応仁の乱
室町時代に終止符を打ったのが、
応仁の乱と呼ばれる内乱です。
1467年に起こったので、「
人の世むなしい応仁の乱(ひと(1)のよ(4)む(6)な(7)しい」と覚えましょう。
応仁の乱がおこった原因は、8大将軍足利義政のあとつぎをめぐって、細川勝元と山名持豊が争いを始めたのが発端です。
細川勝元は
足利義視(よしみ)をあとつぎに支持し、山内持豊が支持する
足利義尚(よしひさ)をあとつぎに支持しました。
足利義視は8大将軍足利義政の弟で、義尚は義政の息子です。
もともと義政には息子がいなく、弟の義視にあとを継がせるつもりでした。
仮にこれから息子が生まれても弟に家督を継がせるとまで宣言しています。
しかし幸か不幸か、義政の正室だった
日野富子(ひのとみこ)との間に息子、義尚が生まれます。日野富子は歴史上一の悪女と言われ、政治にあまり興味のなかった義政に変わって政権を動かしていたとされる女性です。
そんな女性がすんなりとあとを弟の義視に継がせるわけがありません。
少しづつ溝が広がり始めたんですね。
この2人の争いに加えて、なぜか畠山氏と斯波氏(しばし)の家督争いがからんで大きな動乱に発展します。
応仁の乱は1467年~1477年の11年間にも渡って続きました。
この乱のあと、
公家の勢力や幕府の力は弱まり、戦国時代と呼ばれる時代に突入していくことになります。