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重商主義とは わかりやすい世界史用語2618 |
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著作名:
ピアソラ
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重商主義とは
重商主義は、16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパの絶対君主たちが、勃興しつつあった国民国家の富と権力を増大させるために採用した、一連の経済政策と思想の総体です。それは、首尾一貫した単一の理論体系というよりは、むしろ、当時の政治家、官僚、そして商人たちが、国家の繁栄という共通の目的のために、試行錯誤を重ねながら実践した、現実的な政策の集合体でした。その根底には、国際関係を、一国の利益が他国の損失となる、非情なゼロサムゲームと捉える世界観がありました。この思想は、絶対王政の時代の、絶え間ない戦争と、激しい国際競争という現実を色濃く反映しています。 重商主義者たちの最大の関心事は、国家の富、とりわけ金銀などの貴金属を、いかにして国内に蓄積するかという点にありました。彼らは、貴金属こそが国力の究極的な源泉であると信じていました。潤沢な貴金属は、巨大な常備軍を維持し、戦争を遂行し、そして宮廷の壮麗さを演出し、君主の権威を高めるための、不可欠な「戦争の神経」と見なされたのです。そして、鉱山を持たない国が貴金属を増やすための唯一の方法は、貿易を通じて、他国からそれを獲得することでした。したがって、重商主義の核心的な目標は、常に貿易収支を黒字に保つこと、すなわち、輸出額が輸入額を上回る状態を維持することにありました。 この目標を達成するために、重商主義国家は、その経済活動のあらゆる側面に、深く、そして広範に介入しました。政府は、国内の製造業を保護し、育成するために、高い関税を課して外国製品の輸入を制限し、一方で、国内の生産者が輸出を行う際には、補助金を与えて奨励しました。特に、完成品の輸出は、原材料の輸出よりも多くの価値を生み出すと考えられたため、強く推奨されました。また、国内の産業を担う労働力を確保し、賃金を低く抑えるために、人口の増加を奨励する政策がとられました。 海運業もまた、国家の富と安全保障にとって、極めて重要であると見なされました。自国の船で貿易を行うことは、外国の船会社に運賃を支払う必要がなく、貴金属の流出を防ぐことにつながります。さらに、強力な商船隊は、戦時には海軍に転用できる、貴重な予備兵力でもありました。このため、イギリスの航海法に代表されるように、多くの国が、自国と植民地との貿易を、自国の船に限定する、保護主義的な海運政策を採用しました。 植民地の獲得と経営も、重商主義のシステムにおいて、中心的な役割を果たしました。植民地は、本国が必要とする、木材、砂糖、綿花、タバコといった、原材料の安価な供給源として、また、本国が生産した工業製品を売りさばくための、独占的な市場として、位置づけられました。植民地が、本国と競合するような産業を発展させることや、本国以外の国と自由に貿易することは、固く禁じられていました。この本国と植民地の間の、搾取的な経済関係は、しばしば「植民地協約」と呼ばれます。 重商主義は、単なる経済政策にとどまらず、絶対王政による中央集権化と、国家建設のプロセスそのものと、分かちがたく結びついていました。それは、中世以来の、地方に分散していた経済的な特権や規制を、国家という単一の経済単位へと統合し、君主の統制下に置こうとする試みでした。フランスの財務総監ジャン=バティスト=コルベールに代表されるように、重商主義的な政策は、国家の官僚機構によって、上から強力に推進されました。
重商主義の起源と背景
封建制の崩壊と国民国家の形成
重商主義が、ヨーロッパの支配的な経済思想として台頭した背景には、中世の封建的な社会経済システムが崩壊し、中央集権的な国民国家が形成されつつあったという、大きな地殻変動がありました。封建社会の経済は本質的に、地域的かつ自給自足的なものでした。荘園という単位の中で、農民は領主の土地を耕し、生活に必要なもののほとんどを、自分たちで生産していました。商業活動は、都市や、定期的に開かれる市に限られており、経済の全体から見れば、その重要性は二次的なものでした。 この社会では、権力もまた、分散していました。国王は、名目上の最高君主ではありましたが、その実権は、地方で独立した権力を持つ、数多くの世俗領主や教会領主によって、大きく制約されていました。それぞれの領主は、自らの領地内で、独自の通貨を発行し、関税を課し、そして度量衡を定めることができました。王国は、統一された経済圏ではなく、無数の小さな経済単位がモザイク状に存在する、断片化された空間だったのです。 しかし、14世紀から15世紀にかけて、この封建的な秩序は、様々な要因によって、大きく揺らぎ始めます。黒死病の流行は、ヨーロッパの人口を激減させ、労働力不足を引き起こしました。これにより、農民の地位が相対的に向上し、領主に対する農民の奉仕義務を基本とする、荘園制度は、次第に崩壊していきました。また、百年戦争に代表される、長期にわたる戦争は、火薬兵器の導入と相まって、軍事技術の革新を促しました。もはや、重装備の騎士による一騎打ちではなく、歩兵の大規模な集団と、高価な大砲が、戦争の勝敗を決するようになりました。 このような新しい戦争を遂行できるのは、封建領主のような、小規模な勢力ではありませんでした。それは、広大な領土から、効率的に、かつ大規模に、兵士と資金を動員できる、強力な中央権力だけでした。国王は、この軍事的な必要性に応えるために、官僚機構と常備軍を整備し、国内の貴族の力を抑え、中央集権化を進めていきました。こうして、フランスのヴァロワ朝、イギリスのテューダー朝、そしてスペインのハプスブルク家といった、新しいタイプの君主制が、国民国家の原型を形作っていきました。 これらの勃興しつつあった国民国家の君主たちは、自らの権力を維持し、拡大するために、絶えず互いに競い合い、戦争を繰り返しました。この激しい国際競争の中で、君主たちは、経済的な富が、軍事力や政治力と、分かちがたく結びついていることを、痛感するようになります。戦争のコストは増大し続け、それを賄うためには、安定的で潤沢な国庫収入が、不可欠でした。 重商主義は、まさに、このような時代状況の中から生まれた、国家建設のための経済学でした。それは、封建的な、地域ごとに断片化された経済を、国家という単一の枠組みの中に統合し、その経済力を、君主の権力強化という、政治的な目的に奉仕させようとする、思想と実践の体系だったのです。重商主義者たちは、もはや、中世のスコラ哲学者のように、公正価格や利子の是非といった、道徳的な観点から経済を論じることはありませんでした。彼らの関心は、もっぱら、いかにして国家の富と権力を増大させるかという、極めて現実的な問題に向けられていました。彼らは、経済を、国家間の権力闘争の、一つの重要なアリーナと見なしたのです。
ルネサンスと大航海時代
重商主義の思想が形成される上で、ルネサンスと大航海時代がもたらした、世界観の変革と、経済的な環境の激変もまた、決定的な影響を与えました。ルネサンスは、神を中心とする中世的な世界観から、人間を中心とする、より世俗的な世界観への移行を促しました。現世における富や名声、そして権力の追求が、肯定的に捉えられるようになり、個人の野心や、国家の栄光といったものが、重要な価値を持つようになりました。この新しい人間観は、国家の富と権力の増大を、至上の目的とする、重商主義の精神的な土壌となりました。 さらに、印刷術の発明は、知識の普及を加速させ、経済に関する新しい思想が、パンフレットなどの形で、広く議論されることを可能にしました。重商主義の担い手の多くは、トーマス=マンのような、実際に貿易に携わる商人であり、彼らは、自らの経験に基づいた、実践的な経済論を、盛んに発表しました。 しかし、それ以上に直接的な影響を与えたのは、15世紀末から始まる大航海時代でした。ヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路の発見や、コロンブスによる新大陸への到達は、ヨーロッパの世界を、劇的に拡大させました。ヨーロッパ、アフリカ、アジア、そしてアメリカ大陸を結ぶ、地球規模の交易ネットワークが、初めて形成されたのです。 このグローバルな交易の中で、ヨーロッパに、莫大な富、とりわけ、新大陸からもたらされる、膨大な量の金と銀が、流入しました。特に、16世紀のスペインは、ポトシ鉱山などから、天文学的な量の銀を採掘し、それを元手に、ヨーロッパ最強の軍事大国として君臨しました。スペインのこの圧倒的な力は、他のヨーロッパ諸国の君主や思想家たちに、貴金属の蓄積こそが、国力の直接的な源泉であるという、強烈な印象を植え付けました。これが、重商主義の核心的な思想である、重金主義の直接的な起源となります。 大航海時代はまた、激しい植民地獲得競争の時代の幕開けでもありました。ポルトガルとスペインが、当初、この競争をリードしましたが、やがて、オランダ、イギリス、そしてフランスといった、後発の国々が、その覇権に挑戦するようになります。これらの国々は、海外に植民地を建設し、そこから、砂糖、香辛料、タバコ、毛皮といった、ヨーロッパでは得られない、貴重な商品を輸入し、莫大な利益を上げようとしました。 この植民地帝国をめぐる争いは、重商主義のシステムと、密接に結びついていました。それぞれの本国は、自国の植民地を、排他的な経済圏と見なし、外国勢力を、そこから締め出そうとしました。植民地は、本国に原材料を供給し、本国の製品を買う、従属的な役割を強いられました。この、本国と植民地からなる、自己完結的な経済帝国を築き上げ、その中で富を独占しようとする思想は、重商主義の、もう一つの重要な柱となりました。 このように、大航海時代がもたらした、グローバルな交易の拡大と、植民地をめぐる激しい競争は、富の源泉を、土地から貿易へとシフトさせ、国家間の経済的な対立を、かつてないほど先鋭化させました。重商主義は、この新しい時代の挑戦に、ヨーロッパの君主国家が、いかにして応えようとしたのかを示す、経済的なイデオロギーだったのです。
重商主義の主要政策
貿易差額主義と保護貿易
重商主義の政策体系の中心に位置するのが、貿易差額主義の思想です。これは、国家の富を増やすためには、常に輸出額が輸入額を上回る状態、すなわち、貿易黒字を維持しなければならない、という考え方です。重商主義者たちは、国際貿易を、国内の富の総量が固定されている、ゼロサムゲームと見なしていました。したがって、一国が貿易を通じて富を得るためには、他の国が、その分だけ富を失わなければならない、と考えられたのです。そして、その富の移動を、具体的に測定する指標が、貿易収支でした。 貿易黒字が生まれれば、その差額は、金や銀といった貴金属の形で、国内に流入します。逆に、貿易赤字になれば、貴金属は、国外に流出していきます。貴金属の蓄積こそが、国力の増強に直結すると信じていた重商主義者たちにとって、貿易黒字を確保することは、国家の最優先課題でした。イギリスの商人であり、重商主義の代表的な論客であったトーマス=マンは、その主著『外国貿易によるイギリスの財宝』の中で、「我々の富と財宝を増やすための通常の方法は、外国貿易による。そこにおいて、我々は、この法則を常に守らねばならない。すなわち、外国人に売る我々の商品の価値を、我々が消費する彼らの商品の価値よりも、常に大きくすることである」と述べ、この原則を明確に定式化しました。 この貿易差額主義の目標を達成するために、重商主義国家は、保護貿易政策を、強力に推進しました。その最も直接的な手段が、関税です。政府は、外国から輸入される製品、特に、国内で生産可能な工業製品に対して、高い関税を課しました。これにより、輸入品の価格は上昇し、国内の同種の製品が、価格競争で有利になります。これは、国内の幼稚な産業を、外国の進んだ産業との競争から保護し、その成長を促すことを目的としていました。フランスのコルベールは、1667年の関税法で、オランダやイギリスの工業製品に、極めて高い関税を課し、国内の製造業の育成を図りました。 一方では、政府は、国内の産品の輸出を、積極的に奨励しました。輸出企業に対しては、補助金が与えられたり、税金が免除されたりしました。特に、原材料を輸入し、それを国内で加工して、付加価値の高い完成品として輸出することが、最も望ましい貿易の形態であると考えられました。原材料の輸出は、むしろ、敵国に利することになるとして、禁止、あるいは制限されることさえありました。 さらに、政府は、輸入そのものを、直接的に禁止したり、制限したりすることもありました。例えば、イギリスでは、奢侈品の輸入を制限する、奢侈禁止令が、たびたび発布されました。これは、道徳的な理由だけでなく、貴金属の不必要な流出を防ぐという、経済的な目的も持っていました。 これらの保護貿易政策は、国内の特定の産業や商人の利益を保護する一方で、消費者にとっては、より安価な輸入品を購入する機会を奪い、物価の上昇を招くという、負の側面も持っていました。また、一国が保護関税を導入すれば、相手国もまた、報復として、同様の措置をとることが多く、これは、国家間の貿易摩擦や、時には、実際の戦争へと発展する、危険性をはらんでいました。重商主義の時代は、まさに、関税戦争の時代でもあったのです。
コルベール主義と産業育成
フランスのルイ14世に仕えた財務総監、ジャン=バティスト=コルベールの名を冠したコルベール主義は、重商主義の中でも、特に、国家による産業の育成と、厳格な統制を特徴とする、体系的な政策のモデルと見なされています。コルベールの目標は、フランスを、当時、ヨーロッパの経済を支配していたオランダに代わる、経済的な覇権国家に押し上げ、そして、その経済力を、主君ルイ14世の栄光と、フランスの軍事力強化に、結びつけることでした。 コルベールの産業政策の核心は、国内の製造業、とりわけ、奢侈品産業の育成にありました。彼は、ゴブラン織のタペストリー、サン=ゴバン製作所の鏡、リヨンの絹織物といった、高品質な奢侈品を生産する、王立マニュファクチュアを、次々と設立しました。これらのマニュファクチュアには、国王から、資金援助、税の免除、そして生産の独占権といった、様々な特権が与えられました。コルベールはまた、ヴェネツィアからガラス職人を、オランダから織物職人を、高給で引き抜くなどして、外国の進んだ技術を、積極的に導入しようとしました。彼の狙いは、これまで、イタリアやオランダからの輸入に頼っていた奢侈品を、国内で生産し、さらには、それを外国に輸出することで、貿易収支を改善し、貴金属を国内に流入させることにありました。 品質の維持と向上もまた、コルベールの重要な関心事でした。彼は、製品の品質が、国際市場での競争力を左右すると考え、ギルドの制度を利用して、生産のあらゆる側面を、国家の厳格な統制下に置こうとしました。政府は、製品の規格使用する原材料、織物の目の細かさ、染料の色合いに至るまで、極めて詳細な規則を定め、それを全国の生産者に遵守させました。そして、その規則が守られているかを監督するために、監督官のネットワークを、全国に張り巡らせました。規則に違反した製品は容赦なく没収され破壊されました。 コルベールはまた、国内の商業を活性化させるために、インフラの整備にも力を注ぎました。彼は、国内の河川を結び、物資の輸送を容易にするために、ラングドック運河のような、壮大な運河の建設を推進しました。また、道路網の整備や、国内に数多く存在した、領主や都市が課す関税の撤廃にも、取り組みました。これは、フランスを、断片化された経済圏から、統一された国内市場へと、変革しようとする試みでした。 海運業と植民地の経営も、コルベールの政策の重要な柱でした。彼は、フランスの商船隊を増強するために、造船業に補助金を与え、また、オランダやイギリスに対抗するために、東インド会社や西インド会社といった、国策の貿易会社を再建しました。これらの会社は、アジアやアメリカ大陸との貿易を独占し、植民地を経営する役割を担いました。 コルベールの政策は、フランスの産業、特に奢侈品産業の発展に、大きな貢献をしました。フランス製品の品質に対する評価は、ヨーロッパ中で高まり、フランスは、文化とファッションの中心地としての地位を、確立しました。しかし、その一方で、彼の政策は、多くの問題点も抱えていました。国家による、あまりに厳格で詳細な規制は、生産者の自発性や、技術革新への意欲を、かえって削いでしまう、という批判がありました。また、彼の政策の恩恵を受けたのは、主に、特権的なマニュファクチュアや、都市のギルドであり、広大な農村経済の改革は、ほとんど手つかずのままでした。そして、コルベールが、苦心して蓄積した国庫の富も、ルイ14世が次々と引き起こした侵略戦争の底なしの戦費の中に吸い込まれていったのです。
航海法と海運の重視
重商主義の時代において、海運業は単なる輸送手段ではなく、国家の富と安全保障を左右する戦略的に極めて重要な産業と見なされていました。自国の商船隊を持つことは、貿易における、貴金属の流出を防ぎ、また、戦時には、海軍力を補強するという、二重の利益をもたらしました。この、海運業を保護し、育成するための、重商主義的な政策の最も典型的な例が、イギリスの航海法です。 航海法は、17世紀半ばから、19世紀半ばまで、約200年間にわたって、イギリスの貿易政策の根幹をなした、一連の法律の総称です。その最初の本格的なものは、オリバー=クロムウェル率いる、共和政時代の1651年に制定されました。この法律の直接の標的は、当時、「ヨーロッパの運送屋」として、世界の海運業を支配していた、オランダでした。 1651年の航海法は、主に、三つの柱からなっていました。第一に、アジア、アフリカ、アメリカ大陸といった、ヨーロッパ以外の地域からの商品を、イギリスに輸入する際には、必ず、イギリスの船を使用しなければならない、と定められました。第二に、ヨーロッパの産品を、イギリスに輸入する際には、イギリスの船か、あるいは、その産品の生産国の船で、輸送しなければならない、とされました。これにより、オランダの船が、第三国間の貿易を中継して、利益を上げることは、事実上、不可能になりました。第三に、イギリスの沿岸貿易は、完全に、イギリスの船に、限定されました。 これらの規定は、1660年の王政復古後、さらに強化、整備されました。新しい航海法では、船の所有者だけでなく、船長と、乗組員の4分の3以上が、イギリス臣民であることが、イギリス船の条件として、義務付けられました。さらに、植民地との貿易に関する、重要な規定が、追加されました。砂糖、タバコ、綿花、藍といった、植民地の特定の重要産品は、イギリス本国、あるいは、他のイギリス植民地にしか、輸出することができない、と定められました。これにより、イギリスは、植民地の最も価値ある商品を、独占的に手に入れ、それを、ヨーロッパ大陸に再輸出することで、莫大な利益を上げることができました。 航海法は、イギリスの海運業と、商業の発展に、絶大な効果をもたらしました。オランダの中継貿易は、大きな打撃を受け、その海運覇権は、次第に、イギリスへと移っていきました。ロンドンは、アムステルダムに代わる、世界の貿易と金融の中心地として、繁栄しました。イギリスの商船隊の規模は、飛躍的に増大し、それは、世界最強と謳われる、イギリス海軍の、強力な基盤となりました。 しかし、この政策は、大きな代償も伴いました。航海法は、オランダとの、深刻な対立を引き起こし、17世紀後半に、三度にわたる英蘭戦争の、主要な原因となりました。これらの戦争は、イギリスに、最終的な勝利をもたらしましたが、国家に、大きな財政的負担を強いました。 さらに、より深刻な問題は、アメリカ植民地との関係において、生じました。植民地の住民にとって、航海法は、自らの経済活動を不当に束縛し、その利益を、本国の商人のために、犠牲にさせる、抑圧的な法律と映りました。彼らは、より高く売れるはずのタバコを、イギリスにしか売ることができず、また、より安く買えるはずのオランダ製品を、購入することができませんでした。当初は、密貿易などの形で、法律の抜け道を探っていた植民地の不満は、18世紀後半、七年戦争後のイギリスによる新たな課税政策と相まって、爆発することになります。「代表なくして課税なし」というスローガンと共に、航海法に象徴される、イギリスの重商主義的な支配に対する反発は、アメリカ独立革命の、重要な経済的な要因となったのです。
原材料供給地と市場
重商主義のシステムにおいて、植民地は、本国の経済的繁栄に従属する、不可欠な構成要素として、位置づけられていました。本国と植民地は、一体となって、一つの自己完結的な経済帝国を形成し、その中で、富が循環し、蓄積されることが、理想とされました。この関係は、しばしば「植民地協約」と呼ばれますが、それは、対等な当事者間の契約ではなく、本国が、植民地に対して、一方的に、その役割を強制する、非対称的なものでした。 植民地に課せられた、第一の役割は、本国が必要とする、原材料の安価で、安定的な供給源となることでした。本国では、気候などの理由で、生産できない、あるいは、不足している、一次産品を、植民地で生産させ、それを、独占的に輸入しました。カリブ海の植民地で生産される、砂糖、糖蜜、ラム酒。北アメリカ南部の植民地で生産される、タバコ、米、藍、そして、後に、綿花。カナダやニューイングランドから得られる、木材、毛皮、干し魚。これらはすべて、本国の産業や、消費者の需要を満たし、また、ヨーロッパ大陸への再輸出を通じて、本国に、莫大な利益をもたらしました。 植民地に課せられた、第二の役割は、本国が生産した、工業製品のための、排他的な市場となることでした。植民地は、本国から、衣類、鉄製品、奢侈品といった、完成品を、輸入することが、義務付けられました。植民地が、本国と競合するような、独自の製造業を発展させることは、固く禁じられていました。例えば、イギリスは、毛織物法や、鉄法といった法律を制定し、アメリカ植民地での、毛織物や、鉄製品の生産、輸出を、厳しく制限しました。これにより、植民地は、経済的に、常に、本国に依存する状態に、置かれました。 この、本国を中心とする、植民地との間の、分業システムを、確実に機能させるために、本国は、植民地の貿易を、厳格に統制しました。イギリスの航海法に代表されるように、植民地は、外国と、直接、貿易を行うことを、禁じられました。植民地の産品は、まず、本国の港に運ばれ、そこで、関税がかけられた後、初めて、他の国に、輸出することができました。同様に、植民地が、外国の製品を輸入する場合も、一度、本国を経由する必要がありました。これにより、本国の商人や、港湾都市は、中継貿易の利益を、独占することができました。 この重商主義的な植民地システムは、本国に、大きな経済的利益をもたらしました。18世紀のイギリスの爆発的な経済成長は、大西洋をまたぐ、この植民地貿易システムに、大きく依存しました。しかし、その富は、植民地の犠牲と、そして、アフリカから、強制的に連れてこられた、何百万もの奴隷たちの、悲惨な労働の上に、築かれたものでした。 植民地の側から見れば、このシステムは、搾取以外の何物でもありませんでした。彼らは、自らの経済的な可能性を、本国の利益のために、制限されていました。アメリカの独立革命は、この重商主義的な帝国システムが、その内部の矛盾によって、最終的に、破綻せざるを得なかったことを、示す、最も劇的な出来事でした。植民地は、もはや、本国の経済的繁栄のための、単なる道具であることを、拒否し、自らの経済的、そして、政治的な運命を、自らの手で、決定する道を選んだのです。
重商主義の批判と衰退
アダム=スミスによる批判
18世紀後半、ヨーロッパの知識人社会を、啓蒙思想が席巻する中で、200年近くにわたって、経済政策の支配的なパラダイムであった重商主義は、その理論的な基盤を、根底から揺るがす、強力な批判に、直面することになります。その最も包括的で、破壊的な批判を展開したのが、スコットランドの哲学者、経済学者である、アダム=スミスでした。彼が、1776年に出版した主著、『国富論』は、古典派経済学の幕開けを告げると同時に、重商主義に対する、決定的な死亡宣告となったのです。 スミスの批判の第一の核心は、重商主義の、富の定義そのものに向けられました。重商主義者たちが、国家の富を、その国が保有する、金や銀といった、貴金属の量と同一視したのに対し、スミスは、国家の真の富とは、その国民が、年間に生産し、消費する、あらゆる「生活の必需品と便益品」の総量である、と主張しました。金や銀は、それ自体が富なのではなく、商品を交換するための、単なる媒体に過ぎない、と考えたのです。したがって、国家が、富を増やすために目指すべきは、貴金属を、いたずらに溜め込むことではなく、国民の生産能力を、高めることである、とスミスは論じました。 第二に、スミスは、国際貿易を、ゼロサムゲームと見なす、重商主義の考え方を、根本的に、否定しました。彼は、貿易が、すべての参加国に、利益をもたらす、ポジティブサムゲームである、と考えました。その理論的な根拠となったのが、「分業」の原理です。スミスは、個人が、それぞれ、得意な仕事に特化することで、生産性が、飛躍的に向上することを示し、この原理は、国家間にも、当てはまると主張しました。それぞれの国が、自国の気候、土壌、あるいは、技術といった条件から、比較優位を持つ、商品の生産に特化し、それを、互いに、自由に交換すれば、世界全体の生産量は増大し、すべての国が、より少ない労働で、より多くの商品を、消費できるようになる、とスミスは考えました。 この議論から、スミスは、重商主義の、保護貿易政策に対する、全面的な批判を展開します。関税や、輸入禁止といった、人為的な障壁は、この、国際的な分業がもたらす、自然な利益を、阻害するものです。それは、消費者に、より高く、質の悪い、国内製品の購入を強制し、国家全体の資源を、非効率な産業に、浪費させることになります。スミスは、国家による、経済への介入を、可能な限り、排除し、個人の自由な経済活動に、すべてを委ねるべきである、と主張しました。これが、「レッセフェール」の思想です。彼によれば、それぞれの個人が、自らの利益を追求して、自由に行動すれば、「見えざる手」に導かれて、結果的に、社会全体の利益が、最大化されるのです。 第三に、スミスは、重商主義の、植民地政策も、厳しく批判しました。彼は、植民地貿易の独占が、本国の一部の商人には、利益をもたらすかもしれないが、国家全体としては、有害である、と論じました。独占は、競争を排除し、商人を、怠惰で、非効率にさせます。また、植民地を防衛し、統治するための、莫大な軍事費や、行政コストは、結局、本国の納税者の負担となり、独占から得られる利益を、はるかに、上回ってしまう、とスミスは指摘しました。彼は、イギリスが、アメリカ植民地を、平和的に、放棄し、彼らと、対等なパートナーとして、自由な貿易関係を結ぶことが、双方にとって、最善の道である、と主張しました。 アダム=スミスの『国富論』が提示した、これらの議論は、重商主義の理論的な支柱を、一つ一つ、打ち砕いていきました。彼の、自由貿易と、市場経済の擁護は、産業革命によって、世界の工場となりつつあった、イギリスの、新しい時代の要請に、完全に、合致していました。スミスの思想は、19世紀の、自由主義の時代を、準備し、重商主義の時代の、終わりを、決定的に、告げたのです。
自由貿易の台頭と重商主義の終焉
アダム=スミスによって、理論的な基盤を、完全に、破壊された重商主義は、19世紀に入ると、実際の政策の領域においても、急速に、その影響力を失っていきます。その背景には、イギリスで始まった、産業革命が、世界の経済構造を、根本的に、変えつつあったという、現実がありました。 産業革命は、蒸気機関や紡績機といった新しい技術の導入によって、イギリスの特に、綿工業の生産性を爆発的に増大させました。イギリスは、「世界の工場」として、安価で高品質な工業製品を大量に生産する能力を持つようになりました。この新しい状況の中で、イギリスの産業資本家たちにとって、かつての、保護貿易政策は、もはや自らの利益を守る盾ではなく、海外市場への自由なアクセスを妨げる足かせとしか感じられなくなりました。彼らが、最も必要としていたのは、自国の製品を、世界中に、自由に売りさばき、また、工業の原材料や、労働者の食糧となる、穀物を、世界中から安く輸入することでした。 この、新しい産業ブルジョワジーの要求を、政治的に、代弁したのが、リチャード=コブデンや、ジョン=ブライトといった、マンチェスター派の、急進的な自由主義者たちでした。彼らは、「反穀物法同盟」を組織し、地主貴族の利益を守るために、外国産の安い穀物の輸入に、高い関税を課していた、穀物法の撤廃を求める、強力な国民運動を、展開しました。彼らは、穀物法を、労働者のパンの価格を、不当に吊り上げ、また、外国が、イギリスの工業製品を買うための、購買力を奪う重商主義の最も邪悪な残滓であると、非難しました。 この運動は、1845年の、アイルランドにおけるジャガイモ飢饉をきっかけとして、頂点に達します。食糧危機という、人道的な圧力の前に、保守党の首相であった、ロバート=ピールは、ついに、決断を下し、1846年、穀物法を、撤廃しました。これは、イギリスが、保護貿易から、自由貿易へと、完全に、舵を切ったことを示す、象徴的な出来事でした。 穀物法の撤廃に続いて、イギリスは、重商主義時代の、もう一つの、重要な遺物であった、航海法も、段階的に、廃止していきます。1849年、航海法の中核部分が撤廃され、イギリスの貿易と海運はほぼ完全に自由化されました。かつて、自国の海運業を保護するために、世界で最も厳格な保護主義政策をとったイギリスが、今や、自由貿易の、最も熱心な伝道者へと、変貌を遂げたのです。 19世紀半ばから、第一次世界大戦が勃発するまでの期間は、しばしば、「パックス=ブリタニカ」の時代と呼ばれます。この時代、イギリスは、その圧倒的な経済力と、海軍力を背景に、自由貿易を、世界的なシステムとして、確立しようとしました。1860年には、イギリスとフランスの間で、コブデン=シュヴァリエ条約が結ばれ、両国は、互いに関税を、大幅に引き下げました。この条約には、最恵国待遇条項が含まれており、その後、ヨーロッパの多くの国々が、この自由貿易のネットワークに、加わっていきました。 こうして、国家が経済に深く介入し、貿易を厳しく管理した、重商主義の時代は、終わりを告げました。それに代わって、市場のメカニズムと、自由な競争を、重視する、自由主義的な経済秩序が、少なくとも、20世紀初頭まで、ヨーロッパを支配することになります。 しかし、重商主義の思想が、完全に、消滅したわけではありません。19世紀後半、ドイツや、アメリカといった、後発の工業国では、自国の幼稚な産業を、先進国であるイギリスの競争から守るために、フリードリッヒ=リストのような、経済学者が、保護貿易の必要性を、改めて、主張しました。また、1929年の、世界大恐慌の後、多くの国々が、自国の経済を守るために、再び、高い関税障壁を築き、平価を切り下げるという、ブロック経済化へと回帰しました。これは、重商主義の、最も、負の側面が、復活したかのような、状況でした。 重商主義は、アダム=スミスによって、理論的に、打ち破られ、19世紀の、自由貿易の時代によって、歴史の遺物とされたかに見えました。しかし、国家の富と権力を、いかにして増大させるか、という、その根本的な問いかけは形を変えながら生き続けている、と言えるかもしれません。国家が、自国の戦略的な産業を、保護育成しようとする産業政策や、貿易収支の不均衡をめぐる、国家間の対立といった、現代の経済問題の中に、かつての、重商主義的な思考の、こだまを聞き取ることも、可能でしょう。重商主義は、国民国家が互いに競い合う、という、国際システムの現実から生まれた、最初の、そして、最も、率直な、経済ナショナリズムの表現だったのです。
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