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ルネサンス様式とは わかりやすい世界史用語2496
著作名: ピアソラ
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ルネサンス様式とは

ルネサンス様式とは、15世紀初頭のイタリア=フィレンツェに生まれ、その後約2世紀にわたってヨーロッパ全土に広まった、建築、絵画、彫刻、そして装飾芸術における革新的な表現様式です。その名は「再生」を意味し、中世のゴシック様式が支配的であった時代から脱却し、古代ギリシャ=ローマの古典主義的な理想、すなわち秩序、調和、そして人間中心主義的な価値観を、キリスト教的な世界観と融合させながら、新たな形で蘇らせようとする試みでした。ルネサンス様式は、単なる過去の模倣ではありません。それは、数学的な比例関係、合理的な空間構成、そして人間的なスケール感を重視することで、神の偉大さだけでなく、理性を持ち、世界を理解し、創造することができる「人間の尊厳」をも称揚しようとする、新しい時代の精神を体現したものでした。



15世紀フィレンツェ

ルネサンス様式が誕生した背景には、14世紀から15世紀にかけてのイタリア、特にフィレンツェ共和国が経験した、経済的、政治的、そして文化的な大変動があります。この都市が、なぜ新しい芸術様式の震源地となり得たのかを理解することは、ルネサンスの本質を掴む上で不可欠です。
ゴシック様式からの離反と人文主義の勃興

ルネサンス以前のヨーロッパでは、ゴシック様式が建築の主流でした。天高くそびえる尖塔、ステンドグラスから差し込む神秘的な光、そして複雑なリブ・ヴォールト構造を持つゴシック様式の大聖堂は、神の超越的な権威と、地上の人間の矮小さを強調するものでした。その構造は、しばしば非合理的で、装飾は過剰とも言えるほど豊かであり、その空間は人々を畏怖させることを目的としていました。
しかし、14世紀のイタリアでは、ペトラルカやボッカッチョといった文人たちによって、「人文主義(ヒューマニズム)」と呼ばれる新しい知的運動が始まっていました。彼らは、中世のスコラ哲学的な思弁よりも、古代ギリシャ=ローマの文学、歴史、修辞学にこそ、人間がより善く生きるための知恵が隠されていると考えました。彼らは、忘れ去られていた古典古代の文献を再発見し、研究することで、神中心の世界観から、人間そのものの可能性や理性を尊重する人間中心的な世界観へと、価値観の転換を促しました。この人文主義の精神は、芸術家たちにも大きな影響を与え、彼らは自らを単なる職人ではなく、知的な創造者として意識するようになりました。
フィレンツェの経済的繁栄と市民の誇り

15世紀のフィレンツェは、毛織物業と銀行業によって、ヨーロッパで最も裕福な都市の一つでした。メディチ家のような強力な銀行家一族は、莫大な富を築き、その富を芸術や学問のパトロンとして惜しみなく投じました。彼らは、自らの名声を示すと同時に、フィレンツェ共和国という共同体の栄光を称えるために、壮大な教会や宮殿、公共建築の建設を競い合いました。
このような市民的なパトロネージの気風は、芸術家たちに新たな創造の機会を与えました。彼らが求めたのは、単に伝統的な様式を踏襲することではなく、フィレンツェの力と知性を象徴する、新しい時代の建築でした。そして、そのインスピレーションの源泉として、彼らが目を向けたのが、かつてイタリア半島に栄えた古代ローマの遺跡でした。フィレンツェの市民たちは、自らを古代ローマ共和国の正当な後継者と見なしており、その建築様式を「再生」させることは、自らの文化的アイデンティティを確認する行為でもあったのです。
ブルネレスキ

この新しい時代の幕開けを象徴する記念碑的な建築物が、フィレンツェのサンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂に架けられた巨大なクーポラ(円蓋)です。この大聖堂はゴシック様式で建設が進められていましたが、直径40メートルを超える巨大な八角形の開口部の上に、いかにしてクーポラを架けるかという難問は、一世紀以上にわたって未解決のままでした。伝統的なゴシック建築の技術では、このような巨大な空間を覆うことは不可能だったのです。
この難題に挑み、見事に解決策を提示したのが、金細工師であり彫刻家でもあったフィリッポ=ブルネレスキでした。彼は、ローマに赴いてパンテオンなどの古代ローマ建築を実地で調査し、その構造技術を研究したと言われています。そして、彼はそこから得た知識と、彼自身の独創的な着想を組み合わせて、画期的な工法を考案しました。
ブルネレスキの解決策の核心は、二重殻構造と、杉綾模様にレンガを積む「ヘリンボーン・パターン」の採用にありました。彼は、クーポラを内側の殻と外側の殻の二重構造にすることで、全体の重量を軽減し、構造的な安定性を高めました。また、巨大な木枠の足場(仮枠)を組む代わりに、レンガを杉綾模様に積み上げることで、建設途中の壁が内側に崩れるのを防ぎながら、自己支持的に建設を進めていくことを可能にしました。さらに、クーポラの基部を石と鉄の鎖で締め付けることで、外側に開こうとする力(スラスト)を抑制しました。
1436年に完成したこのクーポラは、単なる技術的な偉業ではありませんでした。その力強くも優美な放物線状の輪郭は、ゴシック建築の垂直性とは対照的に、理性的で調和のとれた幾何学的な美しさを体現していました。それは、古代の知恵を学び、人間の創意工夫によって、かつて誰も成し得なかったことを実現できるという、新しいルネサンスの精神を象徴するものでした。ブルネレスキは、このプロジェクトを通じて、建築家を単なる建設技術者から、理論的な知識と実践的な技術を兼ね備えた、知的な設計者へとその地位を高めたのです。このクーポラの建設こそが、ルネサンス建築の実質的な始まりであったと言えるでしょう。
ルネサンス建築の基本原理と語彙

ブルネレスキによって切り開かれたルネサンス建築は、その後、レオン=バッティスタ=アルベルティといった理論家によって体系化され、明確な基本原理とデザイン上の「語彙」を持つ様式として確立されていきました。その根底にあるのは、古代ローマ建築、特にウィトルウィウスの『建築十書』に記された、秩序、対称性、そして数学的な比例への深い信頼でした。
平面、ファサード、そしてオーダーの復興

ルネサンスの建築家たちは、ゴシック建築の複雑で不規則な平面計画を批判し、正方形や円といった、明快で理解しやすい幾何学に基づいた、対称的で合理的な平面を好みました。建物の各部分は、全体との関係性の中で、明確な比例関係を持つように配置されました。この考え方は、建物の外観であるファサードの設計にも貫かれています。ルネサンスのファサードは、水平性と垂直性のバランスが慎重に考慮され、各要素がグリッド状のシステムの中に整然と配置されることで、静的で安定した調和の感覚を生み出します。
この秩序ある構成を実現するための基本的なデザイン要素となったのが、古代ギリシャ=ローマ建築から借用された「オーダー」です。オーダーとは、柱(円柱または角柱)と、それが支える水平材(エンタブラチュア)の特定の組み合わせ方を定めた様式であり、ドーリア式、イオニア式、コリント式といった種類があります。ルネサンスの建築家たちは、これらのオーダーを単なる構造部材としてではなく、建物の立面を分節し、比例とリズムを与えるための装飾的な語彙として復活させました。例えば、ローマのコロッセウムのように、建物の階層ごとに異なるオーダー(下からドーリア式、イオニア式、コリント式)を重ねて用いることで、ファサードに視覚的な豊かさと秩序ある階層性を与えました。
ルネサンス建築を構成する特徴的な要素

オーダーに加えて、ルネサンス建築は、古代ローマ建築に由来するいくつかの特徴的な形態をそのデザイン語彙として取り入れました。
円形アーチ=ゴシック建築の尖頭アーチに代わって、ルネサンス建築では半円形のアーチが全面的に採用されました。半円アーチは、その単純で安定した幾何学的な形が、ルネサンスの合理性と調和の精神を象徴するものと考えられました。ブルネレスキが設計したフィレンツェの孤児養育院のロッジアに見られる、軽快な円柱に支えられた連続する円形アーチは、初期ルネサンス建築の優美さを象徴するものです。
クーポラとトンネル・ヴォールト=ブルネレスキの偉業に続き、クーポラ(円蓋)は、ルネサンスおよびその後のバロック建築において、教会の最も神聖な空間である交差部の上を覆うための主要な形式となりました。また、ゴシックのリブ・ヴォールトに代わり、古代ローマのバシリカなどで見られた、半円筒形の天井であるトンネル・ヴォールトや、二つのトンネル・ヴォールトが直交する交差ヴォールトが再び用いられるようになりました。これらのヴォールトは、しばしば格子状の格間で装飾され、壮麗で秩序ある内部空間を創り出しました。
ペディメント=古代の神殿の正面に見られる、三角形の切妻壁(破風)であるペディメントもまた、窓や扉の上部を飾るための重要な装飾モチーフとして復活しました。三角形だけでなく、分節ペディメントや弓形ペディメントなど、様々なバリエーションが用いられ、ファサードに古典的な権威とリズムを与えました。
ピラスターとエンタブラチュア=ルネサンスの建築家たちは、壁面を平坦なままにせず、オーダーの要素を用いて分節することを好みました。構造的な役割を持たない装飾的な付け柱である「ピラスター」と、それが支える水平帯である「エンタブラチュア」を壁面に適用することで、壁に古典的なオーダーのリズムと比例を与え、視覚的な深みと秩序を生み出しました。
これらの古典的な語彙は、決して無秩序に用いられたわけではありません。レオン=バッティスタ=アルベルティは、その著書『建築論』の中で、建築の美とは「すべての部分が、それ以上足すことも、引くことも、変えることもできないような、完璧な調和と比例のうちにあること」であると定義しました。ルネサンスの建築家たちは、まさにこの理想を追求し、数学的な比例関係(例えば、黄金比や整数比)を用いて、建物のあらゆる部分を、一つの調和した全体へと統合しようと試みたのです。それは、宇宙の根底にある数学的な秩序を、建築という形で地上に再現しようとする、壮大な知的プロジェクトであったと言えるかもしれません。
盛期ルネサンス=ローマにおける壮麗なる展開

15世紀のフィレンツェで産声を上げたルネサンス建築は、15世紀末から16世紀初頭にかけて、その中心地をローマへと移し、「盛期ルネサンス」と呼ばれる、その最も成熟し、壮大で、影響力のある時代を迎えました。この背景には、フランスの侵攻によるフィレンツェの政治的混乱と、ローマ教皇庁が、古代ローマ帝国の栄光をキリスト教世界の首都として復活させようとする、野心的な都市改造計画に着手したことがあります。教皇ユリウス2世やレオ10世(メディチ家出身)といった強力なパトロンのもと、最高の芸術家たちがローマに集結し、古典主義の理想を、かつてないスケールと完成度で実現しました。
ブラマンテ

盛期ルネサンスの幕開けを告げた建築家が、ドナト=ブラマンテです。彼は、ミラノでレオナルド=ダ=ヴィンチらと共に活動した後、ローマに移り、その才能を開花させました。彼のローマにおける最初の傑作が、サン=ピエトロ=イン=モントリオ聖堂の中庭に建てられた「テンピエット」(1502年頃)です。これは、聖ペテロが殉教したとされる場所に建てられた、小さな円形の記念堂です。その規模は小さいながらも、テンピエットは盛期ルネサンス建築の理想を完璧に体現しています。ドーリア式の円柱に囲まれた中央の円堂(チェッラ)と、その上に載る優美なクーポラは、古代ローマの円形神殿の形式を踏襲しており、そのすべての部分が厳密な数学的比例に基づいて設計されています。その彫刻的な立体感と、調和のとれた静謐な佇まいは、初期ルネサンスの軽やかさとは異なり、記念碑的で荘重な古典主義の到来を告げるものでした。
ブラマンテのキャリアの頂点となったのが、教皇ユリウス2世から依頼された、コンスタンティヌス帝時代に建てられた旧サン=ピエトロ大聖堂の全面的な改築計画でした。ブラマンテが1506年に提示した当初の計画は、ギリシャ十字(正十字)の平面を持ち、その中央にパンテオンを思わせる巨大なクーポラを戴き、四つの腕の先にも小さなクーポラを配した、完全な集中式プランでした。この壮大な構想は、キリスト教世界の中心に、宇宙の秩序を象徴するような、完璧に調和した記念碑を打ち立てようとするものでした。ブラマンテは生前、この巨大な計画の基礎部分に着手したに過ぎませんでしたが、彼が示した壮大なビジョンと、クーポラを支える巨大な支柱の設計は、その後一世紀以上にわたって続くサン=ピエトロ大聖堂の建設の方向性を決定づけることになりました。
ミケランジェロ=ブオナローティ=建築における彫刻家の力

ブラマンテの死後、サン=ピエトロ大聖堂の計画は、ラファエロをはじめとする何人かの建築家の手に委ねられ、計画はラテン十字プランへと変更されるなど、紆余曲折を経ました。しかし、1547年、70歳を超えていた彫刻家ミケランジェロ=ブオナローティが主任建築家に任命されたことで、計画は決定的な転換点を迎えます。
ミケランジェロは、ブラマンテの当初のギリシャ十字プランの明快さに立ち返りつつも、それをより力強く、彫塑的な統一体へと変貌させました。彼は、外壁の構造を単純化し、巨大なコリント式のピラスターを用いて、建物全体を貫く力強い垂直のリズムを生み出しました。彼の設計した外壁は、静的な平面ではなく、光と影の劇的な対比を生み出す、ダイナミックで筋肉質な塊として感じられます。
ミケランジェロの天才が最も発揮されたのが、クーポラの設計です。彼は、ブルネレスキがフィレンツェで実現した二重殻構造の原理を踏襲しつつも、その輪郭を、半球形ではなく、より高く、力強く立ち上がる放物線状の形にしました。そして、クーポラの外面に二重の円柱を配したリブを加え、その垂直性を強調しました。ミケランジェロはクーポラの基部であるドラム部分までしか完成を見ることができませんでしたが、彼の死後、ジャコモ=デッラ=ポルタらがその設計にほぼ忠実に従ってクーポラを完成させました。今日、ローマのスカイラインを支配するサン=ピエトロのクーポラは、盛期ルネサンスの壮大さと、ミケランジェロの彫刻家としての造形力が見事に融合した、西洋建築史における最も偉大な成果の一つです。
盛期ルネサンスの建築家たちは、フィレンツェの先人たちが再発見した古典主義の語彙を、より自信に満ち、より壮大なスケールで使いこなしました。彼らの作品は、単なる比例の正しさや調和だけでなく、荘厳さ、記念碑性、そして時にはミケランジェロに見られるような、人間の内面的な葛藤や力を感じさせるような、深い精神性を表現するに至りました。このローマで完成された壮麗な古典主義様式は、ヨーロッパ中の王侯貴族や聖職者にとって、権威と洗練の象徴となり、その後の建築の規範として絶大な影響力を持つことになります。
後期ルネサンスとマニエリスム

1520年代頃から、盛期ルネサンスが確立した調和と安定の理想は、徐々に内部から崩れ始め、より複雑で、意図的に洗練され、時には奇抜とも言える表現を特徴とする「マニエリスム」と呼ばれる新しい傾向が現れます。この変化の背景には、1527年の「ローマ劫掠」による政治的・社会的な混乱や、宗教改革がもたらした精神的な動揺など、時代の不安感が反映されていると解釈されることもあります。マニエリスムの建築家たちは、盛期ルネサンスの巨匠たちが完成させた古典主義の「ルール」を熟知した上で、あえてそのルールを破り、捻り、引用することで、知的で洗練された、そしてしばしば見る者を意表を突くような効果を狙いました。
ジュリオ=ロマーノとパラッツォ=デル=テ

マニエリスム建築の最も初期にして最も過激な作例の一つが、ラファエロの弟子であったジュリオ=ロマーノが、マントヴァ侯爵のために設計した離宮「パラッツォ=デル=テ」(1524年頃〜)です。一見すると、この建物は古典主義の語彙(ドーリア式のオーダー、アーチ、ペディメントなど)を用いて構成されています。しかし、細部をよく見ると、古典主義のルールが意図的に破られていることに気づきます。
例えば、中庭に面したファサードでは、エンタブラチュアを構成するトリグリフ(三本線の飾り)が、あるべき場所から滑り落ちたかのように配置されています。また、いくつかのアーチの要石(キーストーン)は、アーチそのものよりも大きく、まるで下から押し上げられて、はみ出してしまったかのように見えます。壁面は、滑らかに仕上げられた石と、荒々しい仕上げのルスティカ積みの石が交互に配置され、奇妙なリズムを生み出しています。これらの「誤り」や「逸脱」は、設計ミスではありません。それは、ジュリオ=ロマーノが、古典主義の調和という理想が、もはや自明のものではないことを示すために、意図的に仕掛けた知的な遊びであり、見る者の期待を裏切ることで、不安や驚きといった感情を呼び起こすことを目的としていました。内部の「巨人の間」のフレスコ画では、神々の怒りに触れた巨人たちが、崩れ落ちる建築の下敷きになる様が描かれ、建物全体が崩壊していくかのような錯覚を生み出し、マニエリスム的な不安定さと劇的効果は頂点に達します。
アンドレーア=パッラーディオ

マニエリスムの時代にあって、独自の形で古典主義の理想を追求し、後世に最も大きな影響を与えた建築家が、ヴェネト地方のヴィチェンツァで活躍したアンドレーア=パッラーディオです。彼は、ローマで古代建築を徹底的に研究し、またウィトルウィウスの理論を深く学びました。その成果を、彼は自身の設計活動と、1570年に出版した建築書『建築四書』に結実させました。
パッラーディオの建築は、マニエリスム的な奇抜さとは一線を画し、厳格な対称性と、明快な数学的比例に基づいています。彼は、建物の各部屋の寸法を、音楽の協和音程に対応するような、単純な整数比(例えば、1:2, 2:3, 3:4)に基づいて決定しました。これにより、彼の建築は、視覚的な調和だけでなく、知的なレベルでの調和をも体現しています。
彼の代表作であるヴィチェンツァ郊外のヴィラ「ラ=ロトンダ」(1566年頃〜)は、このパッラーディオ様式の理念を最も純粋な形で示したものです。この建物は、中央の円形の広間を中心とした、完全な正方形の平面を持ち、その四つのすべての面に、イオニア式のオーダーを持つ神殿風のポルティコ(玄関)が取り付けられています。あたかも一つの建物を四方から見た姿がすべて同じであるかのような、徹底した対称性と幾何学的な純粋性は、盛期ルネサンスの理想をさらに推し進めたものと言えます。
しかし、パッラーディオの作品には、単なるルールの厳格な適用に留まらない、独創的な側面も見られます。彼は、ヴィチェンツァの公共建築「バシリカ=パッラーディアーナ」の改修において、既存のゴシック建築の開口部の間隔が不規則であるという問題を解決するために、「セルリアーナ」または「パッラーディオ窓」と呼ばれる、中央の大きなアーチの両脇に小さな長方形の開口部を組み合わせたモチーフを考案しました。この柔軟なユニットを繰り返すことで、彼は不規則な構造を見事に覆い隠し、古典主義的な秩序あるファサードを創り出すことに成功しました。また、彼は、それまで教会建築に限定されがちであった神殿のファサード(ペディメントを持つポルティコ)を、ヴィラやパラッツォといった世俗建築に初めて本格的に適用しました。これは、古代の神聖な建築形式を、田園の邸宅という新しい文脈に読み替える、一種の知的な引用であり、彼の建築に荘厳さと田園的な快適さのユニークな融合をもたらしました。
パッラーディオの『建築四書』は、彼の設計理論と具体的な作品を図版入りで解説したものであり、ヨーロッパ中で広く読まれました。特に、18世紀のイギリスでは、彼の様式が「パッラーディオ主義」として大流行し、貴族のカントリーハウスの標準的なスタイルとなりました。さらに、アメリカ合衆国建国の父の一人であり、建築家でもあったトーマス=ジェファーソンもパッラーディオに深く傾倒し、自邸モンティチェロやバージニア大学の設計にその様式を取り入れました。このようにして、パッラーディオの理知的で適応性の高い古典主義は、ルネサンスの遺産を後世に伝える上で、最も重要な水路の一つとなったのです。
アルプスを越えたルネサンス

イタリアで花開いたルネサンス様式は、16世紀を通じて、アルプスを越えてヨーロッパの他の国々へと広まっていきました。しかし、その伝播の過程は、単純な模倣ではありませんでした。各国の王侯貴族は、イタリアの新しい様式を、自らの権威と洗練を示すための最新のモードとして熱心に取り入れましたが、それは同時に、それぞれの国が持つ独自の建築的伝統や気候、そして文化的背景と融合し、地域ごとに特色ある「北方ルネサンス」と呼ばれる様式へと変容していく過程でもありました。
フランス=フランソワ1世と城館の変貌

フランスにルネサンス様式が本格的に導入されたのは、国王フランソワ1世の治世(1515年〜1547年)でした。彼は、イタリア戦争でルネサンス文化の洗練に直接触れ、レオナルド=ダ=ヴィンチをはじめとするイタリアの芸術家や建築家をフランスに招聘しました。
フランスにおけるルネサンス様式の初期の作例は、主にロワール渓谷に点在する王家の城館(シャトー)に見られます。これらの城館は、中世以来の城郭建築の伝統的な形態、例えば、急勾配の屋根、円筒形の塔、そして堀といった要素を保持しつつ、そのファサードに、ピラスター、ペディメント、水平のコーニスといった、イタリアから輸入された古典主義的な装飾モチーフを付加する、という折衷的な特徴を示しています。その代表例が、フランソワ1世が建設したシャンボール城です。その全体的なシルエットは、中世の城を思わせる複雑で幻想的なものですが、その立面は、規則的な窓の配置やピラスターによって、古典主義的な秩序で分節されています。特に有名な中央の二重螺旋階段は、レオナルド=ダ=ヴィンチの着想が反映されているとも言われ、構造的な創意と装飾的な華やかさが見事に融合しています。
フランソワ1世は、後に宮廷をパリ近郊に移し、フォンテーヌブロー宮殿の改築に着手します。ここでは、ロッソ=フィオレンティーノやプリマティッチオといったイタリアのマニエリスムの芸術家たちが、建築、彫刻、そしてスタッコ装飾やフレスコ画を組み合わせた、総合的な室内装飾様式を確立しました。これは「フォンテーヌブロー派」と呼ばれ、その洗練された官能的なスタイルは、フランスからネーデルラント、ドイツへと広まり、北方マニエリスムの源流の一つとなりました。
イギリス=チューダー朝からエリザベス朝へ

イギリスへのルネサンス様式の導入は、フランスよりも遅く、また断片的でした。ヘンリー8世の宮廷では、ハンス=ホルバインのような北方ルネサンスの画家が活躍し、イタリアのテラコッタ職人が装飾を手がけることもありましたが、建築全体としては、依然としてゴシック様式の後期段階である「パーペンディキュラー様式」が支配的でした。
イギリスでルネサンス建築が独自の発展を見せるのは、エリザベス1世の治世(1558年〜1603年)になってからです。この時代に建設された貴族の邸宅(プロディジー・ハウスと呼ばれる)は、富と権力を誇示するための壮大なスケールと、巨大な窓を持つことが特徴です。「ガラスの壁、壁よりもガラス」と評されたハードウィック・ホールのように、ファサードの大部分を占める巨大な窓は、イタリアの気候とは異なり、光を多く取り入れたいという北国の要請を反映しています。これらの建物の平面は、依然として中世的な非対称性を持つことが多いですが、そのファサードには、ドイツやフランドルから輸入されたパターンブックを通じて、ピラスターや、ストラップワークと呼ばれる革紐細工のような複雑な装飾が、しばしば過剰とも言えるほどふんだんに用いられました。これは、イタリアの純粋な古典主義とは異なる、装飾的で土着的な魅力を持つ、独自のルネサンス様式でした。
イギリスで、イタリアの古典主義、特にパッラーディオの様式を、より正確に理解し、実践した最初の重要な建築家は、17世紀初頭に登場するイニゴー=ジョーンズでした。彼は、イタリアを訪れてパッラーディオの建築を直接学び、ロンドンのクイーンズ・ハウスやホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウスといった作品で、イギリスで初めて、厳格な比例と対称性に基づいた、純粋なパッラーディオ様式を実現しました。彼の業績は、その後のイギリス古典主義建築の基礎を築くことになります。
スペインとドイツ

スペインでは、イスラム建築(ムーア様式)の豊かな装飾的伝統と、後期ゴシックの複雑な構造が融合した、プラテレスコ様式と呼ばれる独自の装飾様式が16世紀前半に栄えました。これは、銀細工(プラテリア)のように、建物のファサードを繊細で緻密なルネサンス風の装飾で覆い尽くすものです。16世紀後半、フェリペ2世の治世になると、反宗教改革の厳格な精神を反映して、このような過剰な装飾は退けられ、マドリード近郊のエル=エスコリアル修道院に見られるような、厳格で、荘重で、ほとんど装飾のない、峻厳な古典主義様式が支配的となりました。
ドイツや東ヨーロッパでは、ルネサンス様式は、主にフランドルやイタリアから出版された建築書やパターンブックを通じて間接的に伝わりました。その結果、建物のファサードに、オーダーや装飾モチーフが、しばしば構造的な脈絡から切り離された、純粋に装飾的な要素として付加される傾向が見られました。また、切妻壁を渦巻き装飾やオベリスクで華やかに飾るなど、地域の伝統と融合した、独特の表現が生み出されました。
このように、ルネサンス様式は、イタリアという揺りかごから旅立ち、ヨーロッパ各地の異なる文化の土壌に根を下ろす過程で、多様な実りをもたらしました。しかし、その根底には、古典古代の秩序と理性に学び、人間的なスケールと調和を追求するという、共通の精神が流れていました。この精神は、その後のバロック、新古典主義といった様式へと受け継がれ、西洋建築の根幹をなす、永続的な遺産となったのです。

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