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18_80 東アジア世界の形成と発展 / 東アジア文化圏の形成(隋・唐帝国と諸地域)

南詔とは わかりやすい世界史用語676

著者名: ピアソラ
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南詔とは

南詔は、唐の時代に現在の中国南西部および東南アジア北部に栄えた王国です。南詔は成立年不詳から902年まで存在し、その中心地は現在の雲南省大理市にありました。この王国は、唐王朝との複雑な関係を持ち、文化的および政治的に重要な役割を果たしました。

南詔の成立と発展

南詔は、6つのタイ族の王国が統一されることで成立しました。ピルオゲという小さな部族国家の指導者が、唐と同盟を結び、周辺の5つの王国を統一しました。これにより、南詔は強力な王国としての地位を確立しました。チベット・ビルマ語ロロ族の国でした。

南詔の首都は当初、エル湖周辺の肥沃な土地に位置し、山々に囲まれていたため、防御が容易でした。南詔はまた、東西の交易路を支配し、中国とトンキン(現在のベトナム北部)を結ぶ重要な貿易ルートを掌握していました。

唐との関係

南詔は唐王朝との関係が非常に複雑でした。唐王朝は南詔を同盟国として利用し、チベット帝国に対抗しました。しかし、南詔は唐王朝に対しても独立性を保ち、751年と754年の唐の攻撃を撃退しました。また、南詔は832年にミャンマーへの遠征を行い、862年にはトンキンへの侵攻を行いました。

文化と経済

南詔は高度な文化を持っていました。職人たちは綿や絹の織物を教え、塩や金の採掘も行われていました。また、南詔は唐王朝の制度を模倣し、9つの省庁(唐の6つの省庁に対して)と科挙制度を導入しました。しかし、南詔の統治システムは本質的に封建的であり、南詔の貴族の子息たちは唐の首都長安で中国の教育を受けました。

南詔の衰退と滅亡

南詔は9世紀後半に衰退し、902年に最後の皇帝が反乱官僚によって殺害され滅亡しました。

南詔の歴史は、唐王朝との関係やその独自の文化、経済的な発展を通じて、中国南西部および東南アジアの歴史において重要な位置を占めています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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