ラムセス2世の治世
ラムセス2世は、古代エジプトの第19王朝の第3代のファラオで、エジプト史上最も長く(紀元前1279年から紀元前1213年まで)統治した王の一人です。彼は「正義のラーは強力である―ラーの選ばれし者」という意味のウセルマアトレ・セテプエンレという王名を持ち、エジプト人には「調和と平衡の守り手、正義に強く、ラーの選ばれし者」と呼ばれました。また、ギリシア語の資料ではオジマンディアスと呼ばれています。ラムセス2世は、エジプトの最盛期である新王国時代の最も偉大で最も有名で最も強力なファラオの一人として、しばしば第18王朝のトトメス3世と並び称されます。彼は古代エジプトの最も成功した戦士ファラオの一人でもあり、
カデシュの戦いを除いては全て勝利に終わった15回以上の軍事遠征を行いました。彼はまた、数多くの建築物や巨大な彫像を残し、エジプトを黄金時代に導きました。
ラムセス2世の家族は王族ではなく、宗教改革者アクエンアテン(アメンホテプ4世、紀元前1353年から紀元前1336年まで在位)の治世の数十年後に権力を握り、アクエンアテンとその後継者ツタンカーメンの時代に衰えたエジプトのアジアにおける勢力を回復しようとしました。ラムセス2世の父セティ1世は、パレスチナや南シリアの反乱を鎮圧し、エジプトとヒッタイトの間で争われていたアナトリアの領土を奪還するために戦争を行いました。セティ1世は最初はヒッタイトに対して一定の成功を収めましたが、その獲得は一時的なもので、彼の治世の終わりにはヒッタイトはオロンテス川沿いのカデシュという強固な要塞を確保し、南方の国境としました。
ラムセス2世は即位後、まず都市や神殿、記念碑の建設に力を注ぎました。ナイルデルタにピ・ラムセスという新しい都市を建設し、エジプトの新たな首都とし、シリアへの遠征の拠点としました。ラムセス2世は、レバント地方に何度も軍事遠征を行い、カナンやフェニキアでエジプトの支配権を再確立しました。彼はまた、ヌビアにもいくつかの遠征を行い、その記録をベイト・エル・ワリやゲルフ・フセインに刻みました。彼は前例のない13回または14回のセド祭(王の即位30年ごとに行われる祭り)を祝いました。これは他のどのファラオよりも多い回数です。彼の死後の年齢については諸説ありますが、90歳または91歳が最も可能性の高いと考えられています 。彼は死後、王家の谷のKV7という墓に埋葬されましたが、後に王家の隠し場所に移され、そこで1881年に考古学者によって発見されました。ラムセス2世のミイラは現在、カイロにあるエジプト文明国立博物館に展示されています。
ラムセス2世の治世は、エジプトとヒッタイトの間の長期にわたる戦争の最終段階でもありました。彼の治世の5年目に、ラムセス2世はカデシュでヒッタイトのムワタリ2世と対峙しました。この戦いは古代史上最大規模の戦車戦とされています。ラムセス2世はヒッタイトの奇襲に遭い、危機的な状況に陥りましたが、なんとか持ちこたえ、エジプト軍の増援が到着するのを待ちました。戦闘は一日中続きましたが、決着はつきませんでした。ラムセス2世は自らの勝利を宣言し、エジプト全土にその栄誉を伝えましたが、実際にはカデシュはヒッタイトの手に残りました。この戦いは、エジプトとヒッタイトの間の平和条約につながることになりました。紀元前1258年、ラムセス2世とムワタリ2世は、両国の友好と相互防衛を誓う条約を結びました。この条約は、古代史上最古の平和条約として知られており、その原本はエジプト語とヒッタイト語で書かれた粘土板や石碑に刻まれています。
ラムセス2世は、エジプトの建築物や芸術にも多大な影響を与えました。彼はエジプト全土に自分の像や神殿を建てさせました。彼の最も有名な建造物は、アブ・シンベルにある巨大な岩山に彫られた二つの神殿です。これらの神殿は、ラムセス2世と彼の最愛の妃ネフェルタリ、そしてエジプトの主要な神々に捧げられたもので、内部には彫像や壁画が飾られています。