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官僚制とは わかりやすい世界史用語2616 |
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著作名:
ピアソラ
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官僚制とは
絶対王政の時代の官僚制は、君主がその権力を、宮廷という中心から広大な王国の隅々にまで及ぼすために不可欠な神経網でした。それは、常備軍と並んで、絶対主義国家を支える二本の柱の一つと見なすことができます。中世の封建国家では、国王の統治は、血縁や個人的な忠誠関係に縛られた少数の側近と、地方で独立した権力を持つ貴族や聖職者、あるいは特権的な都市共同体といった、中間団体を通じて間接的に行われるのが常でした。しかし、絶対君主は、このような中間団体を徐々に無力化、あるいは服従させ、国王の意志を直接かつ均一に全国土へ伝えるための、恒久的な行政機構を構築しようと試みました。この機構こそが、絶対王政下の官僚制です。 この官僚制の発展は、増大し続ける国家の機能、とりわけ徴税と戦争遂行の必要性によって強力に推進されました。軍事革命によって戦争の規模とコストが爆発的に増大すると、君主は、その費用を賄うために、より効率的で広範な徴税システムを必要としました。それは、もはや封建的な家臣や教会に頼るのではなく、国王が直接任命し、管理する専門の役人によって担われるべきものでした。これらの役人たちは、法律や会計といった専門知識を身につけ、国王への忠誠心に基づいて、その命令を文書によって正確に実行し、記録しました。文書による行政、階層的な指揮系統、そして専門知識への依存といった特徴は、近代的な官僚制の萌芽を示すものでした。 フランスでは、アンタンダンと呼ばれる国王直属の役人が、地方に派遣され、徴税、司法、警察といった広範な権限を行使しました。彼らは、伝統的な地方長官である貴族の権力を形骸化させ、中央政府の統治を地方に浸透させるための、強力なエージェントでした。プロイセンでは、「兵隊王」フリードリヒ=ヴィルヘルム1世の下で、極めて効率的で規律正しい官僚機構が創設され、国家のあらゆる資源を軍事力の強化という一つの目的に向けて動員しました。 しかし、絶対王政の時代の官僚制は、マックス=ヴェーバーが定義したような、完全に非人格的で合理的な近代官僚制とは、いくつかの重要な点で異なっていました。最も顕著な特徴は、フランスやスペインで見られた官職売買の慣行です。役人の地位は、能力によって選抜されるというよりは、財産として購入され、相続される対象でした。これは、国王にとっては短期的な財源確保の手段でしたが、長期的には、国王の統制が及ばない、既得権益を持つ自律的な官僚集団を生み出すことにもなりました。また、官僚の出自も、近代のように開かれたものではなく、多くは法学教育を受けたブルジョワジーや、官職を通じて貴族の地位を得た「法服貴族」によって占められていました。
官僚制の発展
中世的統治からの移行
絶対王政の官僚制を理解するためには、まずそれが乗り越えようとした中世の統治構造を把握する必要があります。中世ヨーロッパの国王の統治は、本質的に人格的かつ分散的なものでした。国王は、広大な王国を、近代国家のように直接的かつ均一に支配していたわけではありません。その権力は、様々な中間団体を通じて、間接的に行使されるのが常でした。 国王の宮廷は、当初、国王の家政機関と一体でした。家令や書記官長といった役職は、国王の私的な家事を司ると同時に、王国の公的な統治にも関わっていました。彼らは、国王との個人的な近さや信頼関係に基づいて選ばれ、その権威は、国王の人格から直接発するものでした。しかし、王国の拡大とともに、司法や財政といった機能は次第に専門化し、家政機関から分離して、恒久的な役所として発展し始めます。イングランドの財務府や、フランスの会計検査院は、その初期の例です。 しかし、中央政府の機能が発展しても、その権力が地方の隅々にまで及ぶことはありませんでした。地方の統治は、多くの場合、世襲の領地を持つ大貴族や、広大な所領を有する教会(司教や修道院長)に委ねられていました。彼らは、自らの領地内で、徴税権、司法権、警察権といった、公的な権力を独立して行使していました。国王は、彼らを家臣として封建的な主従関係で結びつけてはいましたが、その統治に直接介入することは困難でした。彼らは、国王の命令を地方で実行する代理人であると同時に、自らの特権と利益を守るために、しばしば国王の意向に抵抗する、独立した勢力でもあったのです。 また、多くの都市は、国王や領主から特許状を得て、独自の法と自治政府を持つ共同体を形成していました。彼らは、国王に税や軍役を提供する見返りに、広範な自治権を享受していました。 このような、権力が幾重にも分散し、様々な特権や慣習法がモザイク状に存在する状態は、「封建的分散状態」と呼ばれます。国王は、この複雑な権力網の頂点に立つ最高の領主ではありましたが、唯一の主権者ではありませんでした。 絶対王政への移行は、国王が、これらの多様な中間権力を克服し、より直接的で中央集権的な統治を確立しようとする、長い闘いの過程でした。君主たちは、司法、財政、軍事といった分野で、徐々に自らの権限を拡大していきました。例えば、国王裁判所を設置し、その管轄権を王国全体に広げることで、貴族や教会の裁判権を浸食していきました。また、封建的な軍役に代わって、国王が直接雇用する傭兵や常備軍を創設し、軍事力を自らの手に集中させました。 これらの新しい国家機能を担うために、国王は、伝統的な大貴族や聖職者ではない、新しいタイプの奉仕者を必要としました。それは、国王個人に忠誠を誓い、ローマ法や会計といった専門的な知識と技術を持つ、実務家の集団でした。彼らの多くは、貴族階級よりも低い身分の出身者や、大学で法学を学んだ聖職者、あるいは裕福な市民階級でした。国王は、彼らを役人として登用することで、大貴族の政治的影響力を牽制し、自らの意志をより忠実に実行させようとしたのです。この国王に直属する専門的官吏の集団こそが、絶対王政の官僚制の原型となりました。彼らは、人格的な忠誠ではなく、非人格的な職務として、国家に仕えるという、新しい理念の担い手だったのです。 戦争と財政の圧力
絶対王政下の官僚制の発展を促した最も強力なエンジンは、絶え間ない戦争と、それに伴う天文学的な財政需要でした。16世紀から18世紀にかけての「軍事革命」は、戦争の様相を一変させました。火薬兵器の改良、新しい築城術の登場、そして軍隊規模の爆発的な増大は、戦争のコストを、それ以前の時代とは比較にならないほど押し上げました。この近代的な戦争を遂行できるのは、広範な領土から効率的に、かつ大規模に資源を動員できる、強力な中央集権国家だけでした。 君主にとって、巨大な常備軍を維持し、長期にわたる戦争を戦い抜くためには、安定的で予測可能な税収を確保することが、死活問題となりました。中世以来の、国王が「自身の収入で生活する」という原則は、もはや通用しませんでした。国王は、全国民に対して、恒常的な直接税や間接税を課す必要に迫られました。しかし、新しい税を導入し、それを効率的に徴収することは、容易なことではありませんでした。それは、各地に根強く残る、貴族や聖職者の免税特権、都市や地方ごとの多様な慣習や特権といった、旧来の利害関係と正面から衝突するものでした。 この課題に対処するために、君主は、徴税と財政管理を専門とする、中央集権的な官僚機構を整備する必要に迫られました。フランスでは、財務総監が、国家財政の最高責任者として、絶大な権力を持つようになりました。ルイ14世に仕えたジャン=バティスト=コルベールは、その典型です。彼は、重商主義政策を推進して国内産業を育成し、会計の合理化を図り、徴税システムを改革することで、ルイ14世の膨大な戦争費用を捻出しました。 地方においては、アンタンダンが、徴税官僚として中心的な役割を果たしました。彼らは、国王から直接任命され、地方に派遣された臨時の委員であり、徴税の査定と割り当てを監督し、滞納者に対しては強制的な措置をとる権限を持っていました。彼らの活動は、伝統的に徴税権の一部を担ってきた地方の貴族や、自治的な共同体の権限を大きく侵害するものであり、しばしば激しい抵抗に遭いました。しかし、中央政府の強力な後ろ盾を得たアンタンダンは、徐々にその権力を地方に浸透させ、中央集権的な徴税システムを確立していきました。 財政需要の増大はまた、官職売買という、絶対王政の官僚制に特有のシステムを生み出しました。国王は、短期的な資金を得るために、司法官や財務官といった役人のポストを、財産として売りに出しました。官職を購入した者は、その地位から得られる手数料や給与を収入とし、その官職を子孫に相続させたり、他者に転売したりすることができました。これは、国王にとっては、将来の税収を前借りするようなものであり、財政危機を乗り切るための安易な手段でした。しかし、この慣行は、官僚機構の中に、国王の意のままにならない、既得権益を持つ世襲的なカースト(法服貴族)を生み出すという、深刻な副作用をもたらしました。 戦争と財政の圧力は、官僚機構の規模を飛躍的に増大させました。17世紀初頭には数千人規模であったフランスの官僚の数は、18世紀末には数万人にまで膨れ上がったと言われます。彼らは、徴税や財政だけでなく、軍隊の兵站、公共事業、産業の規制、そして国内の治安維持といった、拡大する国家の様々な機能を担いました。官僚制の発展は、まさに「財政=軍事国家」の形成と表裏一体の現象だったのです。社会学者チャールズ=ティリーの言葉を借りれば、「戦争が国家をつくり、国家が戦争をつくった」のであり、官僚制は、その相互作用を媒介する、不可欠なメカニズムでした。 官僚制の構造
中央政府の機関
絶対王政の時代、国家の中枢である中央政府は、中世以来の国王の家政機関から、より専門的で分化した行政機関へと変貌を遂げました。その中心にあったのは、国王とその側近たちからなる国王顧問会議でした。しかし、国家の機能が複雑化するにつれて、この単一の顧問会議は、特定の政策分野を専門とする、いくつかの部門へと分化していく傾向が見られました。 フランスのブルボン朝における統治システムは、この発展の典型的な例です。国王は、理論上、すべての権力の源泉であり、最終的な意思決定者でした。しかし、実際の統治は、国王が主宰する様々な会議体を通じて行われました。その中でも最も重要だったのが、最高国務会議でした。この会議は、国王と、彼が最も信頼する数名の大臣(国務卿)のみで構成され、外交、戦争といった国家の最高機密を審議しました。 それ以外にも、国内の行政問題を扱うディスパッチ会議、財政問題を専門とする財政会議、そして国王の最高司法裁判所としての役割を果たす親裁会議などが存在しました。これらの会議は、それぞれ専門の官僚組織によって支えられており、国王への報告書や決定事項の草案を作成しました。 これらの会議を構成する大臣の中でも、特に重要な役割を果たしたのが、4人の国務卿と、財務総監でした。国務卿は、それぞれ、外務、陸軍、海軍、そして王室といった部門を担当し、また、国内の特定の地方の行政にも責任を負っていました。彼らは、それぞれの部門の官僚機構の頂点に立ち、国王と行政の間の重要な結節点として機能しました。 財務総監は、特に17世紀後半以降、国家財政の重要性が増すにつれて、事実上の宰相ともいえるほどの権力を持つようになりました。コルベールのように、財務総監は、税制、予算、通貨、そして重商主義政策に基づく経済全体の指導に責任を負いました。彼の下には、徴税、会計、国有林の管理などを担当する、巨大な官僚機構が存在しました。 もう一つの重要な中央官庁が、大法官府でした。大法官は、国璽を管理し、国王の名で発せられるすべての公式文書の合法性を認証する責任を負っていました。彼は、司法行政の長でもあり、全国の裁判所の監督を行いました。 これらの大臣や中央官庁は、互いに連携し、また時には管轄をめぐって競合しながら、国王の統治を支えました。彼らの下で働く書記官や事務官の数は、時代とともに増大し、文書による行政が、国家統治の標準的な方法として定着していきました。国王の命令は、文書として起草され、国璽が押され、そして地方の役人へと送達されました。地方からの報告もまた、文書として中央に集められ、分析され、保管されました。ヴェルサイユのような宮殿は、単なる王の住居ではなく、これらの文書が集中し、処理される、巨大な情報センターでもあったのです。この中央集権的な行政機構の発展こそが、絶対君主が、その広大な王国を、以前の時代とは比較にならないほど詳細に把握し、統制することを可能にしたのです。 地方行政とアンタンダン
絶対王政の中央集権化の成否は、中央政府の命令を、いかにして地方の隅々にまで浸透させ、実行させることができるかにかかっていました。この課題を遂行するために、フランスの絶対王政が生み出した最も効果的な道具が、アンタンダンでした。正式には「司法、警察、財務の監察官」と呼ばれるこの役職は、絶対主義的な地方統治の象徴的存在となります。 アンタンダンは、国王によって直接任命され、地方の各管区に派遣される、国王の代理人でした。彼らの地位は、世襲の貴族が就く伝統的な地方長官とは異なり、任期が定められた臨時の職でした。これにより、国王は、アンタンダンが地方の利害関係に深く根を下ろし、自立した勢力となることを防ぐことができました。彼らは、その忠誠を、地方の共同体ではなく、国王ただ一人に捧げることを期待されていました。 アンタンダンの権限は、極めて広範かつ強力でした。彼らの主な任務は、第一に、徴税の監督です。彼らは、主要な直接税であるタイユの査定と割り当てを監督し、徴税請負人や地方の役人の不正を監視しました。税の滞納があれば、彼らは軍隊を動員して強制的に徴収することもできました。 第二に、彼らは司法行政の長として、地方の裁判所の活動を監督しました。彼らは、国王の最高司法権を代行し、下級裁判所の判決を覆したり、特定の事件を自らの手で裁いたりする権限を持っていました。これにより、国王の司法権を、貴族や都市の特権的な裁判権よりも優位に立たせることができました。 第三に、彼らは「警察」、すなわち、現代の警察活動だけでなく、公共の秩序、福祉、そして経済活動全般に関する広範な行政を担当しました。これには、道路や橋の建設といった公共事業の監督、食糧供給の確保、市場の規制、ギルドの監督、そして貧民や浮浪者の取り締まりなどが含まれていました。彼らは、地方の経済的・社会的実態に関する詳細な報告書を中央政府に送ることも期待されており、中央集権的な情報収集のネットワークの要でもありました。 アンタンダンの登場は、地方の伝統的な権力構造に、大きな変化をもたらしました。世襲の貴族である地方長官は、依然として高い名誉を持つ地位でしたが、その実権の多くはアンタンダンに奪われ、次第に儀礼的な存在となっていきました。また、地方の自治的な機関である地方三部会や高等法院も、アンタンダンの活動によって、その権限を絶えず侵害されました。アンタンダンは、しばしば「三十人の王」とも呼ばれ、その絶大な権力は、地方の特権や慣習を重んじる人々から、強い反発と憎悪の対象となりました。 アンタンダンとして任命されたのは、主に、高等法院の調査官などを務めた、法学教育を受けた専門の官僚たちでした。彼らの多くは、官職を通じて貴族となった「法服貴族」の出身であり、伝統的な大貴族とは異なる、新しいタイプのエリートでした。彼らは、地方の複雑な現実と、中央政府の要求との間で、困難な調整役を担いました。 アンタンダンの制度は、絶対王政の中央集権化への意志を最も明確に体現するものでした。それは、人格的で分散的な中世の統治から、非人格的で均一な近代的な行政へと移行する、長い過程の重要な一歩でした。しかし、その権力は、旧体制の複雑な特権構造を完全に打破するには至らず、常に地方の抵抗勢力との緊張関係の中に置かれていたことも、また事実でした。 官職売買と法服貴族
絶対王政の官僚制を特徴づける、最も矛盾に満ちた制度が、官職売買でした。これは、司法官、財務官、書記官といった、国家の公的な役職が、私有財産のように市場で売買され、相続される慣行を指します。この制度は、絶対王政の財政的な必要性から生まれましたが、長期的には、国王の統制が及ばない、自律的な官僚エリート層を生み出すという、意図せざる結果をもたらしました。 官職売買の起源は中世にまで遡りますが、それが国家の財政システムとして大規模に制度化されたのは、16世紀から17世紀にかけてのフランスでした。度重なる戦争で財政危機に陥った国王は、短期的な収入を得るために、新しい官職を創設して、それを裕福なブルジョワジーに売りに出しました。官職を購入した者は、その地位に伴う給与や手数料を得ることができ、また、特定の官職は、所有者に貴族の身分を与える特権を持っていました。 1604年、アンリ4世の政府は、「ポーレット法」として知られる制度を導入しました。これは、官職の所有者が、毎年、その官職の価値の60分の1に相当する税金を国家に納めることで、その官職を自由に譲渡、転売、あるいは相続する権利を保証するというものでした。これにより、官職は完全に世襲的な財産となり、官僚エリートの再生産が制度的に確立されました。 この制度から生まれたのが、「法服貴族」と呼ばれる新しい社会階層です。彼らは、大学で法学教育を受け、官職を購入することで貴族の地位を得た人々であり、中世以来の軍事貴族である「帯剣貴族」とは区別されました。法服貴族は、特に高等法院をはじめとする、全国の司法機関を支配しました。彼らは、何世代にもわたって官職を世襲し、婚姻政策を通じて、閉鎖的で強力なカーストを形成していきました。 官職売買の制度は、国王にとって、いくつかの利点がありました。第一に、前述の通り、それは財政危機を乗り切るための、便利な資金調達の手段でした。第二に、裕福で野心的なブルジョワジーに、官職購入を通じて社会的上昇の道を開くことで、彼らの不満を吸収し、体制に組み込む効果がありました。第三に、官職の所有者は、自らの投資を回収するために、職務に忠実であるというインセンティブを持っていました。 しかし、その弊害は、利点をはるかに上回るものでした。最も深刻な問題は、官僚機構が、国王の統制から自立した、既得権益集団と化したことです。官職の所有者たちは、自らの地位を財産として所有していたため、国王は、彼らを自由に罷免することができませんでした。彼らは、自らの利益や特権が脅かされると判断すれば、団結して国王の政策に抵抗しました。特に、高等法院は、国王の勅令を登記する権利を持っており、勅令が王国の基本法や伝統に反すると考えた場合、その登記を拒否し、国王に対して「諫言」を行うことができました。これは、絶対君主の権力に対する、最も強力な制度的抵抗手段となりました。18世紀を通じて、国王と高等法院との間の対立は、旧体制の政治における、中心的なテーマの一つとなります。 また、官職売買は、能力や功績ではなく、財産によって公職への道が決まることを意味し、行政の効率性を損ないました。才能があっても貧しい者は、重要な地位に就くことができず、一方で、裕福な家の若者が、経験も知識もないままに、高い官職を購入することが可能でした。 このように、官職売買の制度は、絶対王政が、近代的な非人格的官僚制へと完全に移行することを妨げる、最大の障害の一つでした。それは、国家の公的な権威と、個人の私的な財産権とが、分かちがたく絡み合った、旧体制の矛盾を象徴する制度だったのです。 官僚制の機能と限界
中央集権化への貢献
絶対王政の時代の官僚制は、多くの矛盾や非効率性を抱えながらも、ヨーロッパの国家が、中世の封建的な分散状態から、近代的な中央集権国家へと移行する上で、決定的な役割を果たしました。官僚機構の発展は、君主の権力を強化し、その統治をより効果的で広範なものにしたのです。 官僚制の最大の貢献は、国家による暴力の独占と、徴税権の集中を可能にしたことです。常備軍の創設と維持、そしてそれを支えるための効率的な徴税システムの構築は、国王に直属する専門の官僚なしには不可能でした。財務官僚は、税収を最大化するための新しい税制を考案し、地方監察官は、地方の抵抗を排して、その徴税を実効あらしめました。これにより、君主は、貴族や都市といった中間団体の協力に依存することなく、自らの意志で戦争を遂行し、国内の秩序を維持する能力を飛躍的に高めました。 第二に、官僚制は、国王の司法権を全国土に及ぼすための重要な手段でした。国王が任命する裁判官が、全国の裁判所で法を執行し、国王の名において判決を下すことで、各地に存在した多様な慣習法や特権的な裁判権は、徐々に国王の法の下に統一されていきました。特に、ローマ法の継受は、君主の主権を理論的に正当化し、より合理的で体系的な法制度の構築を促しました。法服貴族が支配する高等法院は、しばしば国王の権力に抵抗しましたが、その一方で、彼らは、国王の司法権の担い手として、王国の法的な統一に貢献するという、両義的な役割を果たしました。 第三に、官僚制は、国家の統治能力そのものを向上させました。アンタンダンやその他の役人たちは、自らの管轄する地域の人口、産業、農業、資源に関する詳細な情報を収集し、中央政府に報告しました。地図の作成、統計調査の実施といった活動は、君主が、自らの王国を、より正確に、かつ量的に把握することを可能にしました。これは、近代国家に不可欠な、国土と人民に対する体系的な知識の蓄積の始まりでした。この情報に基づいて、官僚は、道路や運河の建設といった公共事業を計画し、産業を奨励し、そして社会の秩序を維持するための、より合理的な政策を立案しようと試みました。 第四に、官僚制は、国家への奉仕という、新しいキャリアパスとアイデンティティを生み出しました。官僚たちは、国王に仕えることで、社会的地位と名誉を得ました。彼らの忠誠は、特定の領主や地域ではなく、より抽象的な国家という共同体へと向けられるようになりました。特に、プロイセンで育成されたような、規律正しく、義務感にあふれた官僚団は、国家の利益を自らの利益と同一視し、非人格的な職務に献身しました。これは、近代的な公務員の倫理の原型となりました。 もちろん、絶対王政の官僚制による中央集権化は、不完全なものでした。交通や通信手段の未発達、地方に根強く残る特権や慣習、そして官職売買に代表される制度的な矛盾は、その効果を常に制約していました。しかし、中世の統治構造と比較すれば、その進歩は明らかでした。絶対王政の官僚制は、後のフランス革命やナポレオン帝政によって、より徹底的な中央集権化と合理化が進められるための、不可欠な基礎を築いたのです。 旧体制の矛盾
絶対王政の官僚制は、中央集権化と国家の近代化に大きく貢献した一方で、その内部に、自らを崩壊へと導く深刻な矛盾を抱え込んでいました。それは、旧体制そのものが持つ、構造的な矛盾の現れでした。 最大の矛盾は、近代的な中央集権化への志向と、身分制や特権といった、中世以来の旧来の社会構造との間の緊張関係でした。絶対君主は、一方では、すべての臣民を平等に支配する、唯一の主権者であろうとしました。そのための道具が、アンタンダンに代表される、中央集権的な官僚制でした。しかし、その一方で、絶対君主の権力は、貴族や聖職者といった特権身分の存在を前提としており、彼らの身分的な名誉や特権を保護することによって、その正統性を維持していました。官僚制そのものも、この矛盾から自由ではありませんでした。アンタンダンが、地方の特権を侵害して中央集権化を推し進める一方で、高等法院に代表される司法官僚は、自らの世襲的な官職と特権を守るために、しばしば国王の改革に抵抗し、「王国の基本法の守護者」として振る舞いました。 官職売買の制度は、この矛盾を象徴していました。それは、国家の公的な職務を、私的な財産として扱うという、公私混同の極みでした。この制度は、ブルジョワジーに社会的上昇の道を開き、彼らを体制に組み込むという点で、一時的には社会の安定に寄与したかもしれません。しかし、それは同時に、能力ではなく富によって公職への道が決まるという、不平等の原則を制度化するものでした。18世紀後半、啓蒙思想が、理性、平等、そして能力主義といった新しい価値観を広めると、この官職売買の慣行は、不合理で不道徳な旧体制の象徴として、厳しい批判の対象となっていきました。 官僚機構の肥大化と、それに伴う財政的な非効率性もまた、深刻な問題でした。国王は、財政収入を得るため、あるいは有力者の歓心を買うために、しばしば不必要に多くの官職を創設しました。その結果、同じような機能を持つ複数の機関が並立し、互いに管轄を争うといった、非効率な状況が生まれました。官僚たちの給与や年金は、国家財政に重くのしかかり、特に18世紀のフランスでは、アメリカ独立戦争への介入による戦費の増大と相まって、国家財政を破綻の瀬戸際へと追い込みました。 1780年代、ルイ16世の歴代の財務大臣たち、テュルゴー、ネッケル、カロンヌ、そしてブリエンヌは、この財政危機を克服するために、貴族や聖職者といった特権身分に対する免税特権を廃止し、より公平で合理的な税制を導入しようと試みました。しかし、これらの改革案は、高等法院をはじめとする、特権身分の牙城であった官僚機構の、猛烈な抵抗に遭って頓挫しました。彼らは、自らの既得権益を守るために、国王の改革に「否」を突きつけたのです。 皮肉なことに、絶対王政が、自らの権力を強化するために育て上げた官僚機構の一部が、最終的には、王政そのものを支えるための改革を不可能にし、体制の崩壊を招く一因となりました。改革の失敗によって、国王は、最後の手段として、1614年以来開かれていなかった全国三部会を召集せざるを得なくなりました。そして、この三部会が、フランス革命の導火線となったのです。絶対王政の官僚制は、近代国家の礎を築くという歴史的役割を果たしましたが、同時に、自らが内包する旧体制の矛盾によって、その命運が尽きたのでした。
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