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18_80 西アジア・地中海世界の形成 / ローマ帝国

クレオパトラとは わかりやすい世界史用語1103

著者名: ピアソラ
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クレオパトラとは

クレオパトラ(クレオパトラ7世)は、古代エジプトのプトレマイオス朝最後の女王であり、その美しさと知性で広く知られています。彼女の生涯はローマ帝国との関係や政治的な駆け引きに満ちており、歴史に大きな影響を与えました。

クレオパトラの生涯

クレオパトラは紀元前69年頃、アレクサンドリアで誕生しました。彼女の父はプトレマイオス12世アウレテスで、母はおそらくクレオパトラ5世トリファエナとされています。幼少期から高度な教育を受け、ギリシア語やエジプト語を含む複数の言語を習得しました。



共同統治と内戦

紀元前51年、父の死後、彼女は弟のプトレマイオス13世と共同でエジプトを統治することとなりましたが、二人の間に対立が生じ、クレオパトラは紀元前48年にエジプトを追放されてしまいます。その後、ローマの支援を得るためにガイウス・ユリウス・カエサルに接近し、彼の助けを借りてエジプトに帰還し、再び権力を握りました。

カエサルとの関係

クレオパトラはカエサルとの関係を深め、彼との間に息子カエサリオンをもうけました。カエサルの支援を受けることで、クレオパトラはエジプトの統治を安定させることに成功しました。しかし、紀元前44年にカエサルが暗殺されると、彼女は新たな同盟を模索することになりました。

アントニウスとの同盟

カエサルの死後、クレオパトラはマルクス・アントニウスと同盟を結びました。アントニウスはカエサルの後継者の一人であり、彼との関係は政治的な利益をもたらしました。二人は愛人関係となり、三人の子供をもうけました。クレオパトラとアントニウスはエジプトを拠点に活動し、ローマのオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)と対立しました。

アクティウムの戦いと最期

紀元前31年、アクティウムの海戦でクレオパトラとアントニウスの連合軍はオクタウィアヌスに敗北しました。この敗北により、彼らはエジプトに逃れましたが、紀元前30年にアレクサンドリアで再び敗北し、アントニウスは自ら命を絶ちました。クレオパトラもオクタウィアヌスに捕らえられることを拒み、自ら命を絶ったと伝えられています。彼女の死に関しては、毒蛇に噛まれて死んだという説が有名ですが、最近では毒薬を用いた自殺の可能性も指摘されています。

クレオパトラの死後、エジプトはローマ帝国の一部となり、プトレマイオス朝は終焉を迎えました。彼女の生涯と業績はローマとエジプトの関係に大きな影響を与え、後世の文学や芸術においても多くの作品の題材となりました。シェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』や、エリザベス・テイラーが主演した映画『クレオパトラ』などがその代表例です。

クレオパトラ7世は、古代エジプトにおける最後の女王として、その美貌と知性で歴史に名を刻みました。彼女の影響力と政治的手腕は、当時の世界において重要な役割を果たしました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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