manapedia
更新日時:
ブリューゲルとは わかりやすい世界史用語2542
著作名: ピアソラ
0 views
ブリューゲルの生涯

ピーテル=ブリューゲル(父)は、十六世紀フランドル美術の黄金時代を築いた最も独創的な画家の一人として、西洋美術史にその名を深く刻んでいます。
彼はしばしば「農民のブリューゲル」と呼ばれ、その作品は農民の生活や祭りを生き生きと描いたものとして広く知られていますが、この通称は彼の芸術のほんの一側面に光を当てているに過ぎません。
ブリューゲルの芸術世界は、雄大な自然を描いた風景画、人間の愚かさや社会の悪徳を鋭く風刺した寓意画、そして聖書の物語を同時代のネーデルラントを舞台に描き出した宗教画など、驚くほど多岐にわたります。
彼は、アントワープやブリュッセルといった国際的な都市で活躍し、地図製作者アブラハム=オルテリウスをはじめとする当代一流の人文主義者たちと深い親交を結んだ、教養ある市民芸術家でした。
その作品は、宗教改革の波が押し寄せ、スペイン=ハプスブルク家の支配に対するネーデルラントの抵抗が激化していくという、激動の時代を映し出す鏡でもあります。
しかし、その作品が持つ豊かな意味とは対照的に、ブリューゲル自身の生涯については、確かな記録が乏しく、多くの謎に包まれています。
謎に満ちた出自と初期の修業

ピーテル=ブリューゲルの前半生は、後世の研究者たちを悩ませるほど、不明な点に満ちています。
彼の生年すら定かではなく、1525年から1530年の間と推定されており、生地についても、現在のオランダ南部にあるブレダ、あるいはベルギーのブレ(Bree)やブローゲル(Brogel)といった地名の村であったなど、諸説が存在する状況です。
彼の生涯に関する最も初期のまとまった記述は、1604年にカレル=ヴァン=マンデルが著した『画家列伝』に見られますが、これもブリューゲルの死から三十年以上が経過した後に書かれたものであり、伝聞や逸話が多く含まれています。
ヴァン=マンデルによれば、ブリューゲルはブリュッセルで、皇帝カール五世の宮廷画家であったピーテル=クック=ファン=アールストの工房に弟子入りしたとされています。
クックは、イタリア=ルネサンスの様式に通じた教養ある芸術家であり、もしこの記述が正しければ、ブリューゲルはここで、伝統的なフランドルの技術だけでなく、イタリアの美術理論や古典古代の知識にも触れる機会を得たはずです。
確実な記録として残っているのは、1551年に、彼がネーデルラント最大の経済都市であったアントワープの聖ルカ組合に、独立した画家(マイスター)として登録されたという事実です。
イタリアへの旅

アントワープで画家として独立した直後の1552年頃、ブリューゲルは、当時の多くの北方芸術家たちと同様に、芸術的見聞を広めるためにイタリアへの大旅行に出発しました。
彼の旅の正確な行程は不明ですが、フランスのリヨンを経由してアルプスを越え、ローマ、ナポリ、そしてシチリア島のメッシーナまで南下したことが、残された素描や版画から推測されます。
この旅でブリューゲルに最も強烈な印象を与えたのは、イタリアの古代遺跡やルネサンスの巨匠たちの作品以上に、アルプスの雄大で峻厳な山々の風景でした。
ヴァン=マンデルは、「ブリューゲルはアルプスを旅したとき、すべての山と岩を飲み込み、帰ってからそれをカンヴァスやパネルの上に吐き出した」と詩的に表現しており、この経験が彼の風景描写に革命的な変化をもたらしたことを示唆しています。
ローマでは、有名な細密画家ジュリオ=クローヴィオと協力して制作を行った記録があり、ミケランジェロの『最後の審判』など、当時の最先端の芸術に触れたことは間違いありません。
1554年頃にネーデルラントへ帰国するまでのこの旅は、ブリューゲルの芸術家としての視野を決定的に広げ、特に自然を観察し、それを壮大なスケールで再構成する独自の手法を確立する上で、計り知れない価値を持つものでした。
版画デザイナーとしての活躍=ヒエロニムス=コックの工房

イタリアから帰国したブリューゲルは、アントワープで、当時最も重要な版画出版者であったヒエロニムス=コックが経営する「四方の風」という工房で、版画の下絵デザイナーとして精力的に活動を開始しました。
コックは、国際的な販売網を持つ抜け目のないビジネスマンであり、ブリューゲルの独創的な才能をいち早く見抜き、彼のデザインを次々と版画化して市場に送り出しました。
その初期の代表作が、1557年に出版された銅版画『大きな魚は小さな魚を食う』であり、この作品は、ネーデルラントの古いことわざを、奇妙で幻想的なイメージによって視覚化したものです。
この版画には、当初、十五世紀末の巨匠ヒエロニムス=ボスの署名が付けられていましたが、これは、ボスの人気にあやかろうとするコックの販売戦略であり、ブリューゲルがボスの後継者として市場に紹介されたことを示しています。
ブリューゲルは、続けて『七つの大罪』シリーズ(1558年)や『七つの美徳』シリーズ(1559年=1560年)など、道徳的な寓意に満ちた連作版画のデザインを数多く手掛け、その奇想天外な想像力と風刺の精神は、広く大衆の人気を博しました。
また、イタリア旅行の経験を基にした『大風景画』シリーズでは、雄大なパノラマの中に聖書の物語や人々の営みを点景として描き込み、風景画というジャンルに新たな可能性を切り開きました。
画家への回帰

版画デザイナーとして大きな成功を収めたブリューゲルでしたが、1550年代の終わり頃から、再び絵画制作へとその活動の軸足を移し始め、彼の芸術的個性が完全に開花する時期を迎えます。
1559年に制作された『ネーデルラントのことわざ』は、彼の初期の絵画を代表する傑作であり、一つの画面の中に、百以上ものネーデルラントのことわざや慣用句を文字通りに描き込むという、驚くべき構想力と博識を示しています。
この作品は、一見すると滑稽で雑然とした人々の営みの寄せ集めに見えますが、その全体は「逆さまの世界」=すなわち、神の秩序から外れた人間の愚かな行動の百科事典として構成されており、鑑賞者に道徳的な反省を促します。
翌1560年に描かれた『子供の遊戯』も同様のコンセプトを持つ作品で、二百人以上の子供たちが、約八十種類もの様々な遊びに興じる姿が、広大な町の広場を舞台にパノラマ的に描かれています。
この絵もまた、単なる子供の風俗画ではなく、遊びに夢中になる子供たちの姿を、現世の虚しい営みに明け暮れる無知な大人たちの姿になぞらえた、深い寓意が込められていると解釈されています。
これらの作品に共通する、高い視点から人間世界を俯瞰する構図は、ブリューゲルの特徴的な手法であり、個々の人間の行動を、より大きな宇宙的秩序の中に位置づけようとする、彼の哲学的な眼差しを反映しています。
ブリュッセルへの移住と結婚

1563年、ブリューゲルは、それまで活動の拠点としていたアントワープを離れ、ネーデルラントの政治的中心地であったブリュッセルへと移住しました。
この移住の理由については、彼の主要なパトロンであった枢機卿グランヴェルの宮廷に近づくためであった、あるいは、より安定した制作環境を求めたためであったなど、様々な推測がなされています。
ブリュッセルに移ったのと同じ年、彼は、かつての師であったピーテル=クック=ファン=アールストの娘、マイケン=クックと結婚しました。
カレル=ヴァン=マンデルは、ブリューゲルがアントワープ時代に同棲していた女性との関係を清算させるために、将来の姑となるマイケンの母が、結婚の条件としてブリュッセルへの移住を要求したという逸話を伝えています。
この結婚によって、ブリューゲルは二人の息子、ピーテル=ブリューゲル(子)とヤン=ブリューゲル(父)をもうけ、彼らは後にそれぞれ父の様式を継承したり、独自の画風を確立したりして、ブリューゲル一族というフランドル美術史における一大画家の家系を築き上げていくことになります。
ブリュッセルでの生活は、ブリューゲルの芸術家としてのキャリアにおける最も実り豊かな円熟期の始まりを告げるものであり、彼はここで、その後のわずか六年という短い期間に、彼の代表作とされる傑作のほとんどを制作することになります。
傑作の森

ブリュッセル時代に制作された作品群の中でも、ひときわ高く評価されているのが、アントワープの富裕な銀行家であり美術収集家でもあったニコラース=ヨンゲリンクの依頼によって描かれた、一年の季節の移り変わりを描く『月暦画』連作です。
元々は、一年を六つの季節に分けた六点の連作であったと考えられていますが、そのうち五点が現存しており、それぞれが特定の季節における自然の姿と、その中で営まれる人間の労働や営みを壮大なスケールで描いています。
最も有名な『雪中の狩人』(冬)では、疲れた狩人たちが犬を連れて雪深い丘を下っていく前景から、凍った池でスケートに興じる人々が点景として描かれた広大な谷間の風景へと、鑑賞者の視線が巧みに誘導されます。
この作品では、厳しい冬の自然の荘厳さと、その中でたくましく生きる人間の営みとが、完璧な調和のうちに描き出されており、風景と風俗が見事に一体化しています。
『暗い日』(早春)では嵐の前の不穏な空気が、『干草の収穫』(初夏)では夏の日の穏やかな労働の喜びが、それぞれ見事な筆致で表現されています。
『穀物の収穫』(夏)は、黄金色に輝く麦畑で働く農民たちの姿と、木陰で休息をとる人々の姿を対比させ、労働の厳しさと束の間の安らぎを描き出し、『牛群の帰り』(秋)では、夕暮れの光の中を家路につく牛の群れが、季節の終わりを告げる哀愁を帯びた雰囲気を醸し出しています。
宗教画の革新

ブリューゲルは、聖書の物語を主題とする宗教画においても、その独創性を遺憾なく発揮し、伝統的な図像を大胆に解釈し直しました。
1563年頃に描かれた『バベルの塔』は、旧約聖書の物語を主題としながらも、その巨大な塔の建築様式は、ローマのコロッセウムを思わせる構造になっており、イタリア旅行の経験が反映されています。
人間の傲慢さへの警告

この作品は、神に挑戦しようとする人間の傲慢さ(ヒュブリス)の寓意として、また、カトリックとプロテスタントに分裂し、混乱する当時のネーデルラント社会への風刺としても解釈することができます。
1564年の大作『ゴルゴタの丘への行進』では、キリストの受難という中心的な主題が、フランドルの広大な風景の中に集う数百人もの群衆の中に意図的に埋没させられています。
歴史的事件の現在化

鑑賞者は、この雑踏の中からキリストの姿を探し出さなければならず、この手法によって、ブリューゲルは、聖書の出来事が遠い過去の物語ではなく、今まさに自分たちの周りで起きている現実なのだという感覚を鑑賞者に突きつけます。
同様に、『ベツレヘムの戸籍調査』(1566年)や『幼児虐殺』(1566年頃)といった作品では、聖書の舞台が雪に覆われたフランドルの村に置き換えられ、ローマ兵の代わりに、当時ネーデルラントを圧政で支配していたスペイン軍を思わせる兵士たちが描かれており、強い政治的な批評性が込められています。
農民の生活=観察者としての視線

ブリューゲルの名を最も有名にしたのは、農民の結婚式や祭り、踊りを描いた一連の風俗画であり、これらの作品によって、彼は「農民のブリューゲル」という愛称を得ることになりました。
1567年頃に描かれた『農民の婚宴』と「農民の踊り」は、その代表作であり、粗野ではあるけれども生命力に満ちた農民たちの姿が、力強い筆致と温かみのある色彩で生き生きと描き出されています。
これらの作品は、単に農民の風俗を面白おかしく描いたものではなく、都市の教養ある鑑賞者たちの、素朴で自然な生き方への憧れや、道徳的な好奇心に応えるものでした。
ヴァン=マンデルは、ブリューゲルが友人と共に農民に変装して村の祭りにもぐりこみ、そこで人々の行動を注意深く観察したという逸話を伝えており、彼の作品が、鋭い人間観察に基づいていることを示唆しています。
しかし、これらの絵には、大食や酩酊、淫蕩といった人間の罪深い欲望に対する警告という、道徳的な寓意も含まれており、ブリューゲルは、農民たちの姿に共感しつつも、常に一定の距離を置いた、冷静な観察者の視点を失っていません。
晩年に近づくにつれて、彼の作品の構図はよりシンプルになり、人物像は画面いっぱいに大きく描かれる傾向が強まり、個々の人間の表情や感情への関心が深まっていったことがうかがえます。
晩年の寓意画と死

ブリューゲルの晩年の作品は、人間の条件に対する、より深く、そしてしばしばペシミスティックな省察に満ちています。
1567年の『怠け者の天国』では、兵士、農民、そして書記が、食べ物が満ち足りた木の下で満腹になって眠りこけており、労働の放棄と飽くなき食欲という、人間の怠惰さを痛烈に風刺しています。
死の前年に描かれた『絞首台の上のカササギ』(1568年)は、彼の芸術的遺言ともいえる謎に満ちた作品です。
美しい風景の中央に不吉な絞首台がそびえ立ち、その上にはおしゃべりを意味するカササギがとまっており、手前では農民たちが陽気に踊っているというこの奇妙な光景は、「おしゃべりは絞首台行きだ」というネーデルラントのことわざや、死の影が忍び寄る中でも人生を楽しもうとする人間の姿など、多層的な解釈を誘います。
ブリューゲルは、1569年9月9日、ブリュッセルで亡くなり、ノートルダム=ド=ラ=シャペル教会に埋葬されましたが、その死因は記録されておらず、四十代前半というあまりにも早い死でした。
ヴァン=マンデルは、ブリューゲルが死の床で、妻に風刺的すぎるいくつかの素描を燃やすように命じたという逸話を伝えており、これは、彼の作品が持つ政治的な危険性を彼自身が認識しており、家族に累が及ぶことを恐れたためだと考えられています。
ブリューゲルの遺産

ピーテル=ブリューゲル(父)は、その短い生涯にもかかわらず、西洋美術史に巨大な遺産を残しました。
彼は、風景画と風俗画を、宗教画や歴史画に劣らない独立したジャンルとして確立し、その後のフランドル絵画、さらにはヨーロッパ全体の美術の発展に決定的な影響を与えました。
「農民のブリューゲル」という通称を超えて、彼は、人間の営みを、時にユーモラスに、時に辛辣に、しかし常にあたたかい共感をもって見つめ続けた、偉大な人間性の探求者でした。
彼の作品は、十六世紀ネーデルラントという特定の時代と場所を舞台としながらも、人間の愚かさ、傲慢さ、そして自然の中で生きる喜びと悲しみといった、時代や文化を超えた普遍的なテーマを扱っています。
彼の息子たち、ピーテル(子)とヤン(父)をはじめとする多くの追随者たちが、彼の作品を模倣し、その様式を広めましたが、その独創的な構想力と深い哲学的洞察に満ちた芸術の高みには、誰も到達することができませんでした。

このテキストを評価してください。
役に立った
う~ん・・・
※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。






世界史