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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / 東アジア・東南アジア世界の動向(明朝と諸地域)

壬辰・丁酉の和乱とは わかりやすい世界史用語2215

著者名: ピアソラ
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壬辰・丁酉の和乱とは

1592年から1598年にかけて、日本は二度にわたり朝鮮半島に大規模な軍事侵攻を行いました。この一連の戦争は、最初の1592年の侵攻が干支で壬辰の年にあたること、そして1597年の二度目の侵攻が丁酉の年にあたることか​​ら、韓国では「壬辰倭乱」および「丁酉再乱」と総称されます。この戦争は、日本、朝鮮、そして中国(明)の三国を巻き込み、東アジアの歴史に深刻な影響を及ぼした大規模な国際紛争でした。

戦争の背景と豊臣秀吉の野望

この戦争を引き起こした中心人物は、日本の戦国時代を終結させ、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉です。 彼の野望は日本の統一に留まらず、朝鮮半島を征服し、さらには明をも支配下に置くという壮大なものでした。 秀吉がなぜこのような大規模な対外戦争に踏み切ったのかについては、複数の要因が指摘されています。
第一に、彼の個人的な野心と誇大妄想的なビジョンが挙げられます。 彼は日本国内での成功体験から、自らの力を過信し、世界征服すら可能だと考えていた可能性があります。 実際に彼は、朝鮮や中国だけでなく、フィリピンやインドへの遠征についても言及していたとされます。
第二に、国内の政治的安定を維持するための戦略という側面がありました。 長い戦国時代を戦い抜いてきた大名たちの強力な軍事力を国内ではなく、国外に向けることで、彼らの力を削ぎ、謀反の可能性を未然に防ぐ狙いがあったと考えられています。 また、征服した土地を恩賞として家臣に与えることで、国内の限られた領土をめぐる不満を解消し、自身の政権基盤を固めるという目的もありました。
第三に、経済的な動機も無視できません。秀吉は中国との対等な交易を望んでおり、武力によってそれを実現しようとした可能性があります。
秀吉は朝鮮に対し、明への侵攻の先導役を務めるよう要求しましたが、朝鮮王朝はこれを拒否しました。朝鮮は長年にわたり明の冊封国として朝貢関係にあり、この要求を受け入れることは道義的に不可能でした。 この拒絶が、秀吉に朝鮮侵攻の直接的な口実を与えることになります。



第一次侵攻(壬辰倭乱:1592年~1593年)

日本の圧倒的な初期攻勢
1592年4月(グレゴリオ暦では5月23日)、小西行長と加藤清正が率いる約15万8000の日本軍第一陣が、対馬から朝鮮半島南端の釜山に上陸を開始しました。 日本軍は、戦国時代を通じて培われた実戦経験と、大量に配備された火縄銃という新兵器によって、圧倒的な軍事的優位性を誇っていました。
これに対し、朝鮮側は200年近く平和な時代が続いていたため、国防体制は脆弱でした。 宮廷内の派閥争いも、効果的な防衛準備を妨げる一因となっていました。
日本軍の上陸後、釜山鎮と多大鎮の守備隊は果敢に抵抗したものの、兵力と火力の差は歴然であり、わずか数時間で陥落しました。 釜山を制圧した日本軍は、首都漢城(現在のソウル)を目指して破竹の勢いで北進します。釜山の北に位置する東萊城でも、府使の宋象賢が率いる守備隊が必死の抵抗を見せましたが、これもまた圧倒的な兵力の前に陥落しました。
日本軍の進撃は止まらず、忠州での申砬率いる朝鮮軍主力の敗北を経て、上陸からわずか20日後の6月12日には首都漢城が無抵抗のうちに陥落しました。 朝鮮国王の宣祖とその宮廷は、漢城を放棄し、北方の平壌、さらには明との国境に近い義州へと避難を余儀なくされました。
その後、日本軍はさらに軍を分け、小西行長率いる部隊は平壌を、加藤清正率いる部隊は咸鏡道を通って満州との国境付近まで進軍するなど、短期間で朝鮮半島の大部分を占領することに成功しました。
朝鮮水軍の反撃と李舜臣の活躍
陸上での敗戦が続く一方、海上では全く異なる様相を呈していました。全羅左道水軍節度使であった李舜臣提督の指揮のもと、朝鮮水軍は日本軍の補給路に対して壊滅的な打撃を与え始めます。
李舜臣が率いる艦隊の主力は、板屋船と呼ばれる頑丈な多層構造の軍艦でした。 さらに、彼は「亀船」として知られる鉄甲船を投入しました。 亀船は、船全体が鉄の板で覆われ、多数の銃眼から強力な火砲を発射できる、当時としては画期的な攻撃型軍艦でした。
1592年6月、李舜臣は玉浦海戦で最初の勝利を収めます。 続く泗川海戦では、初めて亀船を実戦投入し、日本の艦隊を撃破しました。 この戦いで李舜臣自身も肩に銃弾を受ける負傷をしましたが、屈することなく指揮を続けました。
そして同年8月(旧暦7月)、閑山島海戦において、李舜臣は決定的な勝利を収めます。 彼は、鶴が翼を広げたような「鶴翼の陣」と呼ばれる陣形を用いて、脇坂安治率いる日本水軍を狭い海域から広い沖合へとおびき出し、包囲殲滅しました。 この海戦で日本側は約100隻の艦船を失う大敗を喫し、制海権は完全に朝鮮水軍の手に渡りました。
李舜臣の一連の勝利は、日本軍の補給線を脅かし、陸上部隊の進軍を停滞させる上で極めて重要な役割を果たしました。 日本軍は、水陸並進によって明を攻撃するという当初の計画を大幅に修正せざるを得なくなりました。
義兵の蜂起と明の参戦
日本軍の占領政策は過酷であり、各地で食料の強制的な徴発や略奪が行われました。 これに対し、朝鮮の民衆は自発的に「義兵」と呼ばれるゲリラ部隊を組織し、日本軍への抵抗運動を開始しました。 義兵は、地理に明るいという利点を活かし、日本軍の小部隊を襲撃したり、補給路を断ったりすることで、占領軍を苦しめました。
一方、国王宣祖の亡命要請を受け、明の万暦帝は朝鮮への援軍派遣を決定します。 当初、1592年7月に派遣された先遣隊は日本軍に撃退されてしまいましたが、明はこれを深刻に受け止め、同年後半には李如松を提督とする約5万人の大軍を派遣しました。
1593年の初頭、明と朝鮮の連合軍は、小西行長が守る平壌に対して総攻撃を開始しました。 連合軍は数に勝り、大砲などの火器を駆使して城壁を攻撃しました。 激しい戦闘の末、日本軍は大きな損害を出し、小西行長は平壌からの撤退を余儀なくされました。
平壌を奪還した連合軍は勢いに乗って南下し、漢城を目指しましたが、碧蹄館の戦いで日本の反撃に遭い、進軍を止められます。しかし、日本軍もまた、兵站の問題と朝鮮水軍や義兵による後方からの圧力により、漢城を維持することが困難になっていました。
これらの状況を受け、日本軍は南部の沿岸地域まで撤退し、ここに第一次侵攻は膠着状態に陥りました。

和平交渉の時代(1593年~1596年)

第一次侵攻が手詰まり状態になると、日明間で和平交渉が始まりました。 交渉の主担当は、日本側が小西行長、明側が沈惟敬でした。しかし、この交渉は当初から大きな問題を抱えていました。
秀吉が提示した和平の条件は、明の皇女を日本の天皇の后とすること、日明間の勘合貿易を再開すること、そして朝鮮半島の南部四道を日本に割譲することなど、極めて傲慢なものでした。
一方、明の立場は、日本が明に朝貢し、秀吉を「日本国王」として冊封するという、伝統的な華夷秩序に基づくものでした。 両者の要求には埋めがたい隔たりがありました。
小西行長は、このままでは交渉が決裂し、戦争が再開されることを恐れました。そこで彼は、秀吉の要求を偽って明側に伝え、また明側の返答も偽って秀吉に報告するという、両者を欺く手段に訴えました。 この欺瞞に満ちた交渉は数年にわたって続きましたが、最終的に秀吉が明からの使者を引見した際に、明の国書が秀吉を「日本国王」に封じるという内容であることが発覚し、彼の激怒を招きました。和平交渉は完全に決裂し、秀吉は再び朝鮮への侵攻を命じます。

第二次侵攻(丁酉再乱:1597年~1598年)

日本の再侵攻と漆川梁海戦
1597年、秀吉は第一次侵攻を上回る約14万の兵を動員し、第二次侵攻を開始しました。 今回の目標は、全羅道を含む朝鮮南部を完全に制圧し、日本の領土とすることでした。
日本軍の再侵攻に先立ち、朝鮮側では悲劇が起こっていました。日本の策略により、朝鮮水軍を率いてきた英雄、李舜臣が宮廷内の対立から罷免され、一兵卒に降格させられていたのです。 彼の後任には、元均が任命されました。
1597年8月、元均率いる朝鮮水軍は、日本の水軍と漆川梁で激突しました。しかし、指揮官の無謀な作戦と日本側の巧みな誘引策により、朝鮮水軍は壊滅的な敗北を喫します。 この海戦で、朝鮮水軍が誇った板屋船のほとんどが破壊され、元均も戦死しました。朝鮮が唯一の希望としていた制海権は、この敗北によって失われました。
鳴梁海戦の奇跡
漆川梁での大敗を受け、朝鮮宮廷は慌てて李舜臣を再び三道水軍統制使に復帰させました。 しかし、彼の手元に残された軍船は、わずか13隻に過ぎませんでした。 一方、日本の水軍は300隻以上の大艦隊で、朝鮮水軍の残存勢力を殲滅し、西海を北上して陸軍と合流しようと迫っていました。
1597年10月26日、李舜臣は、潮流が極めて速く、狭い鳴梁海峡を決戦の場に選びました。 彼は海峡の地形と潮の流れを巧みに利用し、数的に圧倒的優位に立つ日本艦隊を迎え撃ちました。 戦いの序盤、味方の船が恐怖から後退する中、李舜臣の旗艦は一隻で敵の大軍の前に立ちはだかり、奮戦しました。 その姿に鼓舞された残りの船もやがて戦闘に加わりました。
狭い海峡では日本の大艦隊はその数を活かせず、速い潮流に翻弄されて互いに衝突し、混乱に陥りました。 李舜臣の艦隊はこの好機を逃さず、集中砲火を浴びせ、日本側に30隻以上の船を沈めるなどの大損害を与えました。 わずか13隻で300隻以上の敵を退けたこの鳴梁海戦は、世界海戦史上でも類を見ない奇跡的な勝利として知られています。 この勝利により、日本軍の西進は阻止され、朝鮮は再び制海権の主導権を握るきっかけを掴みました。
蔚山城の戦いと戦争の終結
陸上では、日本軍は全羅道を制圧し、忠清道や京畿道の一部にまで進出しましたが、明からの大規模な援軍が到着すると、再び戦線は膠着状態に陥りました。日本軍は朝鮮半島南岸に「倭城」と呼ばれる日本式の城砦を多数築き、防衛体制を固めます。
1598年の初頭、楊鎬が率いる明・朝鮮連合軍は、加藤清正が守る蔚山城を包囲しました。 連合軍は数で勝り、城を猛攻しましたが、日本軍の頑強な抵抗と、援軍の到着により、多大な損害を出して撤退を余儀なくされました。 この戦いは、戦争の凄惨さを象徴するものであり、両軍ともに多くの犠牲者を出しました。
その後も各地で戦闘は続きましたが、決定的な勝敗はつかないまま、戦況は消耗戦の様相を呈していきました。
そして1598年9月18日、戦争の首謀者である豊臣秀吉が病死しました。 彼の死を受けて、日本の新しい権力中枢となった五大老は、朝鮮からの全軍撤退を決定しました。
撤退する日本軍に対し、李舜臣と明の提督陳璘が率いる連合水軍は、最後の追撃戦を挑みました。1598年12月、露梁海峡で行われたこの海戦は、戦争最後の戦いとなりました。 連合軍は撤退する島津義弘の部隊に大打撃を与えましたが、この激しい戦闘の最中、李舜臣は敵の銃弾に倒れ、その生涯を閉じました。 彼の「我が死を知らせるな」という最後の言葉は、兵士の士気を維持し、最後まで戦い抜こうとした彼の強い意志を物語っています。
露梁海戦をもって、7年間にわたる壬辰・丁酉の和乱は終結しました。

戦争が残したもの

壬辰・丁酉の和乱は、参戦した三国すべてに甚大な影響を及ぼしました。
朝鮮は、国土の大部分が戦場となり、最も深刻な被害を受けました。 農地は荒廃し、多くの都市が破壊され、人口は激減しました。また、数多くの文化財が焼失・略奪され、陶工をはじめとする多くの技術者が日本へ連行されました。 この戦争による物理的・精神的な傷跡は、その後何世紀にもわたって朝鮮の社会と人々に深い影響を与え続けました。
日本では、この無謀な戦争の失敗が豊臣政権の権威を著しく失墜させました。 戦争による国力の消耗と、大名間の対立の激化は、豊臣氏の没落と、その後の徳川家康による江戸幕府の成立へとつながる大きな要因となりました。
明にとっても、この戦争は大きな負担となりました。 朝鮮への大規模な派兵は、明の財政を著しく圧迫しました。 この経済的負担は、すでに衰退の兆しを見せていた明王朝の弱体化をさらに加速させ、後の女真(満州族)の台頭と清の建国を許す遠因になったと考えられています。
壬辰・丁酉の和乱は、豊臣秀吉の個人的な野心から始まった侵略戦争でしたが、その結果は東アジア全体の勢力図を大きく塗り替えるものでした。朝鮮にとっては国家存亡の危機であり、多大な犠牲を払いながらも独立を守り抜いた戦いでした。日本にとっては、政権交代の引き金となり、明にとっては、大帝国の衰退を決定づける一因となった、歴史の大きな転換点となる出来事でした。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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