社会問題の発生
明治中期以降、資本主義の発達とともに、工場制工業が勃興し、賃金労働者の数も増加しました。日本の軽工業では女子労働者が多く、こうした労働者は同時代の欧米諸国と比較して、はるかに低賃金で長時間の労働に従事し、労働条件は劣悪でした。初期の労働問題は、高島炭鉱事件や、雨宮生糸紡績場のストライキなどでした。
日清戦争後、労働者は次第に団結するようになりました。1897年(明治30年)に高野房太郎と片山潜が労働組合期成会を決しし、労働組合運動が展開されました。これに対し政府は、1900年(明治33年)に
治安警察法を公布し、労働運動を取り締まりました。
1898年(明治31)年に社会主義研究会が生まれ、これを母体として1901年(明治34年)、
幸徳秋水・片山潜・安部磯雄・西川光二郎・木下尚江・河上清らが中心となり、日本初の社会主義政党である社会民主党が結成されましたが、政府は治安警察法をもとにこれを禁止しました。
こののち、日露戦争の危機が高まると、1903年(明治36年)幸徳秋水・堺利彦・らは平民社をおこし『平民新聞』を発行し、社会主義の立場から反戦運動をおこしました。
また近代産業の発展とともに
足尾銅山鉱毒事件など公害問題も起こるようになり、
田中正造が議会でこれをとりあげ政府に対策を求めるなど、大きな社会問題となっていきました。
日露戦争後、さまざまな社会問題が深刻化してくると、労働争議は更に激しくなっていきました。1906年(明治39年)西園寺内閣が融和的な態度をとると、片山潜・堺利彦・西川光二郎らは日本社会党を結成しました。1907年(明治40年)には足尾銅山・長崎造船所・別子銅山などで大規模なストライキがおこり、これには軍隊が出動しました。この時期、日本社会党内部では、幸徳秋水の直接行動派と穏健派の議会政策派が対立し、同年日本社会党は政府から解散を命じられました。翌年、仲間の出獄を迎えた社会主義者と警官隊が衝突した赤旗事件が起こりました。
1908年(明治41年)、第2次桂内閣が成立すると、社会主義運動への取り締まりは一段と激しくなり、1910年(明治43年)には、明治天皇暗殺を計画したという理由で、幸徳秋水ら12人を処刑、14名を懲役刑とした
大逆事件が起こりました。
政府は大逆事件をきっかけに、社会主義運動の弾圧のため、警視庁内に特別高等課(特高警察)を設置し、国民の大多数は社会主義を危険視するようになり、社会主義運動は「冬の時代」を迎えました。
同時に政府は、1911年(明治44年)に
工場法を制定し、労働条件の改善をはかり、労働者と資本家の対立を緩和し、その協調をはかろうとしました。
東京や大阪などの大都市には下層民が集中するスラム(貧民窟)が発生し、貧困や衛生面の劣悪化が深刻化しました。こうした貧困問題に対し、山室軍平の救世軍などキリスト教団体の社会救済事業が活発となりました。また、矢島楫子らキリスト教婦人矯風会は、廃娼運動を展開しました。
他方農村では、都市の人口吸収が限界に達し、農村の人口がだぶつくようになり、農作物の値下がりを受けて農民の窮乏も目立つようになりました。小作人は組合をつくり小作料減免を寄生地主に要求する動きも起こり、社会の基礎が不安定になるという問題も表面化しはじめました。