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17_80 第二次世界大戦後の日本と世界 / 占領下の日本

【経済の民主化、財閥解体、農地改革、労働改革、教育改革】 受験日本史まとめ 81

著者名: Cogito
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農地改革

戦前の日本では、農地の約46%が小作地で、農民の約28%が小作農でした。1945年(昭和20年)12月9日に農地改革指令が出され、1946年2月から農林省によって推進された第一次農地改革で、1938年(昭和21年)2月に出された農地調整法の改正が行われ、小作料の金納化・不在地主の全貸付地・平均5調歩を超える在村地主の貸付地を開放の対象としましたが、総司令部はこれを不十分としました。

同年10月から1950年(昭和25年)7月まで実行された第二次農地改革で、農地調整法の再改正と自作農創設特別措置法の制定が行われました。総司令部は、これを対日理事会に付議し、ソ連とイギリスが改革の試案を提出しました。これにより、イギリス案を元にした改革案を総司令部が日本側に提示し、不在地主の全貸付地と都道府県平均1町歩(北海道は4町歩)を超える在村地主の貸付地を国家が強制的に買収し、これを小作人に優先的に売却することが決まりました。

こうして、新たな農業調整法に基づき、農地委員会が市町村・道府県に設置されました。この組織は最初地主的要素の強いものでしたが、第二次農地改革のときに、各市町村の農地委員会委員の割合が地主3:自作農2:小作農5の割合で選出されるようになり、農地改革の実行機関として機能するようになりました。

農地改革の結果、500万町歩の耕地のうち、200万町歩の耕地の所有者が代わり、小作地240万町歩の80%が開放され、新たに多くの自作農の人々が誕生し、小作地はわずか10%程度になり、小作農は5%ほどに減少しました。

地主は小作地を売却せねばならず、もともと低く設定されていた地価がインフレーションの進行でさらに下落し、農村における地主の社会的地位も低下しました。

こうした改革の結果、水稲10aあたりの収穫量は明治時代初期平均200kg(玄米)、昭和戦前期約300kgに対し、1960年代には約400kgまで増加しました。戦前に50年かかって達成した収穫量の増加を、農地改革が行われたことによりわずか10数年で達成したことになります。こうして、農民の生活水準が上がり、購買力が増え、総司令部の意図した国内消費市場の拡大が実現しました。

労働改革

1945年(昭和20年)10月11日の五大改革指令で、総司令部は労働者の団結権確立を日本側に求めました。同年12月、労働組合法が制定され、団結権・団体交渉権・ストライキ権が保障されました。このため組合員は、戦前の約40万人から、1948年(昭和23年)に660万人にまで拡大し、1949年(昭和24年)の組織率も56%近くに達しました。こうした組合は、戦前の労働総同盟から発展した日本労働組合総同盟(総同盟)や日本共産党の影響が大きかった全日本産業別労働組合会議(産別会議)などに組織され活発な労働運動を展開しました。

さらに1946年(昭和21年)9月には労働関係調整法が制定され、労働組合法のストライキ権保障を前提とした労働争議の予防や解決が目指されました。1947年(昭和22年)4月には、労働基準法が制定され、週48時間労働、女子・年少者の深夜就業禁止などが定められました。これら3つの法律を労働三法といいます。同年、日本社会党片山哲内閣のもとで、労働省が設立されました。
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『日本史用語集』 山川出版社
『詳説日本史』 山川出版社

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