朱元璋は、最初は仏教的反乱軍である紅巾軍の一武将として、立場上は仏教徒として戦っていました。しかし明を建国する頃には、儒教的立場を鮮明にしています。では、朱元璋はどのようにして儒教的立場を固めていったのでしょうか。以下、見てみましょう。
紅巾軍には、東系紅巾軍と西系紅巾軍とがありました。東系紅巾軍では、劉福通(りゅうふくつう)が白蓮会主の韓山童(かんざんどう)を棟梁とし、「韓山童こそが宋の君主の孫であり、中国の本当の君主であるべきだ」と主張して、反乱を起こしました。
やがて韓山童(かんざんどう)が捕まり、その子供の韓林児(かんりんじ)は辛うじて逃げ出しました。
その後、劉福通(りゅうふくつう)は勢力を拡大し、韓林児(かんりんじ)を迎えて帝位につけ、建国を宣言しました。かの朱元璋を見いだした郭子興(かくしこう)は東系紅巾軍の一武将だったので、朱元璋は韓林児や劉福通からすれば、陪臣(主君の部下の部下)にあたります。
朱元璋ははじめは郭子興(かくしこう)の部下でしたが、郭子興(かくしこう)が死ぬと元帥に任じられ、直臣(主君の直接の部下)となりました。朱元璋、28歳でした。翌年、朱元璋は南京を落とし、本拠地としました。その後も、朱元璋は徐々に勢力拡大を果たしますが、別のところを本拠地としていた韓林児(かんりんじ)と劉福通(りゅうふくつう)は元軍に負け続け、ついに南京に朱元璋を頼ってきました。東系紅巾軍の中では、朱元璋が最優位に立ったのです。
さて、西系紅巾軍では陳友諒(ちんゆうりょう)という人物が皇帝を名乗っていました。また別の地域には張士誠(ちょうしせい)という人物もおり、どちらも朱元璋にとっては手強いライバルでした。朱元璋は有能な部下の策略を用い、二人のライバル相手に奮戦し、何とか陳友諒(ちんゆうりょう)を倒すことに成功します。
次に朱元璋は張士誠(ちょうしせい)を倒しに行くのですが、その際に軍士ひとりひとりに檄文を持たせます。それによれば、この度の出軍の趣旨として元朝の悪政を非難し、紅軍政権および紅軍のデタラメや迷信を咎め、張士誠(ちょうしせい)の八罪を数え、最後に儒教的立場から自らの大義名分を明らかにしています。紅巾軍出身の朱元璋だったにもかかわらず、ここではもはや仏教的傾向は一切なくなっているのです。