を破ったことで、八十年戦争として知られる長い戦いの火蓋が切られたのです。
ユトレヒト同盟と統治権否認令
反乱は、ネーデルラントの北部と南部で異なる様相を呈しました。特に、ホラント州とゼーラント州を中心とする北部の州は、カルヴァン主義が深く浸透しており、最も頑強に抵抗を続けました。一方、南部の州は、カトリック貴族の勢力が強く、スペインとの妥協を探る動きもありました。
1579年、この分裂は決定的となります。南部のワロン系諸州は、カトリック信仰を維持し、スペイン王への忠誠を再確認する「アラス同盟」を結成しました。これに対抗して、同月、北部のホラント、ゼーラント、ユトレヒト、ヘルダーラント、フリースラント、フローニンゲン、オーファーアイセルの7州は、軍事的な相互防衛を目的とする「ユトレヒト同盟」を締結しました。この同盟は、独立宣言ではありませんでしたが、将来の連邦共和国の事実上の憲法となりました。同盟は、各州が内部の問題(特に宗教問題)については主権を維持しつつ、外交と軍事については一つの連合体として行動することを定めました。
ユトレヒト同盟を結成した時点でも、彼らはまだフェリペ2世を君主として完全に否定したわけではありませんでした。しかし、和解の道が完全に閉ざされると、彼らはついに最後の手段に訴えます。1581年7月26日、同盟諸州の全国議会は「統治権否認令(Plakkaat van Verlatinge)」を発布しました。この文書は、君主は人民を守る羊飼いであり、人民を抑圧する暴君と化した君主に対して、人民は忠誠の義務を放棄し、彼を否認する権利を持つと高らかに宣言しました。そして、フェリペ2世の数々の不正行為を列挙し、彼がネーデルラントの君主としての権利を喪失したことを布告したのです。これは、事実上の独立宣言であり、後のアメリカ独立宣言にも大きな影響を与えた画期的な文書でした。
君主探しの失敗と共和国の誕生
しかし、フェリペ2世を否認したものの、彼らは自ら共和制を樹立しようとは考えていませんでした。16世紀のヨーロッパにおいて、君主のいない国家というものは、ほとんど想像不可能なものでした。彼らは、自分たちの自由と権利を保障してくれる、新たな「君主」を探し始めます。
最初の候補者は、フランス王アンリ3世の弟であるアンジュー公フランソワでした。彼はカトリック教徒でしたが、フランスからの支援を期待して、1582年に新たな君主として迎え入れられました。しかし、アンジュー公は自らの権力が全国議会によって厳しく制限されていることに不満を抱き、1583年に武力で実権を掌握しようとして失敗します(フレンチ=フューリー)。彼は屈辱のうちにネーデルラントを去りました。
次に彼らが頼ったのは、イギリスの女王エリザベス1世でした。1584年に指導者であったオラニエ公ウィレム1世が暗殺され、スペイン軍の猛攻でアントウェルペンが陥落するという絶望的な状況の中、彼らはエリザベスに君主となってくれるよう懇願しました。エリザベスは君主になることは拒否しましたが、腹心のレスター伯ロバート=ダドリーを総督として派遣し、軍事的な支援を約束しました。しかし、レスター伯もまた、中央集権的な統治を行おうとしてホラント州の有力者たちと激しく対立し、成果を上げられないまま1587年にイギリスに帰国してしまいます。
二度にわたる外国君主の招聘の失敗は、彼らにとって痛烈な教訓となりました。彼らは、もはや外国の君主に頼ることはできないと悟りました。そして、他に選択肢がないまま、主権は特定の君主にあるのではなく、連合した各州の議会(スターテン)そのものにあるのだという結論に、いわばなし崩し的に到達したのです。1588年、全国議会は主権が自らにあることを宣言し、ここに君主を持たない「ネーデルラント連邦共和国」が、設計図なくして誕生しました。それは、理論的な選択というよりも、プラグマティックな必要性から生まれた、歴史の偶然の産物だったのです。
共和国の政治構造
ネーデルラント連邦共和国の政治構造は、同時代のヨーロッパのいかなる国家とも異なる、極めてユニークで複雑なものでした。それは、強力な中央政府を持たず、主権を持つ7つの州がそれぞれの独立性を保ちながら緩やかに連合するという、分権的な連邦制でした。このシステムは、絶え間ない交渉と妥協を必要とする非効率なものでしたが、同時に、個々の州や都市の自由と多様性を保障する役割も果たしました。
主権を持つ七つの州
共和国の根幹をなしていたのは、それぞれが「主権者」であるとされた7つの州でした。ホラント、ゼーラント、ユトレヒト、ヘルダーラント、フリースラント、フローニンゲン、そしてオーファーアイセルです。これらの州は、ユトレヒト同盟によって軍事・外交面で結束していましたが、それ以外の内政、司法、財政、そして宗教に関する事柄については、各州が独自の権限を持っていました。
各州は、州議会(スターテン)によって統治されていました。州議会の構成は州ごとに異なりましたが、基本的には貴族の代表と、主要都市の代表から成っていました。例えば、ヘルダーラント州やオーファーアイセル州のような内陸の州では、伝統的な封建貴族が強い影響力を持ち続けました。一方、ホラント州やゼーラント州のような沿岸の州では、貴族の力は比較的小さく、アムステルダム、ロッテルダム、デルフトといった裕福な商業都市の代表が議会を支配していました。
これらの都市は、市参事会(フロートスハップ)によって運営されており、そのメンバーは「レヘント」と呼ばれる、少数の裕福な商人や法律家の一族によって占められていました。レヘントたちは、縁故や婚姻を通じて緊密なネットワークを形成し、都市の政治を寡占的に支配する、事実上の都市貴族層となっていました。彼らは、中央集権化や君主制的な権威に強く反発し、都市と州の自治権(パルティキュラリズム)を何よりも重んじました。
連邦の機関
各州の主権を束ねる連邦レベルの機関も存在しましたが、その権限は限定的でした。
全国議会(スターテン=ヘネラール)
共和国の最高意思決定機関が、ハーグに常設された全国議会でした。ここには、7つの各州から代表団が派遣されました。しかし、全国議会は各州政府の上にある中央政府ではありませんでした。代表団は、独立した判断で行動する権限を持たず、自らが所属する州議会からの訓令に厳格に拘束されていました。重要な議題については、代表団は一度地元に持ち帰り、州議会の承認を得なければなりませんでした。
さらに、全国議会での議決は、原則として「全会一致」で行われました。7つの州は、その人口や経済力にかかわらず、それぞれが一票の投票権を持っていました。これは、一つの州でも反対すれば、法案や決定が成立しないことを意味します。このシステムは、小邦の権利を守る一方で、意思決定を著しく遅らせ、政治的な麻痺を引き起こす原因ともなりました。実際には、共和国の財政の半分以上を負担していた最も強力な州であるホラント州が、他の州に圧力をかけて合意を取り付けることが多くありました。
全国議会が管轄したのは、主に外交、軍事、連邦全体の財政、そしてカトリックが多数を占める南部の占領地(ヘネラリテイツラント)の統治といった、共通の利害に関わる事柄に限られました。
法律顧問(ラートペンショナリス)
全国議会には、明確な行政の長や首相といった役職は存在しませんでした。その中で、事実上の政治指導者として最も重要な役割を果たしたのが、ホラント州の法律顧問でした。彼は、ホラント州議会の首席官僚であり、全国議会におけるホラント州代表団の長でもありました。共和国の財政と官僚機構の大部分をホラント州が担っていたため、その法律顧問は、連邦全体の外交政策や内政を主導する、事実上の首相のような存在となりました。ヨハン=ファン=オルデンバルネフェルトやヨハン=デ=ウィットといった偉大な法律顧問たちは、この役職を通じて共和国を巧みに操縦しました。しかし、彼らの権力は法的に定められたものではなく、あくまでその個人の能力と、ホラント州の経済力に依存する、非公式なものでした。
国務会議(ラート=ファン=スターテ)
国務会議は、元々はハプスブルク家時代の統治機関でしたが、共和国でも存続しました。主に軍事と財政に関する行政を担当し、全国議会への助言を行いました。各州の代表と総督がメンバーであり、日常的な行政運営において重要な役割を果たしましたが、その権限は次第に全国議会に吸収されていきました。
総督(スタットハウダー)
この分権的な共和制システムの中に、全く異質な要素として存在したのが「総督」の役職でした。スタットハウダーという言葉は、元々「君主の代理人」を意味し、ハプスブルク家時代には、君主が不在の際に各州を統治する役職でした。共和国は君主を否認した後も、この役職を廃止せず、オラニエ=ナッサウ家の当主をその地位に据え続けました。
総督は、連邦レベルの役職ではなく、各州が個別に任命する州の役人でした。しかし、実際には、ホラント、ゼーラント、ユトレヒト、ヘルダーラント、オーファーアイセルの5州が、常にオラニエ公を共通の総督として任命するのが慣例となっていました。
総督の権力は絶大でした。彼は、連邦陸海軍の総司令官(カピテイン=ヘネラールおよびアドミラール=ヘネラール)であり、軍事に関する全権を握っていました。また、多くの都市において、市参事会のメンバーを任命する権限を持っており、州や都市の政治に直接介入することができました。
何よりも、オラニエ=ナッサウ家は、独立戦争の英雄ウィレム1世の血を引く家系として、民衆からカリスマ的な人気と忠誠を集めていました。彼らは、共和国の統一と独立の象徴であり、多くの人々にとって、事実上の君主に近い存在と見なされていました。このため、総督はしばしば、州の自治を重んじるレヘントたちと対立し、自らの権力を拡大して、共和国をより君主制に近い体制へと変えようと試みました。この「総督」という半君主制的な役職の存在は、ネーデルラント連邦共和国の政治に、常に緊張と不安定さをもたらす最大の要因となったのです。
二つの勢力の対立
ネーデルラント連邦共和国の200年にわたる歴史は、二つの対立する政治勢力間の絶え間ない権力闘争によって特徴づけられます。一方は、オラニエ=ナッサウ家の総督を中心とする「オラニエ派」。もう一方は、ホラント州の都市のレヘントたちが主導する「州議会派」です。この両派の対立は、単なる権力争いにとどまらず、共和国の理想的な姿、すなわち中央集権的な国家か、それとも分権的な連合体か、という国家の根幹に関わる思想的な対立でもありました。
オラニエ派対州議会派
オラニエ派
この派閥の支持基盤は、主に三つの層から成っていました。第一に、オラニエ公の軍事指導下にあり、その恩恵を受ける陸軍将校たち。第二に、オラニエ家をネーデルラントの解放者として崇拝し、強い指導者を求める一般民衆。そして第三に、厳格なカルヴァン主義を信奉し、州議会派の寛容な宗教政策に不満を持つカルヴァン派の牧師や信者たちです。彼らは、強力な総督の下で、より中央集権的で軍事的に強力な、そして宗教的に統一された国家を理想としました。彼らにとって、オラニエ公は国家の統一と栄光の象徴でした。
州議会派
この派閥の中心は、ホラント州、特にアムステルダムの裕福なレヘント(都市貴族)たちでした。彼らは、共和国の繁栄の源泉は軍事ではなく、平和と自由貿易にあると考えていました。彼らが最も恐れたのは、総督がその軍事力を背景に独裁者となり、自分たちの自治権と経済的自由を奪うことでした。そのため、彼らは「真の自由」というスローガンの下、各州の主権(パルティキュラリズム)を断固として擁護し、総督の権力を可能な限り制限しようとしました。彼らは、軍事費、特に費用のかさむ陸軍の予算を削減し、海軍を重視する傾向がありました。宗教的には、彼らは商業的利益のために、より寛容な政策を支持しました。
この両派の対立は、共和国の歴史を通じて、振り子のように揺れ動きました。戦争の危機が迫り、強力な軍事指導者が必要とされる時代にはオラニエ派が優勢となり、平和が訪れ、商業的利益が優先される時代には州議会派が勢力を盛り返す、というパターンが繰り返されたのです。
オルデンバルネフェルトの処刑
両派の対立が最初に悲劇的な結末を迎えたのが、十二年休戦条約(1609-1621)の期間中でした。州議会派の指導者であった法律顧問ヨハン=ファン=オルデンバルネフェルトは、休戦を主導し、平和による商業的繁栄を目指しました。一方、オラニエ派の指導者である総督マウリッツ=ファン=ナッサウは、休戦に反対し、戦争の継続を望んでいました。
この政治的対立は、レモンストラント派(穏健カルヴァン派)と反レモンストラント派(厳格カルヴァン派)の間の神学論争と結びつき、国を二分する危機へと発展しました。オルデンバルネフェルトは、州の主権を盾にレモンストラント派を擁護し、寛容な宗教政策を推し進めようとしました。これに対し、マウリッツは反レモンストラント派と結びつき、オルデンバルネフェルトの政策を連邦の統一を乱すものだと非難しました。
1618年、マウリッツはクーデターを決行し、オルデンバルネフェルトを逮捕しました。そして、政治的な見せしめ裁判の後、1619年に彼を国家反逆罪で処刑しました。これは、オラニエ派の完全な勝利であり、総督の権力が、州の主権を踏みにじることさえ可能であることを示す、衝撃的な出来事でした。
第一次無総督時代(1650-1672)
しかし、オラニエ派の優位も長くは続きませんでした。1648年にウェストファリア条約によってスペインとの八十年戦争が終結し、共和国の独立が正式に承認されると、平和の時代が訪れました。もはや強力な軍事指導者は必要ないと考えた州議会派は、勢力を盛り返します。
1650年、総督ウィレム2世が、アムステルダムを攻撃して自らの権力を強化しようとした直後に、天然痘で急死します。彼は、死の直前に生まれた息子(後のウィレム3世)を残しましたが、州議会派、特にホラント州はこの好機を逃しませんでした。彼らは、新たな総督を任命することを拒否し、「無総督時代」を開始することを宣言しました。ホラント、ゼーラント、ユトレヒト、ヘルダーラント、オーファーアイセルの5州は、総督の役職を空位のままにしたのです(北部のフリースラントとフローニンゲンは、オラニエ=ナッサウ家の別の分家を総督として任命し続けました)。
この時代、共和国の政治を指導したのは、若き天才的な政治家、ホラント州法律顧問のヨハン=デ=ウィットでした。彼は、州議会派の理念である「真の自由」の体現者であり、総督のいない、レヘントたちによる真の共和制統治を目指しました。彼の指導の下、共和国は第一次英蘭戦争などの困難を乗り越え、経済的・文化的な黄金時代の絶頂期を迎えました。デ=ウィットは、巧みな外交によってヨーロッパの勢力均衡を維持し、国内では海軍力を強化して商業的利益を守りました。
第二次無総督時代(1702-1747)
しかし、この「真の自由」の時代も、戦争の危機によって終わりを告げます。1672年、フランスのルイ14世が、イギリスと同盟して共和国に侵攻を開始しました(仏蘭戦争)。陸軍が弱体化していた共和国は、フランス軍の電撃的な侵攻の前に総崩れとなり、国家存亡の危機に陥りました。この「災厄の年」に、パニックに陥った民衆は、救世主としてオラニエ公を求めました。
州議会は、民衆の圧力に屈し、ウィレム3世を総督に任命せざるを得ませんでした。怒り狂った民衆の暴徒は、デ=ウィットとその兄を、国を売った裏切り者としてハーグで惨殺しました。こうして、第一次無総督時代は終わりを告げ、オラニエ家の権力が復活したのです。ウィレム3世は、後に名誉革命によってイギリス王となり、ヨーロッパにおけるルイ14世の最大の敵対者となりました。
ウィレム3世が1702年に後継者を残さずに亡くなると、共和国は再び総督のいない時代、すなわち第二次無総督時代へと入ります。この時代は、第一次無総督時代のような輝かしいものではありませんでした。共和国は、スペイン継承戦争などで国力を消耗し、国際的な地位は徐々に低下していきました。政治は、レヘントたちの派閥争いによって停滞し、かつての活力は失われていきました。この時代は、1747年にオーストリア継承戦争の危機の中で、民衆が再びオラニエ家(分家から迎えられたウィレム4世)を総督として担ぎ出すまで続きました。この時、総督の地位は初めて全州で世襲制とされ、共和国は君主制にさらに一歩近づくことになったのです。
黄金時代と社会
17世紀、特に十二年休戦条約(1609年)から「災厄の年」(1672年)までの期間、ネーデルラント連邦共和国は、その国力と富、そして文化的な創造性において、驚くべき「黄金時代」を経験しました。この繁栄は、共和国のユニークな政治構造と社会のあり方と、分かちがたく結びついていました。
世界貿易の覇権
黄金時代の根幹にあったのは、共和国が握った世界貿易の覇権でした。アムステルダムは、バルト海の穀物、フランスのワイン、ノルウェーの木材、そしてアジアの香辛料といった、あらゆる商品が集まる世界最大の集散地となりました。オランダの商人は「海の運送屋」と呼ばれ、その巨大な商船隊(フリュート船など、効率的な貨物船が開発された)は、ヨーロッパ中の貿易を支配しました。
この商業的成功の原動力となったのが、二つの巨大な貿易会社でした。
オランダ東インド会社(VOC)
1602年に設立されたVOCは、世界初の株式会社であり、多国籍企業でした。全国議会から、アジアにおける貿易独占権、条約締結権、要塞構築権、そして軍隊の保有権といった、国家のような権限を与えられていました。VOCは、武力を用いてポルトガルをアジアから駆逐し、香辛料諸島(現在のインドネシア、モルッカ諸島)を支配下に置きました。彼らは、香辛料貿易で莫大な利益を上げ、その富が共和国に還流しました。
オランダ西インド会社(WIC)
1621年に設立されたWICは、大西洋地域(アメリカ大陸と西アフリカ)での活動を目的としていました。その主な活動は、スペインの銀船団を拿捕する私掠行為や、砂糖プランテーションのための奴隷貿易でした。WICは、ブラジル北東部や、北米のニューネーデルラント(現在のニューヨーク)に植民地を築きましたが、その経営はVOCほど成功しませんでした。
これらの貿易活動を支えたのが、アムステルダムの先進的な金融システムでした。1609年に設立されたアムステルダム振替銀行は、安定した通貨と信頼性の高い決済システムを提供し、国際金融の中心地となりました。また、アムステルダム証券取引所では、VOCやWICの株式が活発に売買され、投機的な資金が世界中から集まりました。
寛容と市民文化
共和国の社会は、同時代の他のヨーロッパ諸国と比較して、著しく寛容で、市民的な性格を持っていました。
宗教的寛容
共和国の公定教会はカルヴァン派改革派教会でしたが、実際には、カトリック、ルター派、メノナイト、そしてユダヤ教徒など、多様な信仰を持つ人々が共存していました。特に、スペインやポルトガルから逃れてきたセファルディム系ユダヤ人や、東欧から逃れてきたアシュケナジム系ユダヤ人は、アムステルダムに大きなコミュニティを形成し、その商業的・知的なネットワークで共和国の繁栄に貢献しました。この寛容は、神学的な理想からというよりも、むしろ商業的利益を優先するレヘントたちの現実的な判断によるものでした。多様な人々が共存する方が、ビジネスにとって都合が良かったのです。
思想と出版の自由
この比較的自由な雰囲気は、ヨーロッパ中の知識人や思想家を惹きつけました。フランスの哲学者ルネ=デカルト、イギリスの政治思想家ジョン=ロック、そしてユダヤ人哲学者バールーフ=デ=スピノザなど、多くの思想家が、自国での迫害を逃れて、あるいはより自由な環境を求めて共和国で活動しました。オランダの印刷業者は、ヨーロッパで最も検閲が緩やかだったため、他国では発禁となるような科学、哲学、政治に関する書物を次々と出版し、ヨーロッパの知の流通センターとしての役割を果たしました。
市民的芸術
黄金時代の文化の最も顕著な特徴は、そのパトロンが教会や王侯貴族ではなく、裕福な市民階級であったことです。商人、職人、レヘントたちは、自らの家を飾るために絵画を買い求めました。その結果、宗教画や神話画ではなく、市民の日常生活、肖像画、風景画、静物画といった、世俗的なジャンルが隆盛しました。レンブラント=ファン=レインの《夜警》のような集団肖像画は、市民の共同体意識の現れでした。また、ヨハネス=フェルメールの作品は、穏やかで秩序ある市民生活の理想を描き出しています。これらの芸術は、貴族的な壮麗さではなく、市民的な価値観、すなわち勤勉、質素、そして家庭的な幸福を称揚するものでした。
この社会は、完全な平等社会ではありませんでした。レヘントたちが寡占的な支配階級を形成し、富の偏在も大きかったのです。しかし、絶対王政下の国々と比べれば、社会的な流動性は高く、個人の才能と努力が成功につながる可能性が開かれていました。この自由でダイナミックな市民社会こそが、黄金時代の驚異的なエネルギーの源泉だったのです。
衰退と終焉
18世紀に入ると、17世紀に世界を席巻したネーデルラント連邦共和国の輝きにも、次第に陰りが見え始めます。その衰退は、突然の崩壊というよりも、相対的な地位の低下という、緩やかで長期的なプロセスでした。かつて革新的であった共和国のシステムは、時代の変化に対応できなくなり、内外からの挑戦に直面することになります。
相対的な地位の低下
共和国の衰退の最大の要因は、外部環境の変化、特にイギリスとフランスという二つの強力な中央集権国家の台頭でした。
経済的競争
17世紀後半から、イギリスとフランスは、重商主義政策を強力に推し進め、自国の産業と貿易を保護・育成し始めました。特にイギリスは、航海法(1651年以降)を制定して、オランダの中継貿易に直接的な打撃を与えました。三次にわたる英蘭戦争は、共和国の海上覇権に深刻な挑戦を突きつけました。フランスもまた、保護関税によってオランダ製品を市場から締め出そうとしました。人口や資源で劣る共和国は、これらの大国の経済力に対抗することが次第に困難になっていきました。アムステルダムは依然として国際金融の中心地であり続けましたが、その役割は、貿易や産業の担い手から、他国に資金を貸し付ける「世界の銀行家」へと変化していきました。これは、経済の活力が、生産的な投資から、利子収入に依存するレントシーカー(不労所得者)的な経済へと移行しつつあったことを示しています。
軍事的負担
17世紀末から18世紀初頭にかけて、共和国は、総督ウィレム3世の指導の下、ルイ14世のフランスの覇権に対抗するため、スペイン継承戦争などの大規模なヨーロッパの戦争に深く巻き込まれました。これらの戦争は、共和国の財政に壊滅的な負担を強いました。莫大な戦費を賄うために国債が乱発され、国家は巨額の債務を抱え込むことになりました。戦争が終わった後も、その利払いが財政を圧迫し続け、かつてのような積極的な投資や海軍力の維持を困難にしました。
政治的停滞と腐敗
外部環境の変化に加え、共和国の内部でも、その政治システムは硬直化し、活力を失っていきました。
第二次無総督時代(1702-1747)は、政治的なリーダーシップの欠如によって特徴づけられます。ヨハン=デ=ウィットのような強力な指導者を欠いた州議会派の政治は、レヘントたちの派閥争いと利権の追求に終始し、国全体としての長期的な戦略を描くことができませんでした。
レヘント階級は、17世紀のダイナミックな起業家精神を失い、世襲的で閉鎖的な寡頭支配層へと変質していきました。彼らは、公職を自らの一族で独占し、国債への投資による安定した利子収入で生活する、保守的なレントシーカー階級となりました。この「かつら時代」と呼ばれる時代は、政治的な停滞と自己満足の象徴と見なされています。
1747年に復活したオラニエ家の世襲総督制も、事態を改善するには至りませんでした。総督ウィレム4世とその後継者ウィレム5世は、かつての英雄的な総督たちのような指導力を発揮することができず、宮廷は派閥争いの場と化しました。
愛国派の台頭と革命
18世紀後半になると、この政治的停滞と社会の閉塞感に対する不満が、新たな政治運動として噴出します。それが「愛国派」の運動でした。
愛国派は、アメリカ独立革命やフランスの啓蒙思想に強く影響を受けた、多様な人々の集まりでした。その中には、政治から排除された貴族や、レヘントの寡頭支配に不満を持つ中産階級、そしてより民主的な社会を求める職人や小商人などが含まれていました。
彼らは、総督ウィレム5世の無能な統治と、レヘントたちの腐敗した寡頭制の両方を批判しました。彼らは、出版物や政治結社を通じて、言論の自由、市民の政治参加、そして国家の道徳的・政治的な再生を訴えました。また、彼らは自由軍団(フリイコーア)と呼ばれる民兵組織を各地で結成し、既存の権力に対抗しようとしました。
1785年頃から、愛国派の運動は革命的な様相を呈し、ユトレヒトやホラント州のいくつかの都市で、彼らが市政を掌握する事態に至りました。共和国は内戦寸前の状態に陥りました。しかし、1787年、総督ウィレム5世の義兄にあたるプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム2世が、軍事介入を行いました。プロイセン軍の前に愛国派の民兵組織はなすすべもなく崩壊し、多くの指導者がフランスへ亡命しました。
フランス革命と共和国の終焉
愛国派の革命は一度は失敗に終わりましたが、フランス革命がその運命を再び変えることになります。1794年末、フランス革命軍は、亡命した愛国派と共にネーデルラントに侵攻しました。凍結した川を渡って進軍するフランス軍に対し、総督の軍隊はほとんど抵抗できず、総督ウィレム5世はイギリスへ亡命しました。
1795年1月、アムステルダムで革命が宣言され、ネーデルラント連邦共和国の200年の歴史は、その幕を閉じました。愛国派は、フランスの支援の下、新たに「バタヴィア共和国」の建国を宣言しました。
バタヴィア共和国は、古い連邦制を廃止し、フランスをモデルとする、単一で不可分な中央集権国家を樹立しました。州の主権は否定され、国民議会が導入され、個人の平等な市民権が保障されました。しかし、この新しい共和国もまた、フランスの衛星国家としての地位から脱却することはできず、ナポレオンのヨーロッパ戦略に翻弄され続けます。1806年にはナポレオンの弟ルイ=ボナパルトを国王とするホラント王国となり、1810年にはフランス帝国に完全に併合されました。
ナポレオンの没落後、1815年のウィーン会議によって、オラニエ家のウィレム1世を国王とし、旧ネーデルラント連邦共和国と旧南ネーデルラント(現在のベルギー)を統合した「ネーデルラント連合王国」が成立しました。ここに、かつての共和国は、立憲君主制国家として、その新たな歴史を歩み始めることになったのです。
ネーデルラント連邦共和国は、ヨーロッパ近代史において、他に類を見ないユニークな政治的実験でした。絶対王政の時代にあって、君主を持たない共和制を掲げ、分権的な連合体という、極めて非効率に見えるシステムを採用しながら、17世紀には世界の経済と文化をリードする超大国へと登りつめました。
その成功の秘密は、そのシステムの「矛盾」そのものにあったのかもしれません。州の主権を重んじる分権主義は、各都市の自由な経済活動と多様な文化の開花を促しました。一方、オラニエ家の総督という半君主制的な存在は、戦争の危機に際して国家を一つにまとめ、軍事的な勝利をもたらしました。州議会派の商業的合理主義と、オラニエ派の軍事的カリスマという、二つの対立する力の間の絶え間ない緊張関係が、結果として共和国にダイナミズムと柔軟性を与えていたのです。
しかし、その成功をもたらしたシステムは、18世紀になると、時代の変化に対応できない硬直化した制度へと姿を変えました。レヘントの寡頭支配は腐敗し、外部の大国の挑戦の前に、その相対的な地位を失っていきました。最終的に、フランス革命という外部からの衝撃によって、その古い構造は打ち壊され、近代的な中央集権国家へと生まれ変わることを余儀なくされました。
それでも、ネーデルラント連邦共和国が歴史に残した遺産は計り知れません。それは、君主のいない国家が、商業と市民の力によって繁栄できることを証明しました。その統治権否認令は、人民の抵抗権を掲げ、アメリカ独立革命の思想的先駆となりました。その寛容な社会は、思想と科学の発展に大きく貢献しました。
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