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18_80 西アジア・地中海世界の形成 / ローマ帝国

アクティウムの海戦とは わかりやすい世界史用語1104

著者名: ピアソラ
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アクティウムの海戦とは

アクティウムの海戦は、紀元前31年にギリシャのアクティウム岬沖で行われた重要な海戦であり、ローマの内戦の決定的な戦いの一つです。この戦いは、オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)とマルクス・アントニウスおよびクレオパトラ7世の連合軍との間で行われました。

アクティウムの海戦の背景

アクティウムの海戦の背景には、ローマの内戦と権力闘争が存在しました。紀元前44年にガイウス・ユリウス・カエサルが暗殺された後、ローマは再び混乱に見舞われました。カエサルの後継者として、オクタウィアヌス、マルクス・アントニウス、マルクス・アエミリウス・レピドゥスの三人が第2回三頭政治を結成し反対勢力を討伐しました。

しかし、三頭政治の内部では次第に対立が深まり、紀元前36年にはレピドゥスが追放されました。オクタウィアヌスとアントニウスの間の対立は激化し、アントニウスがエジプトの女王クレオパトラと同盟を結んだことで、両者の関係はさらに悪化しました。



アクティウムの海戦の経過

紀元前31年、オクタウィアヌスはアントニウスとクレオパトラの連合軍と対峙するためにギリシャに進軍しました。オクタウィアヌスの艦隊は、彼の副官であるマルクス・アグリッパによって指揮されました。アントニウスとクレオパトラの艦隊はアクティウム岬の近くに陣を構えました。

戦闘は9月2日に始まり、オクタウィアヌスの艦隊は機動性に優れた小型船を使用し、アントニウスの大型艦隊に対して優位に立ちました。戦闘の途中で、クレオパトラの艦隊が戦場を離脱し、アントニウスの士気は大きく低下しました。最終的に、アントニウスの艦隊は壊滅し、彼とクレオパトラはエジプトに逃れました。

アクティウムの海戦の結果と影響

アクティウムの海戦の結果、オクタウィアヌスはローマの唯一の支配者となり、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスとして即位しました。この戦いはローマの共和制の終焉と帝政の始まりを告げる重要な転換点となりました。

アントニウスとクレオパトラはエジプトに逃れましたが、紀元前30年にアレクサンドリアで再び敗北し、二人は自殺しました。エジプトはローマ帝国の一部となり、プトレマイオス朝は終焉を迎えました。

アクティウムの海戦はローマの歴史において重要な位置を占めており、その影響は後世にまで及びました。オクタウィアヌスの勝利により、ローマ帝国は安定し、繁栄の時代を迎えました。

アクティウムの海戦は、古代ローマにおける重要な軍事作戦であり、ローマの歴史に深い影響を与えました。この戦いを通じて、ローマの政治状況は大きく変わり、後の帝国の基礎が築かれました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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