賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)とは、天正11年(1583年)4月、近江の賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)のあたりで、羽柴秀吉が織田信長の重臣・柴田勝家を破った戦いです。この記事では、清洲会議で生まれた対立から決戦、そして秀吉が信長の後継の座を固めるまでを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる賤ヶ岳の戦い」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・信長の跡目は、なぜ家臣どうしの戦いで決まったのか
・秀吉を勝たせた「美濃大返し」とは何だったのか
・「賤ヶ岳の七本槍」は、本当に七人だったのか
1分でわかる賤ヶ岳の戦い
賤ヶ岳の戦いとは、一言でいえば、信長のあとの主導権を、秀吉が手にした一戦です。
清洲会議で生まれた対立
1582年、本能寺の変で信長と嫡男の信忠が討たれます。山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉は、直後の清洲会議で信長の孫・三法師(さんぼうし)を後継に立てました。また、京都を含む主要な領地も手に入れました。柴田勝家は、この決定に不満を残します。
決戦を分けた美濃大返し
翌1583年、両軍は近江の賤ヶ岳のあたりで対陣します。1ヶ月ほどにらみあいが続く中、信長の三男・織田信孝が美濃で挙兵し、秀吉はこの対処に向かいます。その隙をついた柴田方の佐久間盛政が秀吉方の砦を落とすと、秀吉は、およそ50キロを5時間ほどで引き返しました。これが美濃大返しです。
勝家の最期と、秀吉の台頭
秀吉はそのまま夜通し攻めかかり、決戦に勝ちます。越前の北ノ庄城(きたのしょうじょう)に追い詰められた勝家は、妻のお市の方とともに自害しました。
この勝利のあと、織田家の旧臣が次々と秀吉のもとに集まります。信長の後継の座は、息子たちではなく家臣の秀吉が握ることになりました。
おまけトリビア
この戦いで名を上げた若手は「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれます。ただし同じころの記録には九人の名を挙げるものもあり、七という数は後から整えられたとも言われます。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、賤ヶ岳の戦いをもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■賤ヶ岳の戦いの背景
天正10年(1582年)6月2日、信長は本能寺で明智光秀に討たれました。跡取りの信忠も同じ日に命を落としています。当主と後継者を一度に失った織田家は、家臣たちの手で次の当主を決めることになりました。
同年6月27日、尾張の清洲城で開かれたのが清洲会議です。参加したのは柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の四人の重臣で、結果として信忠の子・三法師が織田家の家督を継ぎました。ここで秀吉が三法師を推し、信長の三男・信孝を推す勝家を退けた、という筋書きが長く語られてきました。
ただし近年は、この会議の見方が変わりつつあります。三法師が家督を継ぐこと自体は初めからほぼ決まっており、実際に争われたのは、幼い当主が成人するまでの代理役をどうするかだった、という指摘です。この代理役は当時「名代(みょうだい)」と呼ばれました。信長の次男・信雄と三男・信孝のどちらも譲らなかったため名代は置かれず、三法師を四人の重臣が支え、世話役に堀秀政を付ける体制が決まった、と説明されます。秀吉が劇的に三法師を推したという場面自体、江戸時代に書かれた読み物に由来する脚色ではないか、という見方もあります。どちらの見方でも、この会議のあと秀吉と勝家の対立が深まった点は変わりません。
会議のあと、遺領の配分でも秀吉が主導権を握りました。勝家はこれに反発し、信長の妹・お市の方を妻に迎えて信孝と結びます。両者はたがいを弾劾し合う関係になり、対立は後戻りできないところまで進みました。
■人物と流れ
| 時期 | 出来事 |
| 天正10年(1582年)6月2日 | 本能寺の変。信長と信忠が討たれる |
| 6月27日 | 清洲会議。三法師が後継に決まる |
| 12月2日 | 秀吉が近江へ出兵。勝家方の長浜城が降伏 |
| 天正11年(1583年)3月 | 勝家が越前から近江へ出陣。両軍が対陣する |
| 4月19日 | 柴田方の佐久間盛政が大岩山の砦を落とす。中川清秀が討死 |
| 4月20日 | 秀吉が大垣から戦場へ引き返す(美濃大返し) |
| 4月21日 | 賤ヶ岳周辺で決戦。秀吉が勝つ |
| 4月24日 | 勝家が北ノ庄城でお市の方とともに自害 |
決戦のさなか、柴田方では前田利家の軍が戦線を離れました。後方の備えが崩れたことで柴田方の士気は下がり、秀吉の軍が勝家の本隊に迫ります。利家はこののち秀吉に降り、北ノ庄城攻めでは先鋒を務めました。
■史実と学説
兵力は、秀吉方がおよそ5万、勝家方がおよそ3万と伝えられます。秀吉方を7万とする記載もあり、数字には幅があります。
美濃大返しの行軍は、大垣から木ノ本まで13里、およそ50キロ。秀吉はこの道のりを5時間ほどで駆け抜けました。中国大返しに続く二度目の強行軍で、この速さが決戦の勝敗を分けた、という見方が定着しています。
織田信孝は、勝家の敗北後に兄・信雄に攻められて自害しました。ただしその日付は資料によって食い違いがあり、確定していません。滝川一益はさらに籠城を続けたのち降伏し、出家して蟄居しました。
■トリビアの真相
「賤ヶ岳の七本槍」として挙げられるのは、福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・片桐且元・糟屋武則の七人です。いずれも秀吉が手元で育てた若い武将で、この戦いののち数千石を与えられました。
ただし、この呼び名が確認できるのは江戸時代初期の書物からで、戦いの直後ではありません。同じころの記録では、七人と同じように手柄を認められた者があと二人いて、合わせて九人が挙げられています。七という数は後から整えられたものだ、という指摘があります。
試験に出るポイント
1583年・羽柴秀吉 vs 柴田勝家・場所は近江(滋賀県)。清洲会議での後継争いがこの戦いにつながり、勝利によって秀吉が信長の後継の座を固めた、という因果の流れが頻出です。