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ジャワ島進出とは わかりやすい世界史用語2440
著作名: ピアソラ
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ジャワ島進出《オランダ》とは

オランダによるジャワ島への進出は、17世紀初頭の香辛料貿易への渇望から始まり、最終的には3世紀半にわたる植民地支配へと発展した複雑な歴史的過程です。

17世紀初頭、ヨーロッパは香辛料、特にナツメグ、クローブ、メースといったモルッカ諸島(香料諸島)でしか産出されない希少な品々への熱狂に包まれていました。これらの香辛料は、食品の風味付けや保存、さらには医薬品として非常に高い価値を持っていました。 この莫大な利益を生む貿易を独占しようと、オランダでは複数の貿易会社が乱立していましたが、国家的な競争力を高めるため、1602年にオランダ議会(スターテン・ヘネラール)はこれらの会社を統合し、オランダ東インド会社(VOC)を設立しました。 VOCには、アジアにおける貿易独占権だけでなく、条約の締結、要塞の建設、軍隊の維持、そして戦争の遂行といった、国家に準ずる広範な権限が与えられていました。
当初、VOCはポルトガルが先行して築いていたアジアの貿易網に割り込む形で活動を開始し、香料諸島のアンボンに最初の拠点を築きました。 しかし、アジア全域での貿易ネットワークを効率的に管理し、ヨーロッパへ送る商品を一時的に保管するための恒久的な拠点の必要性がすぐに明らかになりました。 当時の総督ヤン・ピータースゾーン・クーンは、ジャワ島西部のバンテン王国に属する港湾都市ジャヤカルタに目をつけました。 ジャヤカルタは、ジャワ海とスンダ海峡に近く、アジアの主要な交易路が交差する戦略的に極めて重要な場所に位置していました。
1619年5月30日、クーンは19隻の艦隊を率いてジャヤカルタを襲撃し、バンテン王国の軍隊を駆逐しました。 彼はジャヤカルタを完全に破壊し、その灰の上にオランダ風の都市を建設しました。 当初、クーンは故郷にちなんで「ニュー・ホールン」と名付けようとしましたが、VOCの上層部の決定により「バタヴィア」と命名されました。 このバタヴィアが、以後3世紀以上にわたるオランダのアジアにおける支配の中心地、そしてオランダ領東インドの首都となるのです。 バタヴィアの建設は、単なる貿易拠点の確保以上の意味を持っていました。それは、オランダがアジアにおいて、単なる商人ではなく、政治的・軍事的な力を持つ存在として永続的に君臨するという明確な意思表示だったのです。
マタラム王国との関係:協力、対立、そして介入

VOCがバタヴィアを拠点としてジャワ島西部に足場を固めた頃、ジャワ島の中部から東部にかけては、強大なマタラム王国が支配していました。 1613年に即位したスルタン・アグンは野心的な君主であり、ジャワ島の統一を目指して次々と周辺勢力を征服していました。 彼はスラバヤなどの強力な港市国家を屈服させ、マドゥラ島を制圧し、その影響力はカリマンタン島にまで及んでいました。
ジャワ島の統一を目指すスルタン・アグンにとって、西部に異教徒の要塞を築いたVOCは看過できない存在でした。 彼はVOCをジャワから追い出すことを決意し、1628年と1629年の二度にわたり、陸と海からバタヴィアを包囲する大規模な軍隊を送りました。 しかし、VOCの堅固な要塞と優れた火器の前に、マタラム軍は多大な犠牲を払い、攻略に失敗しました。 この敗北は、スルタン・アグンの無敵神話を揺るがす結果となり、彼はVOCのジャワ島における存在を認めざるを得なくなりました。 一方で、マタラムの宮廷年代記は、この後のVOCからの使節を、マタラムの権威に服従するための朝貢として描いており、両者の間には複雑な力関係と認識の相違が存在していたことがうかがえます。
スルタン・アグンの死後、マタラム王国の力は徐々に衰退し始めます。 彼の後継者であるアマンクラット1世は、父とは対照的に過酷な統治を行い、国内の反発を招きました。 1670年代、マドゥラ島の王子トゥルノジョヨが大規模な反乱を起こすと、マタラム王国は崩壊の危機に瀕します。 このトゥルノジョヨの反乱は、VOCがジャワ島の内政に深く介入する決定的な転機となりました。
反乱軍に追われたアマンクラット1世は逃亡中に死亡し、その息子アマンクラット2世は王位を取り戻すためにVOCに助けを求めました。 VOCはこれを好機と捉え、軍事支援を提供する見返りに、莫大な代償を要求しました。アマンクラット2世は、スマラン港の割譲、貿易独占権(米、砂糖、アヘン、織物など)、そしてバタヴィア南方のプリアンガン地方の割譲といった、マタラム王国の主権を著しく侵害する内容の協定を結ばざるを得ませんでした。 VOCの近代的な軍隊の前にトゥルノジョヨの反乱は鎮圧され、アマンクラット2世は王位に復帰しましたが、その王権はもはやVOCの強力な影響下に置かれることになりました。 この出来事は、VOCがジャワの政治において「キングメーカー」としての役割を担い始める画期であり、以後、マタラム王国の王位継承問題に繰り返し介入していくことになります。
ジャワ継承戦争とマタラム王国の分割

18世紀に入ると、マタラム王国は深刻な王位継承争いに見舞われ、VOCは「分割統治」戦略を巧みに利用して、その影響力を決定的なものにしていきます。 この一連の内戦は、ジャワ継承戦争として知られています。
第一次ジャワ継承戦争(1704年~1708年)

アマンクラット2世が1703年に亡くなると、その後継者アマンクラット3世の正統性に叔父のプゲルが異議を唱えました。 VOCはプゲルを支援することを決定し、軍事介入に踏み切ります。 VOCの支援を受けたプゲルは勝利を収め、1705年にパクブウォノ1世として即位しました。 この見返りとして、パクブウォノ1世はVOCに対し、ジャワ島のどこにでも要塞を建設する権利、王宮にVOCの守備隊を駐留させる権利(費用はマタラム持ち)、そしてジャワ海の航行制限など、さらなる大幅な譲歩を余儀なくされました。 これにより、マタラム王国の主権はさらに侵食され、VOCの経済的・軍事的支配が強化されました。
第二次ジャワ継承戦争(1719年~1723年)

1719年にパクブウォノ1世が亡くなると、再び継承問題が勃発します。 彼の息子であるアマンクラット4世が即位しましたが、彼の兄弟であるブリタル王子とプルバヤ王子がこれに反発し、王宮を攻撃しました。 VOCは再び現職の王であるアマンクラット4世を支持し、反乱を鎮圧しました。 この戦争の結果、反乱を起こした王子たちは捕らえられ、多くがセイロン(現在のスリランカ)へと追放されました。 VOCは、反乱の芽を摘むと同時に、マタラム王家内の対立候補を人質としてバタヴィアに留め置くなど、より巧妙な支配体制を築き上げていきました。
第三次ジャワ継承戦争(1749年~1757年)

第三次ジャワ継承戦争は、マタラム王国の運命を決定づけるものとなりました。 この戦争の発端は、病に倒れたパクブウォノ2世が死の床で、王国全体をVOCに「譲渡」するという協定に署名したことでした。 VOCはこの協定に基づき、パクブウォノ3世を新たな王として擁立しましたが、このオランダによる王位の任命は、ジャワの貴族たちの激しい怒りを買いました。
王の弟であるマンクブミ王子は、自らこそが正統な後継者であると主張し、VOCに対して反旗を翻しました。 彼はかつての敵であったラデン・マス・サイドとも手を組み、広範な抵抗運動を展開しました。 戦争は長期化し、VOCも大きな損害を被りました。 最終的に、全ての当事者が戦争に疲弊し、和平交渉の機運が高まります。
1755年、VOCの仲介のもと、ギアンティ条約が締結されました。 この条約により、かつて強大を誇ったマタラム王国は、パクブウォノ3世が治めるスラカルタ王国と、マンクブミ王子(スルタン・ハメンクブウォノ1世として即位)が治めるジョグジャカルタ王国の二つに分割されることになりました。 さらにその後、抵抗を続けていたラデン・マス・サイドにも一部の領地が与えられ、マンクヌガラン公国が成立しました。 この分割により、ジャワ中部の政治勢力は細分化・弱体化され、互いに対立するよう巧みに仕向けられました。VOCは、これらの小王国の上に立つ最高権力者として、ジャワ島における不動の支配を確立したのです。
オランダ政府による直接統治へ:VOCの解散と植民地化の深化

18世紀末、栄華を誇ったVOCも、汚職、密輸、そして絶え間ない戦争による莫大な戦費の増大により、深刻な経営難に陥りました。 1799年、VOCはついに解散し、その広大な海外領土と負債はすべてオランダ本国政府が引き継ぐことになります。 これにより、ジャワ島は一企業の間接的な支配地から、オランダ国家の正式な植民地「オランダ領東インド」へと移行しました。
19世紀初頭、ナポレオン戦争の余波はジャワ島にも及び、一時的にイギリスの支配下に置かれる時期もありました(1811年~1816年)。この時期、副総督トーマス・スタンフォード・ラッフルズは土地税制度の導入など、後の植民地経営に影響を与える改革を行いました。しかし、ナポレオン戦争終結後の1816年には、再びオランダの統治下に戻ります。
オランダ政府による直接統治は、より体系的で苛烈な搾取をもたらしました。特に1830年から導入された「強制栽培制度」は、ジャワの農民に大きな負担を強いました。 この制度は、農民に指定された輸出用作物(コーヒー、砂糖、藍など)を栽培させ、それを政府が安価で買い上げるというものでした。 この制度はオランダ本国に莫大な利益をもたらしましたが、一方でジャワ島では食糧生産が減少し、飢饉が頻発するなど、現地社会に深刻な打撃を与えました。
この過酷な搾取に対し、ジャワの人々の不満は高まり、19世紀を通じて散発的な抵抗が続きました。その中でも最大規模のものが、1825年から1830年にかけて起こった「ジャワ戦争」です。ジョグジャカルタ王家のディポヌゴロ王子が率いたこの戦争は、5年間にわたりオランダを苦しめましたが、最終的には鎮圧されました。この戦争は、オランダに多大な人的・経済的損失を与えた一方で、ジャワにおける伝統的な貴族階級の抵抗力を完全に打ち砕く結果となりました。
倫理政策から民族主義の覚醒へ

19世紀末になると、オランダ国内でも強制栽培制度の非人道性に対する批判が高まり始めました。 オランダは植民地から莫大な富を得た一方で、現地住民の福祉を顧みていないという「不名誉の負債」を返済すべきだという考えが広まったのです。
こうした世論を背景に、1901年、オランダ政府は「倫理政策」として知られる新しい植民地政策を導入しました。 この政策は、「灌漑、移民、教育」を三本柱とし、現地住民の福祉向上を目指すものでした。 灌漑設備の整備による農業生産の向上、人口過密なジャワ島から他の島への住民の移住、そして現地住民への西洋式教育の提供などが進められました。
しかし、この倫理政策は矛盾をはらんでいました。福祉向上を謳いながらも、その根本には植民地支配をより効率的に、そして永続的に維持するという目的があったからです。 教育の提供は、植民地行政を担う下級役人を育成するためという側面が強く、その門戸はごく一部のエリート層に限られていました。
皮肉なことに、この倫理政策によって西洋式の教育を受けたごく一部のインドネシア人エリートたちが、やがてオランダの支配に疑問を抱き、民族の独立を志すようになります。 彼らは、オランダから学んだ自由、平等、国民主権といった理念を自らの民族解放の武器とし、20世紀初頭から様々な組織を結成し始めました。1908年に設立されたブディ・ウトモを皮切りに、サレカット・イスラム、インドネシア国民党(PNI)など、民族主義的な政党や団体が次々と誕生し、独立への道を模索し始めました。 倫理政策は、意図せずして自らの支配を掘り崩す墓掘り人、すなわちインドネシアの民族主義エリートを育て上げる結果となったのです。
日本の占領と独立戦争

オランダによるジャワ島支配の終焉は、第二次世界大戦によって突如として訪れました。1942年1月、日本軍はオランダ領東インドへの侵攻を開始し、わずか3ヶ月足らずで全域を占領しました。 1942年3月8日、オランダ軍は無条件降伏し、約350年にわたるジャワ島での支配は一旦幕を閉じました。
当初、多くのインドネシア人は日本軍をオランダの圧政からの解放者として歓迎しました。 日本の軍政は「大東亜共栄圏」のスローガンのもと、インドネシアの民族主義者と協力する姿勢を見せ、スカルノやハッタといった独立運動の指導者を政治の表舞台に立たせました。 日本語の使用が奨励され、オランダ語は禁止されました。また、青年団などの組織を通じて軍事教練が行われ、これが後の独立戦争における兵士の母体となりました。
しかし、日本の支配は解放とはほど遠いものでした。戦争遂行のために石油などの資源は徹底的に収奪され、多くのインドネシア人が「ロームシャ」と呼ばれる過酷な強制労働に動員されました。 食糧不足は深刻化し、日本占領期には飢饉や強制労働によって数百万人が命を落としたと推定されています。
1945年8月15日、日本が連合国に無条件降伏すると、インドネシアに権力の空白が生まれます。 この千載一遇の好機を逃さず、スカルノとハッタは1945年8月17日、ジャカルタでインドネシアの独立を宣言しました。
しかし、独立への道は平坦ではありませんでした。オランダは植民地を再建するために再び軍隊を送り込み、独立を宣言したばかりのインドネシア共和国との間で、4年以上にわたる血みどろの独立戦争が勃発しました。 この戦争は、武装闘争と外交交渉が複雑に絡み合いながら進みました。 オランダ軍は都市部を制圧する力はありましたが、広大な農村地帯を支配することはできませんでした。
国際社会、特にアメリカからの圧力が、最終的にオランダを交渉のテーブルに着かせました。 第二次世界大戦後の復興のためにアメリカからの経済援助を必要としていたオランダは、植民地の維持を断念せざるを得なくなりました。1949年12月27日、ハーグ円卓会議を経て、オランダはついにインドネシアの主権を正式に承認し、ジャワ島における長く続いたオランダの時代は完全に終わりを告げたのです。

オランダによるジャワ島への進出は、一企業の商業的利益の追求から始まりました。しかし、それはやがて現地の政治への介入、軍事力の行使、そして最終的には国家による直接的な植民地支配へと変質していきました。VOCはマタラム王国の内紛を巧みに利用してその力を削ぎ、分割統治によってジャワの政治的統一を解体しました。オランダ政府による直接統治は、強制栽培制度に代表されるように、より体系的な経済的搾取を現地社会にもたらしました。一方で、支配を効率化するために導入された倫理政策が、皮肉にもオランダ支配を終わらせる民族主義エリートを生み出す土壌となりました。そして、第二次世界大戦という外部からの衝撃が、最終的に独立への扉を開くことになります。

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