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17_80 近世の社会・文化と国際関係 / 江戸時代

大坂の役とは?冬の陣・夏の陣と豊臣家の滅亡をわかりやすく解説【1分でわかる日本史】

著者名: かわちゃん
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大坂の役(おおさかのえき)とは、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣と、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣という、徳川家康豊臣家を攻めた二度の戦いの総称です。大坂の陣とも呼ばれます。この記事では、開戦のきっかけになった方広寺の鐘の銘文から、冬の陣の和議と堀の埋め立て、そして夏の陣での豊臣家の滅亡までを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる大坂の役」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。

・鐘に刻まれた文字が、なぜ開戦につながったのか

・力攻めで落ちなかった城が、なぜ翌年に落ちたのか

・「家康の約束破り」は、どこまで確かめられるのか


1分でわかる大坂の役


大坂の役とは、一言でいえば、徳川家康が二度の戦いで豊臣家を滅ぼした戦役です。

きっかけは、鐘に刻まれた文字

1614年、豊臣秀頼は父・秀吉が遺した方広寺の大仏を再建します。その鐘の銘文にあった国家安康の四文字を、徳川家康は自分の名を断つものだと問題視しました。あわせて君臣豊楽の四文字も、豊臣家の繁栄を願うものだと問題にされます。

落ちなかった城と、埋められた堀

同年11月、大坂冬の陣が始まります。豊臣方はおよそ10万の浪人とともに籠城し、真田丸という出城で徳川方を退けました。しかし大砲が淀殿の身近に落ちると和議に応じ、条件として外堀に続いて二の丸まで埋められます。

夏の陣と、豊臣家の滅亡

翌慶長20年(1615年)4月、戦いが再開します。堀を失った城は守りきれず、秀頼は母の淀殿とともに自害しました。ここで豊臣家は滅びたとされます。


関ヶ原の戦いから15年、大坂城に残っていた豊臣家はここで姿を消しました。このあと、長く泰平の世が続いていきます。

おまけトリビア

冬の陣の和議で埋める約束だったのは外堀までで、二の丸まで埋めたのは家康の約束破りだった、と語られることがよくあります。ただし和議でどこまで取り決めたのかは記録によって書きぶりが分かれ、決め手がありません。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、大坂の役をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

大坂の役の背景


1600年の関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は、1603年に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きました。ところが豊臣秀吉の子・秀頼は、そのあとも大坂城にとどまり続けます。全国を治める幕府と、大坂城に残る豊臣家。二つの権威が並び立つ状態が十年あまり続きました。

その均衡を崩したのが、1614年の方広寺の一件です。方広寺は秀吉が京都に建てた大仏の寺で、秀頼はその再建を進めていました。完成した鐘に刻まれた銘文の中に「国家安康」「君臣豊楽」の二つの句があり、徳川方はこれを問題にします。「国家安康」は家康の名を「家」と「康」に断ち切るもの、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願うもの、と読んだのです。これを受けて、大仏の開眼供養は延期を命じられました。

銘文を書いた僧は、家康の名を尊んで句に入れたのだと弁明しましたが、徳川方は受け入れませんでした。豊臣家は全国から浪人を呼び集め、開戦へ進みます。

人物と流れ


時期出来事
1600年関ヶ原の戦い。豊臣秀頼は大坂城にとどまる
1614年方広寺の鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」が徳川方から問題にされる
慶長19年(1614年)11月大坂冬の陣が始まる
慶長19年(1614年)12月和議が成立。外堀に続いて二の丸まで埋められる
慶長20年(1615年)4月大坂夏の陣が始まる
慶長20年(1615年)5月秀頼と淀殿が自害。豊臣家が滅びる


冬の陣で豊臣方の中心にいたのは、当主の秀頼と、その母の淀殿です。戦いに備えて豊臣方が頼ったのは、全国から呼び集めた浪人でした。主家を失って各地にいた武士たちが大坂城に入り、豊臣方の兵はおよそ10万にのぼりました。

その中に真田信繁がいます。のちに幸村の名で広く知られる武将です。信繁は真田丸という出城を築いてそこに拠り、攻め寄せる徳川方を退けました。大坂城は、力攻めでは落ちなかったのです。

力攻めで城が落ちないと見た徳川方は、大砲を撃ち込みました。砲弾が淀殿の身近に落ちたことが豊臣方を和議に傾かせたと伝えられます。和議の条件は堀の埋め立てでした。外堀が埋められ、続いて二の丸も埋められて、大坂城は裸同然になります。

翌慶長20年(1615年)4月、豊臣方はふたたび兵を挙げました。しかし堀のない城に籠城戦はできません。城外での決戦に敗れた豊臣方は大坂城に追い詰められ、秀頼は淀殿とともに自害しました。

史実と学説


まず、動員された兵力です。豊臣方はおよそ10万と伝えられます。徳川方については約20万とするものと約30万とするものがあり、記録によって幅があります。

次に、方広寺の鐘の銘文をどう見るかです。この一件が開戦の直接のきっかけになったこと自体は、どの記録でも共通しています。一方で、この一件をどう評価するかは書きぶりが分かれます。徳川方の言いがかりだったとする説明が多い一方、家康の名(諱)を句に入れた点をとらえ、銘文を書いた側にも落ち度があったとする見方もあり、どちらか一方に決めることはできません。

呼び方にもゆれがあります。この二度の戦いは「大坂の役」とも「大坂の陣」とも呼ばれ、どちらも使われています。地名の表記も、この記事では当時にあわせて「大坂」で通しています。


真田信繁については、後世の物語や講談で語られる場面が多く、史実との線引きに注意が必要です。真田丸で徳川方を退けたことは複数の記録で確認できますが、家康をあと一歩まで追い詰めたという有名な話や、討ち死にした場所については、記録により内容が食い違います。

トリビアの真相


「和議で埋める約束は外堀までだったのに、徳川方は二の丸まで埋めてしまった」。大坂の役でもっともよく語られるのが、この約束破りの話です。家康の老獪さを示す逸話として親しまれてきました。

ただ、和議で実際に何が取り決められたのかは、はっきりしません。「外堀を埋めること」を条件とする記録がある一方で、「本丸を残して二の丸と三の丸を壊すこと」まで条件に含めて記す記録もあります。後者に従えば、二の丸を埋めた行為は約束の範囲内ということになります。

確実に言えるのは、和議のあと工事が一気に進み、大坂城が防御力を失ったという結果だけです。約束破りだったのかどうかは、いまのところ決着していません。

そして結果だけを見れば、この工事が勝敗を決めています。冬の陣で豊臣方は籠城して持ちこたえ、力攻めを退けました。堀がなくなった夏の陣では、同じ戦い方ができません。豊臣方は城の外に出て戦うほかなくなり、そこで敗れて城に追い詰められます。

戦国の終わりと元和偃武


大坂城が落ちたことで終わったのは、豊臣家だけではありません。戦国以来続いてきた大きな争乱そのものが、ここで終息しました。これを、当時の年号をとって元和偃武(げんなえんぶ)と呼びます。

「偃武」とは、武器を伏せておさめること。つまり戦の終わりを意味する言葉です。慶長20年(1615年)5月に豊臣家が滅び、同じ年に元号が慶長から元和に改められました。戦乱が収まって世が太平になったことを、そのときの元号を冠して言い表したのが元和偃武です。

もちろん、以後まったく争いがなかったわけではありません。のちに島原・天草一揆のような大きな騒乱も起きています。それでも、幕府の存立をゆるがすほどの反乱は起こらず、長い泰平が続きました。大坂の役は、二つの家の決着であると同時に、戦国という時代の終わりを画す戦いだったのです。

試験に出るポイント

1614年の冬の陣と1615年の夏の陣、きっかけは方広寺の鐘銘事件(「国家安康」「君臣豊楽」)、結果は豊臣家の滅亡。この3点セットが頻出です。あわせて、戦国の争乱が終わったことを指す「元和偃武」も押さえておきましょう。「大坂」の表記(「大阪」ではない)と、冬の陣と夏の陣の年号の入れ替わりにも注意しましょう。

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日本史用語集 山川出版

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