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ブラマンテとは わかりやすい世界史用語2527 |
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著作名:
ピアソラ
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ブラマンテとは
15世紀のフィレンツェで花開いた初期ルネサンスの芸術は、ブルネレスキの建築、ドナテッロの彫刻、マザッチオの絵画によって、その礎が築かれました。そして16世紀初頭、芸術の中心がフィレンツェからローマへと移る中で、このルネサンスの精神を、より壮大で、より普遍的な高みへと引き上げた一人の建築家が登場します。彼の名はドナート=ブラマンテ。彼は、盛期ルネサンスとして知られる時代の建築様式を事実上創始し、古代ローマの壮麗さとキリスト教の精神性を融合させた、荘重で調和に満ちた建築言語を確立しました。
ブラマンテのキャリアは、画家として始まりましたが、彼の真の天分は建築にありました。ウルビーノの宮廷で育まれた知的な雰囲気と、レオン=バッティスタ=アルベルティの建築理論、そしてミラノで出会ったレオナルド=ダ=ヴィンチの科学的探求心から多大な影響を受け、彼は建築を単なる建物の設計ではなく、幾何学的な秩序と人間的なスケールが完璧に調和した、宇宙の縮図を創造する行為と捉えました。
彼の建築は、初期ルネサンスの建築家たちが見せた、やや装飾的で平面的なアプローチから脱却し、建物を量感と立体感のある、彫刻的な塊として捉える点に特徴があります。彼は、古代ローマ建築の要素、すなわち円柱、アーチ、ドームなどを、その構造的な論理に基づいて再構成し、力強く、明快で、そして荘厳な空間を創り出しました。
その才能が完全に開花したのは、彼が50代半ばでローマに移ってからのことでした。野心的な教皇ユリウス2世の庇護のもと、ブラマンテは、キリスト教世界の首都ローマを、古代の栄光に匹敵する、あるいはそれを超える都市へと変貌させるという、壮大なビジョンを実現する機会を得ます。彼のローマでの最初の傑作、サン=ピエトロ=イン=モントリオ聖堂の中庭に建てられた小さな霊廟「テンピエット」は、その完璧なプロポーションと古典的な純粋さによって、盛期ルネサンス建築の理想を凝縮したマニフェストとなりました。
そして彼のキャリアの頂点となったのが、キリスト教世界で最も神聖な教会、旧サン=ピエトロ大聖堂を建て替えるという、前代未聞のプロジェクトです。ブラマンテが構想した、巨大な中央ドームを持つギリシャ十字形のプランは、あまりにも壮大であったため、彼の生前にはごく一部しか実現しませんでした。しかし、その基本構想は、ミケランジェロをはじめとする後継の建築家たちに決定的な影響を与え、今日のサン=ピエトロ大聖堂の姿を方向づけたのです。
ウルビーノと北イタリアでの形成期
ドナート=ブラマンテの芸術家としての土台は、15世紀後半のイタリアで最も洗練された文化の中心地の一つ、ウルビーノ公国の宮廷で築かれました。彼が建築家として大成する以前のこの形成期は、画家としての活動と、北イタリアの先進的な芸術家や思想家たちとの交流によって特徴づけられます。この時期に吸収した多様な知識と経験が、後の彼の建築様式に深い影響を与えることになります。
ウルビーノでの画家としての出発
ドナート=ブラマンテは、1444年、ウルビーノ近郊のフェルミニャーノで生まれました。彼の初期の経歴については不明な点が多いですが、芸術家としての最初のキャリアを画家としてスタートさせたことは確実です。彼が活動を始めた15世紀後半のウルビーノは、傭兵隊長でありながら卓越した文化人でもあったフェデリーコ=ダ=モンテフェルトロ公の治世のもと、ルネサンス文化の輝かしい中心地として栄えていました。
フェデリーコ公の宮廷には、イタリアだけでなくフランドルからも、当代一流の芸術家、建築家、そして人文学者が集められていました。ブラマンテは、この知的な環境の中で、多感な青年期を過ごしたと考えられます。特に、彼は「理想都市」の絵画で知られる画家であり、遠近法の巨匠であったピエロ=デッラ=フランチェスカから、直接的または間接的に大きな影響を受けました。ピエロが追求した、数学的な秩序に基づく明晰な空間構成と、幾何学的な形態への関心は、ブラマンテの作品の根底に流れる合理的な精神の源流となります。ブラマンテが初期に描いたとされる建築的な背景を持つ絵画には、ピエロの影響が色濃く見て取れます。
また、ウルビーノ宮殿そのものも、ブラマンテにとって生きた教科書でした。建築家ルチアーノ=ラウラーナによって設計されたこの宮殿は、その調和の取れた中庭や、古典的な装飾の用い方において、初期ルネサンス建築の傑作とされています。ブラマンテは、この建築空間を日常的に体験する中で、建築におけるプロポーションや秩序の重要性を肌で感じ取ったことでしょう。
北イタリアでの遍歴と建築への関心
1470年代半ば、ブラマンテはウルビーノを離れ、北イタリアの各地を遍歴し始めます。彼は、マントヴァ、フェラーラ、ベルガモといった都市で、主に教会の壁画などを描く画家として活動しました。この時期の彼の絵画作品は、ほとんど現存していませんが、ベルガモで制作されたフレスコ画の断片などからは、アンドレア=マンテーニャの様式からの影響がうかがえます。マンテーニャの作品に見られる、古代彫刻のような硬質で彫刻的な人物表現や、大胆な短縮法を駆使した劇的な空間表現は、ブラマンテの視覚を鍛え、三次元的な形態への関心を深めさせました。
この遍歴の時代に、ブラマンテの関心は、徐々に絵画から建築へと移っていきました。彼は、絵画制作の傍ら、各地の建築物、特に初期ルネサンスの建築家レオン=バッティスタ=アルベルティが設計した建物を熱心に研究したと考えられます。アルベルティは、古代ローマの建築家ウィトルウィウスの理論を復活させ、建築を数学的なプロポーションに基づく知的な学問として捉えた、ルネサンス建築理論の父でした。ブラマンテは、アルベルティがマントヴァに建てたサンタンドレア聖堂やサン=セバスティアーノ聖堂を実見し、古代ローマの凱旋門や神殿のモチーフを、壮大かつ論理的に再構成するその手法に深く感銘を受けたはずです。アルベルティの建築が持つ、荘重でモニュメンタルな性格は、後のブラマンテの建築様式の重要な特徴となります。
この時期、ブラマンテは、単に既存の建物を研究するだけでなく、建築家としての実践的な仕事も始めます。1479年にベルガモで描かれたとされる彼の素描には、廃墟となった建物を正確な遠近法で描いたものがあり、彼の建築への強い関心と、空間を正確に把握する能力を示しています。彼は、画家として培った遠近法の知識を、実際の建築空間の設計に応用する方法を模索し始めていたのです。
ウルビーノの知的な宮廷文化、ピエロ=デッラ=フランチェスカの数学的な空間構成、マンテーニャの彫刻的な人物表現、そしてアルベルティの古典主義建築。これら北イタリアでの多様な経験は、ブラマンテの中で融合し、彼を単なる画家から、空間と形態を三次元的に操る建築家へと変貌させるための、豊かな土壌となったのです。この形成期を経て、彼は次なる活動の舞台、ミラノへと向かいます。
ミラノ時代=レオナルドとの交流と建築家としての覚醒
1481年頃、ブラマンテは北イタリアの政治・経済の中心地であったミラノに移り、スフォルツァ家の宮廷に仕えることになります。ここでの約20年間は、彼が画家から本格的な建築家へと完全に移行し、独自の建築様式を確立する上で決定的な時期となりました。特に、同じくミラノで活動していた万能の天才、レオナルド=ダ=ヴィンチとの知的交流は、彼の建築思想に計り知れない影響を与えました。
サンタ=マリア=プレッソ=サン=サティロ教会の独創性
ブラマンテがミラノで最初に取り組んだ重要な建築プロジェクトが、サンタ=マリア=プレッソ=サン=サティロ教会の改築でした。この仕事は、彼の建築家としての独創性と問題解決能力を、早くも示すものとなりました。
この教会には、既存の道路によって敷地が制約されており、伝統的なラテン十字形のプランに必要な、深い内陣(聖職者のための空間)を物理的に設けることができないという、深刻な問題がありました。この制約に対し、ブラマンテは驚くべき解決策を提示します。彼は、内陣があるべき場所の平らな壁面に、絵画的な錯視(トロンプ=ルイユ)を利用して、あたかも深い空間が奥に続いているかのように見せる「偽の内陣」を創り出したのです。
彼は、漆喰とテラコッタを用いて、樽型ヴォールト天井を持つ空間が後退していく様子を、遠近法の原理を完璧に応用して立体的に表現しました。その奥行きは、実際には1メートルにも満たないにもかかわらず、鑑賞者の目には、何メートルも続く深い内陣が実在するかのように見えます。これは、彼が画家として培った遠近法の知識を、建築空間の創造に直接応用した、まさに天才的なアイデアでした。この偽の内陣は、現実の空間と錯視の空間との境界を曖昧にし、建築における「だまし絵」の最も洗練された初期の例として知られています。
さらにブラマンテは、この教会の身廊(会衆席)部分も、アルベルティのサンタンドレア聖堂に倣った、古典的な様式で設計しました。また、教会に隣接する小さな聖具室は、八角形の平面に円形の壁龕を配した、集中式のプランで設計されており、後の彼の集中式聖堂への関心を予感させます。
サンタ=マリア=デッレ=グラーツィエ教会のトリブーナ
ブラマンテのミラノにおける代表作が、レオナルド=ダ=ヴィンチの『最後の晩餐』があることで有名な、サンタ=マリア=デッレ=グラーツィエ教会の東端部分、すなわちトリブーナ(後陣部)の増築です。ミラノ公ルドヴィーコ=スフォルツァ(イル=モーロ)の霊廟として計画されたこのプロジェクトで、ブラマンテは、それまでのロンバルディア地方の煉瓦ゴシック様式とは全く異なる、壮大で古典的な建築を創造しました。
彼は、既存のゴシック様式の身廊の先に、巨大な立方体の空間を接続し、その上に半球形の壮大なドームを架けました。このドームは、ペストリーの型のような、ロンバルディア地方特有の装飾的なものではなく、ブルネレスキのフィレンツェ大聖堂のクーポラに匹敵するような、力強く純粋な幾何学的形態をしています。内部空間は、巨大なアーチによって構成され、その広がりと明るさは、鑑賞者に荘厳な印象を与えます。外観は、豊かなテラコッタ装飾で飾られていますが、その構成は、アーチや円窓(オクルス)といった古典的なモチーフに基づいています。
このトリブーナの設計において、ブラマンテは、正方形、円、半球といった純粋な幾何学的形態を組み合わせることで、調和と秩序に満ちた空間を創り出しました。これは、盛期ルネサンス建築の基本的な理念、すなわち宇宙の秩序を反映した完璧な幾何学に基づく建築という理念を、壮大なスケールで実現した最初の例の一つでした。
レオナルド=ダ=ヴィンチとの知的交流
このミラノ時代、ブラマンテはレオナルド=ダ=ヴィンチと緊密な関係にありました。二人は、スフォルツァ宮廷の様々なプロジェクトで協力し、建築や都市計画について議論を交わしたと考えられています。レオナルドは、この時期、人体解剖学の研究から、建築、機械工学に至るまで、幅広い分野で驚異的な探求を行っていました。彼の残した膨大な手稿には、集中式聖堂(中央にドームを持つ、正方形や円形、ギリシャ十字形などのプランの教会)に関する数多くのスケッチや考察が含まれています。
レオナルドは、人体が完璧なプロポーションを持つ小宇宙であるのと同様に、教会建築もまた、神の創造した宇宙の秩序を反映する、完璧な幾何学に基づくべきだと考えていました。彼は、円や正方形といった「完璧な」形態を組み合わせた、様々な集中式プランを研究しました。ブラマンテは、レオナルドとの対話を通じて、こうした建築思想から深い刺激を受け、自身の建築理念を形成していきました。ブラマンテがサン=サティロ教会の聖具室や、サンタ=マリア=デッle=グラーツィエ教会のトリブーナで示した集中式プランへの関心は、明らかにレオナルドの思想と共鳴するものです。この集中式聖堂への探求は、後のローマ時代に、サン=ピエトロ大聖堂の計画として、壮大なスケールで結実することになります。
1499年、フランス軍の侵攻によってスフォルツァ体制が崩壊すると、ブラマンテはミラノを離れることを余儀なくされます。彼は、画家としてミラノに来ましたが、そこを去る時には、北イタリアで最も革新的な建築家として、その名声を確立していました。そして彼は、次なる活動の舞台、ローマへと向かったのです。
ローマでの円熟期=テンピエットと盛期ルネサンスの確立
1499年、55歳になっていたブラマンテは、フランス軍の侵攻を逃れてローマへと移りました。この移住は、彼のキャリアの頂点であり、西洋建築史における一つの転換点となりました。古代ローマ帝国の遺跡が至る所に残るこの都市で、ブラマンテは、それまで培ってきた建築思想を、本物の古代建築に触れることでさらに深化させ、荘厳さと調和に満ちた、盛期ルネサンス建築様式を完成させたのです。彼のローマでの活動は、野心的な教皇ユリウス2世の登場によって、その壮大さを増していくことになります。
古代建築の研究とサンタ=マリア=デッラ=パーチェ聖堂の回廊
ローマに到着したブラマンテは、すぐには大きな仕事に恵まれませんでした。彼はこの時期を利用して、ローマとその周辺に残る古代建築の遺跡を、体系的かつ科学的に調査し、その構造やプロポーション、装飾のディテールを熱心に研究しました。コロッセウム、パンテオン、フォルムの神殿群、そしてティヴォリのハドリアヌス帝のヴィラなど、彼は古代ローマ人がいかにして壮大な空間を創り出し、オーダー(円柱の様式)を論理的に用いていたかを、実測を通して学び取りました。この古代建築との直接的な対話は、アルベルティの理論書や北イタリアで見た建築を通じて得た知識を、揺るぎない確信へと変えました。
ブラマンテがローマで最初に手がけた重要な作品が、サンタ=マリア=デッラ=パーチェ聖堂の回廊(1500年=1504年)です。この作品には、まだミラノ時代の様式の影響も見られますが、彼の新しい古典主義への移行を明確に示しています。この二層からなる回廊で、ブラマンテは古代ローマのコロッセウムに見られるような、オーダーの重ね合わせ(スーパーインポジション)の手法を用いています。一層目には、角柱に支えられたアーケードが巡り、その角柱の前面にイオニア式の付け柱が配されています。二層目には、下のアーチの中心軸に合わせて、交互にコリント式の柱と角柱がリズミカルに配置されています。
この設計は、極めて合理的かつ明晰です。すべての要素は、数学的な比例関係に基づいて配置されており、全体として静かで調和の取れた空間を創り出しています。特に注目すべきは、二層目の柱が、下層のアーチの頂点ではなく、その間の柱の真上に正確に置かれている点です。これは、構造的な論理性を視覚的に表現したものであり、初期ルネサンスの建築家たちがしばしば犯した、構造的な曖昧さを克服しようとする、ブラマンテの強い意志を示しています。
テンピエット
ブラマンテのローマにおける名声を不動のものとし、盛期ルネサンス建築の誕生を告げる記念碑となったのが、サン=ピエトロ=イン=モントリオ聖堂の中庭に建てられた、小さな円形の霊廟「テンピエット」(1502年頃)です。スペイン国王フェルディナンドと女王イサベラの依頼で、聖ペテロが殉教したとされる場所に建てられたこの建物は、その規模こそ小さいものの、その完璧な造形美によって、ルネサンス建築の理想を凝縮した傑作とされています。
テンピエット(小さな神殿、の意)は、古代ローマの円形神殿(特にティヴォリのウェスタ神殿)の形式に基づいています。16本のドリス式円柱が、円筒形の堂(セラ)を囲み、その上にエンタブラチュア(柱の上の水平部分)と手すり子(バラストレード)が乗っています。そして、その全体を、ブルネレスキのクーポラを思わせる、優美な半球形のドームが覆っています。
この建物のすべての部分は、厳格な数学的比例と、古代建築の規則に完全に基づいています。ドリス式オーダーの用い方は、ウィトルウィウスの記述に忠実であり、その力強く男性的なプロポーションは、聖ペテロの揺るぎない信仰を象徴しています。柱、エンタブラチュア、ドーム、そして堂の内部空間といったすべての要素が、完璧な調和のうちに一体化しています。
ブラマンテは、この建物を、単なる独立したオブジェとしてではなく、周囲の空間との関係性の中で設計しました。彼の当初の計画では、テンピエットを、円形の柱廊で囲まれた、正方形の中庭の中心に置くことになっていました。もしこの計画が実現していれば、建物とそれを取り巻く空間との間に、より一層完璧な幾何学的調和が生まれていたことでしょう。
テンピエットの重要性は、それが古代建築の単なる模倣ではない点にあります。ブラマンテは、古代の建築言語を用いて、キリスト教の殉教者を記念するという、全く新しい目的のための建築を創造しました。彼は、建物を、量感と立体感を持つ、彫刻的な存在として捉えています。光が円柱や壁面に当たることで生まれる深い陰影は、建物の三次元性を強調し、力強い可塑性を与えています。この彫刻的なアプローチは、初期ルネサンスの平面的で線的な建築とは一線を画す、盛期ルネサンス建築の大きな特徴となります。テンピエットは、その荘重さ、調和、そして古典的な純粋さによって、盛期ルネサンス建築の規範を確立した、まさに宣言書(マニフェスト)と呼ぶにふさわしい作品なのです。
教皇ユリウス2世の建築家として=サン=ピエトロ大聖堂とヴァチカン宮殿
1503年、野心的で精力的な教皇ユリウス2世が即位すると、ブラマンテのキャリアは、その壮大さの頂点を迎えます。ユリウス2世は、教皇庁の権威を回復し、ローマをキリスト教世界の首都として、古代帝国の栄光を超えるほどの壮麗な都市へと変貌させるという、壮大な野望を抱いていました。そして、この野望を実現するための建築家として、彼はブラマンテに白羽の矢を立てたのです。ブラマンテは、教皇の絶大な信頼と潤沢な資金を背景に、西洋建築史上でも類を見ない、巨大なプロジェクトの数々に着手しました。
新サン=ピエトロ大聖堂の計画=壮大なギリシャ十字プラン
ユリウス2世とブラマンテが取り組んだ最も野心的なプロジェクトが、コンスタンティヌス帝の時代から1100年以上にわたってキリスト教世界の中心であった、旧サン=ピエトロ大聖堂を完全に取り壊し、全く新しい教会を建設するという、前代未聞の計画でした。老朽化が進んでいたとはいえ、初代教皇である聖ペテロの墓の上に立つこの神聖な教会を取り壊すという決断は、多くの人々から「破壊者」と非難されるほど、衝撃的なものでした。
この新しい大聖堂のために、ブラマンテは、ルネサンスの理想を究極の形で体現する、壮大なプランを構想しました。それは、伝統的なラテン十字形ではなく、四方のアームの長さが等しい「ギリシャ十字形」を基本とする、完全な集中式のプランでした。その中央には、ローマのパンテオンのドームに匹敵する、あるいはそれを超えるほどの、巨大な半球形のドームが架けられることになっていました。この中央のドーム空間は、四つの巨大なピア(支柱)によって支えられ、ギリシャ十字の各アームの端にも、より小さなドームが配置される計画でした。
このプランは、レオナルド=ダ=ヴィンチと共にミラノで探求した、集中式聖堂の理念を、壮大なスケールで実現しようとするものでした。円と正方形を組み合わせた完璧な幾何学は、神の創造した宇宙の調和を象徴し、巨大な中央ドームは、天蓋のように、その下に眠る聖ペテロの墓を覆うことを意図していました。ブラマンテは、この大聖堂を「パンテオンのドームを、コンスタンティヌスのバシリカ(マクセンティウスのバシリカ)の上に乗せる」と表現したと伝えられています。これは、古代ローマの最も偉大な二つの建築物のスケールと構造を、一つの建物の中に融合させようとする、彼の壮大な野心を示しています。
1506年4月18日、ユリウス2世は、ブラマンテの設計による新しい大聖堂の最初の礎石を、荘厳な式典の中で自ら置きました。ブラマンテは、旧聖堂を精力的に解体しながら、新しい大聖堂の建設を開始し、彼の生前には、中央ドームを支える四つの巨大なピアと、それらを結ぶアーチが建設されました。しかし、この巨大なプロジェクトは、彼の死後も1世紀以上にわたって続き、ラファエロ、ミケランジェロ、マデルノといった後継の建築家たちの手を経て、そのデザインは大きく変更されていくことになります。特にミケランジェロは、ブラマンテのプランの力強さと明快さを高く評価し、その基本精神に立ち返りつつ、より彫刻的で力動的なデザインへと発展させました。今日のサン=ピエトロ大聖堂の姿は、ブラマンテが最初に提示した壮大なヴィジョンなくしてはあり得なかったのです。
ヴァチカン宮殿の改造
サン=ピエトロ大聖堂の計画と並行して、ブラマンテは、隣接するヴァチカン宮殿の大規模な改造にも取り組みました。彼の最も重要な貢献が、「ベルヴェデーレの中庭」の設計です。
当時、ヴァチカン宮殿と、丘の上に立つベルヴェデーレの離宮は、約300メートルの距離を隔てていました。ブラマンテは、この二つの建物を、古代ローマの競技場やヴィラに着想を得た、巨大な中庭で結びつけようと計画しました。彼は、丘の斜面を利用して、三つのレベルに分かれたテラス状の中庭を設計しました。下段の中庭は、競技や祝祭のための劇場として使えるように設計され、その両側を三層からなる壮麗なロッジア(開廊)が囲んでいます。中段のテラスを経て、最上段のテラスに至ると、そこには古代彫刻を展示するための、壁龕を持つ中庭が設けられていました。
このベルヴェデーレの中庭は、建築、庭園、そして都市計画が一体となった、壮大なスケールのプロジェクトでした。ブラマンテは、自然の地形を巧みに利用し、変化に富んだ視覚体験を創り出しました。この設計は、ヨーロッパの宮殿建築や庭園設計に絶大な影響を与え、後のヴェルサイユ宮殿などに至る、壮大な軸線を持つ庭園の原型となりました。
ブラマンテは、この他にも、ヴァチカン宮殿のダマソの中庭を囲むロッジアの設計や、ローマの都市計画にも関与しました。彼は、教皇ユリウス2世の「帝国の夢」を、石と煉瓦によって現実のものとする、まさに最高の表現者でした。彼の建築が持つ荘厳さ、明快さ、そしてモニュメンタルなスケールは、盛期ルネサンスのローマの精神そのものを体現していたのです。
ブラマンテの遺産と後世への影響
1514年、ブラマンテはローマでその生涯を閉じました。彼は、サン=ピエトロ大聖堂やベルヴェデーレの中庭といった、自身が着手した巨大プロジェクトの完成を見ることなくこの世を去りましたが、彼が建築の世界に残した遺産は、計り知れないほど大きく、後世の建築の方向性を決定づけるものでした。彼は、盛期ルネサンス建築様式を確立し、建築家という職能の地位を、単なる職人から、知的で創造的な芸術家へと高めたのです。
ブラマンテの最大の功績は、古代ローマ建築の言語を、単に模倣するのではなく、その構造的・空間的な論理を深く理解し、それをルネサンスの精神と融合させて、普遍的でモニュメンタルな新しい建築様式を創造した点にあります。彼は、初期ルネサンスの建築が持っていた、やや平面的で装飾的な性格から脱却し、建物を量感と立体感のある、彫刻的な塊として捉えました。彼の建築は、力強く、明快で、そして荘厳であり、人間の理性が創り出す秩序と調和を体現しています。
彼のローマでの傑作「テンピエット」は、その完璧なプロポーションと古典的な純粋さによって、盛期ルネサンス建築の理想を凝縮した規範となりました。この小さな建物は、その後の何世紀にもわたって、建築家たちのための教科書となり、特にイギリスのパラディオ主義建築や、新古典主義建築において、繰り返し参照されることになります。
そして、彼のキャリアの集大成である新サン=ピエトロ大聖堂の計画は、たとえその原案通りには実現しなかったとしても、西洋建築史における最も影響力のあるアイデアの一つでした。彼が提示した、巨大なドームを持つギリシャ十字形の集中式プランという壮大なヴィジョンは、後継者たちにとって、乗り越えるべき、あるいは参照すべき巨大な目標となりました。ミケランジェロは、ブラマンテのプランの力強さを賞賛し、その基本骨格を維持しつつ、自身のよりダイナミックな感性でそれを再解釈しました。ブラマンテが打ち込んだ巨大なピアがなければ、ミケランジェロのあの壮大なクーポラも存在し得なかったのです。
ブラマンテはまた、建築家の役割そのものを変えました。彼は、教皇ユリウス2世の腹心として、単に個々の建物を設計するだけでなく、都市全体の景観を構想する、壮大なスケールの都市計画家でもありました。ベルヴェデーレの中庭の設計は、建築と自然を一体化させ、壮大な軸線上に空間を組織するという新しい手法を示し、ヨーロッパの宮殿や庭園の設計に絶大な影響を与えました。
彼の死後、サン=ピエトロ大聖堂の首席建築家の職は、彼の推薦によって、若きラファエロ=サンティに引き継がれました。ラファエロをはじめ、アントニオ=ダ=サンガッロ(子)、バルダッサーレ=ペルッツィ、そしてミケランジェロといった、盛期ルネサンスを代表する建築家たちは、皆ブラマンテの弟子であるか、あるいは彼の影響を色濃く受けています。彼らは、ブラマンテが確立した古典主義の言語を基礎としながら、それぞれ独自の表現を発展させていきました。
ブラマンテの建築が持つ、荘重さ、秩序、そして普遍的な調和の追求は、盛期ルネサンスの理想そのものでした。彼は、古代の栄光を現代に蘇らせ、それをキリスト教の精神と結びつけることで、ローマを真にキリスト教世界の首都とするための、壮麗な舞台を創造したのです。
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