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フェルビースト(南懐仁)とは わかりやすい世界史用語2474
著作名: ピアソラ
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フェルビースト(南懐仁)とは

17世紀、ヨーロッパとアジアという二つの異なる文明が交錯する時代に、一人のイエズス会士がその生涯を東方の地、中国で燃焼させました。彼の名はフェルディナント・フェルビースト。フランドル地方の小さな町に生まれたこの人物は、宣教師として、そして科学者として、清王朝の宮廷で類まれなる足跡を残すことになります。天文学、数学、工学、そして外交に至るまで、その才能は多岐にわたり、特に康熙帝という偉大な皇帝との深い信頼関係は、彼の活動の礎となりました。



ヨーロッパでの教育と中国への道

フランドルでの幼少期とイエズス会への入会

フェルディナント・フェルビーストは、1623年10月9日、当時スペイン領ネーデルラントの一部であったフランドル地方のピテムという町で生を受けました。 彼の父、ヨース・フェルビーストは、地域の代官兼収税吏を務める人物であり、比較的安定した家庭環境であったことがうかがえます。 幼い頃から知的好奇心に旺盛だったフェルビーストは、ブルージュとコルトレイクのイエズス会学校で人文学を学び、その後、ルーヴェン大学のリリー・カレッジに進学して哲学と数学の基礎を固めました。 この時期に培われた数学への素養は、後の彼の運命を大きく左右することになります。
1641年9月2日、フェルビーストはイエズス会に入会します。 当時のイエズス会は、布教活動と並行して科学研究を重視する気風があり、世界各地に宣教師を派遣していました。 フェルビーストもまた、遠い異国の地での宣教に強い憧れを抱いていました。彼は当初、新大陸、特に中南米のスペイン植民地での活動を熱望していましたが、その願いはすぐには叶えられませんでした。 スペイン当局が、自国の領土にベルギー人の宣教師が入ることを望まなかったためです。
失意の中、彼はセビリアで神学の研究を続け、1655年に司祭に叙階されました。 その後、ローマで天文学と神学のさらなる研鑽を積みます。 このローマでの学びが、彼に新たな道を開きました。当時、イエズス会はマテオ・リッチやアダム・シャールといった先人たちの努力により、中国での布教活動の足がかりを築いていました。特に、天文学の知識は、中国の宮廷に入り込み、皇帝の信頼を得るための重要な鍵となっていました。フェルビーストの天文学と数学における才能は、まさに中国宣教という新たな舞台でこそ活かされるべきものと見なされたのです。
中国への長く困難な旅路

ついに中国への派遣が決定し、フェルビーストの長年の夢が実現に向けて動き出します。1657年4月4日、彼はポルトガルのリスボンから、著名な宣教師マルティノ・マルティーニら一行と共に中国行きの船に乗り込みました。 しかし、その船旅は想像を絶するほど過酷なものでした。長い航海の間に、船内では病気が蔓延し、同乗していた35人の宣教師のほとんどや、インドのポルトガル副王を含む多くの乗客が命を落としました。
1658年7月17日、一年以上の歳月を経て、船はようやくマカオに到着します。 生き残ったのは、フェルビーストを含むわずか10人でした。 マカオは、当時の中国におけるヨーロッパとの唯一の公的な窓口であり、宣教師たちにとっては活動の拠点となる重要な場所でした。ここでフェルビーストは、中国での活動に備え、言語や文化の習得に努めたと考えられます。
マカオでの準備期間を終えた後、フェルビーストは最初の任地である陝西省へと向かいました。 彼は1660年までこの地で布教活動の責任者を務めます。 しかし、彼の運命が大きく転換するきっかけは、北京から訪れました。当時、北京の欽天監(天文台)の長官を務めていたイエズス会士、ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベルが、高齢と病のため、自身の後継者を探していたのです。シャールは、フェルビーストの数学と天文学における卓越した能力を見込み、彼を北京に呼び寄せ、自身の助手として任命しました。 1660年、フェルビーストは北京に到着し、中国の政治と科学の中心で、彼の新たな人生の幕が開かれることになります。
宮廷での試練と天文学者としての台頭

暦法論争と投獄

フェルビーストが北京に到着した当時、師であるアダム・シャールは順治帝の厚い信任を得て、欽天監の長官として絶大な権力を持っていました。 しかし、1661年に若き順治帝が23歳で崩御すると、状況は一変します。 わずか7歳で即位した康熙帝に代わり、4人の摂政が政治の実権を握りました。 この摂政たちは、順治帝とは異なり、イエズス会士に対して好意的ではありませんでした。
この政治的な逆風の中、中国の伝統的な天文学者や官僚たちは、西洋天文学を奉じるシャールらイエズス会士への反感を強めていきます。その中心人物が、楊光先という官僚でした。彼は、西洋の暦法が中国の伝統に反するだけでなく、キリスト教という異教を広めるための道具であると激しく非難しました。楊光先は、シャールが作成した暦が、皇太子の葬儀の日取りを誤って選定したなどと告発し、シャールとその協力者たちを失脚させようと画策します。
この「暦獄」と呼ばれる事件で、シャールは脳卒中の後遺症でうまく話すことができず、弁護は主にフェルビーストが担うことになりました。 フェルビーストは、天文学的な計算に誤りがないことを論理的に証明しましたが、政治的な流れを変えることはできませんでした。 1664年末、シャールには死刑判決が、フェルビーストら他の宣教師には鞭打ちと追放の判決が下されます。
しかし、運命は彼らに味方しました。1665年4月、北京を大地震が襲い、紫禁城の一部が火災に見舞われるという出来事が起こります。 人々はこれを、無実の宣教師たちへの判決に対する天の怒りだと噂しました。この天変地異を恐れた宮廷は、判決を覆し、シャールの死刑は執行されず、フェルビーストたちも釈放されることになったのです。 とはいえ、彼らは軟禁状態に置かれ、自由な活動は許されませんでした。 この間、シャールは病死し、楊光先が欽天監の長官の地位に就きました。
康熙帝の前での天文学対決

不遇の数年間を過ごしたフェルビーストに、再び転機が訪れます。1669年、摂政体制が終わり、若き康熙帝が親政を開始しました。 聡明で知的好奇心旺盛な康熙帝は、暦法の正確性に強い関心を持っていました。当時、楊光先らが作成した暦には多くの誤りが指摘されており、国家の威信と統治の正当性に関わる問題となっていたのです。
康熙帝は、西洋天文学の優劣を確かめるため、フェルビーストと楊光先を宮廷に呼び、公開の場で天文学の知識を競わせることを命じました。 これはフェルビーストにとって、自らの知識を証明し、失われた名誉を回復するための絶好の機会でした。試問は複数回にわたって行われ、日時計の影の長さの予測、特定の日時における惑星の位置の計算、そして月食の正確な時刻の予報などが課題として出されました。
フェルビーストは、ティコ・ブラーエの天文学体系に基づいた精密な計算により、すべての課題に対して驚くほど正確な予測を示しました。一方、楊光先とその助手たちは、伝統的な手法に固執し、満足な結果を出すことができませんでした。特に、日食の予測において、フェルビーストの予測が寸分違わず的中したことは、康熙帝をはじめとする宮廷の人々に、西洋天文学の圧倒的な優位性を強く印象付けました。
この天文学対決での完全な勝利により、フェルビーストの運命は劇的に好転します。康熙帝は楊光先を罷免し、フェルビーストを欽天監の最高責任者である監正および数学委員会の長に任命しました。 これは、一介の外国人宣教師としては異例の大抜擢であり、康熙帝のフェルビーストに対する絶対的な信頼の証でした。この瞬間から、フェルビーストは単なる宣教師ではなく、清王朝の科学技術を牽引する中心人物として、その才能を遺憾なく発揮していくことになります。
康熙帝の師、そして技術顧問として

北京天文台の再建と観測機器の製作

欽天監の監正に就任したフェルビーストが最初に取り組んだ大事業は、北京天文台の改革でした。 当時、天文台にあった観測機器は明代に作られたもので、精度が低く、老朽化していました。 フェルビーストは、これらの古い機器を博物館に移し、ティコ・ブラーエの天文台をモデルにした、全く新しい観測機器群の設計・製作に着手しました。
1669年から1674年にかけて、フェルビーストの監督のもと、6つの主要な大型観測機器が次々と完成しました。 これらは、天体の位置を精密に測定するためのもので、以下のようなものが含まれます。
赤道環儀: 天体の赤経・赤緯を測定する装置。
黄道環儀: 天体の黄経・黄緯を測定する装置。
天体儀: 巨大な天球儀で、星々の位置を示すために用いられました。
地平経緯儀: 天体の方位角と高度を測定する装置。
象限儀: 天体の高度を測定するための大型装置。
紀限儀: 二つの天体の間の角距離を測定するための装置。
これらの観測機器は、すべて真鍮で鋳造され、その巨大さだけでなく、龍や獅子などの中国的なモチーフが施された芸術性の高い装飾でも際立っていました。 技術的には完全にヨーロッパのものでありながら、その意匠には中国の伝統美が融合しており、東西文化の交流を象徴する傑作と言えます。 これらの機器は、その重量にもかかわらず、巧みな機械設計によって非常に操作しやすく作られており、フェルビーストの工学者としての卓越した技術力を示しています。 1673年に再建された天文台の観測台に設置されたこれらの機器群は、その後も長く中国の天体観測を支え、その一部は現在も北京古観象台に保存されており、彼の偉大な業績を今に伝えています。
暦法の改正と科学知識の普及

天文台の刷新と並行して、フェルビーストは暦法の全面的な改正にも取り組みました。正確な暦は、農業の指針となるだけでなく、祭祀の日程を定め、皇帝の権威を天命と結びつける上で極めて重要な意味を持っていました。 彼は、楊光先らが作成した1670年の暦に、誤りを隠すために不必要な閏月が挿入されていることを指摘し、これを取り除くよう皇帝に進言しました。 これは、皇帝自身が承認した暦に異を唱える非常に大胆な行動であり、周囲の官僚たちを驚かせましたが、康熙帝はフェルビーストの科学的な説明を受け入れ、暦の修正を命じました。
この一件は、フェルビーストと康熙帝の間に、単なる主従関係を超えた真の友情と信頼関係を築くきっかけとなりました。 康熙帝はフェルビーストを頻繁に宮殿に招き、幾何学、哲学、さらには音楽に至るまで、様々な西洋の学問について教えを請いました。 フェルビーストは、皇帝の家庭教師として、ユークリッド幾何学の最初の6巻を満州語に翻訳するなど、西洋の科学知識を体系的に紹介しました。 皇帝はフェルビーストの教えに熱心に耳を傾け、帝国各地への巡幸にも彼を同行させるほどでした。
フェルビーストは、皇帝個人の教師に留まらず、より広い範囲への科学知識の普及にも努めました。彼は30冊以上の著作を著し、その多くは中国語で書かれました。 彼の著作『坤輿図説』(1674年)は、世界地図『坤輿全図』を解説する地理書であり、当時の中国の人々に世界の広さと多様性を伝えました。 また、彼の天文学に関する著作は、中国の天文学者たちにとって重要な教科書となりました。彼は、コペルニクスの地動説についても、中国の宇宙観との衝突を避けるため、教義としてではなく、あくまで天体計算のための数学的なツールとして紹介するという巧みな配慮を見せています。 このような彼の努力は、中国における近代科学の受容の基礎を築く上で、計り知れない貢献を果たしたのです。
軍事技術者、そして外交官としての貢献

大砲の鋳造と軍事技術の革新

フェルビーストの才能は、天文学や数学の分野にとどまりませんでした。彼は、清王朝が直面した軍事的な危機において、工学者としても極めて重要な役割を果たします。1673年、かつて明朝に仕え、清に降った将軍である呉三桂が、雲南で反乱を起こしました。 この「三藩の乱」は、瞬く間に中国南部に広がり、建国間もない清王朝の支配を根底から揺るがす大動乱へと発展しました。
反乱軍の勢いを前に、康熙帝は、清軍が機動性に優れた強力な火器を必要としていることを痛感します。 そこで白羽の矢が立ったのが、フェルビーストでした。皇帝は彼に、軽量で移動が容易、かつ強力な大砲の設計と製造を命じたのです。 宣教師であるフェルビーストにとって、殺人兵器の製造に携わることは、本意ではなかったかもしれません。しかし、皇帝の信頼に応え、キリスト教布教の自由を確保するため、彼はこの困難な任務を引き受けました。
フェルビーストは、ヨーロッパの最新の冶金学と弾道学の知識を駆使し、従来の大砲を大幅に改良しました。彼は、大砲の射程距離、精度、そして機動性を向上させるための精密な計算を行い、新しい設計の砲車も開発しました。 彼の監督のもと、1674年から数年間にわたり、合計で数百門にも及ぶ新型大砲が鋳造されました。 これらの大砲は、それまでの中国のいかなる兵器よりもはるかに優れた性能を誇り、「神威大将軍」と名付けられ、反乱鎮圧の戦場で絶大な威力を発揮しました。 皇帝自ら大砲の試射に立ち会い、その性能を絶賛したと伝えられています。
フェルビーストが製造した大砲は、三藩の乱の鎮圧に決定的な貢献を果たし、清王朝の基盤を固める上で不可欠な役割を担いました。この功績により、フェルビーストは皇帝から最高の官位を与えられ、その名声は不動のものとなります。 彼は、自身の経験を基に、大砲の理論と運用法を解説した書物も著しました。 科学者としての知識が、国家の存亡をかけた軍事技術の革新に直結したこの出来事は、フェルビーストの多才ぶりを如実に示すエピソードです。
外交交渉における役割

康熙帝の厚い信頼を得たフェルビーストは、外交の舞台でもその能力を発揮しました。特に重要だったのが、北方で国境を接するロシア・ツァーリ国との交渉における役割です。当時、清とロシアはネルチンスク周辺の領有権を巡って緊張関係にありました。
1678年、フェルビーストは、ロシアとの条約交渉において、中国側の通訳および顧問として参加しました。 彼はラテン語に堪能であったため、両国の間で交わされる文書の翻訳や、交渉の仲介役として活躍しました。 この交渉の過程で、彼はロシア側から、ヨーロッパからシベリアを経由して中国に至る陸路の情報を得ることに成功します。 これは、当時、海路で1年以上もかかっていたヨーロッパからの宣教師の旅を、大幅に短縮できる可能性を秘めた重要な情報でした。
フェルビーストは、単なる通訳にとどまらず、外交戦略においても康熙帝に助言を与えていたと考えられます。彼の幅広い知識と国際的な視野は、清王朝の対外政策においても貴重な資産となりました。また、彼はヨーロッパの友人たちとの書簡を通じて、中国の進んだ文明や康熙帝の偉大さを伝えました。これらの書簡は、ヨーロッパの知識人たちに大きな影響を与え、ドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツのような啓蒙思想家たちが中国に関心を抱くきっかけの一つとなったのです。 このように、フェルビーストは、科学技術だけでなく、外交や文化の面においても、中国とヨーロッパを結ぶ重要な架け橋としての役割を果たしました。
晩年と後世への遺産

世界地図の作成と蒸気車の発明

フェルビーストの探求心と創造性は、晩年に至っても衰えることを知りませんでした。彼の多岐にわたる業績の中でも、特に後世に大きな影響を与えたものが二つあります。一つは世界地図の作成、もう一つは蒸気動力車の設計です。
1674年、フェルビーストは『坤輿全図』と題された巨大な木版画の世界地図を完成させました。 これは、マテオ・リッチが作成した地図を発展させたもので、当時のヨーロッパの最新の地理的知識と中国の伝統的な地図製作技術を融合させたものでした。 この地図は、世界を二つの半球で描き、従来のヨーロッパ中心の地図とは異なり、中国が中心近くに配置されるように工夫されていました。 これは、中国の皇帝と知識人たちに受け入れられやすくするための配慮でした。地図には、世界各地の地理情報だけでなく、そこに住む人々の風俗や、実在の動物と空想上の動物が混じった記述も含まれており、当時の人々の世界観を垣間見ることができます。 この地図は、中国の人々にとって、自国が広大な世界の一部であることを視覚的に理解させる上で大きな役割を果たしました。
もう一つの注目すべき業績は、蒸気を利用した自走車の設計です。1672年頃、フェルビーストは康熙帝のためのおもちゃとして、蒸気で動く小さな台車を考案しました。 彼が1681年に完成させた著書の中で記述されているその仕組みは、球形のボイラーで蒸気を発生させ、その蒸気をタービンのような羽根車に吹き付けて車輪を駆動させるというものでした。 この乗り物は全長わずか65cmほどで、人を乗せることはできませんでしたが、石炭を一度補給するだけで1時間以上動き続けることができたと記されています。
この蒸気車が実際に製作されたかどうかについては確たる証拠はありませんが、その設計図は、蒸気機関の原理を応用して乗り物を動かそうとした、記録に残る世界で最も初期の試みの一つとされています。 蒸気機関がまだ一般的に知られていなかった時代に、このような独創的な発明を構想したことは、フェルビーストの先見性と工学者としての非凡な才能を示しています。これは、後の蒸気機関車や自動車の登場を予感させる、技術史上の画期的なアイデアでした。
最期と歴史的評価

長年にわたり清朝に多大な貢献をしてきたフェルビーストですが、その最期は突然訪れました。1688年1月28日、彼は北京でこの世を去りました。 伝えられるところによれば、その少し前に、暴れる馬から落馬して負った傷が原因だったとされています。 享年64歳でした。
彼の死を、康熙帝は深く悼みました。皇帝は、フェルビーストの葬儀費用を国費で賄うという破格の待遇を与え、さらに「勤敏」という諡を授けました。 中国の歴史において、皇帝から諡を贈られた西洋人は、フェルビーストただ一人です。 これは、彼が清王朝に対してどれほど大きな貢献をし、皇帝からいかに深く敬愛されていたかを示す何よりの証拠と言えるでしょう。彼の遺体は、北京のザラン墓地に、マテオ・リッチやアダム・シャールといった偉大な先人たちの傍らに埋葬されました。 彼の死後、欽天監監正の職は、同じくベルギー出身のイエズス会士であるアントワーヌ・トマが引き継ぎました。
フェルディナント・フェルビーストは、単なる宣教師の枠をはるかに超えた「万能人」でした。 彼は、卓越した科学者、技術者、外交官、そして教育者として、17世紀の中国に計り知れない影響を与えました。彼の功績は、天文学の分野における暦法の改正や天文台の近代化に始まり、国家の危機を救った軍事技術の革新、さらには外交交渉や文化交流の促進にまで及びます。
彼の成功の鍵は、単に西洋の進んだ知識を持っていたことだけではありません。彼が中国の文化や伝統に深い敬意を払い、皇帝や官僚たちと巧みな人間関係を築く能力に長けていたことが、より重要な要因でした。 彼は、自らの知識を押し付けるのではなく、中国側の需要に応える形で提供し、東西の知を巧みに融合させてみせました。康熙帝との間に築かれた深い信頼関係は、その最たる例です。

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