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ペトラルカとは わかりやすい世界史用語2505
著作名: ピアソラ
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ペトラルカとは

ペトラルカ。その名は、中世の黄昏とルネサンスの夜明けが交差する、ヨーロッパ知性史の巨大な分水嶺にそびえ立っています。「最初のヒューマニスト」とも「近代人の祖」とも称される彼は、古代ローマの古典世界に深い憧憬を抱き、その栄光を自らの時代に蘇らせようと情熱を傾けた学者でした。同時に彼は、永遠の淑女ラウラへの報われぬ愛を、イタリア語による甘美で苦悩に満ちたソネットに結晶させた、近代抒情詩の父でもあります。
彼の生涯は、一見すると矛盾に満ちた二つの衝動の間に引き裂かれていました。一つは、キケロやウェルギリウスといった古代の賢人たちとの精神的な対話を通じて、世俗的な名声と不滅の栄光を追求しようとするヒューマニストとしての野心。もう一つは、聖アウグスティヌスが説くように、現世の虚栄を捨て、内面的な魂の平安と神への献身を求めるキリスト教徒としての敬虔な願い。この古典古代への憧れとキリスト教的内省との間の絶え間ない緊張こそが、ペトラルカという人間の複雑な肖像を形作り、彼の文学に比類のない深みと今日性をもたらしたのです。
彼はまた、自己という存在を、文学作品の中心に据えた最初の近代的な作家の一人でもありました。彼が残した膨大な書簡や自伝的作品は、一個人の内面で渦巻く希望、絶望、愛、苦悩、野心、そして自己矛盾を、かつてないほど赤裸々に描き出しています。



アヴィニョンでの青年期

アレッツォでの誕生と幼少期

フランチェスコ・ペトラルカは、1304年7月20日、トスカーナ地方の都市アレッツォで生を受けました。彼の誕生そのものが、当時のイタリアを席巻していた政治的動乱の産物でした。彼の父、セル・ペトラッコ・ディ・パレンツォは、フィレンツェで公証人を務める、ダンテと同じグェルフィ党の白党に属する人物でした。1302年、黒党がクーデターによってフィレンツェの権力を掌握した際、父ペトラッコはダンテを含む多くの白党員と共に、故郷からの追放を宣告されます。ペトラルカは、この追放のさなかに生まれたのです。彼が自らを「故郷を持たない巡礼者」と生涯にわたって見なすことになる、その原点はここにありました。
一家はアレッツォに短期間滞在した後、ピサなどイタリア各地を転々としました。幼いペトラルカが、父と共にフィレンツェへの帰還を試みる船旅の途中、アルノ川で嵐に遭い、危うく命を落としかけたという逸話も残っています。この不安定な幼少期は、彼の中に、失われた故郷への郷愁と、安定した精神的支柱への渇望を深く刻み込んだに違いありません。
アヴィニョンと法学への反発

1309年、ペトラルカの運命を決定づける大きな出来事が起こります。フランス国王フィリップ4世の強い影響下に置かれた教皇庁が、ローマから南フランスの都市アヴィニョンへと移転したのです。これは「アヴィニョン捕囚」または「教皇のバビロン捕囚」として知られる、教会史上の異常事態の始まりでした。教皇庁という巨大な組織の移転に伴い、多くのイタリア人が職を求めてアヴィニョンに集まりました。ペトラルカの父もまた、新たな活躍の場を求めて、1312年頃に一家を連れてアヴィニョン近郊のカルパントラに移住します。
父ペトラッコは、息子フランチェスコが自らと同じように、安定した収入と社会的地位が得られる法律家になることを強く望んでいました。その意向に従い、ペトラルカは1316年に南フランスのモンペリエ大学へ、さらに1320年には、当時ヨーロッパで最も権威のある法学校であったイタリアのボローニャ大学へと送られ、弟ゲラルドと共に法学を学びました。
しかし、ペトラルカの心は、法律の無味乾燥な条文には全く向きませんでした。彼の情熱は、もっぱら古代ローマの文学、特にキケロの雄弁な散文とウェルギリウスの格調高い詩に向けられていました。彼は、法律の教科書の代わりに、こっそりと古典の書物を読みふけっていたと言われます。ある時、そのことを知った父が激怒し、彼の貴重な古典の書物を暖炉に投げ込んでしまったという有名な逸話があります。ペトラルカのあまりの悲嘆ぶりに、父は慌てて火の中からウェルギリウスとキケロの著作だけを救い出し、「ウェルギリウスは君の嘆きを、キケロは君の勉強の助けになるだろう」と言って手渡したと、ペトラルカ自身が後に記しています。このエピソードは、実利的な法学の世界と、彼の魂が真に求める古典文学の世界との間の、埋めがたい溝を象徴しています。
1326年、父ペトラッコが亡くなったという知らせを受け、ペトラルカは法学の学位を取得することなく、アヴィニョンへと戻ります。父の遺産は、不正な遺言執行人によってほとんどが失われていました。生計を立てる術を失った彼は、聖職者となる道を選びます。それは、神への深い信仰心からというよりは、学問に専念するための時間と経済的安定を得るための、現実的な選択でした。彼は下級の聖職位を受けましたが、司祭になることは生涯ありませんでした。これにより、彼は教会の禄(聖職禄)を得て生活の基盤を確保し、自らが渇望してやまない文学と学問の世界に本格的に身を投じることが可能になったのです。
ラウラとの出会いと『カンツォニエーレ』

運命の出会い

1327年4月6日、聖金曜日。アヴィニョンのサンタ・キアーラ教会で、ペトラルカは一人の女性に視線を奪われます。その女性こそ、彼の生涯と文学のすべてを支配することになる、永遠の淑女ラウラでした。この出会いの瞬間を、ペトラルカは自らの詩の中で、愛の神アモルが放った矢に心臓を射抜かれた、抗いがたい運命的な出来事として繰り返し描いています。
ラウラの素性については、ほとんど何も分かっていません。彼女はユーグ・ド・サドという騎士の妻で、多くの子供の母であったという説が最も有力ですが、確証はありません。一部の研究者は、ラウラは実在の人物ではなく、ペトラルカが詩的な栄光(ラテン語でLaurus=月桂樹)を擬人化した、文学的な創造物ではないかとさえ考えています。しかし、ペトラルカの詩が持つ生々しい感情の起伏と心理的なリアリティは、その背後に、血の通った一人の女性の存在があったことを強く感じさせます。
ダンテにとってのベアトリーチェが、神の恩寵を体現する天上の導き手であったのに対し、ペトラルカにとってのラウラは、より人間的で、矛盾に満ちた存在でした。彼女は、詩人を高みへと導く気高い淑女であると同時に、彼の心をかき乱し、現世への執着を断ち切らせない、甘美な苦悩の源泉でもありました。ペトラルカの愛は、報われることのない、一方的なものでした。彼は、ラウラの美しさと徳を賛美する一方で、彼女の冷淡さに絶望し、自らの情欲と道徳心との間で激しく葛藤します。この愛のアンビヴァレンス(両義性)こそが、ペトラルカの抒情詩に、かつてない心理的な深みと近代性を与えているのです。
『カンツォニエーレ』=魂の断片の記録

ペトラルカは、このラウラへの愛を核として、生涯をかけてイタリア語による詩集を編み続けました。彼はこの詩集をラテン語で『Rerum Vulgarium Fragmenta』(俗語による事物の断片)と名付けましたが、一般には『カンツォニエーレ』(歌集)の名で知られています。この詩集は、366篇の詩(ソネット、カンツォーネ、セスティーナ、バッラータ、マドリガーレ)から成り、その数は閏年の一年の日数に対応しています。
『カンツォニエーレ』は、単なる恋愛詩の寄せ集めではありません。それは、1327年のラウラとの出会いから、彼女の死、そしてそれ以降に至るまでの、数十年にわたる詩人の魂の軌跡を、日記のように、あるいは自叙伝のように構成した、極めて自意識的な作品です。ペトラルカは、個々の詩を何度も推敲し、その配列に細心の注意を払うことで、全体として一つの物語=愛と苦悩、悔恨、そして精神的な救済への希求という物語=を紡ぎ出そうとしました。
詩集は、大きく二つの部分に分かれています。「ラウラの生前の詩」と「ラウラの死後の詩」です。前半部では、ラウラの美しさへの賛美、彼女に会えた時の喜び、拒絶された時の絶望、そして愛の甘美さと苦しさの間で揺れ動く詩人の内面が、繊細かつ劇的に描かれます。彼は、ラウラの金色の髪、輝く瞳、天使のような声といった具体的な身体的特徴を、洗練された比喩を用いて繰り返し歌います。しかし、その愛は常に満たされることなく、詩人は孤独と涙のうちに彷徨います。
1348年、ヨーロッパ全土を黒死病(ペスト)の嵐が襲います。この疫病は、ラウラの命をも奪い去りました。ペトラルカがこの悲報を知ったのは、パルマでのことでした。ラウラの死は、詩集の後半部の基調を決定づけます。もはや地上にはいないラウラは、天上の存在へと昇華され、詩人の夢の中に現れては、彼を慰め、天国へと導こうとします。しかし、詩人の苦悩は終わりません。彼は、ラウラを失った悲しみに打ちひしがれる一方で、彼女への愛が、実は神から自らを遠ざける現世的な執着であったのではないかという、深い罪悪感に苛まれます。
詩集の最後は、聖母マリアに捧げる荘厳なカンツォーネで締めくくられます。詩人は、長年にわたる愛の苦しみと過ちを告白し、聖母の取りなしによって、魂の平安と永遠の救いが与えられることを切に祈ります。こうして、『カンツォニエーレ』は、一人の女性への個人的な愛の物語から、全人類に共通する罪と悔い改め、そして神の慈悲への祈りという、普遍的な物語へと昇華されるのです。この、個人の内面で繰り広げられる心理的なドラマを、かくも繊細に、かつ深く掘り下げた『カンツォニエーレ』は、ヨーロッパ抒情詩の伝統を確立し、後世の無数の詩人たちの模範となりました。「ペトラルキズム」として知られるその影響は、ルネサンス期のヨーロッパ全土に広がっていきました。
ヒューマニストとしての栄光=桂冠詩人への道

古典の発見と研究

ラウラへの愛をイタリア語の詩に綴る一方で、ペトラルカの知的活動の中心は、あくまでラテン語による古典の研究と、自らを古代の偉大な作家たちの後継者として位置づけることにありました。彼は、中世の修道院の図書館に埋もれていた古代の写本を発掘し、校訂することに情熱を燃やしました。彼は、単なる文献学者ではありませんでした。彼は、キケロやウェルギリウス、リウィウスといった古代の作家たちを、単なる研究対象としてではなく、時を超えた対話の相手、精神的な友として捉えていました。彼が古代の偉人たちに宛てて書いた書簡集『著名人への手紙』は、そのユニークな関係性をよく示しています。
1333年、リエージュの聖堂図書館で、彼はキケロの失われていた演説『プロ・アルキア』を発見します。さらに1345年には、ヴェローナの聖堂図書館で、キケロが友人に宛てた書簡集『アッティクス宛書簡集』を発見するという、ヒューマニズムの歴史における画期的な功績を成し遂げます。この書簡集は、それまで公的な雄弁家としてしか知られていなかったキケロの、より人間的で私的な側面を明らかにし、ペトラルカに深い感銘を与えました。彼は、この発見に倣い、自らの書簡を注意深く編集し、後世に残すという、当時としては前例のない試みを始めます。これは、自己の生涯と内面を、後世の読者のために記録し、解釈するという、極めて近代的な自己意識の表れでした。
ヴァントゥー山登頂と内面への転回

1336年4月26日、ペトラルカは、弟のゲラルドと共に、南フランスのヴァントゥー山の登頂に挑みます。この出来事は、彼が友人に宛てた書簡の中で詳述されており、ルネサンス的ヒューマニズムの精神を象徴する出来事として、しばしば引用されます。
彼は、純粋に「その著名な高さを目撃したい」という好奇心から、この登山を決意しました。これは、実用的な目的や宗教的な巡礼のためではなく、個人の経験と知的好奇心のために自然に挑むという、近代的な精神の萌芽を示すものでした。登山は困難を極め、彼は何度も安易な道を探そうとしますが、結局、険しい道こそが頂上への唯一の道であることを悟ります。
ようやく頂上にたどり着き、眼下に広がる壮大な景色に感動した彼は、携えてきた聖アウグスティヌスの『告白』を偶然開きます。すると、彼の目に飛び込んできたのは、「人々は山の高さや、海の巨大な波や、広大な川の流れや、大洋の広がりや、星の運行に感嘆するために出かけていく。だが、彼ら自身のことについては、顧みようとしない」という一節でした。
この言葉は、雷のようにペトラルカを打ちました。彼は、外部の世界の壮大さに心を奪われるあまり、最も探求すべきであるはずの、自らの内なる魂の世界を疎かにしてきたことを悟ります。彼は、静かに山を下り、この経験をきっかけとして、外面的な探求から内面的な自己省察へと、その関心を大きく転回させていきました。このヴァントゥー山登頂の物語は、外的世界への好奇心というルネサンス的精神と、内面への探求というキリスト教的精神が、ペトラルカの中でいかに劇的に交錯したかを示す、象徴的なエピソードです。
桂冠詩人としての戴冠

古典研究とラテン語による詩作におけるペトラルカの名声は、次第にヨーロッパ中に広まっていきました。彼の野心は、古代ローマの詩人たちが受けた最高の栄誉である「桂冠詩人」の称号を、自らの手で復活させることにありました。
1340年9月、彼の望みは予期せぬ形で叶えられます。パリ大学とローマ元老院から、ほぼ同時に、桂冠詩人としての戴冠式の申し出が届いたのです。二つの名誉ある申し出の間で悩んだ末、彼は古代ローマの栄光の中心地であるローマを選ぶことを決意します。
1341年4月8日、復活祭の日曜日。ペトラルカは、ローマのカンピドリオの丘の上で、壮麗な戴冠式に臨みました。彼は、詩の価値と栄光について格調高い演説を行い、元老院議員から月桂樹の冠を授けられました。この戴冠式は、単なる個人的な栄誉ではありませんでした。それは、中世の長い眠りから覚めた詩という営みが、再び公的な価値と尊厳を取り戻したことを象徴する、文化史的な一大イベントでした。この栄光の瞬間をもって、ペトラルカはヨーロッパ随一の知識人としての地位を不動のものにしたのです。
政治との関わりと幻滅

コーラ・ディ・リエンツォの夢

桂冠詩人として名声の頂点に立ったペトラルカでしたが、彼の心の中には、腐敗したアヴィニョン教皇庁から離れ、古代の栄光を取り戻したローマを、再び世界の中心とするという政治的な理想が燃え盛っていました。その理想の実現を、彼は一人のカリスマ的な人物に託します。それが、ローマの公証人であったコーラ・ディ・リエンツォでした。
コーラは、古代ローマの共和制を復活させるという壮大な夢を掲げ、その雄弁な演説でローマ市民の心を掴みました。1347年、彼はクーデターを成功させ、自らを「護民官」と称して、ローマの支配権を握ります。ペトラルカは、このコーラの革命を熱狂的に支持しました。彼は、コーラこそが、イタリアを分裂と腐敗から救い、ローマに往年の栄光を取り戻す英雄であると信じ、彼を称賛する書簡を書き送りました。彼は、アヴィニョンでの安楽な生活を捨て、コーラの新しいローマへ馳せ参じようとさえしました。
しかし、この夢は儚くも崩れ去ります。権力の座に就いたコーラは、次第に尊大で独裁的になり、ローマ市民や貴族たちの支持を失っていきました。わずか7ヶ月後、彼はローマから追放され、その革命は失敗に終わります。コーラの失脚は、ペトラルカに深い幻滅をもたらしました。彼は、理想の政治を現実の世界で実現することの困難さを、痛感させられたのです。
諸侯の宮廷と外交官として

コーラの夢に破れた後も、ペトラルカはイタリアの政治に深く関わり続けました。彼の名声は、彼を単なる書斎の学者にとどめてはおきませんでした。彼は、ミラノのヴィスコンティ家、パドヴァのカッラーラ家、ヴェネツィア共和国など、イタリア各地の有力な君主や国家の賓客として迎えられ、その顧問や外交使節として活躍しました。
特に、1353年から8年間にわたるミラノの僭主ヴィスコンティ家での滞在は、彼の友人たちから多くの批判を浴びました。共和制の自由を重んじるフィレンツェのヒューマニストたちは、ペトラルカが「自由の敵」である僭主の宮廷に仕えることを、裏切り行為と見なしたのです。しかし、ペトラルカ自身は、君主の庇護のもとで学問に専念する静かな生活を求めると同時に、自らの知性と名声を用いて、君主に善政を促し、イタリアに平和をもたらすことができると信じていました。彼は、君主たちに宛てて、平和の重要性や、善き統治者のあるべき姿について説いた書簡を数多く書き送っています。しかし、彼の理想主義的な助言が、権力闘争に明け暮れる君主たちにどれほどの影響を与えたかは疑問です。
内省と信仰=アウグスティヌスとの対話

『わが秘密』と内面の葛藤

世俗的な名声と政治的な活動の渦中にありながらも、ペトラルカの内面では、常に魂の救済を巡る深い葛藤が渦巻いていました。その内面のドラマを、最も赤裸々に描き出した作品が、ラテン語で書かれた対話篇『わが秘密』です。
この作品は、ペトラルカ自身(フランキスクス)と、彼が最も敬愛する教父である聖アウグスティヌスとの、三日間にわたる架空の対話という形式をとっています。真理の女神が沈黙の証人として見守る中、アウグスティヌスは、容赦ない精神分析医のように、ペトラルカの魂の病を次々と暴き出していきます。
アウグスティヌスは、ペトラルカが魂の救済を得られない根本的な原因は、彼の意志の弱さにあると指摘します。そして、彼を現世に縛り付けている二つの大きな鎖として、「ラウラへの愛」と「栄光への渇望」を挙げます。ペトラルカは、ラウラへの愛は自らを高める純粋なものであったと弁明しますが、アウグスティヌスは、それが結局は被造物への過剰な愛着であり、創造主である神から彼を遠ざけるものであったと断じます。また、桂冠詩人としての栄光や、後世に残る名声への渇望もまた、虚しい現世の虚栄に過ぎないと一蹴します。
この対話を通じて、ペトラルカは自らの魂の矛盾と弱さを直視させられます。しかし、彼は最後まで、この二つの鎖を完全に断ち切ることはできません。対話の終わりで、彼は自らの意志の分裂を認めつつも、「いつか自分自身を取り戻し、より善い生を始める」ことを誓いますが、その実現は未来へと先延ばしにされます。『わが秘密』は、明確な解決に至らない、苦悩に満ちた自己分析の記録であり、近代的な分裂した自我の苦悩を、初めて文学的に描き出した作品として、極めて重要な意味を持っています。
弟ゲラルドの修道院入り

ペトラルカの内面的な葛藤をさらに深める出来事が、1343年に起こります。かつてヴァントゥー山に共に登った最愛の弟ゲラルドが、カルトゥジオ会の修道院に入り、世俗を捨てて信仰に生きる道を選んだのです。この決断は、ペトラルカに大きな衝撃を与えました。彼は、弟の決断を祝福しつつも、同じ道を歩むことのできない自らの弱さを痛感し、深い孤独感に苛まれました。弟が選んだ静謐な信仰生活は、世俗的な名声と人間的な愛着の間で揺れ動き続けるペトラルカ自身の生き方とは、あまりにも対照的でした。この出来事は、彼に死と永遠の救済について、より深く思索させるきっかけとなりました。
晩年と不滅の遺産

晩年のペトラルカは、ミラノ、パドヴァ、ヴェネツィアなどを転々とした後、最終的にパドヴァ近郊の小さな村アルクァに安住の地を見出しました。彼は、そこに自ら設計した家を建て、愛する書物に囲まれて、静かな研究生活を送りました。彼は、死の直前まで、膨大な書簡集の編纂や、『カンツォニエーレ』の推敲を続けました。
1374年7月19日の朝、彼の70歳の誕生日の前日、ペトラルカは書斎で、敬愛するウェルギリウスの書物の上に突っ伏したまま、亡くなっているのが発見されました。それは、生涯をかけて古典の研究に捧げた学者に、最もふさわしい最期でした。
フランチェスコ・ペトラルカは、中世とルネサンスという二つの時代の境界線上に生きた、巨大な知性の持ち主でした。彼は、古代の知恵を復活させ、人間性の尊厳と価値を再発見するヒューマニズムの道を切り拓きました。彼はまた、個人の内面で揺れ動く繊細な感情を、洗練された抒情詩へと結晶させ、近代文学の新たな地平を拓きました。彼の生涯は、栄光への野心と魂の救済への願い、過去への憧憬と未来への眼差しという、引き裂かれた衝動の間の苦闘の連続でした。しかし、その葛藤の中からこそ、時代を超えて私たちの心を打ち、人間とは何かという根源的な問いを投げかけ続ける、不滅の文学が生まれたのです。ペトラルカが遺した光は、ルネサンスの時代を照らし、その後の西洋文化の進むべき道を指し示し続けています。

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