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17_80 近世の社会・文化と国際関係 / 戦国時代・安土桃山時代

徳川四天王とは?酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の役割をわかりやすく解説【1分でわかる日本史】

著者名: かわちゃん
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徳川四天王(とくがわしてんのう)とは、徳川家康に仕え、その天下取りを支えた酒井忠次(さかいただつぐ)・本多忠勝(ほんだただかつ)・榊原康政(さかきばらやすまさ)・井伊直政(いいなおまさ)の4人をまとめて呼ぶ言葉です。この記事では、徳川四天王がそれぞれ何を担当し、どんな場面で力を発揮したのかを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる徳川四天王」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つのポイントを考察していきます。

・4人はいつも肩を並べていたのか

・本多忠勝の「生涯無傷」はどこまで確かめられるのか

・「四天王」という呼び名は、いつから使われたのか



1分でわかる徳川四天王


ひとことでいえば、徳川家康に仕え、その天下取りを支えた4人の家臣です。

酒井忠次は最年長で、東三河のまとめ役

忠次は家康より15歳年上で、家康の父の代から松平家に仕えていました。家康が三河を統一すると、忠次は東三河の武士たちをまとめる立場を任されます。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは別動隊を率い、長篠城を囲む武田軍の背後に回って鳶ヶ巣山(とびがすやま)の砦を攻め落としました。

本多忠勝は前線、榊原康政は部隊指揮と行政

忠勝と康政は同い年で、19歳のときにそろって旗本先手役(はたもとせんてやく)に抜擢されました。家康の身近で部隊を率いる役です。忠勝は元亀3年(1572年)の一言坂(ひとことざか)の戦いで最後尾に残り、追撃を食い止めて家康を退かせています。康政は元亀元年(1570年)の姉川の戦いで朝倉軍の側面を突き、のちに関東の総奉行を任されました。

井伊直政は最年少で、交渉の担い手

直政は4人のうちただ一人、三河譜代ではありません。武田氏の滅亡後にその旧臣を預かり、井伊の赤備え(いいのあかぞなえ)と呼ばれる赤一色の部隊を率いました。戦場で恐れられる一方、諸大名との折衝でも力を発揮し、関ヶ原の戦いのあとは戦後の交渉役のひとりとして動いています。


家康は、年上の忠次、同年輩の忠勝と康政、年下の直政という顔ぶれを、場面に応じて使い分けました。4人が同じ働きをしたのではなく、得意なところが違ったからこそ組織として回った、と見るのが実像に近いといえます。

おまけトリビア

「徳川四天王」という呼び名が、いつから使われ始めたのかは、実ははっきりしていません。4人が並び称されるようになった時期については、天正14年(1586年)に本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人が上洛して「徳川三傑」と呼ばれ、そこに忠次を加えた4人の名が広まったとする推測もあり、決め手はまだありません。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、4人の関係と、あやふやなまま語られがちな点を見ていきます。

4人が並んでいた時期はずれている

「四天王が最後まで肩を並べて家康を支えた」という絵は、実際の年表とは合いません。忠次は天正16年(1588年)に眼の病を理由に家督を長男の家次(いえつぐ)に譲り、隠居しています。家康が関東へ移ったのは天正18年(1590年)ですから、忠次はその大仕事に当事者として関わっていません。

移った先の石高にも差が出ました。井伊直政が家臣中最高の12万石、本多忠勝と榊原康政がそれぞれ10万石を与えられたのに対し、酒井家を継いだ家次は下総の臼井で3万7000石にとどまります。忠次は三河時代のまとめ役として抜きん出ていた人で、関東での家臣団の中心にいた3人とは、活躍した時期そのものが違うのです。

それぞれの見せ場

人物生没年一番の見せ場関東移封後
酒井忠次1527〜1596長篠の戦いでの鳶ヶ巣山攻め天正16年に隠居済み(家次が3万7000石)
本多忠勝1548〜1610一言坂の戦いで最後尾を務める上総大多喜(おおたき)10万石
榊原康政1548〜1606姉川の戦いでの側面攻撃上野館林(たてばやし)10万石・関東の総奉行
井伊直政1561〜1602小牧・長久手の戦いでの赤備え初陣上野箕輪(みのわ)12万石。関ヶ原後に近江佐和山(さわやま)18万石


康政が任された関東の総奉行は、家臣たちへの領地の割り振りを差配する役です。館林に入ってからは、利根川に堤防を築くなど領内の開発を進め、街道の整備にも力を注ぎました。戦場での働きだけで四天王に数えられたわけではない、ということです。

忠勝と康政は同い年で親しく、康政と直政も親交が深かったと伝わります。康政は直政が亡くなったあと、幼い直政の子を気にかける書状を残しました。

史実と伝承の境目

本多忠勝には「生涯一度も傷を負わなかった」という語りがついて回ります。ただしこれは、後世に語られた武勇伝の色が濃い話です。出陣した合戦の数からして、50数度・57度と食い違いがあります。忠勝が抜きん出た武人だったことは動きませんが、「無傷」は事実として断定できる種類の話ではありません。

長篠の戦いの鳶ヶ巣山攻めも、扱いに注意がいります。忠次がこの奇襲を軍議で進言し、織田信長にいったん退けられたうえで実行を命じられた、という筋書きはよく知られていますが、これは江戸時代の逸話集に載る話です。確かなのは、忠次が別動隊を率いて武田軍の背後に回り、砦を攻め落として長篠城を救ったという行動のほうです。

井伊直政については、関ヶ原の戦いの火ぶたを切った銃声が直政の隊のものだったと語られます。ただし、なぜ先陣の福島正則を差し置いて撃ったのかは、不満があったから、婿に手柄を立てさせたかったから、深い霧の中で偶発的に遭遇しただけ、と説が分かれています。近年は「抜け駆け」ではなく偶発的な遭遇戦とみる見解も示されており、決着していません。


呼び名の正体

「徳川四天王」は仏教の四天王になぞらえた顕彰の呼び名で、同じ発想の言葉に「徳川十六神将」もあります。ではいつから使われたのかというと、これがはっきりしません。名称の使用開始年代は不明とする整理があり、4人を並べる呼び方が広まった時期についても推測が示されている段階です。少なくとも、当時の公式な役職名や身分の区分ではありません。試験や教科書で問われるのは呼び名の成立ではなく、4人が誰で、何をしたかのほうです。

試験に出るポイント

4人の名前(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)と、関東移封後の所領(井伊12万石、本多・榊原が各10万石)はセットで問われます。あわせて、井伊直政だけが三河譜代の出身ではないこと、井伊の赤備えが武田氏の旧臣を組み込んだ部隊であることを押さえましょう。

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日本史用語集 山川出版

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