新規登録 ログイン

18_80 内陸アジア世界の形成 / モンゴル民族の発展

ティムールとは わかりやすい世界史用語2080

著者名: ピアソラ
Text_level_2
マイリストに追加
ティムールとは

ティムールは、1336年にサマルカンドの南に位置する都市ケシュ(現在のシャフリサブス)近郊で生まれました。 彼は、モンゴル系のバルラス部族の一員でした。 バルラス部族は、チンギス・カンの次男チャガタイが創設したチャガタイ=ハン国に仕える部族連合の一部を形成していました。 当時のチャガタイ=ハン国は、モンゴルの伝統を重んじる東部の遊牧民と、イスラム化し定住生活を送る西部のトルコ系住民との間で深刻な分裂状態にありました。 ティムールの家系は、この西部の地域に根差しており、彼自身も敬虔なイスラム教徒として育てられました。 彼の父親であるタラガイは、バルラス部族の小貴族であり、部族内で一定の影響力を持っていましたが、ティムールが直接的に広大な領土や軍隊を相続したわけではありませんでした。
ティムールの若い頃の経歴は、伝説や後世の年代記によって脚色されている部分も多く、正確な詳細は不明な点が多いです。しかし、彼が早くから卓越した軍事的才能とカリスマ性を示していたことは確かです。 彼は、地域の小競り合いや部族間の抗争に身を投じる中で、次第に忠実な支持者を集めていきました。 彼の評判は、その大胆不敵な戦術と、仲間に対する寛大さによって高まっていきました。この時期、彼は傭兵や時には盗賊団のリーダーとして活動していたとも言われています。 1360年代初頭、彼は戦闘中に右足と右手に重傷を負い、これが原因で生涯にわたって足を引きずるようになりました。 この身体的特徴から、ペルシャ語で「跛行のティムール」を意味する「ティームーレ・ラング」というあだ名が付けられ、これがヨーロッパに伝わって「タマラン」または「タマレーン」として知られるようになりました。



1360年代、チャガタイ=ハン国はさらなる混乱期に突入しました。東部のモグーリスタンを支配していたトゥグルク・ティムール・ハンが、西部のマー・ワラー・アンナフルの再征服に乗り出したのです。 当初、ティムールは侵攻してきたトゥグルク・ティムールに仕え、故郷ケシュの統治を任されました。 しかし、彼はすぐにモグール人支配者との関係を断ち切り、同じくチャガタイ家の血を引くフセインと手を組み、モグール人に対する抵抗運動を開始しました。 ティムールとフセインは、数年にわたって困難なゲリラ戦を展開し、時には敗北して砂漠を放浪するほどの苦境に立たされましたが、彼らの粘り強い抵抗は徐々に支持を集めていきました。
1365年、ティムールとフセインの連合軍は、タシュケント近郊でモグール軍と大規模な戦闘を行いました。この「泥沼の戦い」として知られる戦いで、彼らは豪雨による劣悪な戦場環境もあって大敗を喫しました。 しかし、その直後、サマルカンドでサルバダール運動として知られる民衆蜂起が起こり、モグール人の支配を一掃しました。 ティムールとフセインはこの機に乗じてサマルカンドに入城し、都市の支配権を掌握しました。
当初は協力関係にあったティムールとフセインですが、権力を分かち合う中で次第に対立が深まっていきました。 フセインはより多くの富と権力を独占しようとし、ティムールの支持者たちを冷遇しました。 一方、ティムールは寛大さと公正さを示すことで、多くの部族長や兵士たちの忠誠心を勝ち取っていきました。 最終的に両者の対立は避けられないものとなり、1370年、ティムールはフセインに対して兵を挙げました。 フセインはバルフの城塞に籠城しましたが、ティムール軍の猛攻の前に降伏し、その後殺害されました。
フセインを排除したことで、ティムールはマー・ワラー・アンナフル全域における唯一の支配者となりました。 しかし、彼はチンギス・カンの血を引いていなかったため、モンゴルの伝統に従って「ハン」を名乗ることはできませんでした。 そこで彼は、チンギス家の血を引く傀儡のハンを立て、自身は「アミール」(司令官)の称号を用いることで、実質的な最高権力者として君臨しました。 彼はまた、チンギス家の王女であったフセインの未亡人サライ・ムルク・ハーヌムと結婚することで、チンギス家の「婿」を意味する「グーラーガーン」という称号を得て、自身の正統性をさらに強化しました。 1370年、彼はサマルカンドを帝国の首都と定め、ここを拠点として、前例のない規模の征服活動を開始することになります。

征服活動の拡大

ティムールは、権力を確立すると、その後の35年間にわたってほぼ絶え間なく軍事遠征を続けました。彼の征服活動は、単なる領土拡大だけでなく、交易路の確保、富の収奪、そして彼の権威に挑戦するあらゆる勢力の徹底的な破壊を目的としていました。彼の軍隊は、モンゴル以来の遊牧民の騎馬軍団の伝統を受け継ぎつつ、攻城兵器や工兵部隊などの定住民の技術を積極的に取り入れた、非常に規律正しく効率的な組織でした。

ホラズムとモグーリスタンへの遠征

ティムールの最初の主要な標的は、彼の本拠地であるマー・ワラー・アンナフルの周辺地域でした。彼はまず、アムダリア川下流に位置し、シルクロードの重要な中継地として栄えていたホラズムに目を向けました。 1372年から1388年にかけて、ティムールはホラズムに対して5度にわたる遠征を行いました。 当初は服従していたホラズムのスーフィー朝でしたが、ティムールの不在時に反旗を翻したため、最終的にティムールは首都ウルゲンチを徹底的に破壊し、その住民をサマルカンドに強制移住させました。
並行して、ティムールは東方のモグーリスタンに対しても繰り返し遠征を行いました。 モグーリスタンは、かつて彼が抵抗した遊牧民の故郷であり、彼の帝国にとって常に脅威となる可能性を秘めていました。ティムールは、モグーリスタンの支配者カマル・アッディーンを追って、天山山脈の奥深くまで何度も侵攻しましたが、遊牧民の機動力を前に完全な制圧には至りませんでした。 しかし、これらの遠征によってモグーリスタンの勢力は大幅に弱体化し、ティムールが西方の遠征に集中するための安全な背後地が確保されました。

ペルシャと西アジアへの侵攻

1380年代に入ると、ティムールの野心はさらに西へと向かいました。当時、イルハン朝の崩壊後、ペルシャ(現在のイラン)はムザッファル朝、ジャライル朝、カルト朝など、数多くの地方政権が乱立する分裂状態にありました。 ティムールは、この政治的混乱に乗じて、いわゆる「3年戦役」(1386年-1388年)を開始しました。
彼はまず、ペルシャ北東部のホラーサーン地方を制圧し、次いでアゼルバイジャン、グルジア、アルメニアへと進軍しました。 彼の進軍は容赦なく、抵抗する都市は徹底的に破壊されました。特に有名なのが、1387年のイスファハーンでの出来事です。 当初、イスファハーンはティムールに降伏しましたが、市民の一部がティムールの徴税官を殺害したことをきっかけに、ティムールは報復として大規模な虐殺を命じました。 伝えられるところによれば、この虐殺で殺された人々の頭蓋骨を使って、いくつもの塔が築かれたと言われています。 このような恐怖による支配は、ティムールの戦術の典型であり、他の都市に抵抗を思いとどまらせる効果がありました。

トクタミシュとの戦い

ティムールがペルシャで遠征を行っている最中、新たな脅威が北方から現れました。それは、かつてティムールが支援してジョチ・ウルス(金帳汗国)のハン位につけたトクタミシュでした。 権力を確立したトクタミシュは、ティムールの恩を忘れ、アゼルバイジャンや中央アジアに侵攻し、ティムールの帝国を脅かしました。
ティムールは、この裏切りに激怒し、トクタミシュとの全面対決を決意しました。彼はペルシャでの作戦を中断し、トクタミシュを討つために広大なユーラシア草原へと軍を進めました。1391年、ティムール軍はヴォルガ川中流域のクンドゥルチャ川の戦いでトクタミシュ軍に大勝しました。 しかし、トクタミシュは逃亡し、再び勢力を盛り返しました。
1395年、ティムールは再びトクタミシュを追って北へ向かい、北カフカスのテレク川の戦いで決定的な勝利を収めました。 この勝利の後、ティムールはジョチ・ウルスの心臓部へと進軍し、首都サライ・ベルケやアストラハン、アゾフといった主要な商業都市を破壊しました。 この破壊行為は、ジョチ・ウルスに壊滅的な打撃を与え、その経済基盤を崩壊させました。 これにより、北方を経由していたシルクロードの交易路は衰退し、代わりにティムール帝国の支配下にある南方のルートが繁栄することになりました。 トクタミシュとの戦いは、ティムールの軍事キャリアの中でも最も大規模で困難な作戦の一つであり、彼の戦略家としての能力を証明するものでした。

インド遠征

トクタミシュの脅威を排除したティムールは、次なる目標として、富裕なインドを選びました。1398年、彼は「異教徒に対する聖戦」を大義名分として、デリー・スルタン朝への遠征を開始しました。 当時のデリー・スルタン朝は、トゥグルク朝の内紛によって弱体化していました。
ティムール軍はインダス川を渡り、パンジャーブ地方を席巻しながらデリーへと進軍しました。 彼の軍隊は、途中の都市で大規模な略奪と破壊を行いました。デリーに到達する前に、ティムールは捕虜としていた約10万人のインド人を、戦闘の足手まといになるとして処刑するよう命じました。 1398年12月、ティムール軍はデリー郊外で、スルタン・マフムード・トゥグルクが率いる軍隊と対峙しました。 デリー軍は多数の戦象を擁していましたが、ティムールはラクダの背に乾草を積んで火を放ち、象の隊列を混乱させるという奇策を用いて勝利を収めました。
勝利後、ティムールはデリーに入城しました。当初は身代金の支払いと引き換えに都市の安全を保障しましたが、彼の兵士たちによる略奪が引き金となって市街戦が発生し、最終的にティムールは数日間にわたる都市の完全な略奪と破壊を許可しました。 この結果、デリーは壊滅的な被害を受け、多くの住民が殺害されるか奴隷として連れ去られました。 ティムールは、デリーから莫大な量の金銀財宝、宝石、そして熟練した職人たちを戦利品としてサマルカンドに持ち帰りました。 インド遠征は、ティムールの征服活動の中でも特に残虐なものとして記録されていますが、そこで得られた富と人材は、サマルカンドの壮麗な建築プロジェクトに大きく貢献することになりました。
アナトリアとマムルーク朝との対決

インドから帰還したティムールは、休む間もなく再び西方へと目を向けました。彼の次の標的は、アナトリア(現在のトルコ)で急速に勢力を拡大していたオスマン帝国と、エジプトおよびシリアを支配していたマムルーク朝でした。
ティムールはまず、マムルーク朝が支配するシリアに侵攻しました。1400年、彼はアレッポを攻略し、ここでも大規模な虐殺と破壊を行いました。 続いてダマスカスに進軍し、都市を降伏させました。 ダマスカスでは、インドと同様に、ティムールは都市の最も優れた職人たちを選び出し、サマルカンドへと強制移住させました。 その後、ティムールの兵士による略奪が始まり、ウマイヤ・モスクを含む都市の大部分が焼き払われました。
シリアを制圧した後、ティムールはオスマン帝国のスルタン、バヤズィト1世との対決に臨みました。バヤズィト1世は、バルカン半島でキリスト教勢力に対して連勝を重ね、コンスタンティノープルを包囲するなど、オスマン帝国の版図を急拡大させていました。 ティムールとバヤズィトは、互いに挑発的な書簡を送り合い、両者の衝突は避けられない状況となっていました。
1402年7月20日、両軍はアンカラ近郊で激突しました(アンカラの戦い)。 ティムール軍は数的に優勢であっただけでなく、インド遠征で捕獲した戦象部隊も擁していました。 戦いはティムール軍の圧倒的な勝利に終わりました。オスマン軍の多くは、ティムール側に寝返ったアナトリアのベイリク(君侯国)の兵士たちであり、彼らはかつての領主であったティムール側に味方しました。 スルタン・バヤズィト1世は戦闘中に捕虜となり、ティムールの前に引き出されました。 バヤズィトは捕虜生活のうちに翌年死亡しました。
アンカラの戦いの勝利は、ティムールの軍事的名声を頂点にまで高めました。オスマン帝国は壊滅的な打撃を受け、バヤズィトの息子たちの間で内紛(空位時代)が勃発し、帝国の拡大は約半世紀にわたって停滞しました。 この出来事は、当時オスマン帝国の脅威にさらされていたビザンツ帝国やヨーロッパのキリスト教諸国にとっては、予期せぬ救いとなりました。 ティムールのもとには、フランス王やカスティーリャ王から祝賀の使節が送られてきました。 ティムールはその後、オスマン帝国の首都であったブルサを略奪し、地中海沿岸のスミルナ(現在のイズミル)を聖ヨハネ騎士団から奪取しました。 これにより、彼の帝国は西はアナトリアから東はインド、北はカザフステップから南はペルシャ湾に至る広大な領域を支配下に置くことになりました。

最後の遠征と死

西アジアでの勝利を収めたティムールは、1404年に首都サマルカンドに凱旋しました。 彼はすでに70歳近くになっていましたが、その野心は衰えることを知りませんでした。彼の最後の、そして最も壮大な計画は、東方の明朝中国への遠征でした。 ティムールは、かつてモンゴル帝国が支配した中国を再征服することを自らの使命と考えていました。 彼は、明の洪武帝がモンゴル(元朝)を中国から追放したことを、モンゴルの後継者を自認する彼への侮辱と捉えていました。
1404年の冬、ティムールは20万とも言われる大軍を率いて、サマルカンドを出発しました。 しかし、この遠征は過酷な冬の気候の中で行われました。軍がシルダリア川沿いのオトラルに到達したとき、ティムールは病に倒れました。 1405年2月18日、一代の征服者ティムールは、その生涯を閉じました。 彼の死により、明への遠征は中止され、彼の築いた広大な帝国は、その強力な指導者を失ったことで、急速に後継者たちの内紛へと突入していくことになります。

統治と行政

ティムールは、その生涯のほとんどを戦場で過ごしましたが、彼は単なる破壊者ではありませんでした。彼は、帝国の統治と行政にも注意を払っていました。彼の帝国は、軍事力を基盤とした中央集権的な体制を目指していましたが、その実態は、ティムール個人のカリスマと、彼に忠誠を誓う部族長や息子、孫たちへの領土の分与に依存する、封建的な側面も色濃く残していました。
帝国の行政は、ペルシャの官僚制度をモデルにしており、書記官や財務官僚が税収の管理や法令の記録を行っていました。 ティムールは、帝国内の交易路の安全確保に非常に熱心でした。 彼は、盗賊を厳しく取り締まり、街道に宿駅(キャラバンサライ)を整備することで、シルクロードを旅する商人たちの安全を保障しました。 これにより、彼の治世下で東西交易は一時的に活性化しました。
ティムールは、法と秩序を重んじ、自身の定めた法典(ヤサ)に基づいて帝国を統治しようとしました。 彼は、イスラム法(シャリーア)を尊重する一方で、モンゴルの伝統的な法典であるヤサの要素も取り入れていました。 彼は、自らを「イスラムの擁護者」として位置づけ、聖戦(ジハード)を大義名分に掲げることが多かったですが、その行動は常に宗教的な動機だけでなく、政治的・経済的な計算に基づいていたと考えられています。 彼は、イスラム教の学者や聖職者を保護し、モスクやマドラサ(神学校)を建設しましたが、同時に彼の権威に逆らう者は、たとえ同じイスラム教徒であっても容赦なく攻撃しました。
彼の統治の最も顕著な特徴は、征服した土地から富と人材を首都サマルカンドに集中させるという政策でした。 彼は、各都市から最も優れた建築家、職人、芸術家、学者をサマルカンドに強制的に移住させました。 これにより、サマルカンドは、ペルシャ、インド、シリアなど、様々な地域の文化と技術が融合する、国際的な文化都市へと変貌を遂げました。

芸術と建築のパトロンとして

ティムールの最も永続的な遺産の一つは、彼がパトロンとなって生み出された壮麗な建築物群です。彼は、自身の権力と栄光を誇示するために、首都サマルカンドをはじめとする都市の美化に莫大な資源を投じました。 この時代に花開いた建築様式は「ティムール朝様式」として知られ、その特徴は、巨大なスケール、壮麗なドーム、高くそびえるミナレット、そして青を基調とした色鮮やかなタイル装飾にあります。
サマルカンドにおいて、ティムールは数多くの記念碑的な建築物を建設しました。その中でも代表的なものが、ビービー・ハーヌム・モスクです。 このモスクは、インド遠征の勝利を記念して建設されたもので、当時イスラム世界で最大級の規模を誇りました。 その巨大な門とドームは、見る者を圧倒する威容を備えていました。また、ティムールとその後継者たちが眠る霊廟グーリ・アミールも、ティムール朝建築の傑作とされています。 そのリブ付きの青いドームと、精緻な内部装飾は、ティムール朝の建築技術と芸術性の高さを物語っています。
ティムールはまた、故郷であるケシュ(シャフリサブス)にも、アク・サライ(白い宮殿)として知られる巨大な宮殿を建設しました。 この宮殿は完成には至りませんでしたが、現存する巨大な門の遺跡だけでも、その壮大な規模をうかがい知ることができます。
これらの建築プロジェクトは、ティムールが征服地から連れてきた最高の職人たちの技術の結晶でした。 ペルシャのタイル職人、インドの石工、シリアのガラス職人などがサマルカンドに集められ、互いの技術を融合させることで、独特で壮麗なティムール朝美術が誕生したのです。 建築だけでなく、写本製作、細密画(ミニアチュール)、陶器、金属工芸などの分野でも、ティムール朝時代には高度な芸術が栄えました。

遺産と評価

ティムールの死後、彼が一代で築き上げた広大な帝国は、息子や孫たちの間の激しい後継者争いによって、急速に分裂していきました。 彼の四男シャー・ルフは、ホラーサーン地方のヘラートを拠点として帝国の東部を再統一し、彼の治世下でティムール朝の文化はさらなる黄金期を迎えました。 特に、シャー・ルフの息子であるウルグ・ベクは、サマルカンドで天文台を建設し、天文学者・数学者として大きな業績を残しました。 しかし、ティムールが直接支配した広大な領土は、もはや一つの帝国の下に統合されることはありませんでした。
ティムールの歴史的評価は、極めて二面的です。一方では、彼は冷酷で残忍な征服者として記憶されています。 彼の軍事行動は、数え切れないほどの都市の破壊と、何百万人もの人々の死をもたらしました。イスファハーン、デリー、ダマスカスなどでの虐殺は、彼の残虐性を象徴する出来事として語り継がれています。 彼は、自身の権威に逆らう者に対して一切の容赦を示さず、恐怖によって広大な帝国を支配しました。
しかし、もう一方では、彼は卓越した軍事戦略家であり、強力な帝国を築いた偉大な統治者、そして壮麗な芸術と文化のパトロンでもありました。 彼は、混乱していた中央アジアとペルシャに一時的な安定をもたらし、交易路を保護して商業を促進しました。 彼がサマルカンドに築いた壮麗な都市は、ティムール朝文化の輝かしい中心地となり、その建築様式や芸術は、後のサファヴィー朝ペルシャやムガル朝インドの文化に大きな影響を与えました。 特に、ティムールの五代目の子孫にあたるバーブルは、ティムール朝の故地を追われた後、インドでムガル帝国を建国し、ティムールの遺産を新たな土地で花開かせました。
ティムールは、自身をチンギス=ハンの後継者であり、モンゴル帝国の復興者であると位置づけていました。 しかし、彼の帝国は、チンギス・カンの帝国とは異なり、遊牧民と定住民の文化、トルコ系とペルシャ系の要素、そしてイスラムの信仰が複雑に融合した、独特の性格を持っていました。彼の帝国は一代限りで崩壊しましたが、彼が中央アジア、西アジア、南アジアの歴史に大きな影響を与えました。
Tunagari_title
・ティムールとは わかりやすい世界史用語2080

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
『世界史B 用語集』 山川出版社

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 1,021 pt 
 役に立った数 0 pt 
 う〜ん数 0 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。