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王権神授説とは わかりやすい世界史用語2612
著作名: ピアソラ
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王権神授説とは

王権神授説とは、君主の統治権が、人民の同意や世俗的な権威からではなく、神から直接授けられたものであるとする政治思想および宗教的教義です。この説によれば、君主は地上における神の代理人であり、その権威は神聖にして不可侵です。したがって、君主は神に対してのみ責任を負い、地上のいかなる権力、すなわち教会、議会、あるいは人民に対しても説明責任を負うことはありません。臣民が君主の命令に服従するのは、単なる政治的な義務ではなく、神の意志に従うという宗教的な義務でもあります。たとえ君主が悪政を行ったとしても、臣民に許されるのは祈ることだけであり、抵抗や反逆は神そのものに対する冒涜と見なされました。この思想は、特に16世紀から18世紀にかけてのヨーロッパにおいて、絶対王政を正当化し、国王の権力を封建貴族や教会の介入から守るための、極めて強力なイデオロギー的武器として機能しました。しかし、その起源は古代にまで遡ることができ、ヨーロッパの特定の時代に限定されない、より普遍的な王権の正当化論理の一つの顕著な現れと見なすことができます。



思想の源流

古代の神聖王権

統治者の権威を神的なものと結びつける発想は、ヨーロッパの近世に特有のものではなく、人類の文明史の黎明期から世界各地の様々な文化圏に見出すことができる、普遍的な現象です。古代エジプトにおいて、ファラオは単なる統治者ではなく、生き神そのもの、すなわち天空神ホルスの化身であり、死後は冥界の神オシリスと一体化すると信じられていました。彼の権威は、ナイル川の氾濫を制御し、豊穣をもたらし、宇宙の秩序(マアト)を維持する神聖な力に根差していました。同様に、古代メソポタミアでは、初期の王たちは神々の代理人、あるいは神に選ばれた羊飼いとして自らを位置づけ、後には自らを神格化する王も現れました。古代ペルシャのアケメネス朝の王たちは、最高神アフラ=マズダーによって王権を授けられたと宣言し、その広大な帝国支配を正当化しました。
古代ローマにおいても、権力と神性の結びつきは顕著でした。共和政末期、内乱を収拾したオクタヴィアヌスは、元老院から「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を与えられ、初代皇帝となります。彼は巧みに共和政の伝統を尊重する姿勢を見せながらも、その権威を神的な領域にまで高めていきました。彼の養父であるユリウス=カエサルが死後に神格化されたことを受け、アウグストゥスは「神の子」として自らを位置づけました。彼の治世下で「皇帝崇拝」の慣行が始まり、皇帝の守護霊(ゲニウス)や皇帝自身への崇拝が、帝国の広大な版図と多様な民族を統合するための重要なイデオロギー的装置となったのです。皇帝の権威は、単なる軍事力や政治的実績だけでなく、神々の加護を受けた、ローマの平和(パクス=ロマーナ)の保証人という神聖な性格を帯びていました。
これらの古代世界における神聖王権の観念は、後のヨーロッパの王権神授説と直接的な連続性を持つわけではありません。しかし、統治の究極的な正当性を、人間社会の外部にある超越的な存在に求めるという思考のパターンは、政治権力の根拠をめぐる人類の根源的な問いに対する、一つの原型的な答え方を示しています。それは、権力が単なる剥き出しの暴力ではなく、何らかの宇宙的、あるいは神的な秩序に根差した正統なものであると信じたい、という人間の欲求の現れとも言えるでしょう。
キリスト教とローマ帝国

ヨーロッパにおける王権神授説の直接的な思想的源流をたどる上で、キリスト教の成立とその後のローマ帝国における位置づけの変化は、決定的に重要な意味を持ちます。初期のキリスト教は、ローマ帝国の多神教的な世界観や皇帝崇拝とは相容れない一神教であり、しばしば反体制的な宗教と見なされ、迫害の対象となりました。しかし、その教義の中には、後の王権論にとって重要な要素が胚胎していました。
その最も根源的なテキストが、新約聖書の『ローマの信徒への手紙』第13章です。ここで使徒パウロは、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」と述べています。この一節は、地上の世俗的な権力(この文脈ではローマ帝国の支配)が、たとえそれが異教徒の権力であったとしても、神の摂理によって秩序維持のために設置されたものである、という考え方を明確に示しています。信者が従うべきは、権力者個人ではなく、その背後にある神の定めた秩序そのものです。このパウロの教えは、キリスト教徒が既存の政治権力といかに向き合うべきかという問いに対する基本的な指針となり、後のキリスト教世界の政治思想に絶大な影響を与え続けることになります。
4世紀に入ると、キリスト教の立場は劇的に変化します。コンスタンティヌス帝による公認(313年、ミラノ勅令)を経て、テオドシウス帝の時代には国教(380年)へとその地位を高めました。かつては迫害された宗教が、今や帝国を支えるイデオロギーとなったのです。この過程で、皇帝の権威もキリスト教的に再解釈されることになります。皇帝は、もはやローマの神々の子孫ではなく、唯一神によって選ばれ、地上におけるキリスト教世界の保護者としての使命を帯びた存在と見なされるようになりました。教父エウセビオスは、コンスタンティヌス帝を、天上の神の王国を地上の帝国に反映させる、神の模倣者として描き出しました。皇帝の権力は、神の恩寵(gratia Dei)によるものとされ、その戴冠式は神聖な儀式としての性格を強めていきました。こうして、ローマ帝国の普遍的な支配と、キリスト教の普遍的な信仰が融合し、皇帝を頂点とする一つのキリスト教帝国(インペリウム=クリスティアヌム)という理念が形成されたのです。
中世の二本の剣

西ローマ帝国の滅亡後、ヨーロッパは政治的に分裂したゲルマン諸王国の時代を迎えますが、ローマ=カトリック教会は、古代ローマの行政組織と文化を継承し、西ヨーロッパ世界における普遍的な精神的権威として存続しました。この中世ヨーロッパの権力構造を理解する上で重要なのが、「二本の剣」の理論です。これは、5世紀末の教皇ゲラシウス1世が提唱したもので、世界を統治するために神が二本の剣、すなわち精神的な事柄を司る「聖なる権威」と、世俗的な事柄を司る「王の権力」を定めたとする考え方です。前者は聖職者が、後者は君主がそれぞれ担い、両者は互いに独立しつつも、協力してキリスト教社会を導くべきものとされました。そして、魂の救済に関わる聖職者の権威は、世俗の権力よりも上位にあると示唆されたのです。
この理論は、その後の聖俗関係をめぐる長い闘争の歴史において、教皇側と皇帝・国王側の双方が、自らに都合よく解釈して利用する、中心的な論点となりました。中世盛期、グレゴリウス7世に始まる教会改革運動の中で、教皇権の至上性を主張する「教皇派」は、この理論を根拠に、教皇が皇帝や国王を任命し、罷免する権利さえ持つと主張しました(聖職叙任権闘争)。彼らにとって、国王の権力は、教皇を介して間接的に神から与えられるものに過ぎませんでした。
これに対して、神聖ローマ皇帝や各国の国王たちは、自らの権力が教皇からではなく、神から直接授けられたものであると反論しました。彼らは、パウロの言葉を引用し、自らが「神の恩寵による王(Rex Dei Gratia)」であることを強調しました。国王の戴冠式で行われる塗油の儀式は、旧約聖書で預言者サムエルがサウルやダヴィデに油を注いで王とした故事に倣ったものであり、国王に神聖な性格を与え、教会の権威から独立した、独自の霊的な正当性を付与する重要な意味を持っていました。国王は、単なる世俗の統治者ではなく、準聖職者的な地位にある「油を注がれた者」であり、国内の教会を保護し、統治する責任を神から直接負っていると考えられたのです。
このように、中世を通じて、国王の権力が神に由来するという観念自体は広く共有されていました。しかし、その権力が教皇を「経由」するのか、それとも神から「直接」授けられるのかという点をめぐって、聖俗の権力は激しく対立しました。この対立の文脈の中で、国王側が自らの権威の独立性を主張するために用いた論理こそが、近世の王権神授説の直接的な原型となったのです。国王たちは、教皇という普遍的権威の介入を排除し、自らが領国内における最高の統治者であることを神の名において正当化しようと試みたのでした。
理論の体系化

宗教改革

16世紀にヨーロッパを席巻した宗教改革は、王権神授説が、中世的な聖俗闘争の論理から、近代的な絶対王政を支える包括的な政治理論へと飛躍する上で、決定的な触媒となりました。マルティン=ルターに始まる宗教改革は、ローマ教皇の普遍的な権威を根底から覆し、ヨーロッパのキリスト教世界を回復不可能なまでに分裂させました。この宗教的権威の崩壊がもたらした権力の真空を埋めたのが、各地の世俗君主でした。
ルター自身は、政治権力に対して決して積極的な役割を期待していたわけではありません。彼の「二王国説」は、神が世界を、福音によって支配される霊的な「神の国」と、法と剣によって秩序を維持する世俗的な「この世の国」という、二つの異なる方法で統治していると説きます。世俗の君主の役割は、罪深い人間社会が混乱に陥らないように、剣の力を用いて秩序を維持することに限定されていました。しかし、ルターが教皇の権威を否定し、ドイツの諸侯に教会の改革を呼びかけた結果、意図せずして、領邦君主が自領の教会の首長となる「領邦教会制」への道が開かれました。1555年のアウクスブルクの和議で「領主の宗教が、その地の宗教となる」という原則が確立されると、領邦君主は、臣民の信仰のあり方を決定する権限さえも手中に収め、その権力を飛躍的に増大させました。
イングランドでは、このプロセスがさらに劇的な形で進行しました。国王ヘンリー8世は、王妃キャサリンとの離婚問題をめぐってローマ教皇と対立し、1534年に「国王至上法(首長令)」を発布して、自らがイングランド国教会(アングリカン=チャーチ)の唯一最高の首長であると宣言しました。これは、イングランドにおける教皇の権威を完全に排除し、国王が聖俗両面にわたる最高の権力者となることを法的に確立する、まさに革命的な出来事でした。国王は、神から直接、国民の魂と身体の両方を統治する責任を委ねられた存在と見なされるようになったのです。
このように、宗教改革は、多くの国で、国王が教皇の権威から完全に独立し、国内における宗教問題に対しても最高決定権を持つことを可能にしました。国王の権力は、もはや教皇権と対峙する相対的なものではなく、国内において他のいかなる権威にも優越する、絶対的なものへとその性格を変え始めました。この新しい状況を正当化するために、中世から受け継がれてきた「神の恩寵による王」という観念は、より先鋭的で包括的な「王権神授説」として再構築される必要があったのです。
フランスでの展開

王権神授説が最も洗練された形で体系化されたのは、16世紀後半から17世紀にかけてのフランスにおいてでした。当時のフランスは、カトリックとプロテスタント(ユグノー)の間で、サン=バルテルミの虐殺に象徴されるような、血で血を洗う宗教内戦(ユグノー戦争)に引き裂かれていました。この混乱の中で、国家の統一を回復するためには、宗教的党派性を超越した、強力で絶対的な王権が必要であるという考え方が、ジャン=ボダンら「ポリティーク派」と呼ばれる穏健派知識人の間で提唱されました。ボダンは主著『国家論六編』で、主権を「国家における絶対的かつ永続的な権力」と定義し、近代的な主権論の基礎を築きましたが、彼の理論はあくまで世俗的な政治理論でした。
このボダンの主権論に、神学的な権威づけを与え、王権神授説として完成させたのが、17世紀後半、ルイ14世の治世に活躍したジャック=ベニーニュ=ボシュエ司教です。ボシュエは、ルイ14世の皇太子ルイの教育係を務め、そのために執筆した『世界史叙説』や『聖書より引かれたる政治学』といった著作の中で、王権神授説を最も明快かつ体系的に論じました。
ボシュエによれば、王権は四つの本質的な特徴を持っています。第一に、「神聖」であること。国王は神の代理人であり、その人格は神聖です。国王を攻撃することは、神に対する冒涜に他なりません。第二に、「父性的」であること。国王は、神が人類の父であるように、臣民全体の父であり、その統治は厳格であると同時に、慈愛に満ちたものでなければなりません。第三に、「絶対的」であること。これは、ボダンの主権論を受け継ぐもので、国王の権力がいかなる人間の権力(教会、議会、法そのもの)からも拘束されず、最終的な決定権を持つことを意味します。国王は法を超越しており、その命令に逆らうことは許されません。第四に、「理性に従う」こと。国王は気まぐれや情念で統治するのではなく、神から与えられた理性と知恵を用いて、国家の公共の福祉のために統治すべきであるとされます。
ボシュエの理論の巧みさは、国王の権力を絶対的なものとして最大限に高めながらも、同時に、その権力に重い道徳的・宗教的責任を課した点にあります。国王は人間に対しては責任を負いませんが、そのすべての言動について、死後、神の法廷で厳格な審判を受けなければなりません。この神への畏怖こそが、国王が暴君となることを防ぐ、唯一の内面的な歯止めであるとされたのです。ボシュエの理論は、ブルボン朝の絶対王政に、揺るぎない神学的な正当性を与え、「太陽王」ルイ14世の栄光をイデオロギーの側面から完璧に支えるものとなりました。
イングランドでの展開

フランスで王権神授説が絶対王政の確立に貢献したのとは対照的に、イングランドでは、この説は国王と議会の間の激しい政治的対立の火種となり、最終的には革命を引き起こす原因の一つとなりました。
イングランドにおける王権神授説の最も熱烈な提唱者は、スコットランド王ジェームズ6世として即位し、後にイングランド王ジェームズ1世となったステュアート朝最初の王です。彼は、国王となる以前から『自由なる君主国の真の法』(1598年)や『バシリコン・ドーロン(王への贈物)』(1599年)といった著作を著し、自らの王権観を明確に表明していました。ジェームズによれば、国王は「地上の神々(little Gods)」であり、神によってその地位に就けられたのです。国王は法を制定する者であり、法の下にあるのではなく、法の上に立つ存在です。議会は、国王が助言を求めるために召集する機関に過ぎず、その権限は国王から与えられたものに他なりません。彼は、臣民が国王の行動を批判したり、その権力に制限を加えようとしたりすることは、神の神秘を探ろうとするに等しい、不遜な行為であると断じました。
ジェームズ1世のこのような高い王権観は、中世以来、国王の権力を法(コモン=ロー)と議会の同意によって制限する伝統が根付いていたイングランドの政治風土とは、真っ向から対立するものでした。エドワード=コーク卿に代表されるコモン=ロー法律家たちは、「国王といえども、神と法の下にある」という中世以来の原則を盾に、国王の大権(ロイヤル=プレロガティブ)もまた、コモン=ローによって制限されると主張しました。また、議会、特に下院は、課税に関する自らの承認権を国王の権力に対抗するための最も強力な武器と見なし、ジェームズ1世やその後継者であるチャールズ1世の財政要求に対して、しばしば抵抗しました。
この対立をさらに深刻化させたのが、宗教問題でした。ジェームズ1世やチャールズ1世が、国教会における司教制度を擁護し、儀式的な側面を強めようとしたのに対し、議会内で勢力を増していたピューリタン(イングランドのカルヴァン派)は、それをカトリックへの回帰であると警戒し、より簡素で非階層的な教会制度を求めました。国王側が王権神授説と司教制度を一体のものとして擁護すればするほど、ピューリタンたちは、国王の絶対主義的な傾向に反発し、議会の権利と臣民の自由を擁護する立場へと傾いていきました。
この政治的・宗教的対立は、チャールズ1世の治世に頂点に達します。国王が議会の同意なしに課税を強行し、議会を長期間にわたって召集しない「専制政治」を行った結果、ついにイングランド内戦(ピューリタン革命)が勃発します。この内戦は、王権神授説を掲げる国王軍と、議会の権利と法の支配を主張する議会軍との間の、国家の主権がどこに存するかをめぐる武力闘争でした。その帰結は、国王軍の敗北、チャールズ1世の処刑、そしてイングランド史上唯一の共和政の樹立という、王権神授説の信奉者にとっては悪夢としか言いようのないものでした。
理論の終焉

名誉革命とジョン=ロック

イングランドでは、王政復古によってステュアート朝が復活した後も、国王と議会の対立は続きました。チャールズ2世の弟で、カトリック教徒であることを公言していたジェームズ2世が即位すると、プロテスタントが多数を占めるイングランド国民の間に、カトリックの絶対君主制が復活するのではないかという恐怖が広がりました。ジェームズ2世が、議会の法を無視してカトリック教徒を公職に任命したり、常備軍を増強したりするに至り、議会の指導者たちは、ジェームズ2世の娘メアリとその夫であるオランダ総督ウィレム(ウィリアム3世)に、軍を率いてイングランドに来るよう密かに要請しました。1688年、ウィレムがイングランドに上陸すると、ジェームズ2世はほとんど抵抗を受けることなくフランスへ亡命しました。この無血の政変が、名誉革命です。
翌1689年、議会は「権利の宣言」を採択し、これをウィリアムとメアリが受諾することを条件に、共同統治者として王位を推戴しました。この宣言は後に「権利の章典」として法制化され、イングランド立憲君主制の基礎を確立しました。権利の章典は、議会の承認なしに国王が法の執行を停止したり、課税したり、平時に常備軍を維持したりすることを違法とし、議会選挙の自由、議会における言論の自由、そして国民が国王に請願する権利などを保障しました。これは、王権神授説に対する明確な拒絶であり、国王の権力が神からではなく、法と議会によって制限されることを確定させた、歴史的な文書でした。主権はもはや国王個人にではなく、「議会における国王」、すなわち国王、貴族院、庶民院の三者からなる統一体に存するとされるようになったのです。
この名誉革命を理論的に正当化し、王権神授説に決定的なとどめを刺したのが、思想家ジョン=ロックです。彼は、革命直後に出版された『統治二論』(1689年)の中で、王権神授説の主要な論客であったロバート=フィルマーの家父長制論(アダムからその長子へと受け継がれる父権が王権の起源であるとする説)を徹底的に論破しました。そして、それに代わる新しい政治理論として、社会契約説を提示しました。
ロックによれば、人間は生まれながらにして、生命、自由、そして財産に対する、誰にも奪うことのできない自然権を持っています。人々が政府を設立するのは、これらの自然権をより確実に保障するためであり、政府の権力は、統治される者々の同意に基づかなければなりません。政府が、人民から信託された権力を濫用し、人民の自然権を侵害する暴政と化した場合には、人民はそれに抵抗し、新たな政府を設立する権利(抵抗権、革命権)を持つ、とロックは主張しました。
ロックの理論は、政府の正当性の源泉を、神の意志から人民の同意へと、180度転換させるものでした。権力は上から与えられるものではなく、下から信託されるものなのです。この思想は、王権神授説の基盤を完全に覆し、名誉革命の正当性を雄弁に物語るだけでなく、その後のアメリカ独立革命やフランス革命にも計り知れない影響を与え、近代的な立憲主義と民主主義の思想的礎となりました。
啓蒙思想とフランス革命

イングランドで王権神授説が事実上その生命を終えた後も、フランスでは、ブルボン朝の絶対王政が、ボシュエの理論に支えられて18世紀を通じて存続しました。しかし、その足元では、新しい時代の思想、すなわち啓蒙思想が、旧体制(アンシャン=レジーム)の基盤を静かに、しかし着実に侵食していました。
ヴォルテール、モンテスキュー、ディドロ、そしてジャン=ジャック=ルソーといった啓蒙思想家たちは、理性(レゾン)の光を掲げ、伝統、権威、そして不合理な迷信を厳しく批判しました。ヴォルテールは、宗教的狂信や教会の権威を痛烈に批判し、理神論と寛容を説きました。モンテスキューは、『法の精神』(1748年)の中で、イングランドの立憲君主制を称賛し、権力の濫用を防ぐためには、立法、行政、司法の権力を分立させるべきであると説きました(権力分立論)。
中でも、王権神授説の対極に位置する思想を最もラディカルに展開したのが、ルソーです。彼は『社会契約論』(1762年)の中で、ロックの思想をさらに推し進め、主権は人民に存し、それは分割も譲渡もできないものであると主張しました(人民主権)。彼にとって、政府は人民の一般意志を実行するための単なる道具に過ぎず、代議制(議会)でさえ、人民の主権を代表することはできないと考えました。
これらの啓蒙思想は、サロンやカフェ、あるいは『百科全書』などを通じて、貴族からブルジョワジー、そして一般民衆へと広まっていきました。王権の神聖さや絶対性という観念は、理性的で批判的な精神の前で、次第にその説得力を失っていきました。国家の財政破綻、不平等な税制、そして相次ぐ失政が、旧体制への不満を増幅させる中で、啓蒙思想は、人々に新しい社会の可能性を提示し、革命への道を準備しました。
1789年、フランス革命が勃発すると、王権神授説は、その最後の砦であったフランスで、劇的な終焉を迎えます。革命の初期、国民議会は立憲君主制を目指しましたが、国王ルイ16世のヴァレンヌ逃亡事件などを経て、国王への信頼は完全に失われました。1792年、王政は廃止され、フランスは共和国となります。そして1793年1月、かつては神聖不可侵とされた国王ルイ16世が、「市民ルイ=カペー」として、ギロチンで処刑されました。この一市民の処刑は、一人の人間の死以上の意味を持っていました。それは、何世紀にもわたってヨーロッパの政治秩序を支えてきた王権神授説というイデオロギーの、公的な処刑宣告でもあったのです。フランス人権宣言が「あらゆる主権の根源は、本質的に国民に存する」と宣言したとき、権力の正当性の源泉は、天上の神から、地上の人民へと、完全かつ不可逆的に移行したのです。王権神授説は、もはや現実の政治を動かす力を持つ思想ではなく、歴史的な遺物となりました。

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