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18_80 ヨーロッパ世界の形成と変動 / 西ヨーロッパ中世世界の変容

ルイ9世とは わかりやすい世界史用語1631

著者名: ピアソラ
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ルイ9世とは

ルイ9世は1214年4月25日にフランスのポワシーで生まれました。彼はルイ8世とブランシュ・ド・カスティーユの四番目の子供であり、兄弟姉妹の多くが幼少期に亡くなったため、彼が王位継承者となりました。1226年、彼は12歳でフランス王に即位し、母親のブランシュが摂政として彼を支えました。彼の即位は、フランスの政治的安定をもたらす重要な時期の始まりを示しています。
ルイ9世の母、ブランシュ・ド・カスティーユは、彼の教育において重要な役割を果たしました。彼女は王国の摂政として、特にアルビジョワ派の反乱を鎮圧するために積極的に行動しました。ブランシュは、ルイが成長する過程で、彼に道徳的価値観や政治的知識を教え、彼の治世における公正さと信仰心を育む基盤を築きました。
1234年、ルイ9世はプロヴァンスのマルグリットと結婚しました。この結婚は、フランス王国の政治的同盟を強化するものであり、二人の間には11人の子供が生まれました。ルイは熱心で情熱的な夫であり、家庭を大切にし、子供たちに教育を施すことに尽力しました。彼の家族は、彼の治世における安定と繁栄の象徴となりました。
ルイ9世は深い信仰心を持ち、教会の保護者としての役割を果たしました。彼は、教会の権威を尊重しつつも、時には不当な要求に対して抵抗しました。彼の信仰は、彼の政治的決定にも影響を与え、彼はロワイヨモン修道院を設立するなど、宗教的な貢献を行いました。彼の治世は、信仰と公正さの象徴として広く認識されています。
1270年8月25日、ルイ9世はチュニジアでの十字軍遠征中に病に倒れ、56歳で亡くなりました。彼の死は、彼の信仰と十字軍への献身を象徴するものであり、1297年には聖人として列聖されました。ルイ9世は、フランスの歴史において最も尊敬される王の一人として、彼の宗教的信念と公正な統治が後世に影響を与え続けています。





十字軍の背景

十字軍は、イスラム教徒の拡大を抑制し、聖地を奪還することを目的とした一連の軍事遠征でした。特に、1095年のクレルモン公会議での教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教徒は聖地エルサレムを取り戻すために立ち上がりました。この運動は、キリスト教徒の信仰を守るための聖なる戦いと見なされ、数世代にわたって続きました。
ルイ9世は、キリスト教の信仰を守るために十字軍に参加しました。彼は1248年から1254年にかけて行われた第6回十字軍を指導し、聖地の奪還を目指しました。彼の参加は、単なる軍事的な目的だけでなく、信仰の強化とキリスト教徒の団結を促進する意図も含まれていました。
十字軍は、参加者にとって罪の贖いの手段と見なされました。教皇ウルバヌス2世は、聖なる目的のために命を懸ける者には、精神的および物質的な報酬を約束しました。このような宗教的動機は、多くの人々を十字軍に参加させる重要な要因となりました。
十字軍は、ヨーロッパの政治的な力関係にも大きな影響を与えました。特に、王家の権力が強化され、政府の中央集権化が進みました。税収の増加は、王権の強化に寄与し、結果としてヨーロッパの国家形成に重要な役割を果たしました。

第6回十字軍

ルイ9世は、1248年にエジプトを攻撃し、聖地を奪還することを目的とした第七回十字軍を指導しました。彼の動機は、イスラム勢力による聖地の占領に対抗することであり、特にエルサレムの奪還を目指していました。彼は、フランスの平和な状況を背景に、十字軍の準備を進め、最終的に35,000人の兵士を率いて出発しました。
1249年6月、ルイ9世の軍はエジプトのダミエッタに上陸しました。彼は最初に陸に降り立ち、聖デニのオリフラムを掲げました。この占領は成功を収めましたが、ダミエッタの後、カイロへの進軍は困難に直面しました。ナイル川の氾濫や補給の不足が影響し、軍の士気は低下しました。
1249年のダミエッタ占領後、ルイ9世はアル=マンスーラに向かいましたが、1250年2月の戦闘で敗北を喫しました。この戦いでは、彼の兄弟ロベール・ダルトワが戦死し、ルイ9世自身も捕虜となりました。軍は疲弊し、疫病が蔓延し、数が減少しました。
ルイ9世は高額の身代金を支払って解放され、アクレで妻と再会しました。彼はフランスに帰国することを望む多くの兵士たちを説得し、数年間の外交活動を通じて、失敗した十字軍の影響を最小限に抑えようとしました。彼の帰国後、フランス国内での影響力は高まりましたが、十字軍は結局失敗に終わりました。

第7回十字軍

1270年、ルイ9世は再び十字軍を指導し、チュニジアを攻撃することを決定しました。この十字軍は、聖地を目指す最後の主要な遠征と見なされています。ルイ9世は、過去の失敗を教訓にし、ラテン国家への資金援助を続けていましたが、彼の新たな遠征は、当初の目的地であるエジプトではなく、チュニジアに向かうことになりました。
チュニジアでは、十字軍はカルタゴを包囲しましたが、戦略が不十分で、物資不足と病気に悩まされました。特に、疫病がキャンプ内で蔓延し、多くの兵士が命を落としました。このような厳しい状況は、ルイ9世の軍の士気を著しく低下させ、戦闘能力を損なう結果となりました。
1270年8月、ルイ9世はチュニジアで病に倒れ、最終的に亡くなりました。彼の死は、十字軍の指導者としての彼の役割を終わらせ、彼の息子フィリップ3世が後を継ぐこととなりました。ルイ9世の死は、十字軍の士気に大きな影響を与え、戦闘の継続が困難になりました。
ルイ9世の死後、十字軍は急速に勢いを失い、フィリップ3世はフランスへの帰還を決定しました。これにより十字軍は事実上終了しました。後に、条約が締結されましたが、十字軍の目標は達成されず、聖地への影響力を回復することはできませんでした。

十字軍の影響

十字軍は、ヨーロッパの王権を強化し、封建制度の衰退を促進しました。特に、十字軍の資金調達のために課された税金の増加は、王権の強化に寄与しました。多くの貴族が戦争で命を落とし、土地が王に帰属することで、王の権力が増大しました。これにより、封建制度が弱体化し、中央集権的な政府の形成が進みました。
経済的には、十字軍は貿易の拡大を促進し、新しい技術の導入をもたらしました。特に、東方との接触を通じて、香辛料や絹などの新しい商品がヨーロッパに流入し、商人階級の台頭を助けました。この貿易の発展は、封建制度の終焉を加速させ、経済の多様化を促しました。
文化的影響として、十字軍はヨーロッパと中東の文化交流を促進しました。特に、イスラム文化からの科学や哲学の知識がヨーロッパに伝わり、ルネサンスの基盤を築く一因となりました。また、十字軍を通じて形成された軍事的秩序は、後のヨーロッパの社会構造にも影響を与えました。
宗教的影響として、十字軍はキリスト教とイスラム教の間の緊張を高めました。特に、十字軍の過程での暴力行為や宗教的対立は、両宗教間の関係を悪化させ、長期的な敵対感情を生む結果となりました。このような緊張は、後の歴史においても影響を及ぼし続けました。

ルイ9世の歴史的意義

ルイ9世は、フランスの行政改革において重要な役割を果たしました。彼は、王国の法制度を強化し、官僚制度を整備するために、王室の調査官を任命しました。これにより、地方の官吏による不正行為を監視し、民衆の苦情を直接聞く体制を整えました。特に、1254年の「大令状」により、王の官吏は公正に司法を行うことが求められ、特権階級に対しても平等に法を適用することが義務付けられました。これにより、ルイ9世は法の支配を強化し、国民の信頼を得ることに成功しました。
ルイ9世は、平和の追求においても特筆すべき成果を上げました。彼は、内外の紛争を解決するために外交的手段を重視し、特にイングランドとの和平交渉に力を入れました。1259年には、イングランド王ヘンリー3世との間でパリ条約を締結し、領土の一部を譲渡する代わりに、平和を確保しました。このように、ルイ9世は戦争を避けるための努力を惜しまず、国際的な安定を図る姿勢を示しました。
ルイ9世の信仰心は、彼の政治的行動に深く根付いていました。彼は教会の保護者としての役割を果たし、聖職者との強い絆を築きました。彼の宗教的な行動は、彼を聖人としての地位に導く要因となり、1297年には正式に聖人として列聖されました。彼の生涯における慈善活動や病人への配慮は、彼の信仰の表れであり、国民からの尊敬を集める要因となりました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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