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中間団体(社団)とは わかりやすい世界史用語2617
著作名: ピアソラ
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中間団体(社団)とは

絶対王政の時代のヨーロッパ社会を理解する上で、中間団体あるいは社団と呼ばれる存在は、極めて重要な鍵を握っています。これらは、個人と国家の間に位置し、それぞれが独自の特権、規則、そしてある程度の自治権を持つ、多種多様な団体の総称です。聖職者、貴族といった身分そのものが巨大な社団であったのをはじめ、都市共同体、高等法院、大学、そして手工業者のギルドに至るまで、旧体制の社会は、無数の社団が複雑に絡み合った、いわば「社団の社会」でした。個人は、近代社会のように、剥き出しの個人として国家と直接向き合うのではなく、必ず何らかの社団に所属し、その一員として生き、アイデンティティを形成していました。 絶対君主の権力は、しばしば「絶対」という言葉の響きから、何の制約もない無制限のものと想像されがちです。しかし、その現実は、この無数の中間団体が持つ、歴史的に形成された特権や慣習法との、絶え間ない交渉と闘争の連続でした。絶対王政の中央集権化への努力は、本質的に、これらの社団が持つ自律的な権力を国王の統制下に置き、国家の権威をより直接的かつ均一に浸透させようとする試みでした。君主は、一方では、これらの団体を、社会秩序を維持し、統治を円滑に進めるための便利な道具として利用しました。例えば、ギルドを通じて産業を規制し、都市共同体を通じて税を徴収しました。しかし、その一方で、これらの団体は、自らの特権や利益が脅かされると、団結して国王の政策に抵抗する、最も強力な抵抗勢力ともなりました。 フランスの政治思想家アレクシ=ド=トクヴィルは、その主著『旧体制と大革命』の中で、これらの社団が、中央集権的な権力に対する防波堤として機能していた側面を指摘しました。彼は、絶対王政がこれらの団体を弱体化させ、個人を無力化し、国家権力の前に孤立させたことが、革命後のフランスで専制的な権力が容易に復活する土壌を作ったと考えました。また、シャルル=ド=モンテスキューは、『法の精神』において、貴族や聖職者、都市といった中間権力の存在が、君主政が専制に堕落するのを防ぐために不可欠であると論じました。 絶対王政と中間団体との関係は、単純な対立関係ではなく、協力と抵抗、利用と抑圧が複雑に絡み合った、両義的なものでした。君主は、社団の特権を尊重することで社会の安定を図りつつも、その自律性を削ぎ、国家の統制下に置こうとしました。社団は、国王に奉仕し、その権威を認めることで自らの存続を図りつつも、虎視眈々と自らの特権を守り、拡大する機会をうかがっていました。このダイナミックな緊張関係こそが、絶対王政の時代の政治と社会の現実を形作っていたのです。



特権身分という社団

第一身分=聖職者

旧体制のフランスにおいて、第一身分とされた聖職者は、単なる宗教的な集団ではなく、王国で最も高い名誉と、広範な特権を持つ、巨大な社団でした。その数は、革命前夜には約13万人と、総人口の1%にも満たない少数派でしたが、その影響力は、精神的、経済的、そして政治的なあらゆる領域に及んでいました。 聖職者身分の最大の特権は、免税特権でした。彼らは、主要な直接税であるタイユをはじめとする、国家の税金のほとんどを免除されていました。その代わりに、聖職者たちは、数年に一度、自主的に「聖職者献納金」と呼ばれる金額を国王に提供しました。この献納金の額は、聖職者総会という、彼ら自身の代表機関によって決定されました。この制度は、聖職者が国家の財政に貢献する一方で、国王が彼らに直接課税する権限を持たないことを象徴しており、聖職者という社団の自律性を明確に示していました。 経済的に、教会は王国最大の土地所有者でした。フランス全土の土地の約10%が、司教区や修道院の所有地であったと推定されています。これらの広大な所領からの地代収入に加え、教会は、すべての農産物に対して十分の一税を徴収する権利を持っていました。これは、農民にとって極めて重い負担であり、しばしば不満の原因となりました。これらの莫大な収入によって、教会は、慈善事業や教育活動を担う一方で、その富を、壮麗な教会建築や、高位聖職者の豪華な生活のために用いました。 聖職者身分は、独自の法と裁判権を持つ、国家の中の国家ともいえる存在でした。聖職者は、世俗の裁判所ではなく、教会法に基づいて裁かれる特権を持っていました。また、結婚、出生、死亡といった、人の一生における重要な出来事は、すべて教会の教区司祭によって記録され、管理されていました。教育もまた、大学から村の小さな学校に至るまで、ほぼ完全に教会の手に握られていました。さらに、教会は、出版物に対する検閲権を持ち、異端や不道徳と見なされる思想を取り締まることで、人々の精神生活を厳しく統制していました。 しかし、この巨大な社団の内部は、決して一枚岩ではありませんでした。その頂点に立つのは、大司教や司教、そして大修道院長といった、高位聖職者たちでした。彼らのほとんどは、貴族階級の次男や三男であり、その地位は、信仰心よりも、家柄や宮廷でのコネによって決まることがほとんどでした。彼らは、莫大な収入を享受し、ヴェルサイユの宮廷に出入りするなど、世俗の君主さながらの華やかな生活を送っていました。 その一方で、聖職者身分の大多数を占めていたのは、教区司祭や助任司祭といった、下級聖職者たちでした。彼らの多くは、平民の出身であり、十分の一税の中から、わずかな生活費を受け取るに過ぎませんでした。彼らは、農民たちと共に暮らし、その貧困や苦しみを目の当たりにしていました。この高位聖職者と下級聖職者の間の深刻な経済的・社会的格差は、聖職者という社団の内部に、深い亀裂を生じさせていました。 絶対君主は、この強力な聖職者という社団に対して、複雑な態度をとりました。一方では、国王は「最もキリスト教的な王」として、教会の保護者であり、その権威は、神から授けられたものであるという王権神授説によって、教会から神学的に正当化されていました。しかし、その一方で、国王は、聖職者の任命権を自らの手に収め、教会の持つ莫大な富を国家の財政のために利用しようと絶えず試みました。1516年のボローニャ政教協約以来、フランス国王は、国内の主要な聖職禄の任命権を事実上掌握しており、これにより、教会の人事を支配し、自らに忠実な人物を高位聖職者に就けることができました。しかし、教会の持つ免税特権や独自の法体系といった、社団としての根幹的な特権を完全に覆すことは、旧体制の秩序そのものを揺るがしかねない危険な行為であり、フランス革命に至るまで、どの国王もそれを成し遂げることはできませんでした。 1789年に全国三部会が召集された際、聖職者身分の内部の亀裂は、決定的な形で表面化します。多くの下級聖職者の代表たちは、自らの生活改善と教会の改革を求め、貴族である高位聖職者たちに反旗を翻し、第三身分の代表たちに合流する道を選びました。この下級聖職者の離反が、第三身分が自らを「国民議会」と宣言し、革命の主導権を握る上で、決定的な役割を果たしたのです。第一身分という、旧体制で最も強固に見えた社団は、その内部の矛盾によって、自ら崩壊への道を歩み始めたのでした。

第二身分・貴族

第二身分である貴族は、聖職者と並ぶ、旧体制の支配的な特権身分でした。その数は約40万人、総人口の1.5%から2%程度を占めていたとされます。彼らは、生まれながらにして、他の身分の人々とは異なる、法的に認められた数々の名誉的、実質的な特権を享受していました。貴族であることは、単に裕福であること以上の意味を持ち、それは、社会の頂点に立つ者の、固有の「質」を示すものと考えられていました。 貴族の最も象徴的な特権は、剣を帯びる権利でした。これは、彼らが、元来、国家を防衛する戦士階級であったことを示すものでした。彼らは、狩猟を行う権利や、自らの紋章を持つ権利、そして教会で特別な席を与えられるといった、様々な名誉的特権を持っていました。 実質的な特権として最も重要だったのは、聖職者と同様の免税特権でした。彼らは、主要な直接税であるタイユを免除されていました。この特権は、貴族が、金銭ではなく、自らの血をもって国家に奉仕するという、中世以来の理念に由来していました。しかし、絶対王政の時代になると、国家財政の逼迫から、国王は、貴族に対しても、人頭税や二十分の一税といった、新たな直接税を課そうと試みました。貴族たちは、これらの課税に対して激しく抵抗しましたが、完全な免税を維持することはできず、その特権は徐々に形骸化していきました。 経済的に、貴族は、聖職者と並ぶ大土地所有者階級でした。フランスの土地の約20%から25%が、貴族の所有であったと言われます。彼らは、自らの領地において、農民から地代を徴収するだけでなく、領主裁判権や、水車やパン焼き窯の使用を強制して使用料を取る権利といった、様々な封建的・領主的特権を保持していました。18世紀後半、人口増加と物価上昇の中で、多くの貴族は、古文書を調べて忘れ去られていた権利を復活させるなどして、農民からの搾取を強化しようとしました。この「封建的反動」と呼ばれる動きは、農民の不満を増大させ、フランス革命の遠因の一つとなりました。 貴族という社団もまた、その内部は極めて多様であり、一枚岩ではありませんでした。その頂点に立つのは、古くからの家柄を誇り、ヴェルサイユの宮廷に出入りする、数千人の大貴族でした。彼らは、国王からの年金や下賜金、そして軍隊や教会の高位の役職を独占し、莫大な富と影響力を持っていました。 その一方で、貴族の大多数を占めていたのは、地方に居住する中小貴族でした。彼らの多くは、先祖代々の土地からのわずかな収入に頼って生活しており、経済的には、裕福なブルジョワジーに劣る者も少なくありませんでした。しかし、彼らは、貴族であるという誇りを強く持ち、自らの身分的な特権に固執しました。彼らにとって、軍隊の将校になることは、その誇りを維持し、立身出世するための、ほぼ唯一の道でした。 さらに、絶対王政の時代には、「法服貴族」と呼ばれる新しいタイプの貴族が台頭しました。彼らは、高等法院の司法官や、財務官といった、高級な官職を購入することによって、貴族の身分を得た人々でした。伝統的な軍事貴族である「帯剣貴族」は、当初、この成り上がりの法服貴族を軽蔑しました。しかし、世代を重ねるうちに、両者は婚姻などを通じて融合していき、共通の特権を守るための、一つの支配階級を形成していきました。 絶対君主と貴族との関係は、愛憎の入り混じった、複雑なものでした。国王は、貴族を、自らの宮廷の輝きを増し、軍隊を指揮し、そして地方を統治するための、不可欠な協力者として必要としました。しかし、同時に、国王は、貴族が持つ独立した権力を常に警戒し、彼らを自らの統制下に置こうとしました。ルイ14世が、大貴族をヴェルサイユの「金色の檻」に閉じ込め、儀礼的な役割に没頭させたのは、その典型です。また、国王は、アンタンダンといった国王直属の官僚を登用することで、地方における貴族の政治的影響力を削いでいきました。 18世紀後半になると、貴族という社団の存在意義そのものが、啓蒙思想によって問い直されるようになります。生まれによって特権が与えられるという身分制の原則は、理性と平等の観点から、不合理なものとして批判されました。シエイエスが、その有名なパンフレット『第三身分とは何か』の中で、貴族を、国家に何の貢献もしない「寄生的な腫瘍」であると断じたとき、それは、革命によって貴族という社団そのものが解体される未来を、明確に予告するものでした。

職能団体と地域団体

司法団体・高等法院

旧体制のフランスにおいて、高等法院は、単なる最高裁判所ではなく、国王の権力に対する、最も強力で恒常的な抵抗拠点として機能した、極めて政治的な司法団体でした。フランス全土に13存在した高等法院の中でも、パリ高等法院は、王国の人口の3分の1以上を管轄下に置き、絶大な権威と影響力を持っていました。 高等法院の構成員である司法官たちは、そのほとんどが、官職売買によってその地位を得て、世襲的に受け継いできた法服貴族でした。彼らは、自らを、国王と国民の間に立ち、王国の基本法と、国民の権利を守る、神聖な使命を帯びた存在であると見なしていました。この自己認識が、彼らを、しばしば国王の絶対主義的な政策に対する、不屈の抵抗へと駆り立てたのです。 高等法院が持つ最も強力な武器が、勅令の登記権でした。国王が発した勅令は、法として執行される前に、管轄の高等法院に登記される必要がありました。高等法院は、その勅令が、王国の伝統や法に反すると判断した場合、その登記を拒否し、国王に対して、その問題点を指摘する「諫言」を送ることができました。これにより、高等法院は、国王の立法プロセスに、事実上の拒否権を行使することができたのです。 もちろん、国王には、この抵抗を打ち破るための対抗手段がありました。国王は、高等法院に対して、登記を強制する命令を送ることができました。それでも高等法院が抵抗を続ける場合、国王は、自らパリ高等法院に出向き、「親裁座」と呼ばれる特別な会議を開いて、勅令の登記を強制的に宣言することができました。これは、国王の絶対的な司法権を象徴する儀式でしたが、その行使は、国王の権力が、合意ではなく、剥き出しの力に基づいていることを露呈するものであり、しばしば世論の反発を招きました。 18世紀、特にルイ15世の治世において、国王と高等法院との間の対立は、激しさを増しました。高等法院は、ジャンセニスムをめぐる宗教問題や、七年戦争の戦費を賄うための新しい課税に、繰り返し反対しました。彼らは、自らを、国民の自由と財産権の擁護者として描き出し、啓蒙思想家たちの議論を巧みに利用して、世論を味方につけました。彼らの抵抗は、しばしば、司法ストライキや、関係者の追放といった、深刻な政治危機に発展しました。 1771年、大法官モープーは、ついに高等法院の全面的な改革に乗り出し、司法官の官職売買と世襲制を廃止し、国王が任命する新しい裁判所にその権限を移そうとしました。この「モープーの改革」は、絶対王政による、中間団体に対する最も徹底した攻撃でしたが、貴族や民衆の激しい反発を招きました。1774年にルイ16世が即位すると、彼は、人気取りのために、この改革を撤回し、高等法院を復活させてしまいます。これは、王政の致命的な弱さを示すものでした。 復活した高等法院は、その後、テュルゴーやネッケルといった改革派大臣たちが進めようとした、財政再建のためのあらゆる改革案、特に特権身分への課税案に対して、ことごとく抵抗しました。彼らは、自らの社団的利益を守るために、「いかなる新税も、全国三部会の同意なしには承認できない」という、一見するともっともらしい原則を盾に取りました。この高等法院の頑なな抵抗が、最終的に、ルイ16世に全国三部会の召集を決意させ、革命への扉を開くことになったのです。 高等法院は、旧体制の矛盾を象徴する存在でした。彼らは、一方では、国王の専制に対する自由の擁護者を自任しましたが、その自由とは、結局のところ、自らが属する特権的な社団の自由であり、国民全体の自由ではありませんでした。彼らは、絶対王政の中央集権化を妨げる最大の障害でしたが、その抵抗が、皮肉にも、王政そのものを打倒する革命を引き起こす、重要なきっかけとなったのです。

都市共同体

絶対王政の時代の都市は、単なる地理的な空間ではなく、それぞれが国王から与えられた特許状に基づき、独自の法、行政組織、そして財政を持つ、自治的な社団でした。パリ、リヨン、ボルドーといった大都市から、地方の小さな町に至るまで、これらの都市共同体は、旧体制の社会に深く根を下ろした、重要な中間団体でした。 中世以来、多くの都市は、領主や国王と闘い、あるいは交渉することを通じて、自治権を獲得してきました。その権利は、特許状によって保証され、都市の住民は、領主への奉仕義務から解放され、「都市の空気は自由にする」と言われました。都市は、城壁に囲まれ、その内部では、市長や参事会といった、市民の中から選ばれた役人たちが、独自の行政を行っていました。彼らは、都市の財産を管理し、市場を監督し、城壁や道路を維持し、そして独自の警察力を持って、都市の平和と秩序を維持しました。また、多くの都市は、独自の裁判権を持ち、市民間の争いを裁きました。 絶対君主は、これらの自律的な都市共同体に対して、二つの相反する政策をとりました。一方では、国王は、都市を、自らの統治の重要な拠点と見なしていました。都市は、商業と産業の中心であり、国家の富の源泉でした。国王は、都市のブルジョワジーの財力を頼りにして、戦争のための借金をしたり、彼らを官僚として登用したりしました。国王は、都市の特権を保護し、その経済活動を奨励することで、彼らの忠誠心を確保しようとしました。 しかし、その一方で、国王は、都市の持つ自治権を、自らの中央集権的な統治に対する障害と見なし、それを徐々に削ぎ取ろうとしました。16世紀の内乱では、多くの都市が、カトリック同盟やプロテスタント側に与して、王権に公然と反抗しました。この経験から、ブルボン朝の国王たちは、都市の政治的な自立性を危険視するようになります。 ルイ14世の治世下で、都市の自治権に対する統制は、決定的に強化されました。1692年、国王政府は、財政難を理由に、それまで選挙で選ばれていた市長職を、恒久的な官職として売りに出しました。これにより、都市の首長は、もはや市民の代表ではなく、国王から任命された、あるいは官職を購入した役人となりました。また、アンタンダンが、都市の行政と財政に対して、厳しい監督権を行使するようになりました。都市の予算は、アンタンダンの承認なしには執行できなくなり、都市が独自に借金をしたり、税を課したりすることも、厳しく制限されました。 こうして、多くの都市共同体は、その自治権を実質的に失い、中央政府の地方行政機関へと変貌していきました。しかし、都市は、依然として、独自の法人格と、共同の財産を持つ社団であり続けました。市民であるという意識は、共通の利益と、外部の世界に対する連帯感を生み出しました。都市は、大学、アカデミー、劇場、そしてコーヒーハウスといった、新しい公共的な空間が生まれる場所でもありました。これらの場所では、身分を超えた人々が交流し、政治や文化について議論し、近代的な「世論」が形成されていきました。 フランス革命において、都市、特にパリは、決定的な役割を果たしました。バスティーユ襲撃、ヴェルサイユ行進といった、革命を前進させた重要な出来事は、すべてパリの民衆の行動によって引き起こされました。革命が始まると、多くの都市では、国王の役人が追放され、市民が独自の自治政府を再建しました。絶対王政によって抑圧されていた都市共同体の自治の伝統が、革命という状況の中で、新しい形で蘇ったのです。

ギルド

ギルド、あるいはフランス語でいうところの同職組合は、絶対王政の時代の都市経済を特徴づける、重要な中間団体でした。靴職人、パン屋、織物工、金細工師といった、同じ職業に従事する手工業者や商人は、それぞれがギルドを組織し、その内部で、生産から販売に至るまでのあらゆる側面を、厳格な規則によって規制していました。 ギルドの起源は中世にまで遡り、その主な目的は、組合員の経済的利益を保護し、外部の競争を排除することにありました。ギルドは、国王や領主から特許状を得て、特定の地域内で、その職業を独占的に営む権利を持っていました。ギルドに所属していない者が、その職業に就くことは、原則として許されませんでした。 ギルドの内部は、親方、職人、そして徒弟という、厳格な階層構造になっていました。徒弟は、数年間の無給の奉公を通じて、親方から技術を学びました。徒弟期間を終えると、彼らは職人となり、日給で働きながら、親方になるための経験を積みました。親方になるためには、厳しい試験に合格し、「マスターピース」と呼ばれる傑作を製作し、そして多額の登録料をギルドに支払う必要がありました。 ギルドは、組合員の利益を守るために、生産のあらゆる側面を詳細に規制しました。使用する原材料の品質、製品の規格、価格、そして労働時間に至るまで、すべてが規則で定められていました。新しい技術の導入や、生産方法の革新は、組合員間の平等を乱すものとして、しばしば禁止されました。このような規制は、製品の品質を一定の水準に保つという利点があった一方で、自由な競争を阻害し、経済の発展を妨げる要因ともなりました。 ギルドは、経済的な団体であると同時に、社会的な、そして宗教的な共同体でもありました。組合員は、共通の守護聖人を持ち、祭りや儀式を共同で執り行いました。ギルドは、病気になったり、死亡したりした組合員の家族を扶助する、共済組合としての機能も持っていました。それは、組合員に、経済的な安定だけでなく、社会的なアイデンティティと連帯感を与える、包括的な生活共同体だったのです。 絶対君主は、このギルドという中間団体に対して、統制と利用という、両面的な政策をとりました。国王政府は、ギルドを、産業を規制し、製品の品質を管理し、そして税を徴収するための、便利な道具と見なしました。特に、コルベールに代表される重商主義者たちは、ギルドを通じて、国内産業を保護・育成し、輸出を促進しようとしました。政府は、ギルドの規則を承認し、その独占権を保証する見返りに、ギルドから多額の税金や手数料を徴収しました。財政難に陥るたびに、政府は、新しいギルドを創設したり、既存のギルドに新たな規制を課したりして、収入を得ようとしました。 しかし、18世紀後半になると、ギルドの存在そのものが、新しい経済思想によって、厳しい批判に晒されるようになります。アダム=スミスをはじめとする、自由主義的な経済学者たちは、ギルドの持つ独占権や規制を、自由な経済活動を妨げ、富の増大を阻害する、時代遅れの制度であると非難しました。彼らは、国家による規制を撤廃し、個人が自由に職業を選び、競争する、「レッセフェール」の原則を主張しました。 1776年、改革派の財務総監であったテュルゴーは、この自由主義思想に基づき、ギルドを全面的に廃止する勅令を発しました。彼は、ギルドが、貧しい労働者が親方になる道を閉ざし、技術革新を妨げ、物価を不当に吊り上げていると主張しました。しかし、この急進的な改革は、ギルドの親方たちだけでなく、その特権が侵害されることを恐れた高等法院の、猛烈な反対に遭い、数ヶ月で撤回されてしまいます。 ギルドという中間団体が、最終的に解体されるのは、フランス革命を待たなければなりませんでした。1791年、国民議会は、ル=シャプリエ法を制定し、あらゆる種類の同職組合を、個人の自由を束縛するものとして、全面的に禁止しました。これにより、中世以来、都市の経済と社会を規定してきたギルドの時代は、終わりを告げました。それは、社団の論理が、個人の自由と、国家の統一的な主権という、近代的な原則の前に、完全に敗北したことを示す、象徴的な出来事でした。

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