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18_80 ヨーロッパ世界の形成と変動 / 西ヨーロッパ世界の成立

教皇(法王)とは わかりやすい世界史用語1379

著者名: ピアソラ
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教皇(法王)とは

カトリック教会の教皇という称号は、ラテン語の「papa」やギリシャ語の「páppas」に由来し、「父」を意味します。教皇はローマの司教であり、全世界のカトリック教会の目に見える指導者としての役割を担っています。この役割はカトリック教義の中核を成し、教皇は最高の教皇、ローマ教皇、または主権教皇として認識されています。法王は俗称です。

教皇職の起源と歴史的背景

教皇職の歴史は1世紀まで遡り、伝統的にはイエス・キリストの使徒の一人、聖ペトロによって設立されたと考えられています。教皇の権威は、キリストが聖ペトロを信者の指導者として任命したという信念に基づいており、この継承はカトリック教義の重要な要素とされています。教皇は13億人以上のカトリック信者にとっての精神的な指導者であり、統一の象徴でもあります。



教皇の役割と責任

教皇の役割は広範囲に及び、信仰と道徳に関する教会の指導や、神学的問題に関する指針の提供、国際的な問題におけるカトリック教会の代表などがあります。また、教皇はエキュメニズムや異宗教対話においても重要な役割を果たし、異なるキリスト教の宗派や他の宗教との協力を促進しています。

教皇の世俗的権力とバチカン市国

歴史的には、教皇は世俗的な権力も持っていました。8世紀から1870年まで、教皇は教皇領の主権者でもありました。今日ではその政治的影響力は大幅に減少しましたが、教皇は依然として国際的な外交や人道的努力において重要な存在です。バチカン市国は1929年のラテラノ条約によって設立された独立した都市国家であり、教皇の住居及び行政の中心地として機能しています。

教皇の選出方法

新しい教皇が選ばれる際には、教皇の空席が生じた場合に枢機卿の会議(コンクラーベ)が開催され、候補者が3分の2の支持を得るまで秘密投票が行われます。選ばれた新教皇は教皇名を決定し、正式に公に紹介されます。

教皇職が直面する課題

教皇職は歴史を通じて、教義上の論争や政治的対立など様々な課題に直面してきました。近年では、教会内の性的虐待スキャンダルがその道徳的権威や公的認識に対する大きな挑戦となっています。

教皇職の進化と現代における意義

カトリック教会の教皇の歴史は約2000年にわたる複雑な物語であり、重要な出来事や神学的な発展、政治権力の変遷によって特徴づけられています。教皇職は初期のキリスト教共同体に起源を持ち、現在では世界で最も影響力のある宗教機関の一つとして進化してきました。

使徒ペトロと教皇職の起源

教皇職は、イエス・キリストの使徒の一人である聖ペトロにまで遡るとされます。カトリックの信仰によれば、イエスはペトロを彼の信者の指導者として任命し、特別な役割を与えました。この出来事は、マタイによる福音書16章18-19節でしばしば引用され、イエスがペトロを「岩」と呼び、その上に教会を築くと述べています。この聖書に基づく教義は、使徒継承のカトリック教義を支え、各教皇が聖ペトロの直接の後継者であることを主張しています。

初期キリスト教におけるローマ司教の台頭

キリスト教の初期の世紀(約30–325年)には、ローマの司教の役割が重要になっていきました。キリスト教がローマ帝国全体に広がる中で、ローマ、アレクサンドリア、アンティオキアなどの主要都市の司教が重要な指導者として浮上しました。ローマの司教は、ローマが帝国の首都であり、ペトロとパウロが殉教した場所であるため、権威ある存在と見なされるようになりました。この時期の終わりまでに、ローマの司教は他の司教に対して優位性を持つと認識されるようになりました。

ニケーア(ニカイア)公会議と教皇領の発展

325年のニケーア公会議は、教会と教皇職において重要な出来事でした。この会議では主要な教義が確立され、ローマを含む特定の教座の特別な役割が認められました。時間が経つにつれて、これは他のキリスト教共同体に対する教皇の権威の増大をもたらしました。8世紀の教皇領の発展は、教皇ステファヌス2世がロンバルド人に対抗するためにフランク王ピピン3世に軍事援助を求めたことで、さらに強化されました。ピピンは教皇に土地を与え、この世俗的な権力は19世紀まで続きました。

中世における教皇の影響力の拡大

中世(約500–1500年)は、教皇の影響力が大きく成長した時期でした。グレゴリウス1世(590–604年)やレオ3世(795–816年)などの教皇は、精神的な問題だけでなく政治的な問題でも重要な役割を果たしました。800年に教皇レオ3世がカール大帝を戴冠したことは、教皇が世俗の支配者に対して権威を主張する重要な瞬間であり、教会と国家の関係に先例を作りました。

西方教会大分裂

1378年から1417年にかけての西方教会大分裂は、教皇職に対する挑戦を浮き彫にし、教会内での改革の呼びかけを促しました。この分裂は、複数の教皇候補者が存在し、キリスト教世界に混乱と分裂をもたらしました。

プロテスタント改革と対抗宗教改革

16世紀のプロテスタント改革は、教皇の権威に対する重大な挑戦となりました。マルティン・ルターのような改革者は、教皇職に関連する様々な慣行、特に免罪符や腐敗と見なされる行為を批判しました。これにより、西方キリスト教の分裂が生じ、教皇の至上権を拒否するプロテスタント宗派が確立されました。

トリエント公会議と第1バチカン公会議

これらの挑戦に対処するため、カトリック教会はトリエント公会議(1545–1563年)を通じてカウンター・リフォーメーションを開始し、主要な教義を再確認し、教皇の権威を明確にしました。第1バチカン公会議(1869–1870年)での教皇不可謬性の宣言は、信仰や道徳に関する問題で教皇が無謬であると認めることによって、この権威をさらに強化しました。

全体として、カトリック教会の教皇の歴史は、使徒継承と精神的権威に関する基盤となる信念に根ざしつつ、何世紀にもわたって適応してきた機関の進化を反映しています。この役割の変遷は、宗教生活や世界の政治に対する深い影響を示しており、教皇職は依然として重要な存在として位置づけられています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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