|
|
|
|
|
更新日時:
|
|
![]() |
カルヴァン派の公認とは わかりやすい世界史用語2662 |
|
著作名:
ピアソラ
0 views |
|
カルヴァン派の公認とは
1648年に締結されたウェストファリア条約は、ヨーロッパの歴史における転換点として、その名を深く刻んでいます。この条約は、三十年戦争という未曾有の破壊をもたらした紛争を終結させただけでなく、近代の国際関係の基礎となる主権国家体制の原則を確立したと広く見なされています。この歴史的な講和がもたらした数多くの変革の中でも、神聖ローマ帝国内におけるカルヴァン派の公認は、宗教的寛容と政治的現実主義が交差する、極めて重要な成果でした。
カルヴァン派の公認は、単に一つの宗派が法的な地位を得たという以上の意味を持ちます。それは、1555年のアウクスブルクの和議以来、約一世紀にわたって帝国の宗教的・政治的安定を脅かし続けてきた根本的な欠陥を修正する試みでした。アウクスブルクの和議は、カトリックとルター派の共存を認めることで一時的な平和をもたらしましたが、その枠組みから意図的に排除されたカルヴァン派の存在は、絶え間ない緊張と対立の火種であり続けました。この「第三の信仰」のダイナミックな拡大は、帝国の国制そのものを揺るがし、最終的には三十年戦争という大惨事の一因となったのです。
カルヴァン主義の台頭
ウェストファリア条約におけるカルヴァン派の公認を理解するためには、まずこの宗派が16世紀のヨーロッパ、特に神聖ローマ帝国内でどのようにして生まれ、発展し、そして既存の秩序にとって無視できない力となったのかを把握する必要があります。カルヴァン主義は、マルティン=ルターによって始められた宗教改革の「第二世代」として登場し、その教義の厳格さ、組織の強固さ、そして国際的な性格によって、ルター派とは異なる独自のダイナミズムを持っていました。
ジャン=カルヴァンと改革派神学
カルヴァン主義の創始者は、フランス出身の神学者ジャン=カルヴァンです。彼は当初、人文主義者として古典を学びましたが、1530年代初頭にプロテスタント思想に回心し、カトリック教会からの迫害を逃れてスイスのバーゼルへと亡命しました。1536年、彼はそこで主著『キリスト教綱要』の初版を出版します。この著作は、プロテスタント神学を体系的に論じた画期的なものであり、カルヴァンの名をヨーロッパ中に知らしめました。
カルヴァンの神学の中心には、神の絶対的な主権という概念があります。彼は、神が万物の創造主であり、その意志は人間の理解や理性を超えて絶対であると説きました。この神の主権の教義から、彼の最も特徴的な思想である「予定説」が導かれます。予定説とは、神が永遠の昔に、救済される者(選ばれた者)と滅びに至る者(見捨てられた者)をあらかじめ定めているという教えです。この教えは、一見すると人々の努力を無意味にするかのように思えますが、実際には信者たちに逆説的な効果をもたらしました。自らが神に選ばれた者であるという確信を得るために、信者たちは世俗的な職業に勤勉に励み、厳格な道徳的規律に従う生活を送ろうと努めたのです。
1541年、カルヴァンはジュネーヴ市の要請を受けて同市に定住し、その地を自らの宗教改革の拠点としました。彼はジュネーヴで、牧師、教師、長老、執事という四つの職分に基づく独自の教会組織を確立しました。特に、信徒の代表である長老が牧師と共に教会の運営と信徒の信仰生活の監督にあたる「長老制」は、カルヴァン派教会の大きな特徴となりました。この制度は、聖職者だけでなく信徒も教会の統治に参加することを可能にし、強固な組織的結束と規律を生み出しました。ジュネーヴは、カルヴァンの指導の下、プロテスタントの「模範都市」となり、ヨーロッパ各地から亡命してきたプロテスタントたちの避難所であり、また改革派の思想を学ぶための国際的なセンターとなりました。
神聖ローマ帝国への浸透
カルヴァン主義は、その教義の明快さと組織の力強さから、ジュネーヴを拠点としてヨーロッパ各地へ急速に広まっていきました。神聖ローマ帝国内では、1555年のアウクスブルクの和議以降、特にその影響が顕著になります。アウクスブルクの和議は、ルター派を法的に公認したものの、帝国内の宗教問題を完全に解決するには至りませんでした。むしろ、この和議がカルヴァン派を公認しなかったことが、かえってカルヴァン主義の拡大を促す一因となった側面もあります。
ルター派が帝国国制の枠内に取り込まれ、次第に保守化していく中で、カルヴァン主義はより急進的で戦闘的な改革を求める人々にとって魅力的な選択肢となりました。その教えは、ドイツ西部のライン川流域や南西部の諸都市、そして一部の有力な帝国諸侯の宮廷へと浸透していきました。
カルヴァン主義が帝国内で最初に公式に導入されたのは、ライン宮中伯領、すなわちファルツ選帝侯領でした。選帝侯フリードリヒ3世は、1560年代初頭にカルヴァン主義に改宗し、1563年には改革派神学の重要な信仰告白文書である「ハイデルベルク信仰問答」を制定しました。ファルツ選帝侯は、神聖ローマ皇帝を選出する権利を持つ七選帝侯の一人であり、その改宗は帝国の政治バランスに大きな影響を与える重大な出来事でした。ハイデルベルク大学はカルヴァン派神学の中心地となり、ファルツ選帝侯領は帝国内におけるカルヴァン主義の拠点として、他の地域への布教活動を積極的に支援しました。
ファルツに続いて、ナッサウ、ヘッセン=カッセル、アンハルト、そしてブランデンブルクといった他の帝国諸侯も、次々とカルヴァン主義を受け入れました。ブランデンブルク選帝侯ヨハン=ジギスムントの改宗(1613年)は、ファルツに次ぐ有力諸侯がカルヴァン派に加わったことを意味し、帝国内の宗派間の緊張をさらに高めました。
これらの諸侯がカルヴァン主義に惹かれた理由は様々でした。ある者は純粋な信仰上の確信から、またある者は、ルター派よりも厳格な教会改革を通じて領内の統制を強化しようと考えました。さらに、ハプスブルク家の皇帝やバイエルン公などのカトリック勢力、あるいは保守的なルター派諸侯に対抗するための、政治的・イデオロギー的な武器としてカルヴァン主義を利用しようとする者もいました。カルヴァン主義の国際的なネットワークは、フランスのユグノーやオランダの改革派との連携を可能にし、政治的な同盟関係を築く上で有利に働いたのです。
このようにして、16世紀後半から17世紀初頭にかけて、カルヴァン主義は神聖ローマ帝国内で無視できない勢力へと成長しました。しかし、その存在はアウクスブルクの和議の枠組みの外にあり、法的には認められていませんでした。この法的な地位の欠如と、カルヴァン派自身の戦闘的な姿勢が、帝国の政治的安定を根底から揺るがし、やがて三十年戦争という破局へとつながっていくことになります。
アウクスブルクの和議とカルヴァン派
1555年に締結されたアウクスブルクの和議は、神聖ローマ帝国内における宗教改革後の混乱を収拾し、カトリックとルター派の共存を制度化しようとする画期的な試みでした。しかし、この和議が意図的にカルヴァン派をその枠組みから排除したことは、結果的に帝国の将来に深刻な問題を残すことになりました。カルヴァン派の公認問題は、アウクスブルク体制の最大の弱点となり、三十年戦争に至るまでの半世紀以上にわたる政治的・宗教的対立の中心的な争点であり続けました。
和議の原則と限界
アウクスブルクの和議は、シュマルカルデン戦争などの宗教戦争を経て、神聖ローマ皇帝カール5世が退位する直前に、その弟であるフェルディナント(後の皇帝フェルディナント1世)と帝国諸侯との間で結ばれました。この和議の最も重要な原則は、「クーユス=レギオ、エイウス=レリギオ」、すなわち「領主の宗教が、その地の宗教となる」というものでした。これにより、帝国内の各領邦君主(諸侯)は、自らの領地においてカトリックかルター派(アウクスブルク信仰告白に基づく宗派)のいずれかを公式の宗教として選択する権利を認められました。領民は、領主の選択した宗派に従うか、あるいは財産を持って他の領地へ移住する権利を与えられました。
この原則は、個人の信仰の自由を保障するものではなく、あくまで領邦君主の宗教選択の自由を認めるものでした。しかし、それまでカトリック教会のみが唯一の正統な信仰とされてきたヨーロッパにおいて、ルター派を法的に公認したことは、宗教的多元性を制度的に認める第一歩であり、大きな進展でした。
しかし、この和議にはいくつかの重大な限界がありました。最も深刻だったのは、和議が認めたプロテスタントが、1530年の「アウクスブルク信仰告白」とその支持者に限定されていたことです。これは、当時すでに存在していたツヴィングリ派や再洗礼派、そして何よりも、この和議の後に急速に勢力を拡大することになるカルヴァン派が、法的な保護の対象外であることを意味していました。
さらに、「聖職者領の留保」と呼ばれる条項も、将来の紛争の火種となりました。これは、カトリックの聖職者(大司教や司教など)が治める領地(聖職者領)において、その統治者がプロテスタントに改宗した場合、その地位と領地を失い、後任にはカトリック聖職者が選ばれるという規定でした。この条項は、プロテスタント側が強く反対したため、皇帝の勅令という形で一方的に追加されたものであり、プロテスタント諸侯はこれを法的に有効なものと認めていませんでした。
「第三の信仰」の挑戦
アウクスブルクの和議が成立した時点では、帝国内のカルヴァン派の勢力はまだ小さく、交渉の当事者たちはその将来的な影響力を予測できませんでした。しかし、和議後の数十年で、カルヴァン主義は前述の通り、ファルツ選帝侯領を筆頭に、多くの領邦や都市で受け入れられていきました。
カルヴァン派の諸侯や都市は、法的に極めて不安定な立場に置かれました。彼らはアウクスブルクの和議によって保障された平和(ラント平和令)の恩恵を受けることができず、カトリック勢力から攻撃された場合、法的な保護を期待できませんでした。カトリック側は、カルヴァン派をアウクスブルク信仰告白から逸脱した異端とみなし、その存在を認めませんでした。
この状況に対応するため、カルヴァン派の諸侯は、自らがアウクスブルク信仰告白の正統な解釈者であると主張しようと試みました。彼らは、自らの信仰がアウクスブルク信仰告白の「改訂版」に基づいていると主張し、ルター派との神学的な違いを曖昧にすることで、和議の枠内に留まろうとしました。しかし、厳格なルター派(いわゆる「純正ルター派」)は、カルヴァン派の聖餐論(キリストの体と血がパンとぶどう酒に実在するというルター派の教えに対し、カルヴァン派は象徴的・霊的臨在を説いた)などを激しく非難し、彼らをアウクスブルク信仰告白の仲間と認めることを拒否しました。
この結果、プロテスタント陣営は、保守的な純正ルター派と、より戦闘的で国際的な連携を重視するカルヴァン派(およびそれに同調する一部のルター派)との間で分裂を深めていきました。この内部分裂は、対抗宗教改革を推進するカトリック勢力に対抗する上で、プロテスタント側の力を著しく削ぐことになりました。
プロテスタント同盟とカトリック連盟
17世紀初頭、帝国内の宗派間の緊張は頂点に達しました。1606年、帝国都市ドナウヴェルトで、プロテスタントの多数派住民がカトリックの宗教行列を妨害した事件が起こりました。これに対し、バイエルン公マクシミリアン1世が皇帝の命を受けて軍事介入し、ドナウヴェルトを占領してカトリック化を強制するという事態が発生しました。この事件は、プロテスタント諸侯に強い危機感を抱かせました。
この危機に対応するため、1608年、ファルツ選帝侯フリードリヒ4世を盟主として、帝国内のカルヴァン派諸侯と一部の急進的なルター派諸侯が、防衛同盟である「プロテスタント同盟(福音同盟)」を結成しました。彼らの目的は、カトリック勢力によるさらなる侵害から自らの権利と領土を守ることであり、その中にはカルヴァン派の信仰の自由を事実上確保することも含まれていました。
プロテスタント同盟の結成に対し、カトリック側も結束を固めます。1609年、バイエルン公マクシミリアン1世を中心に「カトリック連盟(カトリック同盟)」が結成されました。これにより、神聖ローマ帝国内は、武装した二つの宗派間同盟が鋭く対峙するという、一触即発の状況に陥りました。
アウクスブルクの和議が目指した平和は、もはや崩壊寸前でした。和議の枠組みから排除されたカルヴァン派の存在が、帝国の法秩序の曖昧さを露呈させ、宗派間の不信感を増幅させ、最終的には武装対立へとエスカレートさせていったのです。この対立構造こそが、1618年のボヘミアでの反乱を、瞬く間に帝国全体を巻き込む大戦争へと発展させる土壌となりました。カルヴァン派の公認問題は、もはや単なる神学論争ではなく、帝国の存亡をかけた政治闘争の中心にあったのです。
三十年戦争とカルヴァン派
三十年戦争の勃発と初期の展開において、カルヴァン派、特にファルツ選帝侯フリードリヒ5世が果たした役割は決定的でした。彼の行動は、ボヘミアにおける地方的な反乱を、ヨーロッパ全土を巻き込む大規模な宗教戦争・政治戦争へと転化させる直接的な引き金となりました。この戦争を通じて、カルヴァン派の公認問題は、帝国の平和を回復するために解決されなければならない、避けて通れない課題として浮上しました。
ボヘミアの反乱とファルツ選帝侯
1617年、神聖ローマ皇帝マティアスが高齢で嗣子がいなかったため、ハプスブルク家は次期ボヘミア王として、厳格なカトリック教徒であり、対抗宗教改革の強力な推進者であったフェルディナント=フォン=シュタイアーマルク(後の皇帝フェルディナント2世)を選出しました。ボヘミアは、フス戦争以来の伝統からプロテスタントが多数派を占めており、貴族たちは1609年の「マイェステートブリーフ(皇帝勅書)」によって信仰の自由を保障されていました。彼らは、フェルディナントの即位が、自分たちの宗教的・政治的自由を脅かすことを強く懸念しました。
案の定、フェルディナントの代理としてボヘミアを統治したカトリックの摂政たちは、プロテスタントの権利を制限し始めました。これに反発したプロテスタント貴族たちは、1618年5月23日、プラハ城に押しかけ、皇帝の使者である二人の摂政と書記官を窓から突き落としました。この「プラハ窓外放出事件」は、ハプスブルク家の支配に対する公然たる反乱の始まりでした。
ボヘミアの反乱貴族たちは、フェルディナントの王位を否認し、新たな王を探し始めました。彼らが白羽の矢を立てたのが、プロテスタント同盟の盟主であり、帝国内のカルヴァン派の指導者であったファルツ選帝侯フリードリヒ5世でした。フリードリヒ5世は、イングランド王ジェームズ1世の娘エリザベス=スチュアートと結婚しており、オランダや他のプロテスタント諸国からの支援も期待できる、反ハプスブルク陣営の象徴的な人物でした。
フリードリヒ5世は、このボヘミア王位の申し出を受け入れるかどうか、深く葛藤しました。それは、ハプスブルク家との全面戦争を意味する、極めて危険な賭けでした。多くの顧問が反対する中、彼は最終的に1619年8月、ボヘミア王位を受諾することを決断します。奇しくもその直後、フランクフルトで行われた選帝侯会議は、フェルディナントを新たな神聖ローマ皇帝(フェルディナント2世)として選出していました。フリードリヒの決断は、皇帝に選出されたばかりの人物からその世襲領の一つを奪い取るという、帝国国制に対する真っ向からの挑戦となったのです。
白山の戦いとカルヴァン派の敗北
フリードリヒ5世は「冬王」としてプラハで戴冠しましたが、その治世は長く続きませんでした。彼の期待に反して、プロテスタント同盟の他の諸侯からの支援は限定的であり、義父であるイングランド王ジェームズ1世も介入に消極的でした。一方、皇帝フェルディナント2世は、カトリック連盟の指導者であるバイエルン公マクシミリアン1世と、スペイン=ハプスブルク家の強力な支援を取り付けました。
1620年11月8日、プラハ近郊で起こった「白山の戦い」で、カトリック連盟軍はフリードリヒのボヘミア軍に圧勝しました。戦闘はわずか1時間ほどで決着し、フリードリヒは王妃と共にプラハから逃亡せざるを得ませんでした。彼のボヘミア王としての治世は、わずか一冬で終わったため、「冬王」と揶揄されることになります。
この敗北の代償は甚大なものでした。ボヘミアでは、反乱指導者たちが処刑され、プロテスタントの信仰は徹底的に弾圧されました。土地は没収され、カトリック貴族に与えられました。ボヘミアは完全にカトリック化され、ハプスブルク家の絶対的な支配下に置かれました。
さらに、戦火はフリードリヒの本拠地であるファルツ選帝侯領にも及びました。スペイン軍とバイエルン軍がファルツに侵攻し、その領土を占領しました。1623年、皇帝フェルディナント2世は、フリードリヒ5世から選帝侯の地位と、その領地の一部(オーバープファルツ)を剥奪し、それを白山の戦いでの功績への報酬としてバイエルン公マクシミリアン1世に与えるという、前代未聞の措置をとりました。これは、帝国の基本法である金印勅書を無視する行為であり、プロテスタント諸侯の激しい反発を招きました。
カルヴァン派の指導者であったファルツ選帝侯の敗北と選帝侯位の剥奪は、三十年戦争の初期段階における決定的な出来事でした。それは、帝国内のカルヴァン派勢力に壊滅的な打撃を与えただけでなく、皇帝とカトリック勢力の強硬な姿勢を白日の下に晒しました。この措置は、帝国内の権力バランスを根本的に覆すものであり、デンマークやスウェーデンといった外国のプロテスタント勢力が戦争に介入する口実を与えることになりました。こうして、カルヴァン派の敗北から始まった戦争は、ドイツ国内の紛争という枠を超え、国際的な大戦争へと拡大していったのです。
ウェストファリア会議と公認
三十年にわたる破壊的な戦争の末、関係諸国はついに和平のテーブルに着きました。1644年から始まったウェストファリアの講和会議において、カルヴァン派の公認問題は、帝国の将来の平和を築く上で避けては通れない中心的な議題の一つとなりました。その解決は、複雑な宗教的対立と政治的利害が絡み合う、困難な交渉の末に達成されました。
交渉の焦点
ウェストファリア会議における宗教問題の交渉は、主にオスナブリュックで行われました。交渉の基本的な枠組みは、1555年のアウクスブルクの和議を更新し、その後の変化に対応するというものでした。その中で、カルヴァン派(改革派)をアウクスブルクの和議の対象に含め、カトリック、ルター派と同等の権利を認めることが、プロテスタント側の主要な要求の一つでした。
この要求を主導したのは、スウェーデンと、帝国内のカルヴァン派諸侯であるブランデンブルク選帝侯やヘッセン=カッセル方伯でした。特にブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムは、自らの信仰の法的地位を確保するために、カルヴァン派の公認を強く主張しました。
しかし、この要求には多くの障害がありました。皇帝とカトリック諸侯は、これ以上プロテスタントに譲歩することに強く抵抗しました。彼らは、カルヴァン派を異端と見なす伝統的な立場を崩そうとしませんでした。
さらに、プロテスタント陣営の内部にも問題がありました。ザクセン選帝侯に代表される保守的なルター派諸侯は、カルヴァン派に対して依然として強い神学的な反感を抱いていました。彼らは、カルヴァン派がルター派と同じ法的地位を得ることに必ずしも積極的ではありませんでした。しかし、交渉を有利に進めるためにはプロテスタントとしての一致した行動が必要であるという政治的判断から、最終的にはスウェーデンやブランデンブルクの要求を支持する立場をとりました。
交渉のもう一つの大きな焦点は、ファルツ選帝侯領の地位回復問題でした。フリードリヒ5世の息子であるカール=ルートヴィヒは、父が失った領土と選帝侯位の返還を求めていました。この問題は、カルヴァン派の公認問題と密接に結びついていました。なぜなら、ファルツ選帝侯は帝国内のカルヴァン派の象徴的な指導者であり、その地位の回復はカルヴァン派全体の復権を意味したからです。フランスとスウェーデンは、ハプスブルク家とバイエルンの力を削ぐため、カール=ルートヴィヒの要求を支持しました。
妥協と条約の条文
数年間にわたる粘り強い交渉の末、各勢力は妥協点を見出しました。この妥協の産物が、オスナブリュック条約の第5条と第7条に盛り込まれた宗教に関する規定です。
オスナブリュック条約第7条第1項は、歴史的なブレークスルーとなりました。この条項は、アウクスブルクの和議とそれに続く宗教関連の取り決めが、カトリックと「アウクスブルク信仰告白の支持者」だけでなく、「いわゆる改革派(カルヴァン派)」にも適用されることを明確に宣言しました。これにより、カルヴァン派はついにカトリック、ルター派と並んで、神聖ローマ帝国内で法的に公認された第三の宗派となったのです。彼らもまた、「クーユス=レギオ、エイウス=レリギオ」の原則に基づき、領邦の宗教を決定する権利を認められました。
この公認と関連して、帝国の宗教問題に関するもう一つの重要な取り決めがなされました。それは、「基準年」の設定です。条約は、1624年1月1日を基準日とし、その時点で各領邦や教区が持っていた宗派的地位と教会財産の所有権を凍結し、将来にわたって維持することを定めました。これは、三十年戦争中に強制的に行われた宗派の変更(特にカトリック化)の多くを無効にし、プロテスタントが失った教会や土地を取り戻すことを可能にしました。この規定は、カルヴァン派にも同様に適用され、彼らの宗教的実践と財産権を法的に保障するものとなりました。
ファルツ問題に関しても、巧妙な妥協が成立しました。カール=ルートヴィヒは、父の領地の一部(ライン下宮中伯領)を取り戻し、新たに創設された第八の選帝侯位を与えられることになりました。一方、バイエルン公マクシミリアン1世は、戦争中に獲得したオーバープファルツと、彼に与えられた選帝侯位を保持することが認められました。これにより、選帝侯の数は7から8に増え、その構成はカトリック5、プロテスタント3(ルター派のザクセンとブランデンブルク、カルヴァン派のファルツ)となりました。ファルツ選帝侯の復権は、帝国の最高機関にカルヴァン派の代表が公式に議席を持つことを意味し、カルヴァン派の公認を象徴する出来事となりました。
結論
ウェストファリア条約によるカルヴァン派の公認は、ヨーロッパの宗教史と政治史における重大な転換点でした。それは、約一世紀にわたって神聖ローマ帝国の安定を脅かし、三十年戦争という大惨事の一因となった根本的な問題を、政治的な妥協によって解決しようとする試みの集大成でした。
この公認は、カルヴァン派がその神学的な正しさを証明した結果ではなく、むしろ戦争の現実が生み出した政治的必然の産物でした。三十年にわたる戦乱は、どの宗派も武力によって相手を完全に根絶することが不可能であることを、すべての当事者に痛感させました。血を流し続けた末に、彼らはイデオロギー的な純粋性よりも、共存のための現実的な枠組みを構築することの重要性を学んだのです。
カルヴァン派をアウクスブルクの和議の枠組みに含めるという決定は、帝国の宗教的共存の原則を、より包括的で現実的なものへと拡大しました。それは、宗教的真理の探求を放棄するものではありませんでしたが、宗派間の違いが政治的な対立や戦争に直結することを防ぐための、法的な防波堤を築くものでした。1624年という「基準年」の設定は、将来の宗教的な領土争いを防ぎ、現状を維持することで安定を図るという、極めてプラグマティックな解決策でした。
この決定はまた、神聖ローマ帝国の国制そのものの変化を反映しています。ファルツ選帝侯の復権と第八選帝侯位の創設は、帝国の最高レベルの政治的意思決定の場に、カルヴァン派が公式なプレーヤーとして参加することを認めました。これは、帝国がもはや単一の宗教的理念に基づく共同体ではなく、異なる宗派の利害を調整する政治的な枠組みへと変貌したことを象徴しています。
ウェストファリア条約におけるカルヴァン派の公認は、宗教的寛容の理念が完全に勝利したことを意味するわけではありません。個人の信仰の自由は依然として限定的であり、宗派間の不信感が完全に消え去ったわけでもありませんでした。しかし、この条約は、異なる信仰を持つ人々が同じ政治的共同体の中で共存するための、法的かつ制度的な基礎を築きました。それは、宗教が国家の第一の関心事であった時代から、国家の理性と勢力均衡が国際関係を律する近代的な時代への移行を告げる、重要な一歩であったと言えるのです。三十年戦争という悲劇を経て、ヨーロッパは、宗派間の対立を管理し、より多元的で安定した秩序を構築するという、困難な、しかし不可欠な教訓を学んだのでした。
このテキストを評価してください。
|
役に立った
|
う~ん・・・
|
※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。 |
|
スイス・オランダの独立とは わかりやすい世界史用語2661
>
神聖ローマ帝国の形骸化とは わかりやすい世界史用語2663
>
ホラント州とは わかりやすい世界史用語2629
>
オランダの繁栄 ~オラニエ公ウィレムとユトレヒト同盟 オランダ独立戦争~
>
重商主義とは わかりやすい世界史用語2618
>
ヴァレンシュタインとは わかりやすい世界史用語2658
>
オランダ独立戦争とは わかりやすい世界史用語2628
>
最近見たテキスト
|
カルヴァン派の公認とは わかりやすい世界史用語2662
10分前以内
|
>
|
注目テキスト
世界史
- 先史時代
- 先史時代
- 西アジア・地中海世界の形成
- 古代オリエント世界
- ギリシア世界
- ヘレニズム世界
- ローマ帝国
- キリスト教の成立と発展
- アジア・アメリカの古代文明
- イラン文明
- インドの古代文明
- 東南アジアの諸文明
- 中国の古典文明(殷・周の成立から秦・漢帝国)
- 古代の南北アメリカ文明
- 東アジア世界の形成と発展
- 北方民族の活動と中国の分裂(魏晋南北朝時代)
- 東アジア文化圏の形成(隋・唐帝国と諸地域)
- 東アジア諸地域の自立化(東アジア、契丹・女真、宋の興亡)
- 内陸アジア世界の形成
- 遊牧民とオアシス民の活動
- トルコ化とイスラーム化の進展
- モンゴル民族の発展
- イスラーム世界の形成と拡大
- イスラーム帝国の成立
- イスラーム世界の発展
- インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
- イスラーム文明の発展
- ヨーロッパ世界の形成と変動
- 西ヨーロッパ世界の成立
- 東ヨーロッパ世界の成立
- 西ヨーロッパ中世世界の変容
- 西ヨーロッパの中世文化
- 諸地域世界の交流
- 陸と海のネットワーク
- 海の道の発展
- アジア諸地域世界の繁栄と成熟
- 東アジア・東南アジア世界の動向(明朝と諸地域)
- 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)
- トルコ・イラン世界の展開
- ムガル帝国の興隆と衰退
- ヨーロッパの拡大と大西洋世界
- 大航海時代
- ルネサンス
- 宗教改革
- 主権国家体制の成立
- 重商主義と啓蒙専制主義
- ヨーロッパ諸国の海外進出
- 17~18世紀のヨーロッパ文化
- ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成
- イギリス革命
- 産業革命
- アメリカ独立革命
- フランス革命
- ウィーン体制
- ヨーロッパの再編(クリミア戦争以後の対立と再編)
- アメリカ合衆国の発展
- 19世紀欧米の文化
- 世界市場の形成とアジア諸国
- ヨーロッパ諸国の植民地化の動き
- オスマン帝国
- 清朝
- ムガル帝国
- 東南アジアの植民地化
- 東アジアの対応
- 帝国主義と世界の変容
- 帝国主義と列強の展開
- 世界分割と列強対立
- アジア諸国の改革と民族運動(辛亥革命、インド、東南アジア、西アジアにおける民族運動)
- 二つの大戦と世界
- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























